ぶんぶんの進路歳時記

学習方法、進路選択、世界史の話題について綴ります

エリザベス2世の時代~大英帝国の黄昏(前編)~

 2022年、世界史に名を刻む方が相次いで亡くなられていますが、グレートブリテンおよび北部アイルランド連合王国(以下イギリス)のエリザベス2世もお亡くなりになりました。

2015年3月撮影。United Kingdom Open Government License v3.0。ソース:www.defenceimagery.mod.uk 著者:ジョエル・ルーズ/国防省

File:Queen Elizabeth II March 2015.jpg - Wikimedia Commons

 日本では女王の死去に対して弔意と好意的な記事ばかりですが、かつてイギリスの植民地であった地域の反応は一様ではありません。東京外国語大学の記事

www.tufs.ac.jp

 今回は19世紀以降のイギリスの歴史を植民地の形成と解体の視点からまとめます。前半はエリザベス2世の即位前までです。

 世界史の教科書、秋田茂『イギリス帝国の歴史』、木畑洋一『20世紀の歴史』、近藤和彦『イギリス史10講』、君島直隆『イギリスの歴史』、鈴木薫編『帝国の崩壊 下』を参考にしています。

 画像は断りがない限りパブリックドメインのものです。

ツイッターの「女王陛下」アカウントで有名

目次

 

1 「大英帝国」の形成

[1      ]女王(在位1837~1901)

 19世紀前半:「パクス・ブリタニカ」と称される

 →1851年 ロンドン万国博覧会

 1870年代の大不況:対外拡張政策が進む

 1877年 イギリス領(2     )帝国の皇帝に即位

エドワード7世(在位1901~1910)

 ロシア、ドイツとの対立→「栄光ある孤立」から転換

  1902年:日英同盟 1904年:(3    ) 1907年:英露協商

 自由党内閣

  ドイツとの建艦競争、社会保険制度の整備

  [4      ]蔵相が富裕層に課税(人民予算)

ジョージ5世(在位1910~36)

 1911年 アスキス内閣 国民保険法 議会法

空欄

1ヴィクトリア

2インド

3英仏協商

4ロイド=ジョージ

補足

① 高祖母ヴィクトリアは「ゴッドマザー」

 エリザベス2世は1926年、アンドリュー王子の長女として出生しました。

 当時の国王は祖父のジョージ5世で、NHKの『映像の世紀』第1集に、1901年のヴィクトリア女王の葬儀の時に孫のジョージと、同じく孫にあたるドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が並んで映っています。

 放蕩兄弟の国王が続いて王室は存続の危機を迎えましたが、ヴィクトリアが即位し、アルバート公と結婚して「良き妻、良き母」を演じると、「ヴィクトリア風家族」はブルジョワジーのアイコンとして受容されました。

 ヴィクトリアは9人の子どもをもうけ、彼らはドイツ・デンマーク・ロシアの王公と結婚し、孫の代には各国の王族がヴィクトリア女王と姻戚関係を持っていました。

 しかしヴィクトリア女王王太子の放蕩には頭を悩まされました。スキャンダルはイギリス王室の風物詩です。

 1887年には在位50周年記念が開催され、自治領の代表を集めた植民地会議が開催されました。1897年の在位60周年記念式典は帝国各地から制服を着用した現地人兵士や警官が約5万人動員され、大英帝国の威信を内外に見せつけました。

 1877年にヴィクトリア女王はインド皇帝に即位し、デリーで大謁見式を行いました。ジョージ5世も1911年に同じ理由でインドを訪れていて、その様子が『映像の世紀』第6集にあります。

 このように王室は、イギリス国民に対しては「世界を支配する大英帝国の一員」を演出して「国民」意識を高めるため、植民地住民に対しては大英帝国の力を見せつけて従わせるために利用されました。

  「さすが大英帝国!他の国ができないことを平然とやってのける、そこにシビれる!あこがれるゥ!その国民である俺たちもイケてるゥ!」です。

在位50周年の時の記念写真

参考 

 

2 ドミニオン

19世紀半ば:自由貿易帝国主義

 非公式の帝国:政治的には独立も経済的に従属

 公式の帝国:国際法で認められた植民地

白人植民地:「ドミニオン」(自治領)

① カナダ

1763年の(5     )条約でフランス領からイギリス領に

 オンタリオ:イギリス系 (6      ):フランス系

1841年 連合カナダ植民地

1867年 カナダ連邦 自治領化

② オーストラリア

18世紀:[7      ]の探検→流刑植民地

19世紀:羊毛生産、金鉱の発展(1851年)→自由移民の増加

 先住民の(8       )から土地を奪う

 中国系労働者の移民 白人労働者と対立

1901年 オーストラリア連邦

 非白人移民の締め出し(白豪主義

③ ニュージーランド

先住民の(9      )から土地を奪う

1907年 自治領化

④ 南アフリカ

1815年 ウィーン議定書でイギリスがオランダからケープ植民地を獲得

 (10     )、北部へ移動し原住民を酷使して開発を進める

 北部:(11      )共和国 南部:(12       )自由国

 金鉱やダイヤの発見 ケープ植民地首相[13       ]の侵略

1899~1902 (14      )(ブール)戦争

 イギリス植民相[15            ]の指導

 戦後イギリス人、ブール人が原住民の差別を強化

 →第二次世界大戦後の(16       )(人種隔離政策)の原型

1910年 南アフリカ連邦 自治領化

空欄

5パリ

6ケベック

7クック

8アボリジニー

9マオリ

10ブール人(アフリカーナー

11トランスヴァール

12オレンジ

13セシル=ローズ

14南アフリカ(ブール)

15ジョゼフ=チェンバレン

16アパルトヘイト

補足

① 自由貿易帝国主義

 イギリスの帝国主義は大不況に襲われた1870年代から始まりますが、19世紀前半の対外拡張政策との連続性を主張するのがロビンソンとギャラハーの「自由貿易帝国主義」です。

 それによると、インド、オーストラリア、シンガポールなど国際法で認められた植民地=「公式の帝国」だけでなく、ラテンアメリカ、中国、オスマン帝国など独立国だがイギリスの経済的支配に置かれている地域を「非公式帝国」と考えます。

 この公式か非公式かはイギリス本国の目論見(政治・経済・外交)と、従属地域の状況や現地エリート層との関係によります。イギリスは可能であれば自由貿易、必要であれば領土併合というオプションを選択とします。

 エジプトが好例で、最初はエジプト副王を借金漬けにして財政を支配下に置きましたが、ウラービーらが革命を起こすと軍隊を派遣し事実上の保護国としました。

 一方白人植民地には自治権を委譲して植民地防衛費を現地エリートに分担させ、貿易で緊密な関係を取る方が安上がりです。

 カナダでは自治政府が成立した後もイギリス本国は外国・通商権や公有地(西側は未開発)の管理権を持っていましたが、1860年代にイギリス資本による鉄道建設が始まると現地政府による独自の経済政策が必要になり、1867年にカナダ連邦が発足し、1885年には太平洋鉄道が開通しました。

ケベック市街 卒業生提供

 20世紀に入って白人植民地は次々と連邦化し、人種主義を背景に白人優位の体制が制度化されました。1907年の帝国会議(植民地会議から改称)以降自治領は「ドミニオン」と称して本国との対等関係を目指し、自由貿易や独自の軍隊の創設などが認められました。

オーストラリア

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南アフリカ

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② ジェントルマン資本主義

 最近の学説である「ジェントルマン資本主義」は、イギリスの大土地所有者の農業資本主義とロンドンのシティの金融やサーヴィス部門(海運や保険)の資本主義が合体し、その利害が名誉革命以後の対外拡張政策を左右したという考え方です。

 この考え方だと、

17世紀~18世紀:重商主義

17世紀末:財政=軍事国家(国債発行で戦争遂行能力を高める)

18世紀半ば:産業革命

19世紀前半:世界の工場 非公式帝国(外債の貸付)

19世紀末:世界の銀行

を「一攫千金を目指すシティの商人が地主化したジェントリの資金を内外に投資する」という視点から連続したものと捉えることができます。

 19世紀末からイギリスの工業生産力は保護関税政策を採るアメリカ合衆国やドイツの成長で相対的に低下します。

 しかしイギリスは自由貿易体制を堅持し、ポンド(スターリング)を基軸通貨とする金本位制と多角的決済(各国がイギリスの銀行に準備金を置いて貿易は手形で決済する)、鉄道や汽船、海底ケーブルによる国際運輸・通信網、商取引の慣行や国際語としての英語、国際標準時などを「国際公共財」として開放します。

 各国はこれに「ただ乗り」した方が得です。こうしてイギリスは「世界の銀行」「世界の手形交換所」として世界経済の覇権を握ります(ヘゲモニー国家)。

 戦間期にはアメリカ合衆国が台頭し、ウォール街が新たな金融の中心となりますが、スターリング=ブロックに見られるようにシティの金融・サーヴィス部門は健在で、イギリスは世界経済に隠然たる影響力を及ぼしていました。

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3 公式の帝国 非公式の帝国

① 公式の帝国

1)インド:イギリス東インド会社

 1765年 ベンガル・ビハール両州の徴税権(ディーワーニー)獲得

 現地の争いに介入して支配領域を拡大

1857年 インド大反乱 インド人傭兵(17     )の蜂起

1858年 東インド会社の解散→インドの直接統治開始

1877年 インド帝国の成立…ヴィクトリア女王がインド皇帝に就任

2)エジプト

1875年 スエズ運河持ち株をイギリス首相[18      ]に売却

1881~82 [19     ]の民族運動

 グラッドストンが出兵 事実上の保護国

② 非公式の帝国

1)清朝

1840~42 (20    )戦争

1842年 (21    )条約

 英に(22    )の割譲,上海など5港開港、賠償金支払い 

1843年 五港通商章程・虎門寨追加条約

 (23    )裁判権,片務的(24     )待遇

 開港場に(25     )(外国人の居留地域)が作られる

1856~60 (26     )戦争

1858年 (27    )条約

 10港開港、キリスト教の布教の自由、外国人の内地旅行の自由

1860年 (28    )条約

 天津の開港、英に九竜半島南部割譲、苦力(クーリー)の渡航

③ アイルランド

1801年 イギリスと合併

1840年代 ジャガイモ飢饉 イギリス本国やアメリカへの移民

1880年代 アイルランド国民党が議席を伸ばす

1886年 グラッドストン内閣 (29       )法案

→議会の反対で19世紀中には実現せず

空欄

17シパーヒー

18ディズレーリ

19ウラービー

20アヘン

21南京

22香港島

23領事

24最恵国待遇

25租界

26アロー

27天津

28北京

29アイルランド自治

補足

① パーマストン外交

 パーマストン(トーリ、後にホイッグ)は1831年~65年の間、外相・首相としてイギリス外交を推進しました。

 19世紀前半は国内では選挙法改正(32)や穀物法の廃止(46)など自由主義改革が進んだ時代ですが、対外的には「砲艦外交」でアジアに自由貿易不平等条約を押しつけました。エジプト=トルコ戦争(1840年のロンドン会議)、トルコ=イギリス通商条約(1838年)、アヘン戦争とアロー戦争は「自由貿易帝国主義」の典型です。

 またインド大反乱を徹底的に鎮圧して「公式の帝国」への道を開きましたが、第一次アフガン戦争には完敗しました。

 インドの植民地化

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 清朝の開国

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② 国内植民地 アイルランド

 アイルランドは1801年にイギリスと合同するものの、イングランド人地主がアイルランド人借地農を支配していました。ジャガイモ飢饉でブリテン島に移住した人々は産業革命を最底辺で支えました。

 19世紀前半から借地農の権利擁護を求める闘争が高まり、1880年代にはアイルランド自治を要求する運動が展開しました。1884年第三回選挙法改正で農業労働者の選挙権が認められると、翌年の選挙でアイルランド国民党が86議席を獲得し、自由党は彼らの支援を得る代わりにアイルランド自治法の成立を目指しました。

 国内では差別されるアイルランド人でしたが、イギリス帝国の植民地では「支配する側」の白人でした。差別される側も差別する側に回ることがある、それは差別者を太らせるだけですが。

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4 帝国からコモンウェルス

① 第一次世界大戦

1914年 ジョージ5世が対ドイツ宣戦

エジプトを正式に保護国化(1914)

植民地や自治領:軍隊の動員、ヨーロッパ戦線への派兵

インド…戦争への協力をえるため,戦後の自治を約束

アイルランド…1914年アイルランド自治法が成立も大戦勃発で延期

 1916年 アイルランド共和主義同盟のイースター蜂起

 [30        ]党の独立要求

② 戦間期

1919年 パリ講和会議:ロイド=ジョージが出席

 (31     )統治領を得て帝国の領土は最大に

 農業や製造業は国際競争力を失う

帝国内の民族運動の激化

 インド:1919年 インド統治法 アムリットサル虐殺事件

  [32      ]の不服従運動

 アイルランド:1922年 [33        ]として自治領化

  アルスター地方の北部6州は大英帝国にとどまる→内戦発生

イギリス連邦コモンウェルス

 1926年:イギリス帝国議会…各自治領と本国が対等

 1931年:(34          )憲章で成文化

 1932年:オタワ連邦会議で(35      )=ブロックを採用

アイルランドデ=ヴァレラが新憲法で国王と総督の権限を縮小

 1937年 国名を(36     )と変更 共和国化

③ 第二次世界大戦

ジョージ6世(在位1936~52)エドワード8世の退位で即位

 1938年 ミュンヘン会談…英首相[37       ]の対独宥和政策

 1939年 第二次世界大戦勃発

 1940年 首相が[38      ]に交代 ロンドン空襲に耐える

空欄

30シン=フェイン

31委任

32ガンディー

33アイルランド自由国

34ウェストミンスター

35スターリン

36エール

37ネヴィル=チェンバレン

38チャーチル

補足

① 第一次世界大戦と帝国

 イギリスがドイツに宣戦するとドミニオンや植民地も戦争に参加しました。

 最大の戦時動員と海外派兵に応じたのは英領インドで、ヨーロッパ戦線だけでなくオスマン帝国領やアフリカにも派兵されました。インド兵は多数の死傷者を出しますが、白人と同列で戦ったことで自信を持ち、戦後の民族運動につながります。

 オーストラリア・ニュージーランド連合軍(アンザック軍)はオスマン帝国の首都イスタンブルを占領するためガリポリ上陸作戦に投入されましたが、3万3千人の死傷者を出して作戦は失敗します。しかしアンザック軍の奮戦は両国の国民意識を高めました。

 なおこのガリポリの戦いに勝利したオスマン帝国の将軍がムスタファ=ケマルで、この実績を背景にトルコ共和国を建国します。

 アイルランドでは1914年にアイルランド自治法が成立するものの大戦のため実施は延期、急進派によるダブリンでの蜂起(イースター蜂起)は失敗しまが、イギリスの処分の過酷さが住民の反発を買い反英闘争が激化しました。

② コモンウェルス

 1919年のパリ講和会議にはドミニオンも招かれ、国際社会で独立国のようにふるまうようになります。

 一方植民地の人々はウィルソンが唱えた14カ条中の「民族自決」が自分たちにも適用されることを期待しましたが、文言通り旧ロシア・オーストリアオスマン帝国領にしか適用されませんでした。

 インドでは1919年にインド統治法が制定されるものの自治には程遠く、ローラット法で民族運動の弾圧、アムリットサルで虐殺事件が起こるとガンディーらの非暴力による反英闘争が激化しました。

 アイルランドは1922年に北部6州を除く地域がドミニオンと認められました(アイルランド自由国)。しかしこの妥協に不満な南部で内戦が発生、1932年に成立したデ=ヴァレラ政権はドミニオンからの脱却を求めて1937年に国号を「エール」としました。

 イギリスは委任統治領を含めて帝国領は最大になりますが、こうした状況を踏まえて1926年の帝国議会でイギリス帝国は本国と対等なドミニオンと従属的な植民地からなる「コモンウェルス」となり、1931年のウェストミンスター憲章で確認されました。

 なお「コモンウェルス」とは17世紀の内戦で誕生した共和政(commonwealth of free state)のことで、イギリス王冠に忠誠を誓う体制が国王の首を斬った政体と同じ名前なのは皮肉?

 エリザベス2世はこの1926年の生まれ。洗礼式の記念撮影の様子

スターリングブロック

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③ 王冠を賭けた恋

 1936年、第一次世界大戦で国民を鼓舞し続けたジョージ5世が死去すると、長男がエドワード8世として即位しました。

 彼は王太子時代に大戦で協力を仰いだドミニオンや植民地にお礼の訪問をしました。1921年には日英同盟で「非公式帝国」から「ジュニアパートナー」に昇格した日本にも立ち寄っています。

 しかしエドワードは公務に不熱心、社交界では数々の女性と浮名を流していました。即位した時は独身で、ウォリスという愛人がいました。彼女はアメリカの中流家庭に生まれ、夫のDVで離婚した後イギリスにわたり、船舶仲介会社のシンプソンと二度目の結婚をしていました。夫のつながりで社交界に出入りするようになり、1933年ごろにはエドワードと愛人関係になったそうです。

 

ロイヤル不倫?💛

 

 政府の「報道管制」で二人の関係は伏せられていましたが、エドワードはこれ見よがしに彼女を海外旅行に同伴しました。ユーゴスラヴィアでの二人の様子

 10月にウォリスが夫の不貞を理由に離婚調停に勝利するとエドワードは彼女との結婚を決意、政府はたまらず国王に「王冠をとるか、ウォリスをとるか」を迫りました。

 エドワードはウォリスを選び、1936年12月に退位を表明、弟のアルバートがジョージ6世として即位しました。

 1935年にはドイツが再軍備宣言、イギリスはドイツに対英35%の海軍力を認めました。1936年3月にはドイツが仏ソ相互援助条約によってロカルノ条約が無効になったと主張してラインラントに進駐、7月にはスペイン内戦が勃発しました。

 「王冠を賭けた恋」は全体主義の足音が日増しに大きくなる時代の出来事でした。

③ 吃音に苦しんだジョージ6世

 アルバートは「父の遺志を受け継ぐ」意味でジョージ6世と称しました。就任直後は対独宥和政策が行われていましたが、第二次世界大戦が勃発するとチャーチル首相と連携し、ドイツ軍の爆撃に際してもロンドンを去らずに国民を鼓舞し続けました。

 吃音症のためアルバートは公式な場での演説を苦手としていました。彼はオーストラリア人のローグの治療を受け、次第にほとんどつかえることなしに話すことができるようになりました。

 王位継承者となったエリザベスは大戦中に各地の軍隊への訪問・激励を行いました。1945年2月にはイギリス陸軍の英国女子国防軍に入隊し、他の学生たちと同等の軍事訓練を受け、軍務に就きました。

補助地方義勇軍で軍務中の「エリザベス・ウィンザー准大尉」(1945年4月撮影)

続く