学校ではあまり授業で扱われない一方、難関私立大学で毎年出題される文化史の中国・東アジア編、今回は宋・元の時代です。
うんちくは少なめ、試験会場でパッと思い出す用に使ってください。
参考文献は第1回にあります。図版は断りがない限りウィキメディアコモンズパブリックドメインの画像です。
前回
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目次
6 宋
空欄補充
特徴
- 士大夫(儒学教養のある知識層)の文化:ものごとの本質に直接せまる
- 庶民文化:商業の発展 印刷技術の発達
① 宋学
北宋の[1 ](『太極図説』)にはじまる
南宋の[2 ]により大成(朱子学) 著書『四書集注』『資治通鑑綱目』
仏教、禅宗の影響→経典の解釈にとどまらず、宇宙万物の本質を追究
性即理(人間の本性と宇宙の理を一致させる)
(4 )論…華夷・君臣・父子などの区別を重視
→明代の陽明学に影響
② 歴史学
司馬光『(6 )』(7 ) 体 韓・魏・趙の分裂~北宋建国前年
欧陽脩;『新唐書』『新五代史』
③ 文学
散文:唐宋八大家 欧陽修・蘇洵・[8 ]・蘇轍・曽鞏・王安石
庶民文学:小説・雑劇・詞の流行
④ 美術
(9 )画…画院が絵画を保護。宮廷中心、写実的 [10 ]『桃鳩図』
(11 )画…士大夫中心,水墨・淡彩,自由な筆さばきを尊重
⑤ 工芸
⑥ 宗教
禅宗…官僚層の支持
(13 )(開祖は王重陽)…儒・仏・道の調和→金統治下の華北で
⑦ 技術革新
(14 )印刷の普及,活字印刷法(膠泥活字)の発明
(15 )(外洋航海の必需品)・火薬の実用化
空欄
1 周敦頤
2 朱熹
3 四書
4 大義名分
5 陸九淵
6 資治通鑑
7 編年
8 蘇軾
9 院体
10 徽宗
11 文人
12 景徳鎮
13 全真教
14 木版
15 羅針盤
補足
① 儒教の革新
唐では儒教の経書の知識を科挙で試すために経書の整理が進みましたが、研究手法は経典の解釈を中心とする訓詁学で、その解釈も固定化しました。
それに対して宋学は、宇宙の原理から人間の本性まで探究するしつつ政治や社会にも対応して実践の方法を探るという壮大な体系を持ちます。
宋代は経書の伝統的解釈を疑い自由に批判できる雰囲気があったこと(欧陽脩や王安石は政府高官でもある)、北宋は儒教だけでなく仏教や道教も保護して、その普遍性や哲学性が儒教に影響を与えたことが、儒教の革新の背景にあります。
学問の自由・批判性・多様性は大切!
宋学のキーワードは「気」と「理」です。気は物質世界の要素、理は法則のことで、北宋の周敦頤らは宇宙の法則の把握を研究テーマにしていましたが(『太極図説』はまさにそれ)、南宋の朱熹はそれにもとづいて人間を論じました。
太極図 http://taijidao.webcindario.com、著作権で保護されていない古代中国語のテキストからスキャン
朱熹によると人間本来の性は理なのですが(性即理)、気に由来する人欲のために理の発言が妨げられている、したがって欲張らず中庸を心掛け、精神を集中して(居敬)理を把握する(窮理)、特に学問や読書によって事物の情理をきわめ天の理を知る知を完成させる(格物致知)べきとしています。
全集中?
朱熹はこれを実社会に照らし合わせ、人が生まれるときに天理が働いて、名(気質の差)に応じた理の分(身の程)が与えられるとします。これが「大義名分論」で、父は父の分があり、子は子の分がある、さらに同心円的に君子と家臣、中華と夷狄と拡大していきます。
当時南宋は金に華北を譲り渡し、おおむね金に臣下の礼を取り(互いの力関係の変化で多少変更あり)、銀や絹を支払っていましたから、「ほ、本当は漢族の方がえ、えらいんだからね!」という思いが基層にあるのでしょう。
コンプレックスは学問や芸術を生み出す?
② 二度も左遷された蘇軾
唐宋八大家のひとりである蘇軾は22歳のときに弟の蘇轍とともに科挙に合格しました。王安石の新法に際しては欧陽脩・司馬光らとともに反対したため、黄州(湖北省)に追放されました。この時に有名な『赤壁賦』を詠んでいます。
彼は左遷先の土地を「東坡」と名づけて、自ら東坡居士と名乗りました。「東坡肉」(トンポーロー 豚の角煮)は彼が豚の詩を詠んだことにちなみます。
その後神宗が亡くなり旧法派が実権を握りますが、新法をすべて廃止しようとする司馬光に対して蘇軾は募役法などいいものは残すべきと主張して旧法派は分裂、ふたたび新法派の皇帝が立つと彼は海南島に左遷されました。
東坡肉。Archon6812さんの写真。パブリックドメイン
赤壁賦
③ 絵画
絵画では唐代に流行した人物画に代わって自然(山水)を描く画が発達し、南唐・蜀の職業画家が宋の宮廷に入って活躍しました。12世紀になると宮廷の職業画家の精緻な創作(院体画)のほかに、士大夫層の個人的で様式にとらわれない山水画、いわゆる文人画の創作が活発になります。
文人画の例。南宋米友仁雲山圖卷 Creative Commons CC0 1.0 Universal Public DomainDedication
メトロポリタン美術館によるプロジェクトの一環としてウィキメディアコモンズに寄贈されました。
https://www.metmuseum.org/art/collection/search/40007
画院を中心とする院体画といえば徽宗の『桃鳩図』
④ 庶民文化
開封や臨安の盛り場には演芸場があり、雑劇(芝居)、傀儡(人形劇)、影絵など様々な出し物が行われ、人情・怪談・歴史ものの講釈も盛んで、その台本である話本も刊行されました。
膠泥活字(こうでいかつじ)は粘土(膠泥)の一字一字の駒に文字を彫り、焼いて活字にしたものです。ただし中国では漢字の数の膨大で、木で版木を作る木版印刷の方が普及しました。
「詞」は韻文の様式の一つで、唐ではじまり、宋で完成されました。琴を伴奏に長短の詩を歌うもので、異国的な情緒の中で可憐な女性の姿を歌ったものが多いそうです。昔風のものを探しました。
7 元
空欄補充
特徴
- 東西文化の交流活発化
- イスラームとの文化交流
① フランチェスコ会修道士
[16 ]…教皇インノケンティウス4世の命でカラコルムへ グユクに面会
バール=サウマ…ネストリウス派司祭 イル=ハン国の使節でローマ教皇に謁見
② 旅行家
[19 ]…13C ヴェネツィア出身 フビライの頃『世界の記述』
[20 ]…14C モロッコ出身『三大陸周遊記』
③ イスラームとの交流
→江戸時代の貞享暦に影響
中国絵画の伝播→イル=ハン国,イラン細密画(ミニアチュール)に影響
コバルトの伝来 白磁の彩色に使用
④ 言語
多様な言語を使用
ハンの命令はモンゴル語、(23 )文字(チベット仏教教主の作成)で表記
→ウイグル文字表記が一般化
⑤ 歴史書
[24 ]『集史』→ガザン=ハンの命 モンゴル史
⑥ 元曲
王実甫『(25 )』:上流社会の恋愛話
高則誠『琵琶記』:出世欲にとりつかれた夫
⑦ 口語小説
空欄
16 プラノ=カルピニ
17 ルブルック
18 モンテ=コルヴィノ
19 マルコ=ポーロ
20 イブン=バットゥータ
21 郭守敬
22 授時暦
23 パスパ
24 ラシード=ウッディーン
25 西廂記
補足
① 元曲は元で生まれたわけではない?
元曲とは歌舞・音曲・演技が一体となった雑劇の台本のことで、宋代に生まれ、元代に一般大衆の中で広がりました。
「元代に士大夫が冷遇されて、その暇を利用して元曲を作成した」という俗説があるそうですが、雑劇は宋代から発達していますし、14世紀以後は科挙も行なわれ江南では儒学が発達しています。
後世の歴史家がことさらモンゴルを悪く言いたいからそういう話があるのではないか、というのが杉山先生の説です。
一気にわかる『西廂記』。先帝の宰相を父に持つ鶯鶯(おうおう)と科挙を志す書生の張生(ちょうせい)のラブストーリー。元ネタだと最後はふたりは別の道を進むそうですが、元曲ではその部分を省略したハッピーエンドの版を下敷きにしています。そういえば『人魚姫』さえハッピーエンドにするデ(以下略)。
② 陶磁器の革新
染付は白磁に下絵を藍色(濃い青色)で描き、透明の釉薬をかけて焼き上げたもので、元末から景徳鎮窯で多くつくられるようになりました。イランやイラク周辺でのコバルト顔料を使った技法が元代の中国に伝えられたそうです。
明代になると赤や緑を使った赤絵(五彩)が盛んにつくられるようになります。『銀河英雄伝説』には万暦赤絵が登場します。
宋代の青磁 絵柄がない Iwanafishさん撮影
青花蓮池水禽文大盤 中国・元代(ホノルル美術館蔵) Hiartさん撮影
サンフランシスコアジア美術館の景徳鎮磁器 赤絵 ダデロットさん撮影
③ モンゴルを訪れた修道士は使節?伝道者?
プラノ=カルピニは、当時バトゥの遠征軍が東ヨーロッパにまで進軍したことを背景に、ローマ教皇インノケンティウス4世の命令を受けて、モンゴルとの交渉役としてバトゥの元に派遣されました。
カルピニ一行はバトゥの指示でカラコルムに赴き、グユクの即位式のクリルタイに列席しました。彼らはグユクに会見してローマ教皇の親書を手渡しましたが、グユクは教皇をはじめとする西欧諸国の臣従を求める親書をカルピニらに手渡しました。日本やベトナムと同じ安定の「モンゴルモデル」です。
教皇は激おこでしたが、カルピニは功績が認められて出世しました。
グユクのインノケンティウス4世宛国書(ペルシア語、バチカン図書館蔵)
ルイ9世は当時十字軍を計画していて、モンゴル帝国との提携を考えました。ルブルクの前に別の宣教師を派遣しましたが、ちょうどグュクが死去して後継者争いの真っ最中、提携どころではありませんでした(ルイ9世も十字軍で捕虜になる)。
ルブルックは1253年にコンスタンティノープルを出発、陸路を経由してバトゥを訪問しました。彼もバトゥにカラコルムへ行くよう指示され、翌年にモンケ=ハンに謁見しました。
ルブルックは使節ではなく布教目的でのモンゴルに派遣されていました、彼の記録によると、モンゴルでは仏教、イスラーム、ネストリウス派キリスト教などが様々な信仰が認められていて、ルブルックは彼らとハンの目の前で宗教論議をしました。
ルブルックの見聞は「東方諸国旅行記」にまとめられ、カルピニの報告と違って「奇譚」はなく、モンゴル・中央アジア各地の地理・風俗・宗教・言語などを正確に伝えているとされています。
ルブルックの旅行経路。正式な使節ではないので旅行は困難を極めたそうです。
ふたりの旅行記がまとめられた本
モンテ=コルヴィノは教皇ニコラウス4世の特使としてホルムズから海路で泉州に至り、1294年に大都に入りました。
中東で布教していたコルヴィノが中国に渡ったのは、イル=ハン国の君主がクビライの依頼としてカトリックの宣教師の中国派遣をネストリウス派の司教バール・サウマを介して教皇に要請してきたからだそうです。
しかしフビライはすでに没していました。コルヴィノは次のハンが即位すると大都で布教を行い、1307年に教皇クレメンス5世からカンバリク(大都)の大司教に任ぜられました。彼は大都で約30年間布教し、現地で没しました。
バール・サウマはこちら。
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続く