はじめに
そろそろ自宅待機も終わりが見えてきました。三年生の世界史はこの時期覚えることが急激に覚えて、しかもこの範囲は入試頻出です。
今回は「ヴェルサイユ体制」を整理します。
今回の問いは「帝国主義の戦争を帝国主義のやり方で解決?」です。
ベースとなる参考図書
資料集(帝国書院、浜島書店)
一般書(山川出版社『詳説世界史研究』『世界近現代全史』『もう一度読む世界現代史』、ミネルヴァ書房『西洋の歴史近現代編』『大学で学ぶ西洋史近現代編』)
図版は断りがない場合はウィキメディアコモンズ、パブリックドメインのものです。
目次
1 パリ講和会議
1919年1月 (1 )講和会議
原則
[2 ]の十四か条…「平和に関する布告」に対抗
秘密外交の廃止、海洋の自由、国際的平和機構設立、軍備縮小など
実態
列強の権益維持 英[3 ] 仏[4 ]
植民地の再分割領 仏の安全保障→ドイツへの厳しい条件提示
条約
ドイツ…(5 )条約
(6 )→仏へ、ザール→15年後に住民投票
軍備制限:潜水艦・空軍禁止、徴兵制禁止、陸海軍の戦力制限
(8 )非武装化
賠償金 1920年 ロンドン会議で1320億金マルクに確定
同盟国との講和条約
(11 )条約(ブルガリア) (12 )条約(オスマン帝国)
イギリス:(13 )、トランスヨルダン、(14 )
フランス:(15 )
動画 ©NHK
空欄
1 パリ
2 ウィルソン
3 ロイド=ジョージ
4 クレマンソー
5 ヴェルサイユ
6 アルザス・ロレーヌ
7 ダンツィヒ
8 ラインラント
9 サンジェルマン
10 トリアノン
11 ヌイイ
12 セーヴル
13 イラク
14 パレスティナ
15 シリア
補足
① ロシア革命の影響を食い止める
教科書だと別々に書いてありますが。パリ講和会議(1919年1月18日)は対ソ干渉戦争(1918~22)と並行で開催されています。
1918年からハンガリー、オーストリア、ドイツで労働者や兵士が蜂起し、アジア諸地域では1919年から各地で民族運動が発生します。
辛くも勝利した連合国とって、新たな脅威であるロシア革命がヨーロッパやアジアに「伝染」するのは何としても避けたいところです。
講和会議は「五大国」(アメリカ合衆国、イギリス、フランス、イタリア、日本)の首脳・外相で構成される会議で原案作りがなされました(西園寺公望は出発が遅れて後から参加)。連合国残り22か国は自国に関係する会議にだけ出席し、同盟国とソ連は参加を認められませんでした。
日本は山東省の利権と太平洋の旧ドイツ領の引き継ぎに加え、アメリカ合衆国と移民に対する差別でもめていたので、人種的差別待遇撤廃を要求しました。
写真左からロイド・ジョージ(英)、オルランド(伊)、クレマンソー(仏)、ウィルソン(米)。米軍の通信兵Edward N. Jacksonさん撮影なのでパブリックドメイン
アメリカ合衆国のウィルソン大統領はソヴィエト政権の「平和に関する布告」に対抗して1918年1月に議会への教書の中で「十四か条」を発表していました。
これらは英仏の従来型帝国主義(世界の分割と相互承認)に対する新しい秩序(自由で公正で平和な国際社会)の提案であると同時に、帝国主義を批判するロシア革命に対する代替案、ヨーロッパを自由主義につなぎとめる性格を持っていました。
*もちろん提案の多くは経済力世界一のアメリカの国益(自由貿易をすれば力の強いものが勝つ)にかなうものです。理想主義は建前、戦後の国際社会のヘゲモニー(覇権)掌握を見据えてのことです。
ヴェルサイユ条約の様子 ウィキペディア内のパブリックドメインの動画
② 帝国主義の戦争を帝国主義的方法で終わらせる
ウィルソンの理想主義的な「新外交」理念は、連合国、同盟国を問わず戦争に疲れた国民から期待を寄せられていて、彼がパリ入りすると熱烈な歓迎を受けました。
また十四か条には「植民地の民族自決」はありませんが、植民地の人々は自らにも適用されることを望んでいました。
しかしフランスは自国の安全保障のためにドイツへの過酷な要求を提案、イギリスは帝国の維持が関心事でヨーロッパの勢力均衡を求め、イタリア、日本は自国の権益にのみ関心があり、会議ではあまり発言しませんでした。
会議ではウィルソンの「国際組織の創設」の主張が通って、国際連盟規約がヴェルサイユ条約ほか同盟諸国との講和条約の第一篇に盛り込まれました。
ドイツについては領土の削減、海外植民地の全放棄、軍備制限、賠償金が課せられ、アフリカと太平洋の植民地は委任統治領(C式、将来の独立を想定するA式とは違い住民の自治なし)として連合国が「山分け」しました。
人口5000万人のオーストリア=ハンガリー帝国は解体されてオーストリアは人口500万人の小国に、ハンガリーも領土と人口を減らしました。
*厳しい講和条件ですが主権は守られているし最低限の軍備も認められています。「あんまりやりすぎて社会主義革命が起きるのは困る」という議論は会議でも出たそうです。でもドイツ人にとっては「命令」です。
十四か条で取り上げられていたロシアとオーストリア=ハンガリー帝国内の諸民族の自治は、「一民族一国家」と単純化して受け入れられ、講和会議前からバルト海からバルカン半島に至る地域で新国家が建設され、連合国もそれを追認しました。
地図を見るとフィンランド~バルト三国~ユーゴスラヴィアと新国家はまるでソヴィエト=ロシアの防波堤です。しかしこの地域は民族が分散して住んでいて、そこに国境を引いたために国内に多民族、国外に自民族という紛争の火種が残りました。
現在の地図なので国境は微妙に違いますが並びは同じ。セルブ=クロアート=スロヴェーン王国はまさに現三国の寄り合い所帯、「ユーゴスラヴィア」は「南スラヴ」の意味です。「無料で仕える白地図」さんより。
こうしてパリ講和会議は、元々抽象的であった十四か条の中で国際連盟は具体化されたものの、植民地の声は無視され、斜陽の帝国主義国家英仏の既得権益維持とロシア革命の波及防止に終始した形になりました。
講和条約の名前はすべて宮殿の名前です。大トリアノン宮殿での調印式。内装が見えます。小トリアノンはマリ=アントワネットの農家小屋で有名。Cserlajosさんがフィルムから切り出して写真化。死後70年以上経過なのでパブリックドメイン。
*同盟国との講和条約が覚えられない人はこちら 45番
bunbunshinrosaijki.hatenablog.com
2 国際連盟の成立
組織:原加盟国は42か国
常任理事国(英・仏・伊・日) 本部(16 )
問題点
(17 )が不参加(上院の反対) ドイツとソ連は最初は排除
総会での(18 )一致、違反国には(19 )制裁が限界
空欄
補足
① 集団安全保障って軍事同盟と同じじゃないの?
集団安全保障とは地域的または全世界的な国家集合を組織し、紛争を平和的に解決したり、武力行使した国に対して他の国家が集合的に強制措置を行うことによって、侵略を阻止し、国際的な安全を確保することを指します。
軍事同盟の場合、グループの一国が対立するグループの国と戦争をし始めると、それぞれの仲間が助太刀にくる、昔のドラマに出てくる不良グループが河原で決闘するみたいな感じです。
集団安全保障は、潜在的に敵対している国もひとつのグループに入り、もし国家間で紛争が発生するとほかのメンバーが全員で止めに行く、教室の小競り合いを生徒全員が割って入って仲裁するみたいな感じです。
ただしアメリカ合衆国が国際連盟に参加しなかったのは痛手でした。それに加えて国際連盟は独自の軍隊を持たず、経済制裁が可能な制裁の限界だったので、侵略行為を抑止することは困難でしたが 国境紛争の調停はいくつか成功しました。
また戦争を防止するにはその原因になる社会問題を解決する必要があります。ILOはいくつかの国に1日8時間労働と週48時間労働をすすめ、保健機関は伝染病対策を行ないました。これら(保健機関はWHOに改称)は国際連合に引き継がれました。
なお制裁は常任理事国にも課せられたのが国際連合との違いで、決定は加盟国の全会一致と同じく、加盟国はフラットな関係でした。
3 ワシントン体制
参考 最初のチャプター
国際連盟の枠の外で外交を展開
1921~22 (20 )会議 [21 ]大統領が主催
太平洋の現状維持 (23 )同盟解消
1922年 (24 )条約(英米日仏伊ベルギーオランダポルトガル中国)
中国の領土保全…英は威海衛 日本は(25 )半島を返還
石井=ランシング協定破棄(1923年)
英:米:日:仏:伊=5:5:3:1.67:1.67
動画 ©NHK
空欄
20 ワシントン
21 ハーディング
22 四カ国
23 日英
24 九カ国
25 山東
補足
① 不器用な巨人?
アメリカ合衆国は19世紀末には世界第1位の工業力を誇り、第一次世界大戦で被害を受けず、連合国に物資を供給して経済は繁栄し、借金を完済して逆に英仏にお金を貸す債権国になりました。
しかしウィルソンの提唱した国際連盟への加盟は、共和党が多数を占める上院が連盟規約に拘束されることを嫌って批准を否決しました。
とはいえアメリカ合衆国は自国の利害に関わることには積極的に行動します。まず英仏の債務放棄のお願いを拒否し、ヨーロッパの影響力低下を見てラテンアメリカへの資本投下を進めます。
次の目標は東アジアです。中国の列強分割競争に乗り遅れたアメリカは門戸開放宣言を発する一方、日本と桂=タフト協定(1905 朝鮮半島とフィリピン)、石井=ランシング協定(1917年 満洲の特殊利権と米の門戸開放)など相互の利権をバーターで承認し合う、帝国主義的な勢力圏設定を行なっていました。
ワシントン会議は対ソ干渉戦争が収束に向かう頃に開催され、ハーディングはパリ講和会議以降の軍縮・国際協調ムードを利用して太平洋や中国の現状維持をうたい、民族運動と日本の進出を押さえてアメリカ主導の新秩序を構築しようと考えました。
19世紀に覇権を握ったイギリスは、港湾や通信網を整備しポンドを国際決済に使うなど自国のインフラを開放することで(長い目で見れば帝国の利益にかなう)国際経済の軸になりました。
一方新たに超大国になったアメリカ合衆国は国内市場が巨大なため、他国のものは買わずに自国商品は輸出する、外交も自分の利害に関わることにしか口出ししません。
『もういちど読む山川世界現代史』の木谷勤さんはこの様子を「つねに他人を圧迫しながら肥え太る不器用な巨人に似ていた」と表現しています。
② 日本は国際社会の優等生?
日本は軍事力を用いて排他的な経済圏を拡大するビジネスモデル、時代に逆行しています。日本の強硬派は「アメリカは「時代は平和と軍縮」という大義のもと日本の大陸進出を阻むつもり」とみたでしょう。
日本は第一次世界大戦中は軍需景気で沸きましたが、戦後は景気が冷え込み、軍事予算は財政を圧迫していました。日露戦争ではシティで債権を売ってもらって薄氷の勝利を得たように、経済的にも米英に依存していました。
ワシントン会議直前に原敬が暗殺され内閣総辞職になりますが、予定通り国際協調外交を進める加藤友三郎と幣原喜重郎が会議に出席し、海軍部内の強硬論を押さえ、条件の若干の追加を認めさせた上で海軍軍縮条約に調印しました。
また日本は太平洋や中国大陸の現状維持を認め、四カ国条約にもとづいて日英同盟を終了しました。1922年に首相になった加藤友三郎はシベリアから撤兵し、山東省の利権を返還しました。
こうした政府の姿勢は「弱腰外交」と批判され、1923年に加藤の病死で海軍の大御所である山本権兵衛が首相に就任します。しかし組閣中に関東大震災が発生、対外進出どころではなくなります。
なお日本は国際連盟の常任理事国になり、旧ドイツ領「南洋諸島」を委任統治(C式 実質植民地)しますが、国際社会にデビューしたてとあって統治には気を遣ったそうです(太平洋戦争では戦場になりました)。
kantodaishinsai.filmarchives.jp
4 ヴェルサイユ体制への不満と国際協調
① 修正主義…講和条約に不満な国の動き
1919年 ギリシアが(26 )を占領(~1922年)
1919年 イタリアのナショナリストの一団がフィウメを一時占領
ベラルーシ、ウクライナの一部をポーランド領に含めた新国境画定
1922年 (27 )条約:ドイツとソ連が国交を回復
1923年 フランスとベルギーがドイツの(28 )地方に軍を進駐
② 国際協調
1924年 ドーズ案による賠償金問題の暫定的解決→紛争は小康状態に
1925年 (29 )条約:ドイツと隣接4カ国
ラインラントの現状維持、ドイツの国際連盟加盟(26年)
1928年 不戦条約:仏[30 ]、米[31 ]
国際紛争の解決手段として武力を行使せず 15カ国調印
1930年 (32 )会議
補助艦の保有総トン比率 英:米:日=10:10:7
空欄
26 イズミル
27 ラパロ
28 ルール
29 ロカルノ
30 ブリアン
31 ケロッグ
32 ロンドン
補足
① パリ講和会議の歪みとつかの間の平和
パリ講和会議では同盟国は領土を減らされ、旧ドイツ植民地は大国が分配、連合国側で参戦したイタリア、ギリシアら弱小国は相手にされませんでした。
そうした不満からポーランドは領土拡大を要求、ギリシアは「環エーゲ海国家」を夢見てイズミルを占領、イタリアでは国粋主義者がフィウメに上陸するなど大戦後も紛争が相次ぎました。
最大の紛争は1923年のルール出兵ですが(次回詳述)、それが収まった後、ドイツの外相シュトレーゼマンが英仏との和解や強調をさぐりました。
1925年にフランス外相になったブリアンもそれに応じ、1925年10月、ドイツのロカルノに英・仏・独・伊・ベルギー・ポーランド・チェコスロヴァキアの首相・外相会談が行なわれました。
その結果ラインラントの現状維持を定めた安全保障条約と、ドイツと国境を接する4カ国間の仲裁裁判条約、いわゆるロカルノ条約が調印され、1926年にドイツが国際連盟に加盟したことを持って発効しました
*ただしシュトレーゼマンは英ソの対立を見て東部国境線の現状維持は拒否、将来に含みを残しました。
さらにブリアンは1927年、アメリカ参戦10周年に際してアメリカ国民に相互に武力不行使を約束する条約を呼びかけ、米国務長官ケロッグに正式に提案します。
これを元に1928年8月のパリで、国際紛争の解決手段として武力を行使しないことを宣言する不戦条約に米・英・仏・独・日など15カ国が調印し、その後賛同国は1929年末までに54カ国にのぼりました。
ドイツの賠償金支払いもアメリカ資本の注入で軌道に乗り、ヨーロッパにはつかの間の平和が訪れます。
まとめ
- ウィルソンの十四か条はアメリカによる新秩序とロシア革命から西欧を守るという動機から掲げられたが、内容が抽象的だったので英仏に骨抜きにされた
- パリ講和会議とその後の同盟国との講和条約は帝国主義戦争を帝国主義的報復で精算する形になり、ドイツ人の心を傷つけたことは確実
- 植民地の民族自決は無視されたので、大戦後に各地で民族運動が多発する
- 国際連盟はうまく機能しないことも多かったが「集団安全保障」という概念を具体化した点は画期的
- 大国となったアメリカ合衆国は自国の利害実現のために国際連盟の外で外交を繰り広げる。それは軍縮・中国の領土保全・ドイツの復興などを実現したが、つかの間の平和は世界恐慌で崩壊する