ぶんぶんの進路歳時記

学習方法、進路選択、世界史の話題について綴ります

自宅待機中の自習プリント(第一次世界大戦)

はじめに

 入試は近づいてくるのに家庭学習が長引く一方、世界史では1870年以降覚えることが急激に覚えます。しかもこの範囲は入試頻出です。

 今回は「第一次世界大戦」です。キーワードは「総力戦」です。

ベースとなる参考図書 

教科書(実教出版帝国書院、東京書籍、山川出版社

資料集(帝国書院、浜島書店)

一般書(山川出版社『詳説世界史研究』『世界近現代全史』『もう一度読む世界現代史』、ミネルヴァ書房『西洋の歴史近現代編』『新しく学ぶ西洋の歴史』)

参考

図版は断りがない場合はウィキメディアコモンズパブリックドメインのものです。

マストアイテム

動画1 塹壕戦 新兵器の様子 ©NHK

www.nhk.or.jp

動画2 国民生活の窮乏の様子

www.nhk.or.jp

目次

 

1 世界大戦への道

① ビスマルク外交…フランスの孤立化と協調外交

(1    )同盟(1873)ドイツ・オーストリア・ロシア

(2    )同盟(1882)ドイツ・オーストリア・イタリア

 フランスによるチュニジア保護国化→イタリアの不満

(3      )条約(1887)ドイツ・ロシア

② ドイツ皇帝[4      ]の「世界政策」

ロシアとの再保障条約の更新を拒否(1890)

 ロシア・フランスの接近 (5    )同盟の成立(1891~94)

バグダード鉄道の建設→(6    )政策

 ベルリン・ビザンティウムバグダード

1890年代末:イギリスと建艦競争

植民地の再分割要求

 1904年 (7    )協商 英のエジプト,仏のモロッコ優越権を相互承認

 1905 1911 二度にわたる(8     )事件 

③ イギリスの「光栄ある孤立」破棄

1900年 義和団事件 ブール戦争で国際的非難 義和団事件で出遅れ

1902年 (9    )同盟…東アジアでロシアを牽制する

1904年 英仏協商 英エジプト、仏モロッコの優先権を相互に確認

1907年 (10    )協商…イラン、アフガニスタンの勢力圏を確定

三国協商の完成

空欄

1    三帝
2    三国
3    再保障
4    ヴィルヘルム2世
5    露仏
6    3B
7    英仏
8    モロッコ
9    日英
10    英露

補足

① ドイツ 世界強国への挑戦

 ドイツは日露戦争までは国際情勢を「イギリス対フランス・ロシア」(ファショダ事件やグレートゲーム)と踏んで、その対立を利用して有利に立ち回ろうとしました(三国干渉ではロシアを応援し、中国進出ではイギリスと相互の権益を認め合う)。

 しかし日露戦争後、列強の勢力争いはイギリスとドイツの対立を軸に展開しました。

 イギリスは工業力でアメリカ合衆国やドイツに抜かれるものの世界の金融を支配し、多くの植民地を確保していました、

 一方のドイツは重化学工業が急速に発展しながら、イギリスとフランスが築いた「植民地帝国」の壁を突き崩すことは容易ではなく、モロッコ事件では大騒ぎの割には益なく、建艦競争でもイギリスとの差を詰められませんでした。

 このドイツの「ジタバタ」は英独の関係を緊張させ、英仏は同盟関係を強化し、オーストリアと「未回収のイタリア」で対立していたイタリアを三国同盟から事実上脱落させ、ドイツはますます孤立を深めていきました。

 この包囲網を打開する唯一の道は、ヨーロッパの周辺部でいまだ流動的なオスマン帝国の領域、つまりバルカン半島西アジアです。

 ドイツは「3B政策」に象徴されるように、ドイツ・オーストリアを中核にヨーロッパ中央からバルト海黒海アドリア海にまたがる「中央関税同盟」を構想しますが、それはインドへの通路を脅かされると感じた(3C政策)イギリスや、オスマン帝国の2海峡を押さえたいロシアをさらに刺激し、三国協商につながります。

バグダード鉄道路線図 ドイツはイギリスに譲歩してバスラを終点にすることで合意、大戦直前のイギリス議会に報告されて最終的調印を待つばかりでした。んー?戦争する気はなかったの?

CC 表示-継承 3.0 著者:Martinvon Gagern さん

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参考

休憩 名前は「オリエント急行」ですが、ロンドンとイタリアを結ぶ観光列車で、イスタンブルには行きません。


www.youtube.com

 

2 バルカン半島 「世界の火薬庫」

ロシア、パン=スラヴ主義を唱えてバルカン半島に進出

1878年 ベルリン条約

 ルーマニア、(11     )、モンテネグロの独立

 (12     )は領土縮小 オスマン帝国内の自治

*ロシアの関心は中央アジア~極東へ 日露戦争後再びバルカン半島

1908年 オスマン帝国青年トルコ革命

 ブルガリア独立 オーストリアが(13             )併合

1911年 イタリア=トルコ戦争

1912年 (14     )同盟成立 ロシアの支援

 セルビアギリシアブルガリアモンテネグロ

第1次バルカン戦争(1912~13) オスマン帝国に宣戦

第2次バルカン戦争(1913) 領土分配問題でブルガリアに宣戦

→敗北したオスマン帝国ブルガリアはドイツに接近

空欄

11    セルビア
12    ブルガリア
13    ボスニア・ヘルツェゴヴィナ
14    バルカン

補足

 バルカン地域は長くオスマン帝国支配下にあり、経済的には農業社会、「エスニックグループ」の分布が複雑でした。そこへヨーロッパ列強が「民族」や「国民国家」概念を持ち込んだために、大国との対立と「民族」間の対立の双方が激化します。

 1908年、青年トルコ革命に乗じてオーストリアボスニア・ヘルツェゴヴィナを併合(ベルリン会議では「行政権の獲得」)し、セルビア人が多く住むこの地域の併合を望んでいたセルビアが反発、ブルガリアも独立を宣言して事態が流動化します。

 1911年にオスマン帝国がイタリアに敗北すると、バルカン4国が同盟してオスマン帝国に宣戦、オスマン帝国イスタンブルを除くバルカン半島から駆逐されました。

 その後領土分配をめぐってブルガリアと他のバルカン諸国とが戦争を開始、オスマン帝国ブルガリアに宣戦して、ブルガリアは獲得した領土をほとんど失いました。

 バルカン諸国が自立したことで、影響力低下を恐れる列強の個別介入がかえって強まりました。ドイツ(クルップ)とフランスの武器会社はオスマン帝国やバルカン諸国で激しい営業合戦を繰り広げ、セルビアの外国資本はフランスが3/4を占めました。

*発展:セルビアオーストリアハンガリー二重帝国が主要な農産物の輸出国で、ブルガリアオスマン帝国をけん制するために友好関係を保っていました。

 1906年セルビアが兵器の購入先をベーメンからフランスに切り替えると、オーストリアセルビアの豚製品など農産物への禁止関税を施行、セルビアオーストリアからの輸入を拒否する報復措置をとります。これを「豚戦争」といいます。

 セルビアはサロニカ港経由で交易を行い、オスマン帝国・ロシア・エジプトなどに販路を確保してオーストリアからの経済的自立を達成しました。

 イラストは本文に関係ありません。

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3 第一次世界大戦

① 契機

1914年6月 (15      )事件…(16     )の州都

 オーストリア皇位継承者夫妻が現地のセルビア系青年によって暗殺

 オーストリア、対セルビア宣戦布告→ロシアのセルビア支援

列強諸国の参戦

 同盟国…ドイツ・オーストリアオスマン帝国ブルガリア

 協商国(連合国)…フランス・ロシア・イギリス・日本など

各国政府 自国の正当性を主張…挙党一致体制の成立

(17       )…反戦の姿勢も参戦国の社会主義政党が自国政府を支持

② 経過

西部戦線…ドイツ軍の(18     )(中立国)侵入→イギリスが参戦

 1914年 (19     )の戦い…ドイツ軍を阻止 戦線膠着

 (20    )戦、消耗戦…ヴェルダン要塞の攻防・ソンムの戦い(1916)

 新兵器…航空機・(21    )(イープルの戦い)・(22    )(タンク)

東部戦線…(23       )の戦い…ドイツ軍勝利、ロシア領内に侵入

 *この時の将軍がのちのヴァイマル共和国大統領ヒンデンブルク

海上戦…(24     )沖海戦でドイツ敗北→連合国による経済封鎖

③ 総力戦

軍需工業優先の産業編成→(25    )や青少年の軍需工業への動員

食料配給制など各国政府が日常生活を規制

女性の社会進出→戦後女性参政権が実現

④ 世界戦争

植民地の人員・物資の投入 戦債の引き受け

戦後の自治を約束→戦後の民族運動

戦場の拡大…日本、日英同盟を口実に連合国側で参戦

ドイツの(26    )省の利権を占領 袁世凱二十一か条要求

⑤ 秘密外交

イタリア…当初中立,(27     )秘密条約で協商国で参戦

アラビア半島でのイギリスの三重外交

 (28     )協定(1915)アラブ人国家の承認

 (29     )協定(1916)オスマン帝国領の配分決定

 (30     )宣言(1917)ユダヤ人のナショナルホーム建設支援を約束

⑥ 同盟国の敗北

1917年 ドイツ、(31       )作戦を開始

アメリカ合衆国が連合国側で参戦(ウィルソン大統領) 

1918年3月 ドイツ,ロシア革命政府と単独講和((32       )条約)

→ドイツ 西部戦線での攻勢→連合軍の反撃(1918.8)

 ブルガリアオスマン帝国降伏 オーストリア,休戦協定締結

1918年11月 (33     )軍港での水兵蜂起

→皇帝はオランダへ亡命→ドイツ革命→休戦協定(1918.11.11)

地図

米国陸軍の兵士が公務の一環として作成。パブリックドメインソース    www.dean.usma.edu

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空欄

15    サライェヴォ
16    ボスニア
17    第2インターナショナル
18    ベルギー
19    マルヌ
20    塹壕
21    毒ガス
22    戦車
23    タンネンベルク
24    ユトランド
25    女性
26    山東
27    ロンドン 
28    フセイン・マクマホン
29    サイクス・ピコ
30    バルフォア
31    無制限潜水艦
32    ブレスト=リトフスク
33    キール

補足

① サライェヴォ事件

 オーストリアハンガリー二重帝国の皇位継承者フランツ=フェルディナントは格下貴族との身分違いの結婚のため子どもには帝位継承権が認められず、自身の傲慢な性格もあって帝国支配層内部では嫌われていました。

 彼はドイツ人・ハンガリー人の二重構造に加えて南スラヴ人にも自治を認めようという構想を持っていて、既得権益を脅かされるハンガリー人と、民族分断の固定化をおそれるセルビア人の両方から危険視されていました。

 不穏な空気が流れる中で彼はボスニアの軍事演習を視察、セルビアから来た者を含むボスニア出身青年の暗殺グループがサライェヴォ市内各所で待機しました。

 サライェヴォ到着後早々にフェルディナンド夫妻の乗る車に爆弾が投げつけられ随行員が負傷します。その後も視察を続けた夫妻は、負傷者の見舞いに行こうと予定外のコースを指示した時、プリンツィプ(19歳)の銃弾の犠牲になりました。

サライェヴォ市庁舎を出て車に戻ろうとする夫妻(暗殺の数分前に撮影)

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 オーストリアはドイツから「無条件支持」のお墨付きを得て、セルビアに受諾不可能な最後通牒を発します。セルビアは「暗殺者の審理にオーストリア官憲が参加」という無茶ぶり以外は受け入れましたが、オーストリアは国交を断絶し戦闘がはじまります。

 二国間戦争ではセルビアは負けるのは明らか、バルカン半島での影響力低下を危惧するロシアが総動員令を発布、それを待ち構えていたドイツも同じく総動員令を発して8月1日にロシアに宣戦布告、フランスも露仏同盟にしたがって総動員令を発したためドイツはフランスにも宣戦します。

 イギリスは最初不干渉の方針でしたが、ドイツが大陸でのヘゲモニー掌握を阻止するため、ドイツの中立国ベルギー侵攻を口実にドイツに参戦します。

 こうして列強は同盟・協商関係から次々と参戦し、戦争は二国間戦争からヨーロッパの大戦になります。

 ドイツが同盟国のオーストリアに「白紙委任状」を出したことが開戦の引き金になったことは確かです。またロシアとフランスが総動員令を発したらすかさず宣戦布告しているので、ドイツは二国間戦争に乗じて過去の対立を一気に精算する腹づもりだったと推察できます。

 ただし19世紀以来の戦争は短期決戦かつ外交の一環、戦闘をしつつ交渉で落としどころを探るというものでした。しかし技術革新によってこの戦争が大量殺戮の長期戦になることは、この時はまだだれも気づいていませんでした。

② 総力戦 塹壕戦 消耗戦

 ベルリンやウィーンでは宣戦布告が知らされると開戦を指示する市民が街頭に繰り出し、市民層の青年が志願兵申し込みに殺到するなど、ナショナリズムが高まります。

 各国政府は戦争の正当性を訴え(相手が仕掛けてきた)、国土防衛のために国民の団結を呼びかけます、政争や労働争議も中止され、各国の社会主義政党も戦争を支持します、これを「挙国一致体制」「城内平和」といいます。

 プロイセン=フランス戦争以来ヨーロッパ中心部では大きな戦争はなく、若者にとって戦争は実体験を伴わない「ロマンに満ちた遠足」(映像の世紀第2集)でした。

 軍部も政府も国民も、戦争は短期で集結すると確信し「クリスマスまでには家に帰る」と期待しました。しかし人々はこの後「この世の地獄」を見ることになります。

 

*発展:最近の研究ではそうした高揚は都市部の市民層が中心で、農村では収穫期にあたり、戦争になると軍馬用の馬匹の徴用があるので不満、労働者は明日の生活が大事でそれほどではなかった、とあります(木村靖二、前掲書)。市井の人々の実感と、記録として残るメディアの煽り(コロナ禍の国際的スポーツ大会を「みんなが待ち望んでいる」みたいに報道する感じ)は分けて考えなければいけません。

 

 ドイツはフランスとロシアとの二正面作戦を避けるため、まず西部に兵力を投入してパリを陥落させ、返す刀でロシアを叩くという計画(シュリーフェン計画)でした。

 しかし9月のマルヌの戦いでドイツ軍は進撃を阻止されます。大砲の威力向上や機関銃の導入によって正面突破での短期決戦は不可能になりました。

 西部戦線では塹壕戦になりました。両軍とも塹壕を掘って敵に辛抱強く砲火を浴びせ、ひるんだ隙に陣地を獲得するの繰り返し、数メートルの陣地を獲得するのに多数の犠牲者を出しました。また互いに敵の背後に回ろうと塹壕を掘り進め、ついに塹壕は北海沿岸に達しました。

 長引く塹壕戦で兵士には凍傷と水虫が広がり(塹壕足)、激しい砲撃によるストレスで四肢が麻痺する「シェル=ショック」と呼ばれる心因性の障害が生じました。この症状は第二次世界大戦の日本軍やイラク戦争でも報告されています。

1916年のソンムの戦いにおけるイギリス軍の塹壕。こんなところで毎日絶え間なく砲撃や狙撃にさらされたら気が変になっても不思議ではないです。見張りを置いて兵士は交替で寝ています。

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 戦局の膠着を打開するために新兵器の開発が促されました。遠方から塹壕を攻撃するために毒ガスが開発され、1915年4月のイープルの戦いではじめてドイツ軍が実戦使用しました(「イペリット」というマスタードガスの通称はこの地名が由来)。

米軍が撮影した各国の毒ガスマスク。「世界大戦の文学ダイジェストの歴史」、第V巻、p。55。

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 また塹壕陣地に張り巡らされた有刺鉄線を突破するため、農業用トラクターを応用した戦車が開発され、1916年6月からのソンムの戦いでイギリス軍によってはじめて投入されました。また偵察用、攻撃用に飛行機も新兵器として投入されました。

*上記映像1を参照

 このように戦争が消耗戦になると、戦局の帰趨はどれだけ前線に物資を補給できるか、つまり戦場での作戦ではなく国家の体力勝負になります。何かの目的で戦争をするのではなく戦争が自己目的化し、相手がぶっ倒れるまで戦い続けます。

 そこで各国は経済活動を規制し、国営企業ばかりではなく民間企業も政府の管理下に置かれ、原料の配分や発注などが統制されました。

 市民生活にも国家の介入が及ぶようになり、特に海上封鎖で食糧不足が深刻になったドイツでは、食料や生活必需品に対する価格統制や配給制が行われました。

 ドイツでは1916年から17年にかけて飢饉が発生、飼料用のカブラを食べて命をつないだことから「カブラの冬」と呼ばれます。カブラの配給切符 配給の様子は上記動画2を参照

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 総力戦の中で女性も様々な形で戦争遂行にかかわりました。

 男性が軍隊に入った後の労働力不足を補うために、戦前までは家事労働や繊維産業など特定の職種に限られていた女性の職場が一気に急増し、官庁や運輸業などこれまで女性が雇用されてこなかった職種にも進出しました。

 ただし戦争が終わると家庭に戻る女性も多く、女性の権利拡大はまだ先になります。

軍需工場で働く女性。出典: National Geographic Magazine、第31巻(1917年)

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 総力戦体制はこのように人々を戦争遂行のために動員するため、人々の生活を細かなところまで規制し、様々な自由が制限される社会を作り出します。これらの変化は戦争が終わると元に戻りますが、その経験はのちのニューディールなどで活かされます。

 総力戦は植民地にもおよび、インドからは100万人を超える人々が海外に派兵され、フランスもアフリカやインドシナから多くの人々を動員しました。

 植民地は戦場にもなりました。東アフリカではドイツの植民地をめぐる戦闘が続き、スペイン風邪の第二波の一部はこのアフリカでの戦争に各地から兵士が動員されたことで拡散しました。

 動員された人々の中にはヨーロッパ人同士の戦争に接する中で、ヨーロッパ人は自分たちと同じ人間だと気づき、ヨーロッパ人の優位や植民地支配に疑問を感じるものも出現します。

 列強の植民地支配の維持や拡大を目的にした第一次世界大戦が、逆に戦後の民族運動の種をまくことになりました。

③ 同盟国の敗北

 アメリカ合衆国はドイツ系移民が多いこともあって中立を守っていましたが、イギリスやフランスに大量の資本を投下するなど連合国との関係を深めていました。

 1915年に多くのアメリカ人が乗ったイギリス客船ルシタニア号がドイツの潜水艦に撃沈されると、アメリカ人の反ドイツ感情が高まりました。

 ウィルソンは大戦に参加しないことを公約に大統領に当選しましたが、1917年2月にドイツが中立国をも対象にする無制限潜水艦作戦を開始すると国交を断絶、3月にはロマノフ朝が滅亡し、「自由の国が専制ツァーリを応援する」構図もなくなりました。そこでウィルソンは4月に連合国側で参戦します。

 ロシアではボリシェヴィキが政権を握って「平和に関する布告」を発し、「即時講和、無併合、無賠償」を訴えます。列強が無視すると、ソヴィエト=ロシアは帝政ロシアの秘密条約を公開し、列強の帝国主義政策が明るみに出ます。

 「クリスマスまでに終わる」と言われた戦争は4年近くなっても終わりが見えず、多くの人命が失われ生活が統制される中で、それでも「正義の戦争」という政府の発表を信じていた人は、真相を知ってショックだったに違いありません。

 そこで秘密外交には関与していなかったアメリカのウィルソン大統領が「十四か条」で「秘密外交の廃止」「海洋自由」「国際連盟の設立」などを掲げて「戦争の大義」を再定義し、ヨーロッパをロシア革命の影響から守ります。

 ソヴィエト=ロシアと講和したドイツが東部戦線の兵を西部戦線に振り向け3月から8月にかけて最後の大攻勢をかけますが、アメリカ軍がヨーロッパ戦線に参入して敗北、ドイツの命運は尽きます。

 1918年に同盟国は次々と降伏、ドイツでも兵士、国民の中に厭戦気分が強まってきました。10月に海軍が「イギリス艦隊との作戦をもう一度行う」という決定をしたことに対して命令に従わない兵士が出始めました。

 1918年11月3日、キール軍港の水兵の反乱を契機に革命がおこり、ヴィルヘルム2世はオランダに亡命、11月11日にフランスのコンピエーヌの森で休戦協定が結ばれ、第一次世界大戦は終了しました。

④ 大戦の影響

 4年余に渡った戦,争で軍人戦死者は連合国、同盟国合わせて約853万人にのぼりました。一般市民の犠牲者の数もそれと同じ程度と推定されています。

https://www.hns.gr.jp/sacred_place/material/reference/03.pdf

 政治面では、ドイツ、オーストリアハンガリー、ロシア、オスマンの4帝国が終焉し、辛くも勝利したイギリス、フランスもアメリカ合衆国の資本と軍事力がなければ戦争を終わらせることができませんでした。

 従来型帝国主義の英仏に代わって、自由主義を標榜するアメリカ合衆国と、社会主義革命を唱えるソヴィエト=ロシア、いわゆる「ニュータイプ帝国主義」が政治の表舞台に登ります。

 文化面では19世紀末は「ベルエポック」と呼ばれ、ヨーロッパの人々は自らが育んだ近代文明(政治・思想・科学)を世界一ィィィ!と信じていました。非ヨーロッパ人に対する差別意識はその現れです。

 しかし人々を幸せにするはずの科学は大量殺戮という野蛮を生み、「近代」に対する信頼が打ち砕かれました。

 植民地の人々は大戦以後自治や独立に向けての運動をはじめますが、大戦中の秘密外交は旧オスマン帝国領で大問題に発展します。

 最後に「総力戦体制」によってこれまで私的領域だったところに政府の干渉が及ぶようになります、私たちの政治や社会のあり方が第一次世界大戦によって出現する、いわば「現代の開始」です。

 

まとめ

  • 第一次世界大戦の背景には先発資本主義のイギリスと後発資本主義のドイツの対立があるが、大戦の直接の契機はバルカン半島の二国間の争い
  • 第一次世界大戦は総力戦となり、外交の手段としての戦争から戦争が自己目的化して国力のすべてをつぎ込むことになり、社会のあり方が大きく変わる。特に国民の私的領域への政府の干渉が強まる
  • とにかく一人でも多く殺すために科学技術が異常な速度で発達する
  • 植民地も総力戦に巻き込まれる。秘密外交はのちのパレスティナ問題の原因となり、ヨーロッパの戦場で目覚めた人々が戦後自治や独立のために立ち上がる
  • 大戦の結果英仏の地位が低下し、アメリカ合衆国とソヴィエト=ロシアが台頭する契機になる