ぶんぶんの進路歳時記

学習方法、進路選択、世界史の話題について綴ります

自宅待機中の自習プリント(戦間期のヨーロッパ①)

はじめに

 そろそろ自宅待機も終了のようですが、この時期の三年生の世界史では覚えることが急激に覚え、しかも入試頻出です。

 今回は「戦間期のヨーロッパ①」を整理します。

 今回の問いは「西洋の没落とヴァイマル共和国の船出」です。

ベースとなる参考図書 

教科書(実教出版帝国書院、東京書籍、山川出版社

資料集(帝国書院、浜島書店)

一般書(山川出版社『詳説世界史研究』『世界近現代全史』『もう一度読む世界現代史』、ミネルヴァ書房『西洋の歴史近現代編』『大学で学ぶ西洋史近現代編』)

図版は断りがない場合はウィキメディアコモンズパブリックドメインのものです。

参考 真ん中あたりにヴァイマル共和国の様子

www.nhk.or.jp

 シュペングラーは世界文明を8〜9に分類・対比し,それらがたどる段階(生成 → 成長 → 成熟 → 老衰 → 消滅)を調べて,その文明の住置づけをしました。

 「未来永劫続くと思われた西洋近代もいつかは衰退する」というのが第一次世界大戦の惨禍を目の当たりにした人々の心に刺さったようです。

目次

 

1 英仏の停滞

シュペングラー『西洋の没落』(1918年発表)  

① イギリス

大戦による経済的打撃 領土増加も国際的地位低下

1918年 第4回選挙法改正 [1      ]内閣)

 21歳以上の男性,30歳以上の女性

1928年 第5回選挙法改正 ボールドウィン内閣

 21歳以上の男女に選挙権

労働党内閣の成立

 戦後、労働党が第二党となる 自由党と連立

 [2       ]労働党内閣の成立(1924) ソ連の承認

 1929年の選挙で第一党となる マクドナルド再度の組閣

② アイルランド

1905年 (3      )党結成

1914年 アイルランド自治成立も大戦発生で延期

1916年 イースター蜂起

1922年 (4       )の成立(連邦内の自治領)

→北部(5     )地方はイギリス領にとどまる

1931年 ウェストミンスター憲章…連邦の自治領は本国と対等な関係

1937年 (6    )の成立…イギリス王冠に関する憲法上の言及を削除

1949年 アイルランド共和国 共和制を明文化しイギリス連邦から離脱

③ フランス

国土が戦場となる、ドイツに対する警戒心→賠償金支払い要求

ドイツの支払い不履行→ルール占領(ポワンカレ内閣)

左派連合政権(1924):ソ連承認 国際協調 外相ブリアン

空欄

1    ロイド=ジョージ
2    マクドナルド
3    シン=フェイン
4    アイルランド自由国
5    アルスター
6    エール

補足

① アイルランドは王冠に忠誠を誓わない

 イギリス(イングランド)のアイルランド征服は12世紀のヘンリ2 世に始まりますが、植民地支配が確立するのはクロムウェルの遠征以後です。

 17~18世紀にアイルランド人の土地はイングランド系地主に奪われ,また彼らはカトリック教徒であったため,参政権や公職につく資格、武器を持ったり貿易に携わることも許さませんでした。

 18世紀初めから信仰の自由を求める反乱が繰り返され,イギリスは1800年にイギリス議会にアイルランド議員を加えることを認め、1829年にはカトリック教徒解放法を出して、旧教徒に対する差別は表面上なくなりました。

 しかしアイルランド人の苦難は続きます。1845~47年の「ジャガイモ飢饉」は、農民の常食ジャガイモが凶作なのにイギリス人不在地主が小麦を本国に輸出し続けたことが原因でした。(# ゚Д゚)

 1848年、いわゆる「諸国民の春」にアイルランドでも武装蜂起が発生しますが失敗、その後独立運動は議会を通じて行なわれるようになり、第3回選挙法改正後の選挙でアイルランド国民党が議員数を増やし、議会の中で第3党の地位を獲得しました。

 自由党は国民党の協力を得るためにアイルランド自治法案を議会に提案しましたが反対にあい、ようやく1914年3月に成立しましたが大戦の勃発で延期になりました。一方で北アイルランド・アルスターのイギリス人は分離に反対しました。

 1916年にはアイルランド共和主義同盟(IRB)がドイツから武器を購入して武装蜂起を計画しますがバレて失敗、強引にダブリンで蜂起しますが(イースター蜂起)イギリス軍に鎮圧されました。

 イギリスは蜂起指導者をただちに軍事裁判にかけ97人に死刑判決、裁判進行中に死刑執行を開始しました。このイギリスの仕打ちに対してアイルランド人の怒りが爆発、運動は自治権獲得から分離独立へと転換しました。

1916年のイースター蜂起中のダブリンのタウンゼントストリートのバリケード 著作権保護期間切れなのでパブリックドメイン

http://cdn4.spiegel.de/images/image-970153-galleryV9-nmbx-970153.jpg

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*発展:貧しいアイルランド人にとってイギリス軍はよい稼ぎ口、インドでは民族運動を弾圧する側でした。自分は手を汚さないで弱者に弱者を取り締まらせる、帝国支配の矛盾の極みです。

参考

 第4回選挙法のもとで行われた総選挙で独立を目指すシン=フェイン党が躍進し(アイルランド人の有権者が増加した)、彼らは議会への登院を拒否してダブリンで国民議会を開設し、アイルランド共和国としてイギリスからの独立を宣言しました。

 並行して義勇軍(のちのアイルランド共和国軍IRA))の武力闘争が激化、1921年7月まで騒乱が続きました。結局アイルランドは1922年にアルスターを切り離し,英連邦内の自治領としてアイルランド自由国になりました。

 しかしイギリス統治下に残ったアルスターでは少数派のカトリックアイルランド人が多数派の新教徒と対立し,IRAとイギリス軍との間で分離とアイルランドとの合併をめぐって流血の衝突やテロがこの後長く続きました。

ウィキペディアの記事によると、シン=フェイン党はアイルランド議会だけでなく北アイルランド議会やイギリス下院にも毎回一定の当選者を出していて、議会登院時に義務付けられているイギリス国王への宣誓を拒否しているため登院を行っておらず、議員歳費も受け取っていないそうです。

 帝国の維持にしがみつく老大国イギリスはパリ講和会議で戦前よりも広大な領土を手に入れたものの、アイルランドはもとよりインドや白人自治領でも自立化の傾向が強まります。

 1926年の帝国会議で本国と自治領は対等な関係で「王冠への忠誠」によって統合される「イギリス連邦」の構成員であるという案が採択され、1931年のウェストミンスター憲章によって成文化され、イギリス帝国はイギリス連邦に再構築されました。

 しかしアイルランドは1937年にエール共和国となって王冠への忠誠を拒否、第二次世界大戦中は中立を守り、1949年にアイルランド共和国として正式にイギリス連邦から離脱しました。

2 ヴァイマル共和国の苦難

④ ドイツ

1919年 ドイツ共産党スパルタクス)の蜂起

 指導者[7          ] カール=リープクネヒトらが殺害される

1919年 ヴァイマル国民議会:社会民主党の[8     ]を大統領に選出

 (9      )憲法の制定…男女普通選挙 社会権

1923年 (10   )占領…賠償金の滞納にフランスが(11    )を誘って出兵

 不服従運動で抵抗→生産の低下、激しいインフレーションの発生

 [12       ]…首相:(13      )の発行 外相:ロカルノ条約

1924年 (14    )案:賠償金支払いの緩和とアメリカ資本の導入

 一時的な安定…ロカルノ条約(1925)→国際連盟加入(1926)

1929年 (15    )案…賠償金減額

空欄

7    ローザ=ルクセンブルク
8    エーベルト
9    ヴァイマル
10    ルール
11    ベルギー
12    シュトレーゼマン
13    レンテンマルク
14    ドーズ
15    ヤング

補足

① ドイツでは「ロシア革命」は無理?

 1918年11月にキール軍港の水兵からドイツ革命がはじまり皇帝が退位すると、社会民主党幹部が独断で「ドイツ共和国」の成立を宣言、一方労働者や兵士は「レーテ」(ドイツ版ソヴィエト)を作り、独立社会民主党左派やスパルタクス団はロシア革命に倣ったレーテ独裁社会主義を目指しました。

 しかし社会民主党エーベルトの方が一枚上手でした。議会主義路線の臨時政府をたてる裏で革命をおそれる軍部の支持を取り付け、資本家側と交渉して8時間労働や団体交渉権を認めさせます。

 つまり暴力革命の前に労働者の権利が保障されたわけで、レーテ執行部も臨時政府を承認し、新たに招集される国民議会に権力を引き渡すことに同意しました。

 これに対してスパルタクス団はドイツ共産党を結成、選挙をボイコットし、1919年1月にベルリンで蜂起しますが、エーベルトが徹底的に弾圧、ルクセンブルクとリープクネヒトは逮捕され、連行途中で斬殺されました。

 その後行われた選挙では社会民主党・中央党・民主党の三党で過半数を占め、大資本家の押す人民党など保守派と革命を目指す独立社会民主党は少数にとどまり、国民は共和国と議会制民主主義を選んだ形になりました。

 つまりドイツではユンカーや資本家の「岩盤」が厚くかつ柔軟で、労働者も経済発展の恩恵を受けていたので、ボリシェヴィズム(少数の革命家による武装蜂起と一党独裁)を跳ね返すことが可能でした。

1895年頃のローザ・ルクセンブルクポーランド出身の彼女はドイツ市民権を得て社会民主党に加わりました。党の修正主義を批判して労働者の権力獲得を訴えますが、「自由とはつねに思想を異にする者のための自由である」と考えていて、レーニンボリシェヴィキ独裁を批判、共産党武装蜂起にも反対しました。

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② ヴェルサイユ条約は過酷で屈辱的な条約だった?

 1919年2月にヴァイマルで最初の議会が招集され、初代大統領にエーベルトが選出されました。5月に講和条約最後通牒のように一方的に通告され、政府は飲まざるを得ず、6月にヴェルサイユで調印しました。

 7月に新憲法が制定され、人民主権、女性参政権、議院内閣制が確立され、基本権では経済活動の自由と並んで労働者の諸権利も保障されました。

*ただし直接選挙で選ばれる任期7年の大統領には緊急命令のかたちで独裁権が行使できる非常大権が与えられ、これがのちにヴァイマル共和国を滅ぼすことになります。

 つまりヴァイマル共和国の建設と講和が並行して行われ、選挙で敗れた保守派が政府を攻撃するネタとしてヴェルサイユ条約を「屈辱」と宣伝したために「連合国はドイツに過酷な要求をした」という印象が広まったといえます。

 たしかにヴェルサイユ条約はドイツにのみ戦争責任を課し、後に金額が決定する賠償金は法外、領土を削減されるなど厳しいものでしたが、主権は守られているし軍備も制限は受けるものの認められます。

 「実態と言説は分けて考えるべき」が最近の説だそうです(『詳説世界史研究』)。そういえば実質賃金は今より高かった時代が「悪夢の民主党政権」とか(以下略)。

③ 1年間でパンの値段が16億倍?

 ヴァイマル共和国はこの後右翼・左翼双方の蜂起やテロ活動にさらされる一方、1921年から22年にかけてドイツ経済は急速に下降、インフレーションが進行しました。

 1921年にドイツの賠償金額は1320億金マルクと決定されましたが、この状態ではとても払えません。ドイツ政府からは早速支払い猶予を求める声が上がりました。

 フランスのポワンカレ内閣は「生産担保」を口実にベルギー(大戦で甚大な被害を受けた)を誘ってルール地方を占領しました。ドイツは「受動的抵抗」(生産活動の停止、占領軍への不服従)を行ない、破滅的なインフレーションに見舞われました。

1kgのライ麦パンの値段(単位はマルク)。浜島書店『アカデミア世界史』、山川出版社『世界史ワークノート』より引用

1918年12月 0.53
1923年1月 250
1923年2月 389
1923年3月 463
1923年4月 474
1923年5月 482
1923年6月 1,428
1923年7月 3,465
1923年8月 69,000
1923年9月 1,512,000
1923年10月 1,743,000,000
1923年11月 201,000,000,000
1923年12月 399,000,000,000

1金マルクに対する紙幣(パピエル)マルクの価値。Delphi234さん作成のsvgファイルをpngで展開

Creative Commons CC0 1.0 Universal Public DomainDedication

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Germany_Hyperinflation.svg

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インフレで額面を加刷した切手。NobbiPさんがスキャン。現行では使用できず著作権発生の資格がないのでパブリックドメイン。ぶんぶんは小さい頃切手店で「1億マルク」をいう切手を安価で買って「儲けたー!」と思ったのが世界史との出会いでした。(´・ω・`)

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 8月に新たに発足したシュトレーゼマンを首相とする大連合内閣は受動的抵抗を打ち切ります。これに対して左翼が暴動とゼネストを敢行、ヒトラー中央政府を倒そうと企てベルリン進軍行いました(ミュンヘン一揆)。

 内閣はこれらを鎮圧する一方、従来の1兆マルクを1レンテンマルクと交換する通貨改革を発表しました。「レンテンバンク」という新しい発券銀行を設立し,農業用地や工業資産から一定の利子を受け取ってそれを元本に新紙幣を発行しました(レンテンとは地代・利子のこと)。

 当時のマルク(紙切れ同然なのでパピエルマルクと呼ばれた)もレンテンマルクもインフレ対策用の「緊急通貨」でしたが、人々は安全そうなレンテンマルクに交換したためにインフレは収束、1924年には金本位制を基礎とするライヒスマルクが発行され、レンテンマルクと交換されました。

シュトレーゼマンは国民自由党に入党し、ドイツ帝国の拡張政策や第一次世界大戦を支持しました。ドイツ革命後は民主党・中央党に参画しようとして失敗、国民民主党右派を率いて人民党を結成しました。彼は「協調外交」で有名ですが、東部国境線の現状維持には応じないなどナショナリストの一面もみせました。

ドイツ連邦アーカイブより Creative Commons Attribution-Share Alike 3.0Germany

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Bundesarchiv_Bild_146-1989-040-27,_Gustav_Stresemann.jpg

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④ お金がない!

 ルール出兵を巡る混乱を解決するためアメリカの銀行家(のちに副大統領)ドーズを長とする調査委員会が設けられ,その報告に基づきドーズ案を発表しました。

 ドイツの通貨安定のために連合国が種々の援助を与え、賠償年額を1924 年度10億金マルク,以後逐年増加して第5年目以後25億金マルクと支払いを改善しました。また米資本の導入によりドイツ経済の復興を進めました。

 これで下図のような資金循環ができました。小康状態の中で1920年代後半には国際協調が進みました。ただしこれは米資本頼みの「竹馬経済」でした。

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  1929年にヤング案が成立し、賠償金総額を358億金マルクに引き下げ、賠償期間を59年としました。しかし同年に世界恐慌が発生、アメリカ資本がドイツから引き上げるとまたも支払い不可能に陥ります。

 フーヴァーモラトリアムの後、列国は1932年にローザンヌ会議をひらいて、賠償額を30億金マルクに減額し,その支払いは経済の好転を待って行うことに定めました。

 しかしナチ党が政権を掌握すると賠償金は「踏み倒し」になり、連合国の対米戦債もほとんどの未払いのまま第二次世界大戦に突入しました。

*発展:ヴァイマル共和国は学問、文学、芸術、建築、音楽、舞踊、演劇、映画が発展した時代でした。特にデザインでは従来の様式を打ち破り、バウハウス系のデザイナーは家具からタイポグラフィ、建造物などバラエティーに富んでいて、現代デザインと通ずる点も多いです。

「アームチェア、モデルMR-20」1927年、Mies van der Roheさん設計。ウルフソニアンフロリダ国際大学博物館蔵。ダデロットさんの撮影でパブリックドメイン

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2 東欧新国家の混迷

⑤ 東欧・バルカン諸国

農業国が多い 独裁者の権威主義体制

ポーランド

1920年 ソヴィエト=ポーランド戦争 ウクライナ侵入 領土拡大

1926年 [16      ]のクーデタ 実権掌握

ハンガリー

1918年 オーストリア降伏 ハンガリー民主共和国発足

1919年 [17      ](ハンガリー共産党)のハンガリー革命

 ルーマニア軍の反革命軍に敗北

1920年 ホルティが摂政として権威主義体制

 トリアノン条約に調印してハンガリーの主権を回復

ユーゴスラヴィア

1918年 セルブ=クロアート=スロヴェーン王国の成立

1929年 ユーゴスラヴィアと改称

チェコスロヴァキア

1918年 オーストリアが降伏

 [18      ]を指導者とするチェコ国民会議が新政府と認められる

1919年 サン=ジェルマン条約で新政府が国際的承認

 工業化と民主化進展 マサリク大統領

空欄

16    ピウスツキ
17    クン=ベラ(ベラ=クン)
18    マサリク

補足

① いわゆる「東欧」には民主主義が根付かない?

 ハンガリーでは1918年10月に大戦後の独立をめざすブダペスト革命が勃発、カーロイ首相は二重帝国の連邦国家への改革、土地改革、普通選挙の実施などを要求しました。

 同年11月に二重帝国は降伏するとハンガリー民共和国の誕生が宣言され、カーロイは臨時大統領兼首相に選出されました。

 しかしウィルソンの「民族自決」を口実に、ルーマニア軍がハンガリーに住む300万人のルーマニア人地域を狙って侵攻を開始、カーロイ政権は崩壊します。

 この侵入に対処するため社会民主党共産党(クン= ベラが創設)の連合政権が1919年3月に成立し、「ハンガリー= ソヴィエト共和国」樹立を宣言しました。

 ロシア以外で史上初のソヴィエト政権、しかも無血革命でした。しかしクンが性急に土地の国有化を進めたため農民が反発、労働者の支持も期待していたほど集めることができませんでした。

 さらにハンガリー国境に接近していたロシア赤軍ワルシャワで敗れてポーランドから撤退、後ろ盾を失ったハンガリー= ソヴィエトはチェコ軍・ルーマニア軍およびホルティ指導の反革命国民軍に攻撃され、わずか133日で崩壊しました。

 1920年1 月に選挙が施行され,ハンガリー王国の復活が宣言(国王は空位)、摂政にはホルティが選出され、軍の総司令官として法律の停止、首相の任命や解任、議会の招集や延期・解散などの絶大な権限を有しました。

 東欧の新独立国は工業化の進んだチェコスロヴァキア以外は農業国で、議会制民主主義には無関心、共産党は嫌い、地元の名士には逆らえない、うちの実家付近とそっくり(以下略)。

 これらの国々では独裁者が軍を背景とした強権的な姿勢で地方の有力者を手なずけながら権威主義体制を構築していきます。

まとめ

  • 大戦に勝利したもののイギリスとフランスは政治的・経済的な影響力が低下
  • イギリスはアイルランド問題で内戦状態になり、植民地や自治領が自立の傾向を強めたので、「イギリス連邦」に鞍替え
  • フランスでは労働運動などにいら立つ右派政権がルール出兵を行うが逆効果
  • ドイツのボリシェヴィキ革命はユンカーと資本家と社会民主党に跳ね返される
  • ドイツの「賠償金支払い無理問題」はアメリカ資本の投下で数年は落ち着くが世界恐慌で破綻する
  • 「一民族一国家」でパリ講和会議前に独立した東欧では権威主義がはびこる