授業では先生が触れない割に入試で出題される遊牧民の世界、第7回は騎馬遊牧民国家最後の輝きと中央ユーラシアの周辺化を俯瞰します。
東京大学2022年、上智大学TEAP方式2021年と、立て続けにトルキスタンに関する論述が出ているので、京都大学、東京外国語大学あたりを受験する人は要復習です。
短答問題では関西大学、立命館大学で出題されていて、特に立命館大学の2019年の問題はいきなりカザフスタン周辺の地図が出てきて、受験した生徒は「目が点になった」と言ってました。(・_・)
実教出版、帝国書院、東京書籍、山川出版社(新世界史、詳説世界史)と、山川出版社『詳説世界史研究』『世界各国史4中央アジア』、講座岩波世界歴史(第2シリーズ)、ミネルヴァ書房『論点・東洋史学』、岩波新書のシリーズ中国史、講談社学術文庫を参考にしています。
今回最も参考にしているもの
図版は断りがない限りウィキメディアコモンズ、パブリックドメインの画像です。
目次
1 モンゴル以後の東西トルキスタン
① モンゴル帝国の解体
各ウルスでイスラーム化、テュルク化が進む
イル=ハン国(フレグ・ウルス):14世紀半ばに分裂状態
チャガタイ=ハン国:14世紀半ばに東西に分裂 東:モグーリスタン王国
キプチャク=ハン国(ジョチ・ウルス)
14世紀の末ごろから次第に衰退 15世紀に小国に分立
君主はモンゴル系、実権はタタール人などテュルク系
ヴォルガ流域:カザン=ハン国、アストラハン=ハン国
西シベリア:(2 )国…シベリアの語源
ウズベク人やカザフ人も自立
② ティムール朝
1370年 西チャガタイのトルコ系軍人[3 ]が自立
1402年 (5 )の戦いでオスマン軍を破る
明への遠征途上でティムール病死
トルコ=イスラーム文化
ペルシア語やトルコ語の文学、ミニアチュール
[6 ]時代の天文台
15世紀後半:サマルカンドとヘラートの2政権に分裂
16世紀初め (7 )人がティムール朝を滅ぼす
西トルキスタンに西から(8 )国、(9 )国が成立
18世紀に(10 )国がブハラ=ハン国から自立
③ ロシアのトルキスタン進出
18世紀なかば、カフカス地方に進出 サファヴィー朝、カージャール朝と争う
1860~70年代 ブハラとヒヴァを保護国化、コーカンドを併合
イリ事件
コーカンド=ハン国出身の武将ヤークーブ=ベクが天山南路を占領
ロシアが出兵、イリ地方を占領。清朝、[11 ]が新疆を制圧
1881年 (12 )条約 ロシア、イリ地方を返還
清朝、新疆省を設置して直接支配に乗り出す 漢族の移住が進む
空欄
1クリム=ハン
2シビル=ハン
3ティムール
5アンカラ
6ウルグ=ベク
7ウズベク
8ヒヴァ=ハン
9ブハラ=ハン
10コーカンド=ハン
11左宗棠
12イリ
補足
①「婿殿」ティムール
ティムール朝の肖像と領域。グーリ・アミール廟。サマルカンド。卒業生提供
チャガタイ=ハン国(チャガタイ・ウルス)は早くに解体し、一時期東半分(タリム盆地側 モグリースタン)でトグルク・テムルが台頭しました。
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14世紀から15世紀にかけてこの地域で住民のイスラーム化が進みます。後述するシャイバーニー=ハンに敗北すると残存勢力はオアシス都市に移り住み、17世紀にジュンガルの支配を受けます。乾隆帝がジュンガルを滅ぼすと蜂起しますが失敗、新疆の一部になります(いわゆる回部)。
テムルの死後、西半分(シル川の南)にティムールが台頭します。ティムールはモンゴル支配層に属する有力一門の出身で、自らは大ハンを名乗らずモンゴル王子を名目上の大ハンとし、自身はチンギスの家系の女性を娶って実権を振るいました。
ティムールの称号は「アミール・ティムール・キュレゲン(婿)」、「婿殿ティムール」です。この手法は高麗やタタール国家でも見られます。
「婿殿!」といえばぶんぶん的には『必殺!』シリーズの菅井きんさんです。
軍制ではモンゴル式を継承する一方、都市や農村ではイスラーム式の税制を行っていました。その結果、サマルカンドを含む中央アジアの多くのオアシス都市は、モスクなど華麗で壮大な建造物で飾られ、商業や学問・芸術の中心として繁栄しました。
レギスタン広場 サマルカンド 卒業生提供
② ウズベク3ハン国
だいたいの場所 カザフスタン共和国のフリーマップに加筆
15世紀後半、ジョチ・ウルスのテュルク化したモンゴル人であるウズベク人が台頭し、ジョチの子孫と称するアブル=ハイル=ハンはティムール帝国領のシル川沿岸を奪い、大きな勢力となりました。
アブル=ハイルの死後内紛が発生し、モグリースタンに移動した集団は「カザフ」と呼ばれ、現在のカザフ人の起源とされています。
アブルの孫のシャイバーニー=ハンは再び部族をまとめ上げ、16世紀の初頭にサマルカンドとヘラートに分裂していたティムール朝を滅ぼしました(シャイバーニー朝)。
シャイバーニーがサファヴィー朝のイスマーイールとの争いで戦死すると、ティムールの末裔を称するバーブルがサマルカンドを奪い返します。しかしウズベク人に敗北し、バーブルはアフガニスタンからインドに入ってムガル朝を建てました。
bunbunshinrosaijki.hatenablog.com
その後16世紀の半ば、イスカンダル=ハンの代にサマルカンドからブハラに遷都すると、王朝はブハラ・ハン国と呼ばれるようになりました。
アブル=ハイルに従わなかった別のジョチの家系はサファヴィー朝からホラズムを奪回してここにヒヴァ・ハン国を建てました。
18世紀に入ると「チンギスの末裔」という権威も名目だけになり、諸部族間の争いが激しさを増しました。そこにサファヴィー朝崩壊後のイランで統一王権を築いたナーディール=シャーの侵攻や、東からはジュンガル部の攻撃を受けました。
18世紀末にチンギスの血を引かないウズベクのミング部族が台頭し、フェルガナ盆地を統一してハーンを名乗りました。これがコーカンド=ハン国です。
これらの国々ではイスラームが受容され、国際商業の発展に伴って都市人口は拡大しました。都市にはムスリム商人のワクフをもとに美しいモスクが建てられました。
Chor Minor ブハラ 卒業生提供
ヒヴァ 卒業生提供
③ 中央ユーラシアの黄昏
17,18世紀にかけての時代は、ユーラシア大陸の各地域で「地域的世界帝国」が形成されます。東では清朝、インドではムガル帝国、中東のオスマン帝国、西ではロシア帝国やハプスブルク帝国など「大陸国家」が出現します。
これらの帝国は中央ユーラシアの騎馬遊牧民の軍事力の出自またはそれらを利用して帝国を形成しましたが、やがて中央ユーラシアを東西から圧迫するようになります。
清が復明勢力を鎮圧した17世紀末以降に人口が増加し、四川、マンチュリア、モンゴルに漢人の移住者が押し寄せました。モンゴルではモンゴル王公がなかば寄生地主化し、騎馬遊牧民的な文化が失われつつありました。
西では、ジョチ=ウルスが解体してシベリアにはシビル=ハン国、ロシア南部のヴォルガ上~中流地域にはカザン=ハン国、ヴォルガ川下流にはアストラハン=ハン国、クリミア半島にはクリム=ハン国など、チンギス家の血統を重んじるテュルク系の遊牧民国家が自立しました。
*イヴァン3世もモンゴルから妃を迎えているのでお仲間です。
ロシアはオスマン帝国と境を接し、イスラーム化したモンゴル後継国家にその影響が及ぶのを恐れ、まずイヴァン4世はカザン=ハン国を征服しました。現地人は「タタール」と呼ばれ差別の対象になりました。
*さらに16世紀末にはシビル=ハン国を征服、東へ進みますが清朝と衝突し、1689年のネルチンスク条約、1727年のキャフタ条約で両帝国の境界が定められ、露清の交易もキャフタで行われるようになりました。
18世紀にエカテリーナ2世はオスマン帝国を破ってクリム=ハン国を併合する一方、ムスリムの抑圧をやめて(ヴォルテールの影響)タタール商人に活動の自由を与えました。これによってロシアとカザフ高原・西トルキスタンとの交易が拡大します。
この結果中央アジア中央部にロシア資本が入り込む一方、新興タタール商人がイスラームを復興し、新たな「民族意識」に目覚めることにつながります。
③ グレートゲーム
大陸国家ロシアに対してイギリスは19世紀にエジプトからインドを経て中国に至るシーレーンを抑え、インドを植民地化しつつありました。
イギリスの中央アジア進出を警戒したロシアは、クリミア戦争に敗北した後北カフカースへ侵攻、さらにカザフ高原に軍を進め、1865年にはタシケントを占領、1867年にここを首都とするトルキスタン省を設置しました。
さらに南下して1863年にブハラ=ハン国、1873年にヒヴァ=ハン国を保護国としました(帝政崩壊まで存続)。コーカンド=ハン国はロシアの侵略に対してイギリスやオスマン帝国に援助を求めましたが1876年にロシアに併合されました。
タシケントのナヴォイ劇場。2022年の同志社大学で「タシケント」を書かせる問題があって受験生は面食らったと思いますが、旧ソ連有数の劇場があるので音楽好きには有名。日本人捕虜が建設に関わっています。卒業生提供。
ロシアが中央アジアに進出した理由の一つが綿花栽培でした。ロシアでは当時産業革命が始まりつつあり、また南北戦争の結果アメリカで奴隷解放が行われ綿花が高騰しました。ロシアはアラル海周辺を開墾して綿花栽培を始めました。
ヴォルガ川中下流地域やクリミアのタタール人のうちイスタンブルに留学して見聞を広めたムスリム知識人は、ムスリム文化の再興には教育改革が必要と考え、近代的な小学校を建設しました。
この動きはトルキスタンにも及び、1905年にタシケテントで「新方式学校」が建設されました。この学校ではチャガタイ語やペルシア語に代わって、オスマン帝国の言語を簡略化した「共通トルコ語」が使われました。
こうした運動は「ジャディード運動」と呼ばれますが、ここからテュルク系の人々の民族的団結をうたう「パン=トルコ主義」も生まれます。ロシア革命以後中央アジアで活躍するムスリム活動家はこの中から育ちます。
④ イリ事件
アヘン戦争の結果清朝の国力はますます衰え、新疆の駐屯軍の補給が滞り、臨時課税に反対する現地住民の反乱も発生しました。またこの時期内地には回民(漢語を話すムスリム)が多く移住していました。
太平天国軍が四川から陝西に進軍すると、回民の自警組織(団練、地域をまたいで活動するのが郷勇)が編成されましたが、これが漢人の団練と衝突、これを機に漢人による回民の虐殺(洗回)が頻発しました。((((;゜Д゜)))))))
このうわさが新疆に伝わり、クチャの回民が現地ムスリムと協同して蜂起し、反乱は新疆全土に広がりました。
これを鎮圧するためにコーカンド=ハン国から派遣されたのがヤークーブ=ベクで、彼は鎮圧軍の全権を掌握すると次々とオアシス都市を征服し、1870年代には事実上の国家を樹立しました。
1865年にタシケテントを占領したロシアはこれを見て1871年にイリを占領、オスマン帝国の宗主権を認めて軍事援助を受けたヤークーブ=ベク国家とイギリスとともに通商条約を結びました。
これに対し曾国藩、李鴻章と並ぶ洋務運動の漢人官僚である左宗棠は1875年に自ら出兵、ヤークーブ=ベクの軍を破ります。ヤークーブ=ベクがコレラで死亡すると国家は崩壊、1881年に露清間でイリ条約が結ばれ、900万ルーブルの賠償金と引き換えに占領地が清朝に変換されました。
清朝は1884年に新疆省を置き、ベグ制を廃止して新疆巡撫を最高権力者としました。また現地人に漢語の学習を強制するなど同化政策を進めますが、統治は従来通り現地人の協力がなければ成り立たず、漢語学習はかえって現地人の民族的自覚を促すことにつながりました。
まとめ
- モンゴル帝国崩壊後は、主にテュルク系の武将がチンギスの家系を名目上の大ハンとしつつ、それと姻戚関係を持って権力を握り、各地で騎馬遊牧国家を建設した。これら国家は現地住民の文化を受け入れイスラーム化した。
- トルキスタンは、19世紀以降西はロシア帝国の支配下に置かれ、東は漢族の移住が進み清朝の干渉も強まった。こうした「大陸国家」の圧迫の中でムスリム意識や民族意識が芽生え始めた。
東京大学2022年の問題はここまでです。時間があれば20世紀の中央ユーラシアについてもまとめます。
リンク集
上智大学TEAP方式2021年 ロシアのカフカース、トルキスタン侵略
bunbunshinrosaijki.hatenablog.com
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