授業ではあまり先生が触れない割に入試で出題される遊牧民の世界、第5回はテュルク系(トルコ系)の台頭と西進についてです。
今回の問い
トルコ人っていつ今の場所に移動したの?
ソグド人って今もいるの?
*巷では文科省の指導で「問いを立てる」ことが強迫観念のように行われていますが、解決できそうもない問いを立てるのはやめましょう。
実教出版、帝国書院、東京書籍、山川出版社(新世界史、詳説世界史)と、山川出版社『詳説世界史研究』『世界各国史4中央アジア』、講座岩波世界歴史(第2シリーズ)、ミネルヴァ書房『論点・東洋史学』を参考にしています。
今回最も参考にしているもの
こちらも
図版は断りがない限りウィキメディアコモンズ、パブリックドメインの画像です。
目次
1 5~6世紀の中央ユーラシア地図
トムルさん作。the Creative Commons Attribution-Share Alike 3.0 Unported
File:柔然帝国.png - Wikimedia Commons
5世紀
補足
① 遊牧騎馬国家にこだわった柔然
柔然は拓跋珪が代国を再興しようと南下したときに付き従わず、北モンゴルの部族を統合してモンゴル高原を統一しました。
柔然はカガン(可汗)を自称して北魏と対立しましたが、太武帝の攻撃を受けて弱体化し、それを見てテュルク系の高車が自立、西方のエフタルとともに中央ユーラシアを三分しました。
柔然は農耕地帯に侵入し、農耕民を誘拐して耕作をさせたそうです。鮮卑が農耕世界を直接支配する新戦略をとる一方、柔然は伝統的な遊牧騎馬国家といえます。
啓隆社さんから掲載OKいただいた6世紀の中央ユーラシア三分の地図(地図上では高車が滅んで同じテュルク系の突厥になっています)。
これを見ると教科書の「ササン朝のホスロー1世が突厥を結んでエフタルを滅ぼした」や「ホスロー1世が現イラクでビザンツ帝国のユスティニアヌス帝を破り、賠償金をたんまりせしめた」という話がよくわかります。
2 突厥のユーラシア支配とソグド人
テュルク系…アルタイ山脈 前3世紀頃「丁零」の記述
高車:5世紀末 柔然・中央アジアのエフタルと中央ユーラシアを三分
(1 )…「テュルク」の漢字音写
突厥第一可汗国
6世紀半ばに強大化 中央ユーラシアを支配下に
ササン朝と結んで(2 )を滅ぼす
ソグド人を交易や外交に用い、ビザンツ帝国とも使節を往来させる
6世紀末 東西に分裂
→服属したトルコ系遊牧民が太宗に「天可汗」の称号
唐と突厥の関係
(3 )政策:部族の長に官職を与えて間接統治
(4 )の設置:モンゴル高原は安北都護府 中央アジアは安西都護府
遊牧民の騎馬軍団(蕃兵)が唐の遠征を支える
突厥第二可汗国
8世紀初にモンゴル高原で再興
(5 )人
ソグディアナ地方のイラン系
各地に植民集落をつくり交易に従事
唐に西方の物産や習俗を持ち込み流行
空欄
1突厥
2エフタル
3羈縻
4都護府
5ソグド
補足
① 突厥の中央ユーラシア支配
トムルさん作。the Creative Commons Attribution-Share Alike 3.0 Unported
File:東西突厥帝国.png - Wikimedia Commons
6世紀の半ばに高車が滅んだあと、突厥の阿史那氏が柔然を滅ぼして可汗を自称しました。東は大興安嶺、南はタリム盆地のオアシス諸都市を勢力圏とし、西はササン朝と共同してエフタルを滅ぼし、ソグディアナ地方やカスピ海北岸までを支配下におさめました。
ただし突厥は大可汗のもとに各部族の有力者が同盟する緩やかな連合体であったため、早くから西側は独立状態でした。
西面可汗であったイステミ(東ローマ帝国の史料では「ディザブロス」)はビザンツ帝国にソグド人の使節を送り、中国で入手した絹を直接ビザンツ帝国に売ることに成功しました。
共通テスト2022年 世界史B 追試
② 突厥も唐も騎馬遊牧民帝国?
俊武さん作。Creative Commons Attribution-Share Alike3.0Unported
南北朝時代の南北の境界は流動的で、北周・北斉・陳の時代はさながら「三国時代」でした。北周と北斉は東突厥に貢ぎ物を送って支持を得ようとしました。突厥側から言うと「北周と北斉を服属させていた」になります。
共通テスト2022年 世界史B 追試
北周を継いだ隋がカガンの跡目争いを利用して突厥を東西に分裂させ、東突厥を服属させることに成功しましたが、煬帝の失政に乗じて東突厥は反旗を翻し、隋末唐初には中国北部に群雄割拠した軍閥を勢力下に置きました。
この中から李淵と李世民が自立し、突厥の軍事力を借りて唐を建国しました。ところが東突厥は内部分裂や天候不順による家畜の喪失で衰退、630年に唐に降伏します。
この東突厥を後に復興する突厥と区別して「突厥第一可汗国」と呼びます。
東突厥はタブガチ(拓跋)のカガンである太宗に「天可汗」という称号を与えて臣従しました。唐は遊牧民の部族組織を維持したまま、その族長を都督府、羈縻州の役人に任じました。いわゆる「羈縻政策」です。
唐の軍事力といえば府兵制(農民軍)を連想しますが、征服活動を担った遠征軍の中心はこの服属した遊牧民(蕃兵)でした。
キョル=テギン碑文の一部
ベグとなるべき男子たちはタブガチの民への奴隷となり、ベグ夫人となるべき女子たちはその女奴隷になってしまった。突厥のベグたちは突厥風の名前を放棄し、唐にいるベグたちは唐風の名前を帯びてタブガチ可汗に服属したという。50年間(唐皇帝に)労力を捧げたという。前方(東)へ日出ずるところには、高句麗可汗(の国)まで出征したのだという。
これは後述する突厥第二可汗国の碑文で、自らを誇示するために第一可汗国を「へたれ」っぽく表現していますが、東突厥の有力者が唐から名前(称号)をもらって役人をしていること、唐に軍事力を提供していることが読み取れます。
騎馬遊牧民は強力なリーダーが現れれば臣従し、リーダーは部族の自治を認めてその軍事力を利用する、リーダーがダメなら分裂する、を繰り返します。唐の羈縻政策や蕃兵はこのフォーマットそのものです。
つまり中央ユーラシアからの視点では、6世紀にはテュルク系を中核とする突厥が、7世紀には拓跋を中核とする唐が、草原・オアシス・農耕地帯に跨る騎馬遊牧国家を築いたといえます。中国の正史にもとづく記述とは違う景色です。
そして唐の支配も長続きしませんでした。
③ 突厥第二可汗国と突厥碑文
7世紀末に東突厥が復興し(突厥第二可汗国)。武則天の時代に華北に侵入しました。ビルゲ可汗の時代には玄宗と和睦して絹馬貿易を盛んに行いました。
この時代に突厥文字の碑文が多く建てられました。有名なのが先述のキョル=テギン碑文で、正面に漢文、側面と背面に突厥文字が刻まれています。これは唐と突厥の友好を記念するものですが、漢文と突厥文では内容が違い、後者は突厥復興の様子が語られています。
従来の遊牧民の多くは文字を持たず、その様子を知るためには中国王朝のフィルターがかかった文書に頼らざるを得ませんが、これらの碑文は歴史上はじめて遊牧民が自らの言葉で自らを語った史料として貴重です。
碑文のレプリカ
突厥第二可汗国も長続きせず、ウイグルに敗北して滅亡しました。
3 ウイグルとテュルク系遊牧民の西進
(6 )
755~763年 (7 ) の乱
三つの節度使を兼ね、遊牧民をまとめて蜂起 「大燕皇帝」を自称
乱後は北モンゴルを支配し、唐と絹馬貿易で繁栄 交易都市の建設
ウイグル文字(ソグド文字の影響) (8 )教を保護
9世紀半ばに(9 )の攻撃で崩壊
テュルク系の西進
甘粛地方:甘州ウイグル国 タングートに吸収される
空欄
6ウイグル
7安史
8マニ
9キルギス
10トルキスタン
補足
① ソグド人
アム川とシル川にはさまれたソグディアナ地方には、イラン系のソグド人が居住していました。 ソグディアナは紀元前4世紀にアレクサンドロス大王、その後はササン朝、エフタル、西突厥などの支配を受けますが、サマルカンドやブハラなど各オアシス都市が緩やかに連合して政治的な独立を保持しました。
オアシスの農耕民だったソグド人は商業に乗りだし、中央ユーラシアや中国各地に植民集落を設け、ネットワークを形成して国際商人として活躍しました。
彼らの中にはネットワークから得られる情報や独自の軍事力を持つものもいたので、突厥やウイグルはソグド人を交易だけでなく外交にも重用しました。
またソグド語、ソグド文字(アラム文字に由来する)は中央ユーラシアの共通語・文字として広く使用され、突厥文字にも影響を与えたと言われています。
この結果多くのソグド人がモンゴル高原に住み着き、遊牧民の風習を受容して騎馬遊牧民となりました。彼らは通婚を通じてソグド人意識を保持したので「ソグド系突厥」と呼ばれることもあります。
彼らは李淵・李世民親子の唐建国にも助力したと伝えられますが、ソグド系突厥で最も有名なのが安史の乱の首謀者である安禄山です。
② 安史の乱
安禄山はサマルカンド出身で、ソグド人の父と突厥の母の間に生まれました。中国に入ったソグド人は出身のオアシスに由来する姓を名乗っていて(サマルカンド出身は「康」、ブハラ出身は「安」)。安禄山はもとは父方の康姓を名乗っていましたが、のちに母親の再婚相手の安姓を名乗りました。
安禄山は貿易関係の業務で唐王朝に仕えて頭角を現し、范陽(現北京)・平盧・河東の三節度使を兼任しました。彼は羈縻州の有力者と通婚関係や擬制的父子関係を結び、唐に帰順した東北地方の遊牧民(契丹、靺鞨、突厥)を自らの軍団に吸収して大勢力となりました。
彼が拠点を置いた幽州は農耕と遊牧世界の境界地帯で、職業軍人を養うために物資や資金が行きかいました。これに目をつけたソグド人商人が集まり、安禄山は彼らのネットワークを通じて巨額の利益を上げました。
こうした遊牧民の軍事力と資金力を背景に755年、安禄山は「君側の奸」である宰相の楊国忠を排除する名目で挙兵しました。安禄山は洛陽を陥落させて大燕皇帝を名乗り、敗北した玄宗は四川に逃亡しました。
しかし内紛で安禄山は子に殺害され、部下の史思明は幽州に退きました。霊武に逃げていた唐の皇太子が皇帝に即位し、河西などの節度使を味方につけ、さらにウイグルの援軍を受けて反撃に転じ、763年に乱は終結しました。
SYさん作。青色矢印が安禄山側の進路。出発点が范陽節度使の拠点である幽州。赤色が唐に加勢した節度使の進路。ピンク色がウイグルの勢力範囲。Creative Commons Attribution-Share Alike4.0International
File:An Lushan Rebellion.png - Wikimedia Commons
安史の乱というと楊貴妃一族と安禄山の対立が思い浮かびますが、安禄山側も唐側も軍の主力は節度使で手勢は雑多な遊牧民、そこにウイグルが割って入った、遊牧民軍閥による遊牧・農耕境界地域の覇権争いが真相のようです。
③ 都市を建設したウイグル
唐では安史の乱後に節度使が内地にも置かれるようになります。乱は最終的に安禄山側の節度使が唐に帰順して終結したため、唐は彼らを懐柔するため引き続き節度使の任につかせました(外敵から唐を守る拠点という意味で「藩鎮」ともいう)。
中でも幽州を中心とする河朔三鎮は徴収した税金を王朝に納めず懐に入れてしまいます。北部には契丹が勃興しつつあり、唐も河朔三鎮の自立を放任せざるをえませんでした。
また安禄山を援助する予定で唐に寝返ったウイグルは、見返りに唐から絹馬貿易を認められ大きな利益を上げました。交易のためにウイグルは遊牧民としてははじめて本格的な都市を建設し、ソグド人や漢人がその利益を目当てに住みつきました。
都城のオルド=バリクはオルホン川流域にハル=バルガス遺跡として残っています。
ジェームスA.グレイジャーさん作。Creative Commons Attribution-Share Alike3.0Unported
中央ユーラシアの遊牧民の間では天を祀るシャーマニズムが広く信仰されていましたが、ウイグルの可汗はソグド人が持ち込んだマニ教を国の信仰として保護していたことが碑文からわかっています。
ソグド人の多くはゾロアスター教を信仰していてマニ教は少数派でしたが、各地に建設されたマニ教寺院はウイグル商人(実態はソグド人)の商業の拠点になりました。彼らの資本は「回紇銭」(ウイグルマネー)と呼ばれ、唐の金融を支えました。
一方チベット高原では吐蕃が7世紀初頭に勃興し、7世紀の半ばには青海の吐谷渾を破り唐と国境を接します。安史の乱の混乱に乗じて吐蕃は河西回廊に進出し、763年には一時長安を占領、ウイグルともオアシスを巡って激しく争いました。
こうして8世紀後半から9世紀にかけてユーラシア東部は唐・ウイグル・吐蕃の「三国時代」になりました。支配領域を減らした唐はウイグル・吐蕃と友好関係を保つ一方、江南の発展を背景に両税法や塩の専売で財政を立て直し、突厥の残存勢力(後の沙陀突厥)を味方につけて命脈を保ちました。
啓隆社さんの地図をぶんぶんが色塗り
しかし9世紀半ばにウイグルは同じテュルク系のキルギスの攻撃を受けて崩壊、吐蕃も冷害で家畜がやられて衰退、唐は黄巣の乱で命綱の江南が被害を受け滅亡しました。
④ モンゴルの「知恵袋」西ウイグル王国
テュルク系のうち東部天山オアシス地帯に移動した集団は定住民化して西ウイグル王国(天山ウイグル王国)を建設しました。
西ウイグル王国ではソグド文字を元に作られたウイグル文字が使用されました。現存する手紙・公文書・契約書の解読から、西ウイグル王国は21世紀の私たちもビックリな高度なビジネス社会(挨拶文や敬語もバッチリ)であったことが判明しています。
また文書の大半が仏教関係で、仏教が信仰されていた様子もわかります。
ベゼクリク千仏洞のウイグル貴族供養者(9世紀頃か)
西ウイグル王国はチンギス=ハンにいち早く臣従したことでこの文化がモンゴル帝国に伝わり、彼らは「色目人」としてモンゴル帝国の政治や経済を支えました。ウイグル文字からモンゴル文字が作られ、さらにそこから満州文字が作られました。
*発展
西ウイグル王国ではネストリウス派キリスト教も信仰されていました。その僧侶であるラッバーン・バール・サウマはウイグルもしくはオングト(モンゴル化したテュルク系)の出身とされ、イルハン朝の外交使節として弟子のマルコス(後にネストリウス派の総主教になる)とともにヨーロッパに派遣されました。
⑤ みんなどこへ行った?
テュルク系遊牧民が南方・西方に移動すると、オアシス住民(インド=ヨーロッパ系)は次第にトルコ語を話すようになり、数世紀を経て「トルキスタン」(ペルシア語で「トルコ人の土地」)へと変貌しました。
また彼らは戦争捕虜や傭兵などとして西アジアに流入し、アッバース朝に奴隷軍人(後に「マムルーク」と呼ばれる)として仕えました。
アッバース朝が解体に向かうと彼らは自立し、10世紀にエジプトではトゥールーン朝を、アフガニスタンではガズナ朝を建国しました。
11世紀にセルジューク朝が成立してテュルク系集団の西進が進み、セルジューク朝の王族がルーム=セルジューク朝をアナトリア(小アジア)に建てたことから、この地に多くのテュルク系集団が定着し、イスラーム文化が根付いてオスマン帝国が成立する下地になりました。
一方トルキスタンでは10世紀にテュルク系のカラ=ハン朝がイスラームを受容し、イラン系のサーマーン朝を破って東西トルキスタンを支配し、この地がイスラーム化するきっかけになりました。
トルコ系諸王朝の活動 共通テスト試行調査第1回
現在東トルキスタンは中華人民共和国の新疆ウイグル自治区、西トルキスタンは旧ソ連の中央アジア諸国が立地しています(トルコ語系を話すのはカザフスタン・ウズベキスタン・キルギス)。
「ウイグル意識」はモンゴル帝国以後は失われ、イスラームを受容したオアシス都市は「クチャ人」「トゥルファン人」と自己認識していました。
19世紀半ばから東西トルキスタンで中国とロシアの干渉が強まる中、オアシスのムスリム定住民は次第に民族意識を強めますが、「ウイグル」という民族名が使われるようになるのは、ソヴィエト政権下の1921年、西トルキスタンでの会議が最初で。1935年には東トルキスタンでも「ウイグル」が民族名称として公式に認められました。
歴史学の言う「記憶と表徴」で、ナショナリズムのあり方のひとつといえます。
新疆ウイグル自治区の人権問題について
ソグディアナは7世紀からイスラーム勢力の侵攻を受け、8世紀半ばにはアッバース朝の支配下に入りました。次第にソグド人もイスラームを信仰するようになり、「ソグド人」という意識は消えましたが、「イラン系ムスリム商人」としてその後もシルクロードの商業をけん引しました。
4 チベット系遊牧民の活動
(11 )
7世紀前半[12 ]が建国 首都:ラサ
吐谷渾を破り、8世紀後半に長安を一時占領 唐蕃会盟碑(チベット文字)
インド・中国の影響 (13 )仏教…大乗仏教に民間信仰が融合
(14 )
空欄
11吐蕃
12ソンツェン=ガンポ
13チベット
14南詔
補足
こちら
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まとめ
- 突厥は6世紀に草原地帯とオアシス都市を統合する大帝国を建設し、東は北朝を服属させ、西はエフタルを滅ぼし東ローマ帝国とも外交関係を結んだが、東西に分裂し、唐の羈縻政策に入った。
- ソグド人は各地に植民集落を構えて東西交易に従事し、突厥・唐の中央ユーラシア帝国を交易・外交・軍事面で支えた。ソグド文字は突厥文字に影響を与え、またソグド文字からウイグル文字が作られた。
- ウイグルは中国との絹馬貿易で巨額の利益を得、その都城には漢人・ソグド人商人が集まった。ウイグルの行政・財政システムは西ウイグル王国に引き継がれ、モンゴル帝国の発展に寄与した。
- ウイグルの崩壊後テュルク系は西進し、イスラーム化して多数の王朝をたてた。また東西トルキスタンのオアシス都市もイスラーム化した。
リンク集
突厥・唐の帝国とソグド人
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ソグド人が唐に与えた影響
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