はじめに
ひき続き中国文化史の直前チェックをアップします。第2回です。
関西の私立大学の入試問題から、政治史や経済史と関連性が高いものを、うんちく少なめでサラッと復習できるようにしました。
入試が続くと違う大学で同じことが、同じ大学で次の範囲のことが問われたりします。試験直前・直後の復習に使っていただけると幸いです。
世界史Bの教科書(実教出版、帝国書院、東京書籍、山川出版社)、資料集(帝国書院、浜島書店)、一般書(山川出版社の『詳説世界史研究』『世界各国史 中国史』、岩波新書、講談社学術文庫の中国史シリーズ)を参考にしています。
今回はこれを参考にしています。血で血を洗う時代、イモムシがさなぎの中で蝶に変態するかのように、北族と漢族がそれぞれの文化を維持しながら混じりあい、新しい中国の形を作ります。
図版は断りがない限りウィキメディアコモンズパブリックドメインの画像です。
前回
bunbunshinrosaijki.hatenablog.com
目次
4 魏晋南北朝
空欄補充
特徴
*国家統制の弱体、北族と漢族の混交→多様な思想文化が開花
① 宗教
仏教 1世紀頃、西域から伝播→4世紀後半以降に普及
[2 ](5世紀)クチャの僧 前秦~後秦の長安で布教 仏典の翻訳
達磨 5~6世紀 インド僧 禅宗の開祖とされる
慧遠 4~5世紀 東晋 浄土宗の開祖
石窟寺院 (6 )(甘粛)…莫高窟 粘土製の塑像,絵画
(7 )(大同)・(8 )(洛陽)…石窟寺院
[9 ]…道教教団を創始(新天師道)
→北魏太武帝の信任、仏教と対抗して勢力拡大(三武一宗の法難)
② 貴族文化
道徳・規範に拘束されない趣味の世界が愛好される
[10 ]の流行(魏・晋 竹林の七賢)
文学 詩…[11 ](東晋・宋『帰去来辞』) 謝霊運(宋 田園詩人)
散文 四六駢儷体 『(12 )』(梁の昭明太子編纂)
絵画…[13 ](『女史箴図』)
書…[14 ](『蘭亭序』) 楷書・行書・草書の完成
③ 自然科学
『斉民要術』:農業技術書 北魏の賈思勰 6世紀
空欄
1 仏図澄
2 鳩摩羅什
3 法顕
4 グプタ
5 仏国記
6 敦煌
7 雲崗
8 竜門
9 寇謙之
10 清談
11 陶潜
12 文選
13 顧愷之
14 王羲之
補足
① 呪術で政権を権威づける 仏教と道教
京都大学 2021年
中国の「三教」、すなわち儒教・仏教・道教のうち、仏教、道教は大衆にも広く浸透し、中国社会を変容させてきた。仏教、道教が中国に普及し始めた魏晋南北朝時代における仏教・道教の発展、および両者が当時の中国の政治・社会・文化に与えた影響について300字以内で説明せよ。
中国王朝の仏教の受容について現在史実と考えられているのは、1世紀、後漢の明帝の異母兄であった楚王英の仏教信仰に関する記録で、「黄老の微言を誦し、浮屠の仁祀を尚ぶ」とあります。
「黄老」とは黄帝と老子で不老長生を願う信仰、「浮屠」はブッダの音写、道教につながる思想と外来の仏教が「現世利益」の観点から信仰されていたようです。
後漢の時代には西域を通じて経典を翻訳する僧侶(訳経僧)が渡来するようになりました。さらに4世紀に入って遊牧民勢力(北族)が華北に政権を立てると(五胡十六国時代)、仏教は政権を正統化する呪術として利用されました。
クチャ出身とされる仏図澄は310年に洛陽に赴き寺院を建てようとしますが、当時は混乱の時代でした(西晋は永嘉の乱がもとで316年に滅亡)。
彼はその「神異力」で後趙(羯族が建国)の石勒や石虎(『北斗の拳』に出てきそうな無頼者)から国師として崇められ、893の仏寺を建立し、1万あまりの門徒を導いたとされます。仏教が北族だけでなく漢族に対しても布教が許されたのもこの時期です。
仏図澄は「霊能者」で訳経や著述を残していませんが、弟子で漢人僧の道安は前秦の苻堅などに仕え、『般若経』等の注釈を著わして中国仏教の基礎を築きました。
その弟子が東晋で活躍した慧遠で、廬山で活動した後(昇龍波?)、僧侶を支配下に置こうとする東晋王朝とやり合うなど仏教界を指導しました。
北魏を建国した道武帝(太祖、拓跋珪)は大同に都を置き、398年に仏寺仏像の建立を命じ、仏教を国家公認の宗教としました。第二代太宗も仏教に好意的で、僧侶に官位を与えるなど厚遇しました。
太武帝は439年に華北を統一しました。領土が西域にも及ぶと仏教が華北に流入しました。太武帝も最初は太祖・太宗にならって仏教を保護していましたが、宰相で漢人儒者の崔浩はこれを快く思わず、新天師道の寇謙之と結託して太武帝に道教をすすめます。
太武帝はこれを受け入れて道教を国教と定めて王朝の権威とし、廃仏の詔を出して北魏全土にわたって苛烈な廃仏を断行しました。
廃仏の背景には、仏教が政治との結びつきを強めすぎたこと、寇謙之の「神異力」に対する皇帝の信任の他に、遊牧民政権(鮮卑族と北族の連合体)から中華王朝への転換という崔浩の思惑があったと考えられます。
しかし崔浩は歴史書編纂問題が原因で誅殺され、中華王朝への本格的な転換は孝文帝の時代を待つことになります。
太武帝の死後、文成帝が即位して仏教復興の詔が出しますが、郡県ごとに官立寺院が造立されるなど仏教は国家の強い統制下におかれることになりました。
雲崗石窟は、沙門統(仏教教団を統括する国家職の僧官)である曇曜が文成帝に上奏して460年頃に平城(現大同)郊外の断崖に開いた「曇曜五窟」に始まります。
大仏は北魏の皇帝の似姿といわれ威圧的です。祖先にメンチを切られては子孫は破壊できません。卒業生提供
孝文帝は鮮卑族の伝統や北族との紐帯を重視する政策から中国的な礼制で皇帝権力を強化する路線に切り替え、「中国化政策」をとり、胡言や胡服を禁止したり洛陽に遷都しました。また龍門石窟を開きましたが、こちらは柔和な顔つきです。
参考
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/48/1/48_1_224/_pdf/-char/ja
道教は、漢族の生活信条や宗教的信仰を基礎とした宗教のようで宗教でない文化で、漢代以前の巫祝信仰、神仙方術的信仰(始皇帝も方士の不老不死の話に騙された)、民衆の意識を基盤とし、漢代に黄老信仰が加わり、おおむね後漢末から六朝時代にかけて形成されました。
一方「教会道教」は国家や王朝によって公認された道教の教団・教派を指し、張陵の「五斗米道」の系譜をひくとされる5世紀の寇謙之の「新天師道」が、北魏の公認によってはじめての教会道教となりました。
皇帝の即位儀式は必ず呪術性を帯びます。王朝の権威と超自然的パワーは切っても切れない関係、その椅子をめぐってふたつの教団が争いました。
② 戦乱の時代は現実逃避?
陶淵明の下級士族の出身で、門閥が重視された魏晋南北朝時代においては「寒門」に当たります。彼は下級役人として東晋に出仕しますが何度も辞任、同じく「寒門」の鎮軍将軍の劉裕の幕僚にもなりますがそれも辞任、その後劉裕が宋を建国すると仕官を誘われますがそれさえ断り、隠遁生活を送ります。
南朝は「勢族」である貴族層に対して、皇帝が「寒門」の側近を登用して権力を固めようとしますが、皇帝の代替わりで毎回粛清の嵐が吹き荒れます。一時うまい汁を吸えても明日は一族皆殺しかもしれません。そんなところに身を置きたくないでしょう。
『桃花源記』の動画 まさにユートピア 鵜飼いの様子もリアル
③ 文化は戦いのアイテム?
宋や斉では宮廷を中心に貴族文化が花開き、三国の魏に端を発する儒教に老荘思想の影響を受けた「玄学」とそれを下敷きにする「清談」が流行します。
また歴史書(漢委奴国王が出てくる范嘩編の『後漢書』や倭の五王が出てくる沈約編の『宋書』)や謝霊運の山水詩などが生み出され、仏教も盛んでした。杜牧「江南の春」の「南朝四百八十寺 多少楼台煙雨中」は有名です。
北朝と南朝は断続的な戦争状態でしたが、戦争がないときは外交使節が交換され、この時「文化の度合い」が「マウントの取り合い」に使われました。これも時代や地域を越えて見られる現象です。
『女史箴図』の第7図。「女官をいさめる」とか言ってますが、おしゃれに夢中な女官の様子が愛らしく描かれていています。「絶対押すなよ!」です。
5 隋・唐
空欄補充
特徴
*貴族的、国際的。唐中期には個性的で力強い漢以前の手法へ回帰
① 信仰
三夷教:(15 )(ネストリウス派)(16 )(ゾロアスター教)・マニ教
(17 )人の来朝、イラン風俗の流行
→ポロ競技,歌や踊り、(18 )の陶器に反映
仏教…帝室・貴族の保護
[19 ] 太宗の時(7世紀前半) 陸路ヴァルダナ朝へ
ナーランダー僧院で修行 著書『(20 )』
[21 ] 海路インドへ(7世紀半ば)
シュリーヴィジャヤ滞在中に『(22 )』
中国独自の宗派形成
浄土宗(主に平民)・禅宗(主に貴族)の普及
② 周辺諸国への波及
新羅…慶州の(23 )
渤海…首都(24 )
日本…(25 )文化
チベット仏教成立
③ 儒学
隋代に科挙が始まる→。儒教は王朝の統治理念として科挙の試験科目に
訓詁学の再重視 [26 ]の『五経正義』…科挙の公認テキスト
④ 文学 芸術
古文復興…韓愈・柳宗元
絵画
人物画…閻立本:太宗の時代 『歴代帝王図巻』
書道
欧陽詢・虞世南・褚遂良 初唐の三大書家 太宗~高宗
空欄
15 景教
16 祆教
17 ソグド
18 唐三彩
19 玄奘
20 大唐西域記
21 義浄
22 南海寄帰内法伝
23 仏国寺
24 上京竜泉府
25 天平
26 孔穎達
27 杜甫
28 李白
29 白居易
30 顔真卿
補足
① ソグド人がもたらした「舶来」文化
李白の七言絶句「少年行」
五陵年少金市東 五陵の年少 金市の東
銀鞍白馬度春風 銀鞍 白馬 春風を度る
落花踏盡遊何處 落花踏み盡くして何れの處にか遊ぶ
笑入胡姫酒肆中 笑って入る胡姫の酒肆の中
五陵(郊外の高級住宅地)の(有力者の)子弟らが長安の西市東の繁華街を、銀板で飾った鞍をつけた白馬にまたがり、春風を受けて進んでいく、散った花を踏みつくして一体どこへ行こうというのだ、笑いながら入っていくのは胡姫のいる酒場の中だ。
当時の長安は人口100万人といわれ、今でいう「国際色」豊かな文化が栄えますが、中でもソグド人とともにもたらされた西方の文化は人々を魅了しました。李白の詩にある「胡姫」はそのエキゾチックな文化の一端です。
「胡姫」は西方からやってきたソグド人と思われます。イラン系(コーカソイド)は碧眼で彫りの深い顔立ち、亜麻色、栗色の巻き毛に高い鼻です。ボンボンたちは異国から来た高級クラブのホステスとダンサーにときめき、「ドンペリ入りま~す」のごとくさぞかし親の金を溶かしたことでしょう。
参考
ソグド人の音楽や芸能は北朝や隋唐の皇帝・貴族を魅了し、唐を代表する都市文化のひとつでした。動画は胡旋舞。戦闘を模した感じです。
生活面では前代に西方から伝わった椅子とテーブルが、唐代には中国の生活に根付きました。また北方民族の騎馬の風習がひろまり(ズボンも普及)、男性だけでなく女性も馬に乗るようになり、遊戯ではペルシア伝来のポロも貴族の間で流行しました。
日本では「舶来」といいますが、見果てぬ土地の文化に憧れるのは同じです。
こちらも
bunbunshinrosaijki.hatenablog.com
現在の大秦景教流行中国碑(西安碑林博物館所蔵)David Castorさんの撮影。漢字の外には、当時伝導に使用された古体のシリア文字が若干刻されています。
② 科挙が文化を作る
京都大学 2014年
中国の科挙制度について、その歴史的な変選を、政洽的・社会的・文化的な側面にも留意しつつ、300宇以内で説明せよ。
科挙は隋の文帝から始まる試験による官吏任用制度です。それ以前は世襲の貴族が家柄によって官僚になる貴族政治が行われて、九品官人法も上品が門閥貴族に占領されていました。
隋代の科挙は秀才と明経・明法・明算・明書・進士の六科からなり、郷試・省試の二段階でした。唐代には明経と進士が主な科目となり、経典の暗記中心の明経科よりも「詩」と「賦」を主な試験内容としていた進士科が最も尊重されるようになりました。
孔穎達の『五経正義』が科挙の公認テキストなり、儒教の解釈は固定化して学問的な発展は止まりますが(サブカルが政府に取り込まれてつまらなくなったのは大阪のテレビや国際的スポーツ大会で実証済み)、科挙の試験科目に詩賦があることから詩が盛んに作られ、唐詩は中国を代表する文学となりました。
ただし唐代は科挙と平行して門閥貴族の子弟は官僚になることができる制度(蔭位の制)がありました。
下級貴族出身で中国王朝唯一の女帝である則天武后は、密告で上級貴族を次々に処刑し、科挙官僚を重用しました。((((;゜Д゜))))))) この時に採用された科挙官僚が後に玄宗のブレーンとなりました。
儒学が再び学問として発展をはじめるのは、遊牧民の進出で「中華」に危機が訪れる宋代です。
思想が発達するのは動乱の時代 文系頑張れ!
続く