はじめに
今年の国立大学の入試問題を解答し、次年度の受験生のヒントにしたいと考えます。
今回は一橋大学です。世界を股にかける経済人が教養として身につけておくべきヨーロッパの基層、グローバル化、東アジア近現代史について毎年これでもかと出題します。同じく経済人必須の数学も激ムズで有名です。
解答例は正解ではありません。著作権はぶんぶんにあります。
*解答例作成の方針
- 受験生と同じく何も見ないで解答する。ただし途中でお茶を飲んだりトイレに行ったりはする(ルール違反)
- 解答を作ったら、受験生がアクセスできる教科書(実教出版、帝国書院、東京書籍、山川出版社)、資料集(帝国書院、浜島書店)、参考書(詳説世界史研究)でウラを取る(イカサマ)
- 一橋大学は教科書オーバーの内容が出るので一般書もチラ見する(インチキ)
- 仕上げに河合塾、駿台、東進、代ゼミの解答速報と比較する
- 解説は関連する一般書を利用する
問題は東進過去問データベースより(要会員登録)
目次
一橋大学 過去20年分の出題(大問構成)
Ⅰ | Ⅱ | Ⅲ | |
2004 | 宗教改革の比較 | ピョートル1世 | サファヴィー朝、ムガル帝国。文学革命の意義 |
2005 | 身分制議会の特徴と比較 | 冷戦を核兵器の開発と抑制の観点で語る | 東南アジアへのインド人中国人移民増加の理由を出身国の国内問題と現在の問題と絡めて書く |
2006 | オットー1世の歴史的意義 | ケルン大聖堂をめぐる中世都市の自治やドイツ帝国のナショナリズム | アウラングゼーブ。マンサブダール制。清の統治。典礼問題 |
2007 | フランクの分裂~オットー1世の戴冠 | ルイ16世の即位と革命前の改革 | 太平天国と洋務運動 |
2008 | ハンザ同盟13世紀~17世紀 | 米西戦争とアメリカの太平洋進出 | 韓国併合と光緒新政 |
2009 | カール大帝と地中海。ピレンヌテーゼの再考 | 18世紀の第二次英仏百年戦争 | 1920年~40年代の日本の朝鮮統治 |
2010 | 11世紀~13世紀の皇帝権と教皇権の闘争 | 第一次世界大戦と女性の社会進出 | バンドン会議、西安事件、インド国民会議 |
2011 | フス戦争の意義 | 1850年~70年代のヨーロッパの動き | 三藩の乱 |
2012 | ナントの勅令の意義 | 国際連盟と国際連合が直面した問題 | イギリスの東南アジア進出と清朝の冊封体制の変化 |
2013 | 東方植民の経緯と近代での経済史的意義 | フランス革命は革命か | 甲申政変 |
2014 | ワットタイラーの乱と中世封建制の解体 | チェコの歴史と良知力 | 明清交代と朝鮮 |
2015 | カール大帝のローマ滞在の理由とカールの戴冠の意義 | ECとASEANの歴史的役割の変化について比較する | 清朝の対外関係の特徴とその崩壊過程 |
2016 | 聖トマスとアリストテレスの都市国家論の比較 | 18世紀プロイセンで建てられたユグノー教会とカトリック教会の歴史的背景 | 1940年以降の朝鮮半島情勢と、朝鮮戦争が中国と台湾に与えた影響 |
2017 | 新大陸の銀がスペインの盛衰や16~17世紀のヨーロッパ経済に与えた影響 | ハイチとアメリカ合衆国の奴隷解放の特徴。ラテンアメリカの独立の担い手と独立後の経済政策。ブラジルの独立の特徴 | ザイトンを取り巻く11~13世紀の国際関係 |
2018 | 11~13世紀のヨーロッパの「空間革命」とその経済・社会・文化への影響 | 歴史派経済学と近代歴史学の相違。それが生じた歴史的背景を対比させつつ | 三・一独立運動と五・四運動の背景、展開、意義 |
2019 | 東欧でカトリックを受容した王国。身分制議会の展開 | 第二次英仏百年戦争の経過と後の世界史に与えた影響 | 中国国民党と中国共産党の争い。1949年まで |
2020 | ドイツ農民戦争と「聖書のみ」に関わるルターとの考えとの相違 | 20世紀中葉に資本主義の派遣がイギリスからアメリカ合衆国に移行した経緯。19世紀後半、第二次世界大戦、冷戦、脱植民地化との関係に言及しつつ | 朝鮮王朝の小中華意識とそれが1860~70年代にどのような役割を果たしたか。当時の国際関係の変化に関連づけて |
2021 | アヤソフィア建造の時代背景と複数回の転用の理由 | ゲーテの時代とレンブラントの時代の文化的特徴の差異 | 文化大革命から四つの近代化までの経緯 |
2022 | フリードリヒ1世の勅法の歴史的背景(中世の大学) | 20世紀アメリカ合衆国の経済政策の背景と影響、それが批判された理由 | 光州事件、壬辰丁酉の倭乱、朝鮮王朝の開国 |
2023 | 英仏百年戦争が英仏二つの国家間の戦争と捉えることが必ずしも適切でない理由とその結果による仏の変化 | モザンビークとジンバブエがOAU加盟が遅れた経緯 | 帝政ロシアの中国利権とソヴィエトロシアがそれを手放す声明を出した時代の中露関係の変化が中国に与えた影響 |
コメント
大問三題とも論述で(たまに刻むことあり)、Ⅰはヨーロッパ中世史、Ⅱはヨーロッパ近現代史、Ⅲが東アジア近現代史(時々明清交替)と固定されています。Ⅱは政治・経済のグローバル化に関することが多く、歴史学の方法論に関する出題は高校生はたぶんお手上げです。(/-ω-)/オワタ
また一橋大学は経緯だけではなく事件の背景や後世への影響を問う点が特徴です。
Ⅰ
設問
英仏百年戦争をイギリスとフランスという二つの国家間の戦争と捉えることが必ずしも適切でないとすれば、その理由は何か。この戦争が結果的にフランス王国にどのような変化をもたらしたかを上記の理由と関連付けて説明。400字
解答のためのメモ
1)百年戦争の背景
- 10世紀に諸侯から選ばれて成立したカペー朝はパリの周辺だけが支配地で、臣従する封建諸侯の方が領地を多く持っていた。
- 中でもアンジュー伯は西南フランスに広大な領地を持ち(在仏所領。ノルマンディー公、アキテーヌ公領を相続)、11世紀にはイングランドを相続してプランタジネット朝を開いた。
- 13世紀にフィリップ2世はイングランドのジョン王の在仏所領を奪い、ルイ9世はアルビジョワ十字軍を通じて南フランスで王領地を拡大した。さらにフィリップ4世は三部会を開催して課税権を手に入れた。
- こうしたカペー朝の集権政策に対して諸侯の不満が高まっていた。フランドル地方では国王の重税に対して都市商人が反乱を起こした。フランドル伯が断絶するとブルゴーニュ公がこの地を相続した。
1180年と1223年のフランスにおけるプランタジネット朝の版図(赤)とフランス王領(青)諸侯領(緑)教会領(黄)。CC 表示-継承 3.0 Author: Vol de nuitさん 13世紀の赤いところが百年戦争で係争地となるギュイエンヌ地方。
出典
2)百年戦争の開始
- カペー朝が断絶してフィリップ6世がヴァロワ朝を開くと、フィリップ2世の時に奪えなかったギュイエンヌ地方の没収を宣言した。
- これに対しイングランド王のエドワード3世は母親がカペー朝出身であることからフランス王位を主張して(かなり無理筋)大陸に派兵した。
- 戦いはイングランド側が優勢で、14世紀には黒死病が流行し、ジャックリーの乱が発生するなど混とんとしていた。
- 15世紀に入るとイングランドと結ぶブルゴーニュ公派とフランス国王派との内戦状態に陥った。
クレシーの戦い フランス側は弩(いしゆみ)を使っているが速射性ではイングランド側の長弓が上回った。パブリックドメイン
3)百年戦争の終了と影響
- ヴァロワ朝のシャルル王太子が廃位され英仏の同君連合が実現するかにみえた時にジャンヌダルクが現れ、オルレアンの包囲を解いてシャルルを戴冠させた。
- ジャンヌはイングランド軍に捕らえられ処刑されるが、ブルゴーニュ派がフランス国王派と和解し、同盟者を失ったイングランドはカレーを残して撤退した。
- この戦争の結果フランスでは多くの諸侯が没落し、大商人と結んだ王権が急速に力をつけた。
- イングランドもこの戦争の後王家の争いが起こり(ばら戦争)、貴族が没落して新たに建てられたテューダー朝で国王による中央集権が進んだ。
捕縛されるジャンヌが描かれたミニアチュール。シャルル7世の年代記(1484年頃)。パブリックドメイン。
解答例
フランスのカペー朝は王権が弱体で封建諸侯の方が強く、家臣のひとりアンジュー伯はギュイエンヌなど大陸西南部に広大な領地を有しイングランド王も兼ねた。13世紀にフィリップ2世がジョン王から大陸領を奪い、後の王も領土を拡大し集権政策を進めると諸侯は不満を抱いた。カペー朝が断絶してフィリップ6世がヴァロワ朝を開き、ギュイエンヌ地方の没収を宣言するとイングランド王エドワード3世は王位継承を主張して大陸に出兵した。戦いはイングランドが優勢で15世紀にはイングランドと結んだフランドルのブルゴーニュ公派とフランス国王派との内戦状態になるが、ジャンヌ=ダルクの活躍と両派の和解でイングランドは大陸から撤退した。以上から百年戦争はフランス王の家臣の内戦とも捉えられる。戦争の結果諸侯は没落し、商人と結んだ国王が常備軍を整備するなど中央集権を進めた。イングランドでも集権化が進み戦争は英仏が別国家になる契機となった。400字
解答のポイント
今回の出題はここから
2013年の「フランス革命を革命と捉える立場とそうでない立場」、さらにさかのぼると二宮宏之さんの有名な論考から取った「絶対王政はどの程度絶対か」の類題。
百年戦争について各社の教科書を読むと、後世への影響についてはどこも「戦争の結果諸侯が没落する一方フランス国王が常備軍を装備して集権化を進めた」としている。新書のタイトル通り、百年戦争は封建社会が主権国家体制に向かう、中世ヨーロッパの終わりを象徴する事件である。
またフランス王の封建的家臣でイングランド王も兼ねるアンジュー伯がフランス王をしのぐ領地を大陸にもち(在仏所領)、それをめぐって両者が争っていたことも各社共通している。
問題は戦争の契機で各社の記述が若干異なる。以下自説のために引用。
山川出版社『詳説世界史B』146頁
フランス国王は毛織物産地として重要なフランドル地方を直接支配下におこうとしたが、この地方に羊毛を輸出して利益を上げていたイギリス国王派、フランスがこの地方に勢力をのばすのを阻止しようとした。カペー家が断絶してヴァロワ朝がたつと、イギリス国王エドワード3世は、母がカペー家出身であることからフランス王位継承権を主張し、これをきっかけに両国の間で百年戦争が始まった。
山川出版社『新世界史B』 155頁
14世紀にはいると、プランタジネット朝のイングランドとヴァロワ朝フランスとの関係が、イングランドの在仏所領をめぐって緊迫した。
同148頁
一方、イングランドでは、アンジュー家のヘンリ2世が王位を継承し、プランタジネット朝(アンジュー朝)を開いた、ヘンリはすでに相続や婚姻を通じてフランスのノルマンディー公領とアキテーヌ公領を獲得していたため、イングランドと西南フランスの広大な領土(在仏所領)を、海峡をまたいで統治することとなった。
東京書籍『世界史B』161頁
フランスのカペー家が絶えて傍系のヴァロワ朝があとをつぐと、イングランド王エドワード3世はフランス王位の継承権を主張してフランスに侵攻し、のちに百年戦争と呼ばれる断続的な戦争が始まった。背景には、自国産羊毛の輸出先フランドルへフランスが進出することをきらうイングランドの思惑や、大陸内のプランタジネット家領地をめぐる英仏両家の対立があった。はじめはイングランドが優勢で、15世紀にはいるとフランス国内には、イングランドと結んだブルゴーニュ公派とフランス国王派の内戦のような状態になった。
帝国書院『新詳世界史B』107頁
1328年フランスではカペー朝が断絶牛、ヴァロワ朝のフィリップ6世が王位を継承した。1337年フィリップ6世がギュイエンヌ地方の没収を宣言すると、イングランド王エドワード3世は母親がカペー家出身であることからフランス王位継承権を主張し、百年戦争が始まった。
同頁、欄外の地図の説明
フランドル伯であったブルゴーニュ公はイングランドと同盟関係にあったが、1435年にシャルル7世と和解し、これによりイングランドとの同盟は解消された。
実教出版『世界史B』151頁
フランスのカペー家がたえて傍系のヴァロワ朝が跡をつぐと、イングランド王エドワード3世はフランス王位の継承権を主張してフランスに侵攻し、百年戦争が始まった。この背景には、毛織物生産のさかんなフランドル地方やワインの産地であるギュイエンヌ地方をめぐる両国の利害の対立もあった。戦局ははじめイングランドが優勢で、ブルゴーニュ公がイングランド側と同盟を結んだこともあってシャルル7世が即位したころにはフランスは降服寸前にまで追いこまれた。
解答例は設問の趣旨に沿って、イギリスとフランスが当時二つの独立した国家というよりアンジュー伯がフランス王の家臣(ただし領土の広さは上)という封建的主従関係だったこと、また戦争は英仏2国の戦いではなく、大陸諸侯が集合離散を繰り返す内戦であったこと、戦争の結果諸侯が没落してフランス王の集権化が進み、イングランド王も現地の統治に専念するようになり、英仏が別々の国家になったことを書いた。
最後に「英仏が戦ったのではなく、戦いの結果英仏になったといえる」みたいな締めを入れたかったが割愛した。
Ⅱ
設問
1963年にアフリカ統一機構(OAU)が創設された。しかし地図上のA(モザンビーク)とB(ジンバブエ)がOAUに加盟したのはそれぞれ1975年と1980年であった。OAU加盟が10年以上後になった経緯について、AとBの内外の事情に言及しつつ。400字以内
解答に向けてメモ
1)アフリカの独立
- 第二次世界大戦後英仏はもはや植民地を維持する力を失い、1956年にモロッコとチュニジアがフランスから独立し、サハラ以南では1957年にガーナがイギリスから独立するとアフリカの植民地は次々と独立を達成していった。特に1960年はいっきょに17カ国の独立が実現し「アフリカの年」と呼ばれた。
2)OAUの創設
3)モザンビークの独立
- ポルトガルは第二次世界大戦では中立を守って戦後もサラザールの独裁続き植民地支配に固執したためポルトガルの植民地では独立が遅れた。サラザールが死亡した後も独裁的政治体制が続いていたが、1974年にアフリカ植民地での民族運動の抑圧に反対する将校が政権を打倒した結果(カーネーション革命)、75年にようやくアンゴラとモザンビークが独立した。
4)ジンバブエの独立
- イギリス支配下のローデシアでは65年に白人政権が一方的に独立を宣言したが、国際的な承認が得られなかった。その後ローデシアでは黒人による解放闘争が激化した。イギリスの仲裁の結果自由選挙が行われ、80年に黒人多数派支配が実現し、国号をジンバブエ共和国と改称した。
*発展
11~19世紀に現ジンバブエで栄えたモノモタパ王国は、現モザンビーク領のソファラを拠点に、アラブ人商人と香辛料や象牙、金などの交易を行っており、中国の陶磁器やインドの綿製品も手に入れていた。難関私立大学の正誤問題で見かける話題。17世紀後半のソファラの様子。パブリックドメイン
解答例
第二次世界大戦で英仏は衰退し植民地の維持が不可能になった。戦後アフリカで民族運動が活発化し、サハラ以南では1957年のガーナを皮切りに60年には17カ国が一挙に独立した。独立した国々はすでに独立していたエチオピアなどとともにアフリカ諸国の団結と協力、植民地主義の一掃を目的にOAUを結成した。しかし大戦中に中立を守ったポルトガルはサラザールの独裁の下で戦後も植民地支配に固執し、彼の死後も独裁政権が民族運動を抑圧した。しかし74年に将校が起こした革命で独裁政権が倒れると、翌年Aはモザンビークとして独立した。イギリスの植民地であったBでは65年に白人政権が一方的に独立を宣言してローデシアと称したが、少数の白人が多数派の黒人を差別する政権は国際的な承認が得られず、黒人による解放闘争が激化した。79年にイギリスの調停で内戦は終結、総選挙の結果80年に黒人支配が実現してジンバブエとして独立した。397字
解答のポイント
解答例は、まずOAUが結成された事情を説明し、その後AとBの独立の経緯を書いた。後者は「内外の事情に言及しつつ」なので、A…内:武装闘争・外:ポルトガルの政変、B…内:白人政権と解放勢力の内戦・外:国際社会の圧力、を書いた。
実教出版の教科書がモザンビークとジンバブエの両方について比較的字数を割いているので、解答例はそれを参考にしている。
なお独立したモザンビークは社会主義を目指したので、国内の反社会主義勢力が武装闘争をはじめ、それを隣国の南アフリカ共和国が援助して内戦が勃発するが、冷戦の終結と南アフリカのアパルトヘイト終了を受けて内戦も終了した。
ローデシアや南アフリカの黒人差別政策はイギリス連邦の中で問題になり、エリザベス2世も陰で活躍したらしい。
こんなこともあろうかと特集してました。
bunbunshinrosaijki.hatenablog.com
一橋大学のⅡで戦後史かつヨーロッパ以外がメインなのは2015年以来で、Twitterでは悲鳴が上がっていた。ただしアンゴラとモザンビークの独立はセンター試験で出題されているし、最難関の私立ではこの辺の話題は出まくるので、「これは一橋には出ない」と決め打ちしないこと。
Ⅲ
設問
「帝政ロシアが中国に強制したすべての条約や搾取」の歴史的経緯を踏まえた上で、孫・ヨッフェ会談がなされた時期の両国関係の変化が中国に与えた影響について。400字以内
資料の抜粋
解答に向けてメモ
1)帝政ロシアが中国に強制したすべての条約や搾取
- 1858年のアイグン条約でアムール川以北を獲得した。
- 1860年の北京条約でウスリー川以東の地域を獲得して沿海州とした。
- 1896年に三国干渉の見返りに東清鉄道(中東鉄道)の利権を獲得した。
- 1898年には遼東半島南部を租借し、中国東北部を勢力圏とした。
- 1901年の北京議定書で北京への軍隊駐留権を得た。
- 1912年に中華民国が成立してもロシアの東清鉄道の利権は継承された。
- 1919年の第一次カラハン宣言でいったんは東清鉄道を放棄することを表明したが、方針を転換させその利権は手放さなかった。
2)カラハン宣言
- 外務人民委員代理のカラハンが1919年7月および1920年9月の2回に渡り、ソヴィエト政権の対中基本政策として発表された宣言。
- 第一次カラハン宣言は北京政府、広東政府の両政府に宛てられ、ロシア革命直後のレーニンによる宣言の趣旨を継承し、ロシア帝国が清朝と結び、中華民国が継承した北京条約などの不平等条約の即時・無条件撤廃を表明した。ただしは東清鉄道に関する権益の放棄は撤回。
- 第二次カラハン宣言が北京政府とのみ取り交わされたが、東清鉄道に関する権益の放棄はなし。
- 中国ではロシア革命の勃発で社会主義の関心が高まっていたが、この宣言でさらに社会主義への関心が高まった、これを見てコミンテルンは中国の共産主義者の組織化をはかり、1921年に中国共産党が上海で結成された。
- 宣言はモンゴル問題などでソヴィエト政権と対立する北京政府を揺さぶり、これと対抗する孫文は1923年に広東政府に返り咲き、ソ連との関係強化を図り、孫・ヨッフェ会談でソ連との提携を決定し、「連ソ。容共・扶助工農」という政策を掲げ、1924年には第一次国共合作を行った。
中国を訪れた時のヨッフェ。中国で著作権切れのためパブリックドメイン。
原典 http://www.lbsdj.com/Article/ShowArticle.asp?ArticleID=15019
3)北京政府とソヴィエト=ロシアのいざこざ
- 辛亥革命が発生すると外モンゴルはロシア帝国を後ろ盾にモンゴル最高の活仏をボグド・ハーンに推戴してボグド・ハーン政権を樹立、独立を目指すがロシア帝国が北京政府との対立を嫌ったため、結局自治領にとどまった。
- ロシア革命が発生するとボグド・ハーン政権は後ろ盾を失い一時期北京政府に占領されるが、ロシアの反革命軍(白軍)が侵入してボグド・ハーン政権を復興した。
- しかし白軍の横暴に反発した社会主義勢力がモンゴル人民党(後のモンゴル人民革命党)を結成、ソヴィエト=ロシアに援助を求め、赤軍が白軍を一掃して1921年に立憲君主国となるが、1924年に君主が死亡すると共和国(モンゴル人民共和国)になった。
解答例
1 中(北京・広東)露の関係の変化とその影響に字数を割いた場合
帝政ロシアはアイグン、北京、イリ条約で中国東北部や新疆に進出、また東清鉄道の敷設権を手に入れ、遼東半島南部を租借し東北部を勢力圏とし、北京議定書で北京への軍隊駐留権を得、辛亥革命後に外モンゴルを影響下に置いた。革命で帝政が崩壊すると北京政府は外モンゴルを占領、内戦が外モンゴルに及ぶとシベリア出兵に参加した。世界革命を支援するソヴィエト=ロシアのコミンテルンは五・四運動を見て中国の民族運動に期待し、カラハンは帝政ロシアの利権の放棄する宣言を北京政府と孫文の広東政府に発した。中国で社会主義に対する期待が高まり、コミンテルンの支援で中国共産党が発足した。これをソ連のゆさぶりと見た孫文は北京政府を打倒して国内統一するためにはソ連や共産党との提携が必要と考え、ソ連と共同声明を発して連ソ・容共・扶助工農を新方針とし、第一次国共合作を成立させた。その後ソ連の指導で国民革命軍が編成され北伐が開始された。399字
2 利権で字数を稼ぐ場合
帝政ロシアはアイグン条約でアムール川以北を、北京条約で沿海州を獲得し、イリ条約で新疆に有利な国境線を引いた。19世紀末には三国干渉の見返りに東清鉄道の敷設権を得、遼東半島南部を租借し東北部を勢力圏とし、さらに北京議定書で北京への軍隊駐屯権を得た。辛亥革命後は北京政府との協定で外モンゴルを影響下に置いた。帝政ロシアが革命で崩壊し対ソ干渉戦争が起こると、ソヴィエト=ロシアのコミンテルンは世界革命を支援し、五・四運動を見て中国の民族運動に期待した。カラハンは帝政ロシア時代の利権の放棄する宣言を発したので中国内で社会主義に対する期待が高まり、コミンテルンの支援で中国共産党が発足した。孫文は北京政府に対抗して国内を統一するにはソ連や共産党との提携が必要と考え、ソ連と共同声明を発して連ソ・容共・扶助工農を新方針とし、第一次国共合作を成立させた。その後ソ連の指導で国民革命軍が編成され北伐が開始された。399字
解答のポイント
この問題の肝は「両国関係の変化」と「中国に与えた影響」。
「関係の変化」は次のような流れ。☆提携 ★険悪
- 帝政ロシアは清朝に利権を認めさせ、北京政府にも外モンゴルの自治を認めさせた。★★
- ロシア革命が発生すると北京政府は外モンゴルを占領した。★★
- ソヴィエト=ロシアは中国での反帝国主義運動を見てカラハン宣言(第一次)を北京政府と広東政府の両方に発した。しかし東清鉄道の返還はうやむや。★☆
- 広東政府は、共産主義やソ連の制度には興味がないが、ソ連と連携することで北京政府を打倒しようとした。ソ連も中国での民族運動に期待を寄せて東清鉄道の利権返還をほのめかした。☆☆
「その結果中国に与えた影響」は、第一次国共合作、ソ連の赤軍をモデルにした国民革命軍の編成、北伐開始など中国が統一に向かったことを書く。
解答例ではソ連と北京政府の対立の例として外モンゴルをあげた。予備校の解答例では見かけないがTwitterではその話題が出ていた。
1は北京政府・広東政府・ソ連の三すくみを描いて弱小地方軍閥である広東政府の思惑が明確になることを心がけた解答例で、高校生には難しいのは承知。
2はリアル受験生向けで、ロシアの利権で字数を稼ぎ、コミンテルン→五・四運動→カラハン宣言→中国共産党→孫・ヨッフェ会談→第一次国共合作→北伐を説明した。
まとめ
- 一橋大学のⅠとⅢは出題範囲が限定されているので、その部分を教科書だけでなく参考書や一般書を使って深堀りしましょう。特にⅢは過去問の次の範囲が出ることがあります。
- 逆にⅡは何でもありなので、過去問だけでなく他大学の論述やリード文がしっかりした問題をやって運が回ってくるのを待ちましょう。
- 事件は必ず背景→契機→経過→結果→影響で整理しましょう。
- 出題者は複数の教科書を見ながら作っています。Y社の教科書が普段使いの人はもう一冊論述対策用の教科書を入手しましょう。「教科書にはこう書いてあるけれども最近は…」という世界史の先生の話をギラギラして聞きましょう。
- ヨーロッパ中世史を扱う新書をすきま時間に読みましょう