難関私立大学になればなるほど出題される文化史のうちよく出題されるキリスト教の歴史、今回は中世ヨーロッパ、11世紀までのキリスト教の普及についてまとめます。
一橋大学の第Ⅰ問では中世の聖俗のあり方を問う出題が頻出です。クローヴィスの改修から宗教改革までは何が聞かれても答えられるようにしておきましょう。
世界の主要宗教分布図。パブリックドメイン
参考文献は前回参照。今回は教科書では山川出版社の『新世界史』(もっとも中世史の記述がとんがっているとの噂)を参考にしています。画像は断りがなければパブリックドメインのものです。
目次
3 ギリシア正教と正教諸国
(1) ギリシア正教会
コンスタンティノープル教会を頂点
東ローマ(ビザンツ)皇帝 7世紀にギリシア語を公用語化 ギリシア文化の保護
ビザンツ様式 丸屋根 モザイク壁画
(2) スラヴ人地域への布教
皇帝と教会が協力してギリシア正教圏を拡大
*9世紀 ギリシア正教受容 布教のために(3 )文字誕生
モスクワ=「第3のローマ」を自認
(3) スラヴ系国家と宗教分布
西スラヴ
ポーランド…ピアスト朝(10c)がカトリック受容 クラクフ大学
南スラヴ
クロアチア、スロヴェニアはカトリック(9世紀)…フランクの影響下
東スラヴ
空欄
1 ハギア=ソフィア
2 ブルガール
3 キリル
4 ウラディミル1世
5 イヴァン3世
補足
① 俗語聖書は東方が先
旧約聖書の原典はヘブライ語、新約聖書の原典はギリシア語(コイネー)で書かれました。ローマカトリック教会は「ウルガタ」と呼ばれるラテン語訳聖書が標準テキストとされ、典礼はラテン語で行われていました。一方ギリシア正教会では新約・旧約ともギリシア語の聖書が使われ、典礼はギリシア語で行われていました。
9世紀、モラヴィア王国の君主は隣接する東フランク王国の脅威に対して東ローマ帝国に軍事援助を求めるとともに、宣教師の派遣を依頼しました。そこで9世紀半ばコンスタンティノス(キュリロス)とメトディオスの兄弟が派遣されました。
彼らはスラヴ人への布教のためにその言葉を記す専用の文字(グラゴール文字)と人工的文章語が考案し、典礼書や聖書の翻訳を行ないました。これが後にギリシア文字に近いキリル文字となりました。
*彼らはローマ教会からも宣教活動を公認され、コンスタンティノスはローマで亡くなる直前にキュリロスという修道士名を受けました。
ローマ教会ではウィクリフ、フス、ルターらが「俗語聖書」を作りますが、東方教会ではそれよりも早く俗語による布教や典礼が行なわれていました。
タンクレッドさん作成のモラヴィア王国最大領土の地図(パブリックドメイン)にぶんぶんが近くの王国を書き込んだもの
参考
https://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/39020/1/50-011.pdf
ウラディミル1世の改宗についてはこちら
bunbunshinrosaijki.hatenablog.com
ギリシア正教の修道院(メテオラ)。セルビア人が14世紀に聖地アトスを攻撃すると、修道士たちの一部が中部ギリシアの奇岩や絶壁に逃れて修道院群を建築しました。
② ソ連の衛星国がカトリック?
ぶんぶんが中二病のころ世界は冷戦まっただ中で、ポーランドではワレサ率いる「連帯」がピウスツキ元帥に非合法化されるなど、政府が自由主義を抑圧していました。そんなときにローマ教皇がポーランド出身と聞き「?」と思いました。
ポーランドはピアスト朝のもとで966年にキリスト教に改宗し、10世紀末にはグニェズノに大司教座が設置されました。
モラヴィア王国のところで触れましたが、東フランク(ザクセン朝)のオットー1世は東部に辺境伯領を設置し、「異教徒への伝道」を大義名分に勢力を拡大しようとしていました。また教皇の救援に応じてローマに遠征し、962年にローマ皇帝の冠を受けました(いわゆる「神聖ローマ帝国」の起源)。
ポーランドはこの東フランクの「異教徒討伐」の口実を与えないために先手を打ってカトリックに改宗したと考えられます。
ヨハネ・パウロ2世は初の社会主義圏出身の教皇で、カトリック教徒が98%をしめるポーランドのナショナリズムを高め、1980年代後半の自由主義運動の精神的支柱になりました。ただし女性の司祭を認めないなど教義については保守派でした。アメリカの公務員が撮影したのでパブリックドメイン
なおこのブログを書いている時のローマ教皇はイタリア移民のアルゼンチン人で、『母を訪ねて三千里』を連想します。白人以外のローマ教皇が誕生する日も近いかもしれません。
③ 東方キリスト教
ローマ時代に一体であったキリスト教圏は中世にローマ=カトリック圏とギリシア正教圏に二分されますが、それ以外にもエフェソス公会議とカルケドン会議で異端とされた教義を奉じ(非カルケドン派)、東方キリスト教と総称されるさまざまなキリスト教会がありました。
代表的なのはアレクサンドリア教会の伝統を引き継いだシリア教会、エジプト周辺のコプト教会、そこからわかれたエチオピア教会、4世紀にキリスト教を国教としたアルメニア教会などです。
また使徒聖トマスの伝統を引くと主張するインドのキリスト教徒コミュニティや、唐に伝わり景教と呼ばれたネストリウス派キリスト教もありました。
ローマやコンスタンティノープルの正教会が聖職者を派遣して各地の教会を組織化したのに対して、東方キリスト教会はそれぞれ小さなコミュニティで独自の教義や儀礼を保持し、現在に至ります。
20世紀初頭、イラク北部モスルにあるシリア正教の修道院での祝賀ポストカード。著作権切れでパブリックドメイン
4 ローマ=カトリック教会の発展
(1) 教皇権の確立
教皇レオ1世:5世紀半ば,アッテイラの攻撃を説得して阻止
修道院運動:
6世紀半ば,[1 ]がモンテ=カシーノに修道院設立
「清貧・純潔・服従」をモットーとするベネディクト戒律
「祈り,働け」の会則→カトリック教会の布教活動に貢献
(2) 皇帝権と教皇権の提携
クローヴィス 496年 (3 )派に改宗
領内のローマ貴族と提携する
クローヴィスの洗礼。共通テスト2017年試行調査より引用
聖像崇拝問題:東ローマ皇帝[4 ]が(5 )を発布(726年)
ローマ教皇領の成立
カールの戴冠
ローマ教会が東ローマ皇帝から独立
オットー1世の戴冠
教皇ヨハネス12世,ドイツ王オットー1世にローマ皇帝冠を授ける(962年)
神聖ローマ帝国の始まりとされる
教会の東西分離…1054年:東西教会がたがいに破門しあい分裂
教会の世俗化…教会・修道院の領主化→世俗領主の教会への介入
皇帝が教会を政治機関化(帝国教会政策)
聖職者の妻帯・聖職売買
教会改革運動…(8 )修道院(910設立 フランス)
ベネディクト会則への回帰 祈りや典礼を重視
その他の運動
(9 )修道会…フランス中部,12~13世紀に発展 開墾運動
(10 )修道会…13世紀,アッシジ(イタリア)
モンゴルへの布教
[11 ]:インノケンティウス4世の命でカラコルムへ
[13 ]:13世紀末大都でカトリックを布教
聖職叙任権闘争
教皇[14 ]が皇帝[15 ]を破門(1076)
皇帝が教皇に謝罪「(16 )」(1077年)
(17 )協約(1122年)教皇が叙任→皇帝が俗権の付与
教皇権の絶項期
13世紀初 教皇[18 ]
独皇帝・英王・仏王を次々に破門 第4回十字軍を提唱
フランチェスコ会を承認
空欄
1 ベネディクトゥス
2 グレゴリウス1世
3 アタナシウス
4 レオン3世
5 聖像禁止令
6 ラヴェンナ
7 レオ3世
8 クリュニー
9 シトー
10 フランチェスコ
11 プラノ=カルピニ
12 ルブルック
13 モンテ=コルヴィノ
14 グレゴリウス7世
15 ハインリヒ4世
16 カノッサの屈辱
17 ヴォルムス
18 インノケンティウス3世
補足
① 修道士と修道院
修道士とは世俗を離れて、清貧と純潔(禁欲)を守り、祈りの生活を送る(神への服従)ことでイエスや使徒の「似姿」になることを実践し、死後の救済を追及する人々のことを指します。
帝政時代には棄教を拒んで殉教するものが後を絶ちませんでした。殉教は「イエスの似姿」どころか「イエスの生き方そのもの」だからです。
313年にキリスト教が公認されるとローマ帝国から迫害を受けることがなくなりました。修道士の修行は自らの「迫害」であり「生きる殉教」とも考えられます。
アフリカの砂漠で禁欲生活を送った聖アントニオが修道士の起源とされています。しかし個人が単独で厳しい生活を送ることは困難です。そこで修道士たちが集団で修行を行うようになり、さらに共同生活を営むようになりました。これが修道院です。
東ゴート王国統治下のイタリアで、529年頃ベネディクトゥスがローマ近くのモンテ=カシーノの山頂に修道院を建てました。彼は生活規範として独自の戒律を定め、手労働と定時の祈りを重視し、周辺の幼児を修道士として受け入れる手続きを整えました。
しかしベネディクトゥスの死後ランゴバルド人の侵入でモンテ=カシーノは破壊され、9世紀初頭まで再建されませんでした。
ベネディクトゥス会則に「祈れ、働け」とあります。労働はギリシア・ローマでは奴隷のすること、旧約聖書の創世記では「お前のゆえに, 土は呪われるものとなった. お前は, 生涯食べ物を得ようと苦しむ.、……お前は額に汗してパ ンを得る, 土に返るときまで」 と労働は人間の堕罪に対する天罰と描かれます。
これに対してベネディクト会の修道士は手の労働をその共同生活の単なる必要悪としてではなく、彼らの修行の一環、精神的に価値のある一部とみなしていました。
聖ベネディクト修道院の日課『山川詳説世界史図録』p.85を参考に作成
1月1日の例 | 6月20日の例 | ||||
起床 | 2:00 | 起床 | 1:00 | ||
夜課 | 2:10 | 3:30 | 夜課 | 1:00 | 2:00 |
読書 | 3:30 | 5:00 | 讃課 | 2:15 | 3:00 |
讃課 | 5:00 | 5:45 | 読書 | 3:00 | 4:30 |
読書 | 5:45 | 8:15 | 労働 | 4:30 | 9:15 |
労働 | 8:15 | 14:30 | 読書 | 9:30 | 11:30 |
昼食 | 11:45 | 12:30 | |||
午睡 | 12:30 | 14:00 | |||
昼食 | 14:30 | 15:15 | 労働 | 14:00 | 18:30 |
読書 | 15:15 | 16:15 | |||
晩課・軽い夕食 | 16:15 | 16:45 | |||
就寝 | 17:15 | ||||
晩課 | 18:30 | 19:00 | |||
夕食 | 19:00 | 19:30 | |||
終課 | 19:30 | 20:00 | |||
就寝 | 20:00 |
ΣΣ(゜ロ゜屮)屮 早寝・早起き、祈りと勉強と労働!
(▽〃)。oO 夏は労働の間にお昼寝の時間があるんやね…。
各地で建設された修道院で修道士は信仰生活だけでなく農業や手工業などを行いました。森を開墾して農地を作り、生活の糧であるパンやミサには欠かせないワイン造りも行っていました。いわば中世のテクノクラートです。
しかし、その結果「清貧」をモットーとする割には財産が大きくなり、ヴァイキングの略奪の標的になったり、清貧を重んじる信者からの非難の的にもなりました。クリュニー修道院はこうした修道院の腐敗に対する改革運動の中で生まれました。
聖像禁止令はこちら
bunbunshinrosaijki.hatenablog.com
カールの戴冠はこちら
bunbunshinrosaijki.hatenablog.com
参考
2)クリュニー修道院は改革派?
ゲルマン人の王族・貴族たちがキリスト教に改宗すると、彼らは政治的な立場を宗教で正統化しようと考えました。
特に部族の力が強いドイツ(東フランク)は有力者が林立したため、ドイツ王(オットー1世のザクセン朝、ハインリヒ4世のザリアー朝)は私有教会や私有修道院を建設し、王に忠実な聖職者を長を任命して王国の統治機関としました(帝国教会政策)。
当時のヨーロッパの王は神聖を帯びていると考えられていて、王が教会を建築し、その長を任命することは当然のことと受け止められていました。マルク・ブロックの『王の奇跡』によると、国王には「るいれき」(瘰癧)を治す力があると信じられていたそうです。
たしかに教会を建設すれば寄進が集まり、十分の一税などの税収も見込めます。また修道院を誘致すれば修道士が開墾で財産を築いてくれます。さらに聖職者は結婚が禁止されているので土地を世襲する心配もありません。
9世紀にフランク王国が分裂し、イスラーム、ヴァイキング、マジャール人の活動でヨーロッパは再び動乱の時代を迎えます。防衛のために俗人の貴族が教会や修道院を支配し、中には妻子を持ったり兵士や猟犬(∪^ω^)を抱えるなど、世紀末列伝状態でした。ローマ教会(教皇座)も教皇の地位に貴族が干渉し、血みどろの争いを繰り広げていました。
こうした戦乱の中で国王や貴族が教会や修道院を私有し、聖職者や修道士の生活にも妻帯や聖職売買(シモニア)がはびこりました。
これに対してベネディクト戒律を遵守する修道院を再建しようとする動きが各地で起こります。そのひとつが909年、アキテーヌ侯によってブルゴーニュの荘園内に建てられたのがクリュニー修道院です。
かつてのクリュニー修道院聖堂跡に唯一残された南翼
クリュニー修道院の創建文書には、ローマ教皇に負担金(今で言うロイヤリティー)を支払う代わりに、聖俗君主は誰であれ修道院の財産を勝手に売却したり誰かに寄進しないこと、修道士の意に反して修道院長を任命しないこと、と明記されています。修道院のローマ教会や世俗君主からの自立です。
クリュニー修道院はおよそ200年の間にヨーロッパ各地に1,500余りの従属修道院を組織する大修道院に成長しました。成功の秘訣は規律の遵守だけではなく、手労働よりも豪華な集団典礼で修道士の一体感を演出したこと、それを視覚化するために教会建築などの宗教美術に力を入れたことです。
絶え間ない戦乱と死の恐怖と隣り合わせの封建領主たちは、人里離れて祈りを捧げる修道士に「文化」を見出し、魂の救いを求めました。領主からの喜捨で修道院は潤い、時代が進むと幹部は「清貧」を旗印にする裏で贅沢な生活をしていたそうです。
とはいえ修道士たちが「精神文化」を提供した結果、支配層の中でキリスト教が普及し、民衆にもキリスト教が広がりはじめます。またこの改革精神を受け継ぐ教皇がローマ教会の改革を始めました。
一方11世紀末にフランスに建設されたシトー修道会は、クリュニー修道院のような中央集権的組織を取らず、同じ会則に従う各修道院の独立採算制(そのため「修道会」と呼ぶ)で、開墾などの手労働と自給自足の質素な生活を重視し、クリュニー修道院を批判しました。
3)聖職叙任権闘争は欧州大戦の一環?
教会改革を教皇座にとどまらず全西欧規模で行なおうとしたのがグレゴリウス7世です。彼は以前から教会内で問題視されていた聖職売買と妻帯だけでなく、国王の私有教会や司教叙任も批判の対象とし、世俗権力からの「教会の自由」を主張しました。
グレゴリウス改革(ローマ教会会議決議〈1078年〉『世界史史料5 』岩波書店)
第4条 もしだれかある司教が、聖職禄、主席助祭職、主席司祭職または他の教会上の職務を売ったり、あるいは聖なる教父の法規が命ずるのとは異なる方法で授けるのであれば、その者は職務を停止される。なぜなら、当然のこととして、自らが司教職を無償で受けたように、その司教職の手足となる職務を無償で分け与えなければならない。
第 12条 もしだれかある司教が、自らの教区で、司祭、助祭、副助祭の淫行を、または淫乱の罪を、懇願や金銭を受けて認めたり、あるいは自ら確認した罪をその職務上の権威で罰しないのであれば、その者は職務を停止される。
一方ドイツ王のハインリヒ4世は、オットー1世以来の帝国教会政策を進めていました。司教の叙任権の帰属をめぐって両者は対立、ハインリヒ4世は教皇を廃位し、グレゴリウス7世は国王を破門します。
これを見たドイツ諸侯がハインリヒ4世の廃位を画策し、別の王を認証する儀式にグレゴリウス7世の出席を求めました。立場が悪くなったハインリヒ4世は1077年にアペニン山中のカノッサ城に教皇を訪ね、赦免を乞いました。
左下でひざまずく人物(「裸足の懺悔者」)がハインリヒ4世、右上は教皇との和解を取り持ったカノッサ伯マティルデ(マチルダさぁ~ん!)。しかし破門を解かれたハインリヒはドイツに戻って態勢を整え、反撃に転じてグレゴリウスをローマから排除することに成功しています。
その後の十字軍遠征の始まりなどで教皇権が伸長したことを背景に、1122年のヴォルムス協約で教会の自立性が確立され、叙任権闘争は一応の終結をみました。
協約では、皇帝は帝国内における司教と修道院長に対する「指輪と杖による聖職権の授与の権利」を放棄し、俗権授与の権利のみ持つことになりました。ただしドイツ領内の高位聖職者は俗権授与が先なので(非ドイツ地域は教皇による聖職権授与が先)、司教選任に対する影響力は保持していました。
しかしドイツ王とローマ教皇の対立はその後も続き、地中海地域を舞台に衝突と和平を繰り返します。
ローマ教皇はドイツ王以外にもイスラームやビザンツ帝国(1054年にギリシア正教会と完全に分裂)とも争っていました。彼らに対抗する武力を確保するためにノルマン人の傭兵隊長ロベール=ギスカールを南イタリアの君主に任じ(彼の甥が12世紀に両シチリア王国を建国したルッジェーロ2世)、またノルマンディー公ウィリアムの「ノルマン・コンクェスト」(1066年)に許可を与えました。
このように、聖職叙任権闘争はローマ教皇とドイツ王および周辺諸侯、ビザンツ、イスラームとの争いの一断面といえます。闘争の結果、王権がローマ教会の典礼の受容や教皇の支援を自らの正統性の根拠とするようになり、教皇の権威が高まります。
教科書では各所に10世紀(911 962 987 988)、11世紀(1054 1066 1077 1095)と年号が散在しますが、それぞれの事件は「地中海地域における教皇、ドイツ、イスラーム、ビザンツの勢力争い+ノルマン人の加勢」の象徴であり、相互に関連しあっているということです。そしてこの争いが十字軍へと発展します。
まとめ
- コンスタンティノープル教会は東ヨーロッパで布教を進め、現地語の聖書や典礼書をローマ教会に先駆けて作成した。
- ローマカトリック教会とギリシア正教会は1054年に互いに破門し合うが、大組織を持つ2大宗派以外にも独自の教義を守るキリスト教教会がある。
- キリストの似姿を目指す修道士たちは修道院を作り、清貧・貞潔・服従を実践する。ベネディクト会則の「祈れ・働け」は古代世界の労働観を変える契機になる
- 9世紀以降のヨーロッパの分裂と混乱の中王や貴族は教会や修道院を統治機関にしようとした。その結果教会や修道院の私有が進み、同時に世俗化も進んだ。
- 教会や修道院の世俗化に対してクリュニー修道院がベネディクト会則への回帰を主張して教会の自立と典礼の整備を進めた。その結果封建領主の精神面でのキリスト教定着が進み、また教会の改革運動につながった。
- 聖職叙任権闘争はライバルがひしめく地中海世界で政治的自立を求めるローマ教会と、ライバルのひとりであるドイツ王との政治的戦いである。
- 叙任権闘争の結果ローマ教会は政治的自立に成功し、王権の正統性の保障や精神文化として権威を高めた。