はじめに
家庭学習が長引いて勉強に困ってきた人を対象に、最近入試で頻出の「遊牧民の世界」について整理します。
今回は13世紀~14世紀、モンゴルがユーラシアに大帝国を建設する様子です。
年配の方だと「オゴタイ=ハン国」「モンゴルの分裂」「モンゴル人第一主義」を習ったかと思いますが、教科書の記述は様変わりしています。
教科書(実教出版、帝国書院、東京書籍、山川出版社)、資料集(帝国書院、浜島書店)、一般書(山川出版社『詳説世界史研究』『世界各国史』(中国史、中央ユーラシア史)をベースにしています。
画像は断りがないものはウィキメディアコモンズパブリックドメインのものです。
参考
高校世界史のモンゴルの見方をガラっと変えた杉山先生の本
モンゴルの遊牧民の生活の様子 AQUA Geo Graphicさん。大相撲のモンゴル力士さんは都会暮らしの人がほとんどだそうです。
千戸制の説明
目次
- はじめに
- 1 13世紀初頭のユーラシア中部
- 2 モンゴルのユーラシア統一
- 3 13世紀のユーラシア中部~東部の地図
- 4 モンゴルの漢大陸支配
- 5 大元ウルス期の社会・文化
- 6 モンゴル帝国の衰退
- まとめ
1 13世紀初頭のユーラシア中部
チンギス・ハン在世中の諸遠征
著者:二次的著作物 Bkkbrad /GengisKhan empire-fr.svg:historicair 番号は筆者追加 svgファイルをpngで展開。クリエイティブコモンズ表示-継承2.5一般、2.0一般および1.0一般
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Genghis_Khan_empire-switch.svg
2 モンゴルのユーラシア統一
[1 ]
幼名テムジン,1206年の(2 )でハン位につく
(3 )制:遊牧民を1000戸を基本に十進法で編制した軍事・行政組織
1218年 (4 )征服 地図上①
1220年 (5 )征服 同② アフガニスタン、西北インド侵入
1227年 (6 )征服 同③
[7 ]=ハン
1234年 (8 )征服→華北領有 同④
1235年 (9 )に都建設
[10 ]の西征…西北ユーラシア草原、ヨーロッパ遠征 同⑥
(11 )の戦い(1241)ドイツ・ポーランド連合軍撃破
グユク=ハン
プラノ=カルピニがカラコルムへ
モンケ=ハン
フビライ:雲南の(12 )を征服(1254) 高麗を服属させる(1259)
[13 ]:バグダード占領 (14 )朝を滅ぼす(1258)同⑦
空欄
1チンギス=ハン
2クリルタイ
3千戸
4ナイマン
5ホラズム=シャー朝
6西夏
7オゴタイ
8金
9カラコルム
10バトゥ
11ワールシュタット
12大理
13フラグ
14アッバース
補足
① 群雄割拠から「モンゴル」による統合へ
9世紀半ばにウイグルが崩壊した後、モンゴル高原はトルコ系、モンゴル系の遊牧部族が割拠していました。地図1のボルドグ、タタール、ケレイト、メルキト、ナイマン、キルギスなどです。
ボルドグのチンギス=ハーン騎馬像施設
UB Style|モンゴル、ウランバートルの最新情報満載!観光やグルメ、美容、ビジネ ス情報配信 | 日帰り旅行特集: ツォンジン・ボルドグ/チンギス・ハーン騎馬像施設
モンゴル部のリーダーになったテムジンはケレイトの配下に入り、金の要請でタタールを討ち、金から製鉄の技術などを得ます。その後ケレイトを打ち破り、ナイマン(トルコ系の遊牧民)、メルキトと難敵を倒しました。
彼は1206年にクリルタイでカン(ハン)に選ばれ(チンギス=ハン)、国号を「大モンゴルウルス」(ウルスは人間のまとまりとしての「国」のこと)とします。
彼は指揮下に入った遊牧民を千戸制と呼ばれる十進法の軍事・行政組織に再編成し、チンギスと末子トゥルイを中央に、嫡子たちを西方に、弟たちを東方に分属させ、それぞれに遊牧民の軍団を配置し、遊牧地を分与しました。
また部隊の中から有能な若者が集められて親衛隊が編成され、ハンの身辺を警備しつつ幹部候補生としての教育を受けて後述の「側近政治」の核となりました。
ハンの天幕(オルド)は行政および生活の場。オルドは契丹で始まったシステム。契丹のオルドの様子。「宋佚名胡笳十八拍文姬歸漢圖卷」メトロポリタン美術館よりウィキメディアコモンズに提供
チンギス=ハンの名声はオアシスの道にも伝わりました。西ウイグルは西遼の代官を殺してモンゴルの配下に加わり、モンゴルは西ウイグルの政治文化(ウイグル商人の情報網やウイグル文字)を手に入れました。
チンギス=ハンは周辺地域の征服に乗り出します。
まず金を攻めて多額の貢納を条件に講和し(金王家は中都を放棄して開封に避難)、ナイマンに乗っ取られていた西遼を滅ぼしてパミール高原を制圧、ホラズム=シャー朝を破って西トルキスタンを支配下に置くと、ホラズム遠征に協力しないなど再三裏切り行為を繰り返す西夏を滅ぼしました。
チンギス=ハンは圧倒的な軍事力を背景に相手に降伏を促し、同意すれば暴力は控えましたが、裏切りには容赦がなく、ホラズムの首都サマルカンドは徹底的に破壊され、住民も4分の3が殺されたと伝えられます。現サマルカンドの北にある「アフラシヤブ」はその破壊の跡と言われています。卒業生提供。
西夏遠征中にチンギス=ハンは亡くなりましたが、戦争を繰り返していた内陸ユーラシアの騎馬遊牧民の大部分がチンギス家のもとに結集し、トルコ系も含めて彼らはみな「モンゴル人」意識を共有し、大モンゴル国の支配層になりました。
第三子のオゴデイ(オゴタイ)がクリルタイで後継者に選ばれると、遊牧民の君主(ハン)の上に立つ「大ハン」(カーン)を称しました。
古くから武力にたけた遊牧民と交易に従事するオアシス商人は協力・共生関係と保ってきました。有名なのはイラン系ソグド人ですが、彼らは改宗して「イラン系ムスリム商人」となり、仏教系ウイグル商人とともにモンゴルを支えました。
② 壮大な兄弟げんか
家系図 下手側が年長者 番号は即位の順
トゥルイは遊牧民の末子相続の風習からチンギスの軍団や財産を引き継ぎましたが、金遠征の帰途で死亡、オゴタイは彼の支配地域を奪取してカラコルムを建設しました。
カラコルムは定住民・外国使節・商人向けの都市で、ここを中心に駅伝制が敷かれ、官営の交通・情報網が整備され、街道には警備隊が置かれて利用者は安心して旅行ができるようになりました。オゴタイ自身はオルドで移動生活を送っていました。
牌符(パイザ)。政府発行のこれを持っているとジャムチを利用できるなど特典がある。ジョチ・ウルスの地から見つかったPaiza。ウイグル文字の銘をもつ。原典 E.D.Phillips-The Mongols
オゴタイは金を滅ぼして華北を支配下におさめると、戸籍を作成して王族・遊牧民の部族長・功臣に「投下」と呼ばれる領地・領民を分配しました。
またジョチの子バトゥはキプチャク高原(ウクライナ~カザフスタン)を制圧し、キエフ公国などスラヴ諸侯を服属させました。バトゥはそのままヴォルガ河畔にとどまり、その支配地がジョチ=ウルスになりました。
第4代モンケは次弟クビライ(フビライ)を中国へ、三弟フレグ(フラグ)を西アジアに派遣しました。フラグは抵抗するバグダードを徹底的に破壊しカリフを殺害、アゼルバイジャンにも進出し、フレグ=ウルスを形成しました。
フビライは雲南(チベットや東南アジアに至る交易路)の大理を攻略して南宋の補給路を断つなど慎重に事を運びましたが、攻略を急ぐモンケが自ら出兵、四川まで侵攻しましたが陣営内で流行した疫病にかかって亡くなりました。
*四川料理に辛い料理が多い理由として、成都は盆地で湿気が多く、発汗を促すことで健康を保つためという説があります。北方育ちの遊牧民に四川の気候は堪えたのでしょうか。
次の大ハンは筋から行けば本家を守る末弟アリク=ブケでしたが、フビライは勝手にクリルタイを開き大ハンを称します。いわゆるクーデタです。アリク=ブケはチンギス=ハン直系集団、フビライはチンギスの弟の家系やチンギス家と代々通婚関係を結ぶ集団の支持を得て戦いました。
フビライ側は苦戦するものの、中国本土からの補給路を押さえて優位に立ち、5年に及ぶ戦いの末、1264年にアリク=ブケが降伏しました。
この争いに乗じてオゴタイ家のカイドゥ(ハイドゥ)がフビライに不満な勢力を糾合し、1280年代には中央アジアで一大勢力を形成します。紛争はフビライ死後も続き、1301年にハイドゥが最後の決戦で受けた傷がもとで死亡してようやく終わりました。
この反乱をきっかけに各地のウルスは自立し、フビライ家の大元ウルスを宗家と仰ぎ緩やかな結合を保ちました。
3 13世紀のユーラシア中部~東部の地図
作者 Wengierさん作「Asia_in_1345.svg」をpngファイルで展開しました。ウィキメディアコモンズ パブリックドメインの画像 数字は著者追加
File:Asia in 1335.svg - Wikimedia Commons
4 モンゴルの漢大陸支配
[15 ](クビライ)=ハン
1264年 末弟アリク=ブケと帝位争いに勝利 中都に遷都
1271年 国号を大元(大元ウルス)
1272年 中都を拡張して[16 ](現北京)とする
1276年 南宋降伏(一部は1279年まで抵抗)
大元ウルスとモンゴル国家(数字は地図上の場所)
①南ロシア:[17 ]=ハン国(ジョチ=ウルス)都サライ
②中央アジア:[18 ]=ハン国(チャガタイ=ウルス)都アルマリク
③イラン高原:[19 ]=ハン国(フレグ=ウルス)都タブリーズ
→クビライ家の大元皇帝を全体の大ハーンとして緩やかに連合
*[20 ](カイドゥ)…オゴデイの子孫 反クビライ運動を展開
海上進出
大越((21 )朝)、チャンパー、パガン朝、ジャワ島に遠征軍
日本に出兵(元寇 1274年:文永の役 1281年:弘安の役)
→征服は失敗するが、通商や朝貢は活発化
日元貿易:博多~寧波 沈船から陶磁器や東福寺の木簡発見
統治
出自・宗教・言語にかかわらずチンギス家への忠誠心と実力で登用
(22 )文字 クビライの宗教顧問パスパ(パクパ)が作る
中央には中書省 地方には行省(現在の行政区画「省」の起源)
モンゴル帝国を支える人々
要職にはモンゴル人武将を置く
南人(旧南宋領の出身者)
科挙は1313年まで実施されず
空欄
15フビライ
16大都
17キプチャク
18チャガタイ
19イル
20ハイドゥ
21陳
22パスパ
23色目
補足
① 元は「モンゴル人第一主義」?
フビライは支配の拠点を漢大陸に移し、1271年には国号を儒教の経典から「大元」とし(以前は地名からとっていた)、翌年には中都の北を整備し大都と名付けました。
大都(ハンバリク)。中央の湖は港をもち運河として海港につながっていました。宮城のところは草原です。モンゴル人は建物は式典の時に使用して、夏は北の上都、冬はこの草原にオルドを構えました。
作者Kallganさん。中国語版ウィキペディアより。パブリックドメインの画像
行政制度は中国王朝のものを継承し、中央には中書省(行政)、枢密院(軍事)、御史台(監察)を置きました。地方については、中書省の出先機関である行省が置かれ、明清から現代に続く省制度の起源となりました。
ただし政治の中枢は側近のモンゴル武将が占め、中央・地方の要職には様々な出身の人々が家柄(創立以来行動を共にしてきた部族は厚遇された)や実務能力に応じて任用される、側近政治と多様性の併用でした。
*発展:古い教科書や資料集にはピラミッド組織の絵があって、最上位がモンゴル人で最下位の南人は冷遇されたみたいに書かれていました。
現行の実教出版、帝国書院(モンゴル押し)、東京書籍の教科書には「モンゴル」は「民族」ではなく「支配層」とあり、またどの教科書もモンゴル人が政権の中枢を占める一方で、様々な人が実務能力に応じて取り立てられたことが書いてあります。
フビライは南宋攻めを再開、長江中流域の要塞都市襄陽と樊城を包囲します。南宋の呂文煥は数年にわたって抗戦しますが、回回砲と呼ばれる巨大投石器の前に屈し、降伏しました。
ドイツに展示されている投石器(Trebuchet)Dramburgさん撮影 パブリックドメイン
フビライは降伏した呂文煥をモンゴルの司令官に取り立てます。十分な援軍を送ろうとしなかった南宋政府に不満を持っていた呂文煥は、クビライに忠誠を誓います。「敵ながらあっぱれ」な武将が好きなラインハルト様みたいです。
将軍バヤン率いる元軍が呂文煥を先鋒に臨安に迫ると1276年に皇帝は降伏、一部のものが皇帝の弟を立てて抵抗しますが1279年に南宋は完全に滅亡します。
② 遊牧民が海に出兵?
南宋では中国商人がジャンク船に乗って東南アジアで盛んに交易を行っていました。元が南宋を滅ぼすとその造船技術や知識を利用して、各地に使者や艦隊を派遣して従属と交易を求めます。
パガン朝は弱体化して滅びますが、大越(陳朝)、チャンパー、ジャワ島では征服自体は失敗します。
ジャワ島ではちょうどその頃シンガサリ朝の王が殺され、その娘婿がマジャパヒトに逃れていました。彼は元軍の協力を得て反乱を平定し、その後元を追い出してマジャパヒト朝を建てました。(`・ω・´)シャキーン
もっともこれらの遠征は征服・支配よりも服属や朝貢を促したり通称ルートを把握することが主目的だったようです。宋の時代の海上交易の発展は民間ベースでしたが、元はそれを国家として奨励しようと考えました。
陳朝は元の侵攻を三度撃退し、フビライが死んだ後はこれまで通りの冊封・朝貢関係を持ちました。フビライの遠征後は中国からインド洋に至る海上交易が発達し、各地から使節が訪れ、泉州や杭州など港市が著しく繁栄しました。
③ 元寇の裏で日元貿易?
朝鮮半島の高麗は北方で契丹や女真が台頭すると屈服し、朝貢関係を結びました。
高麗では文官と武官からなる両班が王を支えましたが、12世紀末に武人の崔氏がクーデタで実権を握り、私兵(三別抄)を権力基盤としました。鎌倉幕府みたいです。
モンゴルと高麗は戦争と講和を繰り返し、その間に崔氏政権は滅びます。高麗王はモンゴルの力を借りて武人を排除しようとし、それに対して三別抄は半島西南の珍島に立てこもって抵抗、モンゴル・高麗連合軍は1273年にこれを滅ぼします。
こののち高麗はフビライ家と通婚して最も忠実な国になります。(U^ω^)
同じころフビライは南宋攻めの最中で、南宋が日本と連携しないように高麗を通じて書状や使節を送りますが回答がなく、1274年にモンゴル・高麗連合軍が対馬と壹岐を襲ったのち博多湾に攻め込んできました。日本側はモンゴルの集団戦法や「てつはう」に戸惑いますが善戦し、モンゴル軍は引き揚げました。
竹崎季長が注文した「蒙古襲来絵詞」。恩賞をもらうための復命書?
1275年に降伏を勧告する元の使者を日本が切り捨てたことにフビライが激怒、1281年に高麗軍に旧南宋軍(老兵が中心で船には農具が積んであった)を加えて再度侵攻しますが、日本側は再来に備えて防塁を築いていて、激しい抗戦と暴風雨でモンゴル軍は撤退しました。
モンゴルはチンギス=ハン以来、相手側が降伏に応じればお金だけ取ってあとは干渉しないし実力に応じて取り立てる、しかし裏切りなど信義にもとる行為をすれば見せしめに徹底的に破壊する、という姿勢です。
一方日本は中国とは公式の関係(冊封・朝貢)を結ばない、面倒くさい国際政治には関わらないスタンスです(三別抄の救援要請も黙殺した)。それで国書を無視したり使者を斬ったりしたので、信義を重んじるフビライの逆鱗に触れました。
民間の交易は活発で、侵攻の合間にも日本の商船は中国を往来していますし、13世紀末には幕府の許可のもとに勧進を名目とした寺社造営料唐船が派遣されました。
政治と経済が一体化している国民国家にどっぷりつかっている私たちには理解の難しいところです。
5 大元ウルス期の社会・文化
① 経済・社会
農耕地帯からは厳しく徴税するが、土地制度には手をつけない
駅伝制(24 )整備 牌符
大運河の改修 海運(山東半島経由)→陸上と海上のネットワークが接続
港市の発達
(25 )(キンザイ)・(26 )(ザイトン)・広州・明州
通貨
銀を決済手段とする貨幣制度 紙幣(27 )の発行
高額取引は塩引(塩の引換券)
余った銅銭は日本などに流出 各地の経済を刺激
② 文化
人の移動
[30 ]…ローマ教皇庁が派遣
→大都ではじめて(31 )布教
マルコ=ポーロ…ヴェネツィア商人,『[32 ]』
[33 ]…『旅行記』(三大陸周遊記)
バール=ソウマ…ネストリウス派僧 フィリップ4世に面会
文化の交流
絵画…ミニアチュール(細密画)中国の技法
陶磁器…染付(コバルト顔料による絵付け)
空欄
24ジャムチ
25杭州
26泉州
27交鈔
28プラノ=カルピニ
29ルブルック
30モンテ=コルヴィノ
31カトリック
32『世界の記述』
33イブン=バットゥータ
34ラシード=アッディーン
35郭守敬
補足
① 元の重商主義
元はモンゴルの軍事力(モンゴル将軍が投下地で養う私兵集団)とムスリム商人の経済力の両輪で運営されました。
元は徴税請負人を使って厳しく徴税するものの農耕社会の内部にはあまり干渉せず、佃戸制はそのまま維持されました。一方都市・港湾・関所で徴収されてきた取引税を撤廃したので国内や対外貿易が促進されました。中央政府の収入の約80%は塩の専売利益、15%は商品の売却地で徴収される商税でした。
駅伝制、大運河の改修、海運など交通インフラが整備され、各地の拠点都市や物流の要衝にはムスリムの経済官僚が配置されていました。
大運河、海運のルート。矢澤知行「元代の水運・海運をめぐる諸論点-河南江北行省との関わりを中心に-」『愛媛大学教育学部紀要 第53巻 第1号』2006年からの引用。本物はリンク先。
http://www.ed.ehime-u.ac.jp/~kiyou/2006/pdf/19.pdf
京杭大運河
ムスリム商人は「オルトク」(仲間)という会社組織を作り、共同出資による巨大な資本力を背景に徴税請負や高利貸しを営み、ムスリムネットワークを使って対外交易をおこなっていました。
フビライはムスリムを経済官僚に取り立て、大都を中心に草原・オアシスの道と海の道を結ぶ「ユーラシア循環ルート」を作り上げます。決済で銀が使われたのは中央アジア以西の「グローバルスタンダード」に合わせた形です。
フビライはこのムスリム商人を使ってかき集めた銀を帝国の諸王に贈与としてばらまきました。緩やかに統合されているとはいえモンゴル王族は武装集団、弱みを見せれば反乱を招きます。王族をつなぎとめるために銀を贈り、その銀が物産購入のために中国に還流し、中国内で徴税されてまた王族へ贈られました。
宋が遊牧民を懐柔するために行っていた銀の循環が大元ウルスと王族というユーラシア規模になり、それを維持するためには大規模な交易と大量の銀が不可欠でした。
② ふたつのキリスト教の交流
モンゴルの軍勢がポーランド・ハンガリーに至ったことはヨーロッパ諸勢力に衝撃を与え、教皇やフランス王はモンゴルを偵察するためにフランチェスコ派修道士をモンゴルに派遣しました。
モンゴルからはネストリウス派の僧侶であるサウマが弟子とともに1276年にイェルサレムへの巡礼の旅に出かけました。彼らはイル=ハン国に到着しましたがイェルサレムは戦乱状態で巡礼は不可能でした。
その後サウマはイル=ハン国の使節として西ヨーロッパに派遣され。フランス王フィリップ4世、イングランド王エドワード1世に面会、新教皇とも面会しました。
これがローマ教会を刺激し、モンテ=コルヴィノが1294年に大都に赴き、教皇から大司教に任ぜられ、中国ではじめてカトリックを布教しました。
6 モンゴル帝国の衰退
14世紀 ユーラシア全域に天災続発
大元ウルスの解体
天災、疫病、飢饉の続発 宮廷の権力争い
(36 )仏教への過度な寄進や放漫財政による財政破綻
元の支配が緩み、モンゴル帝国全体の一体性も失われる
1351年 (37 )の乱 白蓮教徒が主導
1368年 朱元璋が南京で明建国
元はモンゴル高原へにしりぞく(北元 ~1388)
空欄
36 チベット
37 紅巾
補足
① 14世紀の危機
14世紀にユーラシア全土が異常気象に見舞われます。中国でも黄河の氾濫をはじめとする天災や疫病が続いて華北は大打撃を受け、順調に経済発展を続け宋元を支えた江南も被害を受けます。
この危機的な状況に対して大元ウルスは有効な手立てが打てず、権力闘争に明け暮れます。特に仁宗の皇太后ダギは専横な政治を12年間続け、チベット仏教にのめりこみ巨額のお金を溶かしました。
参考
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/73071/1/KJ00000077834.pdf
モンゴルお得意の武力による恫喝は天災や疫病には通じません。国難そっちのけで不必要なところにお金を使えば民は窮乏し蜂起が起きて当然、紅巾の乱で江南を失った大元ウルスはモンゴル高原に帰りました。
なお14世紀にヨーロッパで流行した黒死病(ペスト)はDNA解析から中国原産だそうです。モンゴルによる世界の一体化に乗って疫病も世界に広がりました。
bunbunshinrosaijki.hatenablog.com