はじめに
2024年のノーベル文学賞に韓国の現代文学を代表する作家のハン・ガン(韓江)さんが選ばれました。
ハンさんは1970年に韓国の光州市に生まれ、首都ソウルの大学で文学を学びました。1993年に詩人としてキャリアをスタートし、その後、小説家としての活動を始めました。『菜食主義者』でイギリスの文学賞(ブッカー国際賞)を受賞するなどすでに世界的に知られた作家です。日本語訳も多く出ています。
『別れを告げない』は「済州島四・三事件」で負った人々の痛みを鳥など象徴的なイメージをも用いて繊細に描写しています。『少年が来る』は自身の出身地で起きた「光州事件」をテーマにしています。
学校図書館に『別れを告げない』が入荷したので読みました。司書さん仕事早い!
韓半島(朝鮮半島)とマンチュリアの文化史をまとめていたので、本日はハン・ガンさん受賞記念?で、韓半島の第二次世界大戦後のうち小説の題材となった済州島四・三事件から光州事件前後の大韓民国の歴史を振り返ります。2025年は1965年に締結された日韓基本条約60周年でもあります。
と書いていたら韓国で大変なことが起きています。NHKより
前回
bunbunshinrosaijki.hatenablog.com
世界史探究の教科書、山川出版社『詳説世界史研究』『世界各国史』、放送大学『韓国朝鮮の歴史と文化』、六反田豊監修『一冊でわかる韓国史』を参考にしています。
目次
1 終戦直後の朝鮮半島
1945年8月15日 朝鮮建国準備委員会設立
9月 全国人民代表者大会で朝鮮人民共和国の設立宣言→米ソは承認せず
単独選挙に反対する済州島の住民を警備隊や警察が弾圧(済州島四・三事件)
北:ソウルで朝鮮労働党が再建 金日成を中心とする北部朝鮮分局を設置
1948年8月 南:大韓民国 大統領 [1 ] 首都:ソウル
1948年9月 北:朝鮮民主主義人民共和国 首相[2 ]首都:ピョンヤン
空欄
1 李承晩
2 金日成
補足
①南北の分断~統一への模索
朝鮮総督府は日本政府のポツダム宣言受諾の意向を知ると、降伏後の秩序維持のために民族運動家と連絡を取り、治安維持と日本人の生命・財産の確保に対する協力を要請しました。これに対し呂運亨は政治犯の釈放等の条件付きで応じ、8月15日に呂を委員長に保守派、民族主義者、社会主義者などを含む「朝鮮建国準備委員会」が発足しました。
まあ植民地支配をしてきた総督府からすれば立場が180度変わるわけで、ヤバい状態です。
一方米ソ間では北緯38度線での分割占領が確認され、北ではソ連軍が8月中に日本軍の武装解除をはじめ、南では9月にアメリカ軍政庁が発足しました。これに対して建国準備委員会は全国人民代表者大会を開き、朝鮮人民共和国の樹立を宣言しましたが、米ソが承認せず、南は米軍政庁が行政を担い、北はソ連が人民委員会を指導する形をとりました。
その後南ではアメリカから帰国した李承晩が保守派との連携を深め、北では金日成を中心に朝鮮労働党の北部朝鮮分局が設置されました。
1945年末から翌年にかけて米・ソ・英・中が朝鮮半島を5年間信託統治する案が提示されましたが国内世論が分裂、独立国家の建設を準備するための米ソ共同委員会でも米ソが対立し、信託統治案は頓挫しました。朝鮮労働党の活動も南部ではアメリカによって弾圧され、次第に統一国家建設は難しくなってきました。
②単独政権と済州島四・三事件
ヨーロッパで米ソ冷戦がはじまると朝鮮半島にもその影響が及び、南北それぞれで単独政権樹立の動きが現れました。
日本の統治時代、北部は鉱山開発(前回参照)、南部は農業と産業政策に偏りがありました。植民地支配ではありがちです。北で金日成を委員長とする人民委員会が発足すると土地改革や日本人資産の国有化を行い、一方産業基盤の弱い南はインフレと食糧難に悩まされ、日本や南満州からの引揚者、北の土地改革で追われた地主層の移住がそれに拍車をかけました。
こうした中でアメリカの軍政に対する批判が強まり、労働組合や農民組合の活動が活発化し、各地でストライキやデモが発生しました。アメリカが彼らを弾圧する中、1947年に再度米ソ共同委員会が行われましたが決裂、同年国連は南朝鮮での単独選挙を提案し、翌年可決されました。
李承晩ら保守派はアメリカに接近し単独政権の樹立を主張していましたが、かつて李承晩と大韓民国臨時政府を設立した金九らは単独政権に反対、南朝鮮労働党を中心に各地で単独政権反対闘争が行われました。
済州島でも米軍政が左派の弾圧を繰り返していましたが、1946年4月3日、単独選挙実施に反対する島民が警察や右翼団体を攻撃しました。米軍政は南朝鮮国防警備隊や警官、右翼青年団体を投入して住民を弾圧しました。この衝突で2万5千人から3万人が犠牲になったとされています。
慰霊碑 パブリックドメインの画像
1948年5月に国連監視下で、済州島を除く南朝鮮で単独選挙が行われ(済州島は翌年実施)、8月15日に李承晩を大統領とする大韓民国(以下韓国)が成立しました。一方北でも単独政権の動きが現れ、1948年に9月に新憲法が公布され、金日成を首相とする朝鮮民主主義人民共和国(以下北朝鮮)の樹立が宣言されました。
この結果1948年末にはソ連が、翌年にはアメリカが軍を撤退させました。
2 朝鮮戦争(1950~53)
開戦
1950年6月:東西冷戦の深まりを背景に、北側からの侵攻で勃発
経過
北側の優勢→(3 )出動(実態は米軍)→中国が(4 )を派遣
結果
1953年:(5 )で休戦協定成立
停戦ライン:北緯(6 )度線
空欄
補足
③朝鮮戦争
朝鮮特需や警察予備隊の話
日本ニュース。済州島の暴動を「ゲリラ」と言い切っているのがいかにも当時の視点。
建国後も北緯38度線沿いで両政府の小競り合いが続いていました。南北両政府は武力による半島の統一を意図するようになり、李承晩や金日成はそれぞれ米ソに支持を要請しましたが拒否されました。その間北朝鮮はソ連・中国との軍事協定に基づき軍事力を強化する一方、韓国は米軍撤退後は軍事力が低下していました。
1950年の4月から5月にかけて金日成はモスクワと北京を訪れ、スターリンと毛沢東から南進計画の同意を得ました。同年6月25日に北朝鮮軍の南進により朝鮮戦争がはじまりました。トルーマン大統領は国連安全保障理事会の招集を要求しますが、その間に北側はソウルを占領、9月までに釜山や大邸を除く韓国全土を占領しました。
7月7日に国連安保理は北朝鮮弾劾・武力制裁決議に基づき韓国を防衛するため、「国連軍」派遣とアメリカにその司令官を要請する決議を行いました。
*常任理事国のソ連は中国の代表権問題で安保理をボイコットしていました。この「国連軍」は国連憲章第7条による国連軍ではなく、アメリカを中心とする多国籍軍ですが、国際連合の決議に基づきその名称や国連旗の使用が認められています。朝鮮戦争は「停戦中」なので。現在も横田飛行場に後方司令部が存在します。
国連軍は9月15日に仁川に上陸、同28日にソウルを奪回すると10月20日には平壌を占領、中華人民共和国との国境に当たる鴨緑江地域まで北上しました。
中華人民共和国は北朝鮮との取り決めで義勇兵からなる「中国人民志願軍」(人民解放軍だとアメリカと戦争をすることになるので「正規軍ではない」という建前)を派遣して平壌を奪回、さらにソウルを占領するも国連軍が再奪回、その後戦局は北緯38度線を挟んで膠着状態になりました。
アメリカの公務員が作った地図なのでパブリックドメイン。番号は時系列でぶんぶんが書き足しました。
1951年から米ソ間で停戦に向けた動きが始まり、戦闘が継続する中で休戦交渉の予備会談が進められ、1953年7月27日に国連軍主席代表と北朝鮮首席代表の間で停戦協定が成立しました。李承晩はこの停戦協定を不服として調印式に参加しませんでした。
板門店の様子
停戦協定により軍事境界線の南北2キロメートルに非武装地帯(DMZ)が設けられ、スイス、スウェーデン、チェコスロバキア、ポーランドからなる中立国停戦監視委員会が置かれました。
朝鮮戦争では南北両軍、国連軍及び人民志願軍に多数の戦死者が出ただけでなく、市民の犠牲は150万から300万と見積もられています。
非武装地帯をめぐるサスペンスは『シュリ』が有名です。最近だとこれ。ヒロインはスイス籍の調査官という設定。
3 大韓民国
李承晩…学生や市民のデモで退陣(1960) 第二共和国
[7 ]:軍部のクーデタを指導(1961)→大統領就任(1963)
(8 )締結(1965)
日本が韓国を唯一の合法政府と認める 日本の経済協力(借款)
ベトナム戦争に派兵…米の経済援助、韓国企業のベトナム進出→特需発生
1970年代、インフラの整備など工業化がすすむ(漢江の奇跡)アジアNIEs
→都市部への人口流出 セマウル運動…農業生産力の向上
憲法改正(1969)戒厳令(1972)金大中事件(1973)
政府内部の高官により暗殺(1979)
[9 ]…クーデタで軍の実権を握る(1979)
1980年 (10 )事件:軍部が民主化要求を弾圧
大統領に就任も市民のデモが頻発→民主化が徐々に進行
1987年 全国規模で大規模なデモが発生(六月民主化闘争)
→大統領の権限を縮小した新憲法の制定(第五共和国)
[11 ]…1988年:選挙で大統領に選出
1988年:IMF8条国 1989年:GATT11条国…開発途上国から脱却
1990年:ソ連と国交樹立,1992年:中国と国交樹立
1991年:国際連合に南北同時加盟
金泳三…大統領就任(1993)33年ぶりの文民政権
1997年:アジア通貨危機 ウォンの暴落 IMFの金融資金支援要請
[22 ]…大統領就任(1998)
太陽政策 南北首脳会談(2000)
空欄
7 朴正煕
8 日韓基本条約
9 全斗煥
10 光州
11 慮泰愚
12 金大中
補足
④四捨五入で憲法改正?
朝鮮戦争後、北では朝鮮労働党の一党支配が確立し、政敵を粛清した金日成が独裁体制を築きました。南でも李承晩がレッドバージを行い、独裁体制を確立しました。
選挙妨害をしたにも関わらず戦争前の選挙で大敗した李承晩は、大統領を国民の直接選挙とする憲法改正案を1952年に戒厳令を敷いて可決しました。さらに1954年には大統領の再選禁止規定を撤廃する改正案を提出、採決では改憲票数に一票足りませんでしたが(203議席のうち135票)、全議席の3分の2(153.3票)の小数点以下は四捨五入で切り捨てられるとして改憲案を強引に可決しました。(+_+)
李承晩は1956年の選挙で投票箱の入れ替えなどを行い大統領に再選、1960年の大統領選挙でも同様の不正が行われましたが、これに対して市民のデモが発生、首相官邸を取り囲んだ学生に警官隊が発砲して多数の死傷者が出るとデモは全国に拡大しました。市民は李承晩の退陣を要求し、国会でも満場一致で大統領の辞任が決議され、4月19日に李承晩は大統領を辞任しました(四・一九革命)。
この間李承晩は地主から土地を買い上げ小作農に売却する土地改革を行いました。政府は地主がこの資金で旧日本人資産を買い取り、産業資本家に転身することを狙っていましたが、インフレの進行で期待通りにはならず、結局旧日本人資産は実質価格よりも安い価格で植民地時代の官吏や米軍軍政関係者など縁故者に優先的に払い下げられました。彼らが後の財閥です。
一方小作人は土地を手に入れたものの米軍が余剰農産物を援助物資として韓国に送ったため農産物価格は下落し、生活に困った農民は離農して工場労働者(アメリカの援助で発達した「三白工業」と呼ばれる製粉業・聖糖業・綿紡績業)に吸収されました。
*発展 李承晩ライン
外務省のHPの図を加工。
出典
日本で「国境」という概念が明確にされるのは明治政府からです。
竹島は無人島でしたが、日本人漁民の進出が見られたことから、日露戦争中に閣議決定で島根県に編入されました。つまり戦争の結果の講和条約で割譲されたのではないため、「サンフランシスコ平和条約で放棄の対象になっていない」というのが政府の見解です(ただし平和条約の文言では朝鮮の範囲はざっくりしている)。
第二章 領域 第二条
(a) 日本国は、朝鮮の独立を承認して、済州島、巨文島及び欝陵島を含む朝鮮に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。
1952年1月に李承晩は「海洋主権宣言」を行い,いわゆる「李承晩ライン」と呼ばれる領海水域を設定し、「韓国の領海内に入った」として日本の漁船を次々に拿捕しました。このラインを基準に竹島も韓国領に入る(日露戦争のどさくさで編入したから放棄の対象)と主張しました。
これに対して日本の外務省はHPで「竹島は日本固有の領土」であり「国際法に反して一方的に設定し,同ラインの内側の広大な水域への漁業管轄権を一方的に主張し,そのライン内に竹島を取り込んだ」と抗議しています。
政府は竹島の帰属について国際司法裁判所(ICJ)への付託を数度提案しましたが、韓国側が拒否をしています(双方が同意しないと処理できない)。
⑤朴正煕と開発独裁
1965年の訪米時、ジョンソン大統領と。米国議会図書館のUS News & World Reportコレクションより。
朴正煕は満州の陸軍軍官学校を卒業後に士官学校を経て1944年9月に満洲国軍少尉に任官しました。第二次世界大戦後に大韓民国臨時政府に加わり、南北分離時は南部の大韓民国を支持して国防警備隊(のちに大韓民国国軍)に加わりました。
李承晩退陣後、張勉を国務総理とする政権は適切な対応ができず,1961年5 月16日に朴正熙や金鐘泌らが軍事クーデタをおこしました。その後形式的には民政に移管しますが、朴正熙は憲法を改正して大統領の権限を強化し、民主共和党の代表として大統領に当選し、1962年からおよそ18年間政権を掌握しました。
*朴正熙は軍人出身ですが形式上は文民大統領、その次の文民大統領が金泳三というのは大学入試で問われるところ。
韓国はここまでアメリカ合衆国の経済援助に依存していましたが、朴正煕は経済の自立を目指します。まず基本通貨として李承晩時代の「ファン」に代えて「ウォン」を発行しますがインフレが発生し、10ファン=1ウォンとするデノミを行いましたが、インフレはなかなか抑制できませんでした。
そこで朴正煕は日本からの経済援助を引き出そうと日本との国交回復を模索しました。しかしこれに対して各地で激しい反対運動が起こり、朴正煕は戒厳令を発してそれを抑え込みます。
1965年6月22日に「日韓基本条約」が締結され、日本が韓国を朝鮮半島の正統な政権と認めること、無償経済協力3億ドル、政府借款2億ドル、商業借款3億ドル、在日韓国人の日本での永住権を認めることが盛り込まれました。
調印の様子 NHK for school
*日本はこの条約をもって朝鮮半島(北側を含む)戦後補償は終了したという立場です。一方韓国の裁判所は「それは国家間の話で民間人の賠償請求は可能」という立場で、元徴用工や元朝鮮女子勤労挺身隊員らの損害賠償訴訟では日本企業に賠償支払いを命じる判決が出されています。
またアメリカ合衆国から要請を受け、1964年からはベトナム戦争に参加します。兵士以外にも技術者や労働者が派遣され「ベトナム特需」(約10億ドル以上)発生します。この日米から得た外貨を財源に各地で工業化が進み、さらに1971年からは農村の近代化(セマウル運動)も始まります。
この1960年代から始まった韓国の高度成長は後に「漢江の奇跡」とも呼ばれます。
漢江(ハンガン)の夜景 ソウル市公式
このように朴正熙は反共(北朝鮮との対決姿勢、労働運動の取り締まり、ベトナム戦争への参加)と日米の援助による経済発展を背景に独裁を強めます。憲法を改正して大統領の任期を延長し、また1972年10月に突如戒厳令を発して各種の改革を実行しました(十月維新)。いわゆる「第四共和国」です。
しかしこの間野党の政治家である金大中が国内民主化や南北対話を訴え続け,1971年の大統領選挙では朴正熙の得票に迫りました。その後も朴政権批判を展開した金大中に対して、朴正煕は1973年8月にKCIAを動かして日本滞在中の金大中をホテルから拉致します(金大中事件)。アメリカ合衆国の介入で金大中は一命をとりとめますが、1974年に朴正煕の暗殺未遂事件が起こると(この時死亡した朴正煕の妻の子が朴槿恵)、反対運動の取り締まりを強化しました。
これら事件を契機に国民の広範な層が民主化運動をおこしました。1970年以降は下層労働者の不満が表面化するようになり,自主的労組の結成や労働争議が活発化しました。キリスト教会も民主化運動の中で常に大きな役割を果たしました。
1979年10月,大統領退陣要求が高まる中で,朴正熙大統領暗殺事件が起こり,全斗煥らの軍人グループが実権を握ることになりました。
⑥光州事件と全斗煥
一橋大学2022年 第三問 1979年から1980年までの韓国における政治の動向
1979年の朴正煕暗殺後、済州島を除く全土で非常戒厳令が敷か崔圭夏が代行を務めます(のちに正式に大統領に就任)、翌年1月には憲法改正発議と国民投票が行われ、朴政権時代に弾圧された金大中らの公民権が回復し、翌年には「ソウルの春」と呼ばれる民主化要求が盛り上がりました。野党を指導する金泳三・金大中や、軍部出身の金鍾泌らの野党政治家(いわゆる「三金」)の活動も活発化しました。
しかしその裏で1979年12月12日に暗殺犯の逮捕にあたった全斗煥らの勢力が軍上層部を逮捕するクーデタをおこし軍の実権を掌握しました。
保安司令官と中央情報部長を兼任した全斗煥は1980年5月17日、非常戒厳令の拡大を発し、朴政権下の要人や「三金」を逮捕・軟禁し、政治活動の禁止、言論・集会等の規制、大学の休校など布告しました。
翌5月18日全斗煥は民主化運動の拠点となっていた全羅南道光州市(金大中の地盤)に空挺部隊を送り、一斉射撃などで学生・市民のデモを鎮圧しました。
光州市によると、10日間続いた市民らと軍の衝突による死者・行方不明者は242人にのぼるそうですが、正確な死者数や誰が発砲を指示したのかなど現在でも不明な点が多いそうです。
その後全斗煥は大統領に就任し、1981年から第五共和国がスタートしました。金大中は光州事件を首謀したとして内乱陰謀などの罪で逮捕され、死刑判決を言い渡されました(1982年に無期懲役に減刑され、さらに米国への出国を条件に刑の執行が停止されました)。
全斗煥は既存政党に解散を命じ、マスメディアの統廃合を行うなど言論界に対する規制を強化しました。しかし1981年に非常戒厳令を解除し、1983年からは社会運動に対する規制を緩めたため、民主化運動が再燃しました。新しい政党もこの時期に誕生し、1980年代半ばから野党政治家の活動も活発化しました。
1987年6月10日に全国規模で大規模なデモが発生し(六月民主化闘争)、一族の不正蓄財で窮地に立たされていた全斗煥は大統領の公選制(これまでは統一主体国民会議で選出)、言論の自由を保障などを盛り込んだ「六・二九民主化宣言」を発表し、大統領の権限を縮小した(任期の短縮、再選禁止、国会解散権の廃止)新憲法が制定されました。これが韓国の現在の憲法です。
*発展 韓国の大統領はやめると逮捕される?
全斗煥と盧泰愚は政敵であった金泳三大統領の時代に1979年12月12日の軍事クーデター関与、1980年光州事件の武力制圧、裏金で訴追され、懲役刑と追徴金を課されました(後に特赦で釈放)。盧武鉉も裏金疑惑で検察に召喚されるものの自殺、李明博も裏金で服役(2022年に特赦で釈放)、朴槿恵は在任中に逮捕されました(収監中に体調を壊して入院、2021年に特赦で釈放)。
前大統領の悪事を明らかにして現大統領の政権基盤を強化することが狙いと考えられますが、隠蔽するよりはずっとましなので日本でも政権交代の折には前政権の腐敗を白日の下にさらしてほしいものです。
なお前大統領の文在寅は2023年に故郷で本屋を開業してセカンドキャリアを送っています。彼にも検察の手が及ぶ日が来るのでしょうか。
朝日新聞 読書好日より
まとめ
韓国の歴史を紐解くと、反共主義を旗印にした大統領の強権的な政治、戒厳令と軍隊による市民の弾圧、それに抵抗して民主主義を希求する市民の粘り強い戦いが繰り返されてきたことがわかります。
今私たちはまさに「歴史の現場」に立ち会っているのかもしれません。
受験生は世界で起こっていることに常に注意を払い、それと今やるべき勉強とをリンクさせながら学習を深めてほしいです。ラストスパートを応援しています。