ぶんぶんの進路歳時記

学習方法、進路選択、世界史の話題について綴ります

国公立・私立大学世界史直前チェック(アフガニスタン)

はじめに

 アフガニスタンから米軍が撤退し、住民が国外脱出をしようと輸送機にしがみつく様子をニュースで観ましたが、南ベトナムが崩壊した時と同じです。


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 さらに国際空港で爆発がありました。亡くなられた方のご冥福と、お怪我をされた方の一刻も早いご回復をお祈りします。

 世界史の教科書では、アフガニスタンについては断片的に記載されています。今回はそれをまとめてみました。

 教科書(実教出版帝国書院、東京書籍、山川出版社)、資料集(帝国書院、浜島書店)、山川出版社の『詳説世界史研究』『世界近現代全史』『世界各国史 西アジア史Ⅱ』を参考にしています。 

 地図・写真は断りがない限りウィキメディアコモンズパブリックドメインのものを使用しています。

参考図書 

 これも

  目次

 

 1 アフガニスタンの位置

こちらの無料地図をお借りしています。

www.freemap.jp

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アフガニスタンの州と州都 ウィキメディアコモンズパブリックドメイン

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 ニュースでよく出てきて世界史にも登場する地名はカーブル(新聞では「カブール」が一般的)、ヘラートカンダハールで、ガズニーは王朝の名前になっています。

 

2 イスラーム以前のアフガニスタン地域

ガンダーラ王国

 現在のアフガニスタン東部~パキスタン北西部 インド16王国のひとつ

 前6世紀 アケメネス朝の支配下に入る

 前4世紀 アレクサンドロス大王の侵攻

[1       ]王国 ギリシア

 前3世紀 セレウコス朝から自立 カーブルを中心に繁栄 マウリヤ朝と争う

 前2世紀 分裂 独立政権

 メナンドロス1世(ミリンダ王)仏教保護

 バクトリア崩壊後は政治的統一がない時代が続く

クシャーナ朝

 イラン系シャカ族 後1世紀 北インド支配

 2世紀 カニシカ王 パルティアと争う 仏教美術(2     )美術

ササン朝

 5世紀 (3       )の石仏建造(~6世紀) エフタルの侵入

 7世紀 イスラーム勢力に敗北

補足

① アフガニスタンの自然環境

 現在のアフガニスタンの国土面積は約65万平方キロメートル(日本の約1.7倍)で、パキスタン、イラン、タジキスタントルクメニスタンウズベキスタンさらに中国と国境を接する、人口約2000万人の内陸国です。

 地形的には南部は砂漠、北部や南西部には平野がありますが国土の4分の3は東部、中部、北部はヒンドゥークシュ山脈に連なる山岳地帯です。

 国土の大半は乾燥していますが、ヒンドゥークシュの中心山系から三つの川が流れていて、それらを利用して人々は平地や峡谷で農業や牧畜を営んでいます。

 このように人々は居住可能な地域に分散し、部族を形成して生活しています。そのためいわゆる「四大文明」のような広域政権が成り立ちにくい、仮に外部から侵略者が来ても完全に住民を支配することが難しい環境です。

② ギリシャ文化と仏教

 メナンドロス1世は前2世紀、ギリシャ人によるヘレニズム系王朝(インド・グリーク朝)の国王で、仏典では「ミリンダ王」の名前で登場します。

メナンドロス1世のコイン

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 この人

 バーミヤンの石仏 偶像崇拝を否定するムスリムに顔を削がれたのですが、さらにターリバーン政権時代に木っ端みじんにされました。

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3 イスラームアフガニスタン地域

正統カリフウマイヤ朝時代:イラン~ソグディアナにアラブ人進出

 現地のイスラーム化進む (4      )(改宗した非アラブ人)

 ホラーサーンのマワーリー、アッバース革命に協力 

アッバース朝衰退→地方に軍事政権

 ヘラートなど西部はホラーサンを拠点とするターヒル朝

 東部はブハラを拠点とするイラン系(5      )朝

10世紀 (6     )朝 スンナ派

 アルプテギーン(サーマーン朝のマムルーク)がガズニーで自立

 カーブルやインダス川方面に勢力を伸ばす

 さらにアフガニスタン全土を支配し、北インド侵入

12世紀 (7     )朝

 ヘラート東の山岳地帯ゴール地方のイラン系

 カンダハール付近でガズナ朝を破る

 セルジューク朝から自立、ホラズム=シャー朝、カラ=キタイと争う

 ゴール朝衰退後はトルコ系(8        )朝が台頭

13世紀 モンゴルの時代

 チンギス=ハン、ホラズム=シャー朝を滅ぼす

 イル=ハン国の支配

14世紀 ティムール朝 

 サマルカンドを首都にイラン~中央アジアを支配 

 15世紀後半 サマルカンドとヘラートの2政権に分裂

 16世紀 (9      )人の攻撃で解体

 →シャイバーニー=ハン、ヘラートを征服

15世紀後半~16世紀前半 (10     )朝

 アフガン系、デリーを支配 

16世紀 サファヴィー朝 アフガニスタン西部を支配

[11     ]:ティムールの子孫、カーブルを首都として自立

 サファヴィー朝やシャイバーニー=ハンと戦う

 ロディー朝を打倒し、デリーを都にムガル朝を築く

補足 

① ホラーサーン地方

 ホラーサーンはイランの東北部からアフガニスタントルクメニスタンにかけての一帯を差します。正統カリフ時代末期にアラブ人が進出し、イスラームが広まります。

 しかしマワーリーはウマイヤ朝のもとで税制その他で不平等な扱いを受けたので次第に不満を強め、アッバース朝の反ウマイヤ朝革命に協力します。

8世紀 アッバース朝の領域。カーブル、カンダハールなどの地名が確認できます。

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 ホラーサーン東部の都市ヘラートはモンゴルの遠征で壊滅しますがのちに再建され、ティムール朝第3代シャー=ルフのときに都とされ、15世紀のトルコ=イスラーム文化の中心地のひとつになりました。

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② モンゴル

 「モンゴル」は民族ではなく、チンギス=ハンの家系に忠誠を誓い政治・軍事に参加する集団はすべて「モンゴル」というスタンスです。

 イル=ハン国(フレグ=ウルス)は夏と冬の遊牧地でクリルタイを招集し、終了後の大宴会で参集した諸部族の首領をもてなしたそうです。点在する諸勢力の利害関係をいかに調整するかが、ハンにとってこの地を支配する鍵だったようです。

 現在アフガニスタンに住むハザラ人(人口では第3位、シーア派が多数)はモンゴル人の血を受け継いでいるとされています。


4 アフガン人(パシュトゥーン人)の自立

1722年 アフガン人がサファヴィー朝の首都(12      )を攻撃

1736年 ナーディル=シャーアフシャール朝建国

1747年 アフガン人がドゥッラーニー朝を建国

 都:カンダハール→カーブル

19世紀 ロシアがカフカース中央アジアに本格的に進出

 インドを押さえるイギリスとロシアが対立(グレート・ゲーム

1838~42 第一次(13      )戦争

 イギリス、アフガニスタンへの進出を試みるが失敗

1878~80 第二次アフガン戦争

 イギリス、アフガニスタン保護国

 1893年 アフガニスタンと英領インドの国境策定 英露の緩衝国

1919年 第三次アフガン戦争

 第一次世界大戦によるイギリスの疲弊に乗じて英領インドを攻撃

 アフガニスタン王国として完全独立

 →急速な近代化は部族勢力の反発を招き、国王は亡命

補足

① 「アフガニスタン」というまとまり

 アフガニスタンサファヴィー朝ムガル帝国ウズベク人勢力が三つ巴で争う地域で、特にカンダハールサファヴィー朝ムガル帝国が争う最前線でした。

 そうしたの争いの中で「パシュトゥン人」(アフガン人はペルシア語)意識が芽生えます。

 サファヴィー朝の支配が緩むと各地の部族が反乱を起こします。カンダハールでアフガン系ガルザイ部族が暴動を起こして当地を占領すると、二代目マフムードが1721年にイスファハーンに進撃、包囲戦の末翌年イスファハーンは陥落、その後サファヴィー朝撤退時の略奪で「世界の半分」と称された都は壊滅します。

 この混乱の中でホラーサーンを地盤とするナーディル=シャーがアフガン族やオスマン軍を破り、アフシャール朝を開きます。しかし彼が死ぬと支配地は分裂、武将のひとりがカンダハールで自立し、ドゥッラーニー朝を建てます。

 これが現在にまで続く国家としてのアフガニスタンの原型で、19世紀に現在のイランとアゼルバイジャンを合わせた地域にカージャール朝が起こり、現行の「国民国家体制」の領域に引き継がれます。

 なおカージャール朝はヘラートの領有を主張してアフガニスタンに侵攻しますがイギリスが干渉、ホラーサーンはイランとアフガニスタンで分割されます。

② 複雑な部族社会

 アフガニスタンは宗教的にはドゥッラーニー朝のもとで山岳民がイスラームに改宗が進みます。その結果、少数の仏教徒ユダヤ教徒シク教徒を除く住民はムスリムで、80%以上はスンナ派です。

 一方民族的には極めて多様で、そのうち多数派(約4割)がアフガン人(パシュトゥン人)で、そのほかにタジク人、ハザラ人、ウズベク人などが住んでいます。

 パシュトゥン人は基本的にザーイー(~の生まれ)と呼ばれる多くの部族(カウム)に分かれ、それぞれがさらにその下位集団から構成される分節社会です。

 現在のアフガニスタン国内を主たる居住圏とするのがドゥッラーニーとギルザーイーと呼ばれる部族連合で、残りはパキスタン領内を生活圏にしています。

 「グレート・ゲーム」の結果、アフガニスタンは「緩衝国」と位置付けられ、1893年アフガニスタンとイギリスで国境が定められ(デュアランド・ライン)、パシュトゥン人の三分の一が現パキスタンに所属することになりました。

 ソ連アフガニスタン侵攻でパキスタン側に難民が殺到したこと、難民キャンプのパシュトゥン人がターリバーンを結成した背景といえます。

③ 「グレート・ゲーム」とアフガン戦争

 ロシアは19世紀前半にはカフカースに進出し、カージャール朝から東アルメニアを奪いましたが(トルコマンチャーイ条約)、クリミア戦争敗北後(1856年)は南下政策の比重を中央アジア方面に移します。

 1865年にはタシケントを征服、68年にはブハラ=ハン国、73年にはヒヴァ=ハン国を保護領とし、76年委はコーカンド=ハン国を併合します。

 インドの確保を至上課題とするイギリスは、イランから東西トルキスタンチベットに至る地域でロシアと勢力圏抗争、いわゆる「グレート・ゲーム」を繰り広げます。

 イギリスはアフガニスタンのアミールがロシアの使節を受け入れたことに反発して出兵しますが(第一次アフガン戦争)大敗北を喫します。

 1878年にイギリスは再度出兵しますがまたも敗北(第二次アフガン戦争 ワトソン博士が従軍し、チフスで生死の境をさまよう)、イギリスはアフガニスタンを直接支配することをあきらめ外交権の保持(保護国化)に方針転換します。

 この中でアフガニスタンではアミールがイスラームで自らを権威付けながら、イギリスの支援で近代軍の創設、産業の育成、教育の近代化など集権国家化を目指します。

 1919年にアマーヌッラー=ハーンは第一次世界大戦でのイギリスの疲弊とインドの混乱に乗じてイギリスに対するジハードを宣言(第三次アフガン戦争)、アフガニスタン王国として独立します。

 1923年に彼はイスラームを国教とする立憲君主制を規定する憲法が発布しますが、ケマル=パシャやレザー=ハーンの影響を受けて世俗化政策に舵を切ります。

 しかし性急な改革に対して伝統的な部族集団が反発、アマーヌッラー=ハーンは退位しイタリアに亡命し、そこで没します。

 その後国内政治は安定し、第二次世界大戦では中立を宣言、東西冷戦の期間は米ソと等距離外交を展開します。 

 

5 冷戦とポスト冷戦のアフガニスタン

① ソ連アフガニスタン侵攻

1973年 クーデターで共和制

1978年 アフガニスタン人民民主党の政権

 急激な社会主義政策 ムスリムを弾圧→武装勢力の蜂起

1979年 ソ連軍が軍事介入。(14      )書記長

 親米のアミンを殺害し、人民民主党の新政権を樹立

(15         )(抵抗戦士)の武装闘争

CIAが隣国(16       )経由でムジャヒディンを支援

サウジアラビアら親米アラブ国も支援

20万人の義勇兵の中にウサーマ・ビン・ラーディンも参加

1989年 ソ連アフガニスタンから完全撤退

 

② アフガニスタン内戦 1989年~2001年

ソ連撤退後、人民民主党(ナジブラ大統領)とムジャヒディンの争い

1992年 ナジブラ政権崩壊 アフガニスタンイスラム国政府

 内戦による無政府状態 軍閥の割拠 

1996年 (17       )がカーブルを占拠 政権掌握

 政府側勢力「北部同盟」を結成して抵抗

ターリバーン政権…イスラームを根拠に厳格な規制

 女性の自由を制限 社会の西洋化の禁止 暴力行為

(18        )…豊富な資金でターリバーンを援助

 アフガニスタン国内にテロリスト訓練キャンプを建設

1998年 ケニアタンザニアアメリカ大使館が爆破される

 米、ターリバーンにアルカーイダの引き渡しを求めるも拒否

 1999年 米クリントン大統領、訓練キャンプを巡航ミサイルで攻撃

 

③ アフガニスタン紛争 2001~

2001年 アメリ同時多発テロ

 アルカーイダの[19            ]が首謀者とされる

 米[20    ]大統領、ターリバーンにビン・ラーディンの引き渡し要求

 米、アフガニスタンに侵攻 ターリバーンを政権から追放

 元国王派のハーミド・カルザイが暫定行政機構議長に就任

 国連安全保障理事会、新政権を支援するためにISAFを設立

 →しかし政権では腐敗が進行

2003年 ターリバーンの反撃 内戦激化

2011年 アメリカ軍がパキスタンでビン・ラーディンを殺害

2014年 NATOISAFの戦闘活動を正式に終了

2020年 米国とターリバーン、ドーハで条件付和平協定に署名

 米軍は14カ月以内にアフガニスタンから撤退

2021年 ターリバーン、カーブルに入る

 補足

① ソ連アフガニスタン侵攻

 アフガニスタン人民民主党(PDPA)は「ソ連モデル」の社会主義政策(土地改革、開発計画)を性急に実施しようとして地主や農民の反発を招き、またイスラーム寺院や聖職者を反革命と決めつけて弾圧したため、イスラームゲリラがパキスタンの基地から国境を越え、アフガニスタンでゲリラ活動を行いました。

 ソ連イスラーム勢力の背後に米国の存在があると考え、さらにPDPAの指導者タラ
キを排除して政権についたアミンは、ソ連への不信から米国との接近をはかろうとしました。アフガニスタンでの反革命勢力の台頭とアミン政権の米国接近を阻止するためにソ連は軍事介入という強行手段に出たと考えられます。

 1970年代はいわゆる「デタント」(緊張緩和)の時代でしたが、米ソとも自分の縄張りに「火種」を抱えていました。互いに「そろそろ自陣営の締め付け」の時期で、ソ連アフガニスタンで妥協するわけにはいきません。

 そうした中でのアフガニスタン侵攻だったと考えられますが、結果的にこれが80年代の「新冷戦」とアフガニスタンの混迷の幕開けになりました。

参考

 金成浩「ソ連アフガニスタン侵攻 : 対外政策決定の分析」https://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/5246/1/KJ00000113405.pdf

 それを見たアメリカ合衆国は「アフガニスタンソ連ベトナムにする」とばかりにアフガニスタンを支援します。その過程で後に「アル・カーイダ」を率いるウサーマ・ビン・ラーディンを育てる結果になってしまいます。

同時多発テロの様子

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② ターリバーン

 ソ連撤退後に人民民主党(ナジブラ政権)とムジャヒディンの争いが激化し、1992年にムジャヒディン側が勝利しますが元々は寄り合い所帯、すぐさま派閥争いになります。その結果アフガニスタン無政府状態になり、各地で軍閥が割拠し、略奪・暴行をほしいままにしていました。

 ターリバーンは「マドラサの生徒」を意味する「ターリブ」の複数形です。

 ソ連アフガニスタン侵攻でアフガニスタンから約20万人が難民となり、その多くがパキスタンに逃れ難民キャンプで生活していました。

 ターリバーンのメンバーはこのパキスタンの難民キャンプで育ったパシュトゥン人の青年で、この地の神学校でイスラームに傾倒しました。

 1994年7月、南部の古都カンダハールに忽然と現れて地元の武装勢力を排除、翌年には西部のヘラートを押さえ、96年には首都カーブルを占拠し、2000年までには国土のほぼ90%を支配しました。

1996年時点のアフガニスタン。赤の部分が政府軍(マスード軍)、緑の部分がドスタム軍、黄色の部分がターリバーンの支配地域。クリエイティブ・コモンズ 表示-継承 3.0 非移植 Rangeley さん提供

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 武装勢力の掃討にはある程度成功したものの、神学校出身のタリバーンは杓子定規なイスラーム解釈で住民を統治しようとします。

 女性の就業・就学、行動の自由を制限し、社会の西洋化も禁じ、男性には民族衣装着用と 30 センチのあごひげを蓄えることを命じ、ラジオ・テレビでの音楽、芸術鑑賞、スポーツを禁止します。

 また男女を問わず規則を破るものへの殴打、鞭打ちは公開の場で行われ(いわゆる「ハッド刑」)、窃盗、殺人なども重罪(公開処刑)に処せられました。こうした恐怖政治や女性の権利侵害は国内外から強い批判を受けます。

クロムウェルキリスト教にもとづく厳格な政治を標榜するものの、ジェントリや商人の利害は実現しても社会の不平等は改善せず、闘鶏や「熊いじめ」など民衆の娯楽を規制してお茶を濁していました。

参考 内閣府男女共同参画局  

https://www.gender.go.jp/kaigi/kento/afgan/houkoku/pdf/haf01-2.pdf

 当時世界中でイスラーム過激派が活動していましたが、ターリバーンは彼らを「客人」として迎えます。そのひとりがビン・ラーディンでした。

 同時多発テロの後、アメリカ合衆国はターリバーンにビン・ラーディン容疑者の引き渡しを要求しますがターリバーンが拒否、そこでアメリカはアフガニスタンに侵攻し、ターリバーンを政権から追放します。

 その後カルザイを議長とする暫定行政機構が発足します。アメリカはアフガニスタンに軍を駐留させ、様々な援助を行ないますが、政治の腐敗は後を絶たず、経済再建も進みません。

 またイスラーム過激派を対象とした外国軍隊の軍事行動で一般市民が巻き込まれて死亡する事件もしばしば生じ、住民の反感を買います。

 2011年にアメリカ軍がパキスタンでビン・ラーディンを殺害すると、アフガニスタンに駐留する意味がなくなり、外国軍は段階的に撤退をはじめます。

 2020年にトランプ大統領はターリバーンと交渉し、ターリバーンが海外のテロリストを支援しないことを条件にアメリカ軍が撤退することに合意、アメリカ軍の撤退を受けてターリバーンがカブールに入りました。

 ターリバーン政権は前回のような女性差別政策はとらず、イスラームの範囲内で女性の権利を認めるとしています。

 なおターリバーンがカブールに入ると中華人民共和国は即座にその政権を承認しました。「一帯一路」の一環でしょう。21世紀版「グレート・ゲーム」の様相です。

*発展

 中村哲医師はパキスタンアフガニスタンで医療活動に従事していました。用水路を完成させたり、モスクやマドラサを建設するなど住民の生活改善に尽力していましたが、2019年に武装ゲリラに銃撃されて死去しました。


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ターリバーンの会見 


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おわりに

 歴史を紐解くと、比較的多文化に寛容なイスラームやモンゴルの王朝でさえアフガニスタンの地理的・歴史的背景から来る複雑な社会(部族社会、エスニシティ構成)に対して手を焼いたことがわかります。

 ましてや不寛容なイギリス、ソ連アメリカそしてターリバーン政権が「正義」(西洋近代・社会主義イスラーム原理主義)を押しつけます。それが現在まで続くアフガニスタンの混迷の背景といえるでしょう。

 ただ「多文化主義」も「近代化」も、根本は「人が人として尊重される」です。「人権」はたしかに西洋近代の産物ですが、私たちが人間である以上その尊重は普遍的であるべきです。

 そしてイスラームも、人間の生活を大事にし、多文化主義的な面も持ち合わせます。前ターリバーン政権は女性の人権を抑圧しましたが、イスラームの教えは「立場の弱いものは守る」であって「女性をモノ扱いしてよい」ではないはずです。

 また人権を守るためにはアフガニスタン住民の生活再建が不可欠です。

 カンダハルはオアシス都市で灌漑水路を使った果樹栽培が盛んでしたが、長引く戦争で水路も果樹園も荒廃、農民は生活の糧を得るためにケシを育て、これがターリバーンの主要な資金源になりました。

 今後新しい政権がどうなるのかまだ不明瞭ですが、注視していきたいです。

 

空欄の答え

1バクトリア

2ガンダーラ

3バーミヤン

4ウマイヤ

5サーマーン

6ガズナ

7ゴール

8ホラズム=シャー

9ウズベク

10ロディー

11バーブ

12イスファハーン

13アフガン

14ブレジネフ

15ムジャヒディン

16パキスタン

17ターリバーン

18アルカーイダ

19ウサーマ・ビン・ラーディン

20ブッシュ(子)