授業では先生が触れない割に入試で出題される遊牧民の世界、第6回は15世紀から18世紀にかけて、明と清の時代です。
実教出版、帝国書院、東京書籍、山川出版社(新世界史、詳説世界史)と、山川出版社『詳説世界史研究』『世界各国史4中央アジア』、講座岩波世界歴史(第2シリーズ)、ミネルヴァ書房『論点・東洋史学』、岩波新書のシリーズ中国史、講談社学術文庫を参考にしています。
参考
図版は断りがない限りウィキメディアコモンズ、パブリックドメインの画像です。
ひとつ手前の時代
bunbunshinrosaijki.hatenablog.com
目次
1 15世紀のモンゴル高原
トムルさん作。Creative Commons CC0 1.0 Universal PublicDomainDedication
2 明と遊牧民勢力
① 元の滅亡
1368年 明建国 元はモンゴル高原へ(北元)
1388年 トグス=テムルが殺害されてフビライの直系が断絶
15世紀初頭 [1 ]帝のモンゴル高原遠征
モンゴルなどを一時的に臣従させる
(2 ):東部 チンギス王家(アリク=ブケ家)を戴く
*自称は「モンゴル」だが、明は夷狄視して「タタール」と呼ぶ
(3 ):西部 チンギス王家と姻戚関係のあった遊牧部族の連合
③ 明の対外政策と遊牧民
(4 )政策:民間交易を全面禁止し交易を(5 )貿易に限定する
モンゴルにも朝貢が適応され互市(交易場)を禁止→遊牧民の不満
1449年 (6 )
オイラトの[7 ]=ハンが正統帝を捕らえる
明、新たに(8 )を建設(現存するもの)
16世紀 海禁を破って私貿易が活発化→「(9 )」と呼ばれる
タタールの[10 ]=ハン、交易を求めて侵入を繰り返す
16世紀後半に海禁は緩和(互市の設置)、アルタン=ハンと和解
空欄
1永楽
2タタール
3オイラト
4海禁
5朝貢
6土木の変
7エセン
8長城
9北虜南倭
10アルタン
補足
① 明の建国後もモンゴルは健在
明の建国宣言後、元は戦わずに北方に退き、その後もカラコルムを拠点に明と対峙しました。しかし最後の皇帝がアリク・ブケ(クビライの弟)の子孫に殺害されてクビライの血統は絶えました。
その後モンゴルではチンギス家以外の有力者がチンギスの末裔を名目上の大ハン(カアン)に擁立してモンゴル高原を支配し、国号も「大元」が使われました。
明はこのモンゴルを北元と区別して「タタール」(韃靼)と貶めて呼んで夷狄扱いしました。
モンゴル高原西部のオイラトはチンギスにいち早く帰順し、チンギス家の降嫁を受けてモンゴル帝国の有力部族集団の一角を占めていました。彼らは元の崩壊後にモンゴルの跡目争いに介入し、高原西部で勢力を拡大しました。
永楽帝は5度に渡ってモンゴル高原に遠征し、モンゴル=タタール、オイラト双方に決定的なダメージを与えることはできないものの、両者を一時的に明に臣従させることに成功しました。
② 開放的な元、窮屈な明
元は商業重視、実力重視政策を採り、海外交易も大々的に行なわれました。一転して明は大陸の農村部に立脚し、農民を土地に縛り付ける閉鎖的な政治を目指しました。
これに対して不満を持つ海上勢力が倭寇と結託して明に抵抗したので、朱元璋は海禁を発して沿岸部の住民の出海を禁じて海上勢力のつながりを断ち、さらに市舶司を廃止して交易を国家間の儀礼、いわゆる朝貢貿易に限定しました。
14世紀は世界的な動乱の時代、日本、朝鮮半島、東南アジアでも国内で争いが続き、国際秩序が動揺しました。その隙を突いたのが倭寇で、中国や朝鮮半島の沿岸部で略奪行為を繰り返しました。
明初の海禁・朝貢貿易は、倭寇を征伐して「中華」と「夷狄」の違いを明確にし、その上で周辺諸国に明への臣従を促す、つまり明を中心とする国内・国際秩序を再建する目的だったといえます。
その結果、宋代から発展していた民間交易は禁止され朝貢貿易に一元化されましたが、それが遊牧世界にも適用されたことが問題になります。
海域の境界防衛が海禁なら陸域のそれは長城です。版築による低い長城から現在の磚(レンガ)による長城へ改築が進められたのは土木の変以降です。卒業生提供。
③ 土木の変は「水増し請求」が原因?
遊牧民は農業をしないため中国の物資に依存していています。それが不足すると農耕世界に侵入して掠奪(食糧や人間)を繰り返してきました。
そこで歴代の中華王朝は境界地域で遊牧民に必要な物資を供給していましたが(「互市」)、明はこれを廃止して朝貢に一元化しました。
15世紀の前半、オイラトのトゴンがチンギスの家系の大ハンを擁立してオイラトとモンゴルを統合し、明に朝貢して多額の下賜品を受け取っていました。その子がエセンで、彼は東西に支配地域を広げ、女真をも勢力下に置きました。
トムルさん作。Creative Commons CC0 1.0 Universal PublicDomainDedication
しかし広大な領域を維持するには多くの財貨が必要です。明は使節団の人数に応じて下賜品を渡していたので、エセンは定員をはるかに超える使節団を派遣しました。よくばりさんです。(´・ω・`)
そこで明は下賜品の額を減らしたのでエセンは激怒して出兵、英宗正統帝は自ら出陣するものの、北京郊外の土木堡で大敗し捕虜になります。世にいう「土木の変」(1449年「石よく喰うか?オイラの餌に」)です。
( ゚Д゚)つマアコレデモクッテオチツケ 石石石石 ・゚・(つД`)・゚・ ウェ―ン
エセンはこの後チンギスの家系しか名乗れない大ハンを称して権力の絶頂を極めましたが、翌年部下に殺害されて帝国は崩壊しました。
チンギスの権威を重視する立場からは、エセンは似非(えせ)の大ハン?
④ 北虜南倭
エセンの帝国が崩壊した後、チンギス家のダヤン=ハンが直轄地のチャハルを中心に遊牧国家を再建、16世紀半ばにはダヤンの傍系の孫であるアルタン=ハンが本家のチャハル王家から実権を奪いました。
このころ東南アジア海域は大交易時代で、日本からは銀が流入し、ポルトガル人も来航しました。寧波や福建は密貿易の拠点になり、朝貢貿易が揺らぎます。
同様のことは農耕・遊牧境界地域でも発生し、長城の外では密貿易が日常化し、農民や軍人の中には負担に耐えかねて長城外へ移住するものも現れました。
アルタン=ハンは朝貢や互市の拡大を求めたのに明に拒絶されたので、長城を越えて8日間北京を包囲し、多くの男女や家畜をさらって撤退しました。
同じ頃明が密貿易の拠点を一斉摘発しますが、かえって残党が凶暴化して東南沿岸部の略奪をほしいままにします。いわゆる「後期倭寇」です。
一連の騒乱を「北虜南倭」と呼びますが、経済発展を背景に貿易拡大を望む声が高まる中、明は朝貢の看板を降ろさず密貿易を取り締まったために激しい反発を招いた、ということです。
最終的に16世紀後半には明は海禁を緩め、海側・陸側で互市が開設され、アルタン=ハンも明から冊封されて朝貢貿易で潤いました。
3 大清グルンとモンゴル・チベット
④ チベット高原
元:チベット仏教を信仰→元滅亡後は貴族と仏教宗派が結びついて抗争
明:チベット産の馬と中国産の茶を交換(茶馬互市)
14~15世紀 [11 ]、ゲルク派((12 )派)を起こす
16世紀 アルタン=ハンがチベット仏教に帰依
指導者に(13 )の称号を贈る→教団の長の地位確立
チベットとモンゴルを中心に大きな影響力を持つ
⑤ マンチュリア
明の支配下で複数の部族に分かれて明と交易
[15 ]:1616年 部族を統合 後金(アイシン)建国
(16 )を編成 ウイグル系モンゴル文字をもとに満洲文字を定める
[17 ]:1636年 国号を清(大清グルン)
内モンゴルのチャハル部、朝鮮服属
[18 ]帝:摂政 ドルゴン
1644年 李自成の乱を鎮圧 北京入城
チベット仏教の保護 ダライ=ラマ5世を北京に招く
[19 ]帝:
1689年 (20 )条約 ロシアと国境策定
雍正帝:1727年 キャフタ条約 ロシアと国境策定
1758年 (21 )を滅ぼす (22 )と名付ける
(24 )の下で間接統治
ダライ=ラマ ベグ制など自治を認める
空欄
11ツォンカパ
12黄帽
13ダライ=ラマ
14満洲
15ヌルハチ
16八旗
17ホンタイジ
18順治
19康煕
20ネルチンスク
21ジュンガル
22新疆
23藩部
24理藩院
補足
① モンゴルをつなぎ止めるにはチベット仏教が必要
16世紀の対外交易の発展の影響はマンチュリアにも及び、特産品の真珠、人参、貂皮の需要が高まりました。その利益をめぐって女真(ジュシェン)の部族が争いました。
クロテン。©制限なし画像
この中から建州を拠点とするヌルハチが台頭、次々とライバルを征服すると、強大化を恐れた明と対立、1616年にハンの位につき明から独立する姿勢を明らかにしました。
エヴァウェンさんの作品 Creative Commons Attribution-Share Alike 3.0 Unported
明は最盛期には旧金の領域を支配下に置きましたが、16世紀になると実効支配地域は山海関(長城の東端)から沿岸を通って遼東半島に至る地域に縮小し、ここで女真と交易を行なっていました。これは明が豊臣秀吉の朝鮮出兵に際して援軍を派遣するルートに当たり、このことも交易が盛んになる原因のひとつです。
第二代のホンタイジはモンゴルの大ハンが死去したのに乗じてチャハル部を支配下に置き、1636年に満洲人(マンジュ。女真から改称)、漢人、モンゴル人からの推挙で皇帝に即位、国号を大元ウルスに倣って「大清グルン」と改めました。
順治帝(摂政ドルゴン)の時、呉三桂が清に服従することを条件に李自成の乱を討伐し、山海関を通って北京に入城しました(「清の入関」)。
親政をはじめた順治帝は、モンゴルがチベット仏教を信仰していることに注目し、ダライ=ラマ5世を北京に招いて会見しました。
清朝とモンゴルは、モンゴル王公とチンギス・ハンに由来する皇帝権を継承した満洲皇帝との主従関係という建前でした。有力な王公は清朝宗家出身の女性と結婚して姻戚関係を結びました。清がチベット仏教の保護者になれば、モンゴル王公に対して強い影響力を保持でき、有事にその騎馬軍団の協力が期待できます。
しかしここでライバルが現れます。オイラトの中のジュンガルです。
ジュンガルのガルダンは騎馬と鉄砲隊を組み合わせる戦術で1680年にカシュガル,ヤルカンド,ホータンなどのオアシス都市を征服し(地図の回部)、さらに外モンゴルのハルハに侵攻したため内モンゴルに難民が流入しました。
大陸側では三藩の乱や鄭成功の復明運動が展開している時期、康煕帝は外モンゴルに出兵してジュンガルを追い出し、外モンゴルを支配下に収めました。
位置関係 1844年の地図
この後もジュンガルと清が互いにダライ=ラマを擁立するなどチベットをめぐって争いますが、最終的に乾隆帝がジュンガルを滅ぼし、オアシス都市も降伏させてこの地域を「新疆」(新しいエリア)と呼びました。
こうして清朝は満州人の皇帝、中華皇帝、遊牧民の大ハン、チベット仏教の保護者、オアシスのムスリム住民の保護者、という複数の顔を持つことになります。
世界史の教科書には、清は支配地を直轄領と藩部に分け、藩部は現地支配者(モンゴル王公、ダライ=ラマ、ベグ制)による間接自治を認めたとありますが、直轄領も明の制度を尊重し、横に満洲人を貼り付けて監視(満漢偶数官制)しているのでので、藩部と原理は同じと考えることもできます。
露清の国境を策定したネルチンスク条約に漢語訳文がないのは、この条約が君臣関係を基本とする中華皇帝とは別の原理で締結されたことを物語っています。
人数的には数十万の満洲人が、広大な領域に対して現地の習慣を尊重しつつ要所では目を光らせる、騎馬遊牧国家の知恵でもあります。
1754年、承徳山岳で乾隆帝がモンゴルのドルベト部族の指導者のために催した宴会。飲んだり食べたりは政治的結合には欠かせません。
チベットについてはこちらも
bunbunshinrosaijki.hatenablog.com
ネルチンスク条約の背景はこちら
bunbunshinrosaijki.hatenablog.com
こうして18世紀には清朝の間接統治の元、モンゴル高原や東トルキスタンは一応の安定を見るのですが、それは「中央ユーラシアの周辺化」という「終わりの始まり」でもありました。
まとめ
- 明の成立後もモンゴルでは大元ウルスの勢力が健在だったが、永楽帝の時代に明の冊封に入る
- 明は14世紀の危機の中を閉鎖的政策で乗り切ろうとしたが、15,16世紀に交易が活発化するとその政策は時代に合わなくなり、草原地帯と海域世界から異議申し立てを受けて、16世紀には交易の規制を緩和した
- ユーラシアの東端から興った清は、大陸部では中華皇帝の後継者、草原地帯では大元ウルスの後継者を支配の根拠とした
- 清はモンゴル、チベット、オアシス都市に対して現地の有力者による間接統治を基本とした