ぶんぶんの進路歳時記

学習方法、進路選択、世界史の話題について綴ります

自宅待機中の自習プリント(江南の発展 10~12世紀)

はじめに

 家庭学習が長引いて何を勉強したらいいか困ってきた人を対象に、入試の定番である中国史を整理していきます。

 中国史に関しては、高校生は教科書の記述通り、王朝ごとの「できた」→「発展した」→「傾いた」→「滅んだ」を4フェーズで整理して比較する(秦は郡県制、前漢は最初郡国制とか)のが鉄板ですが、入試では「マンチュリアの歴史」「中国の経済の中心の移動」のように、地域やテーマで横断的に問われることが、難関になればなるほど増えます。

 今回は江南(長江下流域)の発展について、10世紀~12世紀、いわゆる「唐宋変革」の時代を整理します。時系列じゃないのは大人の事情です。

 教科書(実教出版帝国書院、東京書籍、山川出版社)、資料集(帝国書院、浜島書店)、一般書(山川出版社『詳説世界史研究』『世界各国史』、岩波新書「シリーズ中国史の歴史」)をベースにしています。

 画像は断りがないものはウィキメディアコモンズパブリックドメインのものです。

参考

目次

 

1 11世紀のユーラシア中部~東部の地図

 ぶんぶんは『世界の歴史まっぷDL』の正規会員です。お借りしました。

dl.sekainorekisi.com

f:id:tokoyakanbannet:20210906143355p:plain

2 唐末・五代の江南

① 唐の変質と五代十国

8世紀 (1    )の乱後、節度使が任地で軍閥化…(2    )

 華北にはウイグル吐蕃が台頭 唐の支配基盤は江南に移行

780年 (3    )法…徳宗の時 宰相[4     ]が進言

 現在地の資産に応じて夏・秋2回の課税 銭納+現物

 (5   )の専売…重要な財源→密売も横行

*揚州の発展…遣唐使の渡来。円仁『入唐求法巡礼行記』

875年 (6     )の乱

 黄巣、王仙芝 塩の密売人の反乱が全国に拡大

907年 節度使の[7     ]が即位。(8    )建国 都:開封

北部は後梁ののち沙陀系遊牧王朝(五代)…後唐後晋後漢・後周

後晋契丹に(9        )を割譲する

南部には独立王朝(十国)…江南の開発が進む、海上交易繁栄

空欄

1安史

2藩鎮

3両税

4楊炎

5塩

6黄巣

7朱全忠

8後梁

9燕雲十六州

補足

① 安史の乱後、なぜ唐は約150年持ちこたえたの?

 安史の乱後、唐の支配領域は漢大陸本土に縮小、遊牧世界との境界部にはウイグル吐蕃が台頭します。

 また安史の乱によって当初は辺境におかれた節度使が内地にも置かれるようになり、彼らはその地域で軍閥化します。これが「藩鎮」です。特に河北、河南の藩鎮は反抗的で、任地の税収を私物化します。

 唐王朝は戦火が及ばなかった江南の経済力で王朝をたてなおします。まず塩の専売制を採用します。塩は生活必需品ですが中国の農民の大多数は内陸部に住んでいるので買うしかありません。王朝は塩に高率の税をかけ、莫大な収入を得ました。

 直接税に関しては780年に両税法が施行されます。

 従来の租庸調制は成人男性ひとりあたりに土地を「支給」する代わりに、定額の税を現物(粟や布)を課していました。これに対して両税法は各戸の資産に応じて夏と秋に銅銭(または布)と穀類の二本立てで税を徴収しました。

 人への課税から戸ごとの資産への課税への変化は、均田制が有名無実化し、土地の集積が進んでいたことを追認したことになります。

*発展:徴税時期が夏秋なのは、夏は冬小麦、秋は米や粟の収穫期で、華北では麦、華南では稲の栽培技術が進歩したことが背景にあります。

 さらに兵制では禁軍(皇帝の直属軍)のうち皇帝の護衛部隊(神策軍)を強化しました。こうした財政・軍事の立て直しで9世紀初頭には反抗的な藩鎮を制圧し、節度使の財政・軍事権を削減して唐王朝は持ち直します。

 しかし神策軍は皇帝の私兵と化し、その指揮権を宦官が握ったため宦官の専横が激しくなり、また貴族官僚と科挙官僚の対立もあり、政治は乱れ始めます。

② 黄巣の乱 科挙多浪からアウトロー

 唐末には喫茶の習慣が始まります。その主要な産地は江南で、唐王朝は茶にも効率の関税がかけられ。塩税とともに王朝の重要な財源になりました。

 これに対して塩や茶を密売するアウトロー集団(私塩・私茶商人)が長江中下流域で跋扈しました。宮廷内でも文官が皇帝に贈り物をして私的な関係を築く(幇の関係)ことが横行し、そのため文官節度使が藩鎮兵士への支給品を「中抜き」して反乱が発生するなど、唐王朝を支えた江南の治安が悪化しました。

 875年に私塩商人の王仙芝が河南省で反乱を起こすと黄巣が呼応してたちまち大反乱になりました。黄巣科挙の進士科の受験に何度も失敗した人物で、反乱が塩と茶のアウトロー集団以外も糾合したことがうかがえます。

 反乱軍は山東・河南・安徽を略奪して回り、広州ではムスリムネストリウス派信徒約12万人を殺害し、ムスリム商人は東南アジアに撤退しました。

 その後黄巣軍は洛陽、長安を攻め落とし、年号を「金統」、国号を「大斉」としましたが沙陀突厥の李克用に敗北、黄巣は自殺して884年に反乱は終わりました。

 反乱後、鎮圧にあたった各地の藩鎮勢力が自立して抗争を繰り広げ、朱全忠が勝利して907年に唐は滅亡しました。

塩づくりの様子


www.youtube.com

③ 五代十国

五代十国の地図 玖巧仔さんの作品 Creative Commons Attribution-Share Alike 3.0Unported

f:id:tokoyakanbannet:20210913235102p:plain

File:五代后周形势图(繁).png - Wikimedia Commons

 この時代を「五代十国」と呼ぶのは、北宋の欧陽脩が編纂した『五代史記』の名に由来します。実際には藩鎮勢力はきっちり10国ではないです。

 華北の5王朝のうちの4つは騎馬軍団を擁する「沙陀連合」王朝で、それ以外は様々な出自からなるアウトローが建て、皇帝や王を自称するもの、節度使のままのものなど様々でした。

 君主の権力基盤は禁軍で、その関係を強化するために先述の私的な人間関係(養子縁組で疑似的父子関係を持つ)を結んでいました。このため君主の代替わりごとにもめ事が発生、短命な政権が続きました。

 この時代、各国は経済力を拡大するために領内の農業を振興しました。

 呉越では大規模な水利施設が作られ長江下流域の開発が進みます。この中で新興地主層(形勢戸)が現れます。さらに首都杭州や寧波を拡張して海外交易に乗り出しました。また南唐は淮南塩を経済基盤としていました。

 五代の政権の多くは河南省開封に都をおき、北方で遊牧民勢力と争い続けていましたが、後周は南唐と争って江南に進出、淮南塩を手に入れます。

 こうして河南政権は発展する江南の経済に依存するようになり、それをバックに北方の遊牧民に対抗するという「スキーム」が生まれ、宋に引き継がれます。

 

2 北宋

② 宋の建国

960年 後周の将軍[10      ](太祖)の建国 首都:(11    )

→第2代太宗のとき漢大陸を統一

統治

(12     )主義 藩鎮勢力、武断政治の抑圧

節度使の欠員…文官による補充 皇帝親衛軍(禁軍)の強化

科挙の整備 …州試→省試→(13     )(皇帝の直接試験)

(14     )の台頭…経済力のある新興地主層

 儒教を修め科挙官僚になり(15      )層を形成する

北方勢力との関係

1004年 (16      ) 契丹:聖宗、宋:真宗

 宋と契丹が兄弟の礼 宋が毎年絹・銀を贈る(歳幣)

1044年 慶暦の和約

 西夏が宋に臣下の礼 宋が毎年絹・銀・茶を贈る

③ 王安石の改革…民間活力向上で税収増加を目指す

財政危機…北方民族の圧迫、集権的軍制、官僚の増加

[17      ]の新法…11世紀後半,皇帝[18     ]が起用する

税収増加策

 (19    )法:中小農民への低利の融資

 (20    )法:物価政策と中小商工業者への低利の融資

 (21    )法:物資の買い上げと放出

 (22    )法:職役をやめて雇用制にし、免役銭を徴収して財源にする

富国強兵策

 (23    )法:農閑期に農民訓練  保馬法:軍馬養育

反発…地主や大商人の利益抑圧

→新法党と旧法党[24     ]の対立

空欄

10    趙匡胤
11    開封
12    文治
13    殿試
14    形勢戸
15    士大夫
16    澶淵の盟
17    王安石
18    神宗
19    青苗
20    市易
21    均輸法
22    募役
23    保甲
24    司馬光

補足

① 唐宋改革

 後周の禁軍の長官だった趙匡胤(太祖)が部下に擁立されて即位すると、節度使の権限を削減する一方禁軍を辺境の防衛に当たらせます。

 次に科挙が文臣官僚を補給する最大の手段とします。殿試は太祖が付け加えた最終試験で、皇帝が合格順位をつけます。ここでの不合格はありませんが、高順位で合格すれば高級官僚が約束されました。

 唐の時代は貴族子弟に恩陰(父の官位に従い任官される制度)があり、科挙官僚の活躍は限定的でした。太祖のころはまだ合格者は少なかったですが、2代目太宗のころになると科挙合格者は急増しました。

 科挙は原則すべての身分に開放されていました。受験できるのは経済的に裕福な階層に限定されていましたが、上下の社会的流動性を保証する制度であり、仮に落第しても儒教的素養を持つ知識人、いわゆる士大夫として地域の指導者になり得ました。

 科挙の試験場(貢院)。試験は三日間行われ、受験生は食べ物や寝具持参で受験しました。唐代には試験官に自作の文章を送ってお近づきする行為が広がったので、宋代には答案の記名欄にシールを貼る、答案を書き写して筆跡で受験者が特定できないようにする、など対策が取られました。

f:id:tokoyakanbannet:20210914185221j:plain

 こうして唐中期から宋の太宗の時代にかけての社会が大きく変わります、これを「唐宋変革」と呼ぶ場合があります。まとめるとこんな感じです。

  • 貴族層を中心とする律令政治→科挙官僚による君主独裁政治
  • 府兵制(農民の徴用)→募兵制(職業軍人
  • 均田制を前提とする租庸調制→私的所有を前提とする両税法
  • 貴族文化→士大夫や庶民の文化
  • 都市は政治都市が基本→経済が発達で商業都市が発達
  • 朝貢貿易→民間貿易の活発化 中国商人が海外へ赴く
② 王安石の新法

 宋は契丹西夏と盟約を結び平和を維持しましたが、一方で膨大なコストがかかりました。毎年宋が彼らに贈る銀は、彼らがさらに絹を買い付けるために最後は中国に戻ってきましたが、国境付近の治安維持のため大規模な軍隊を常駐させる経費は財政を圧迫しました。

 宋はこの費用を両税法や専売による税収、漕運(江南の物資を大運河で首都開封に運ぶ)でなんとか賄っていました。財政改革を訴える范仲淹(「天下の憂いに先んじて憂え、天下の楽しみに後れて楽しむ」の人)ら若手官僚の意見は通りませんでした。

大運河の様子


www.youtube.com

 王安石科挙に4位で合格しながら地方官を転々としていました。地方官の任を終えて提出した復命書(「万言書」)が評判となり、かねてから王安石に目をつけていた神宗が王安石を宰相に抜擢します。

 財政改革といえば収入を増やして支出を減らすのがセオリーです。保甲法(民兵を増やして募兵を減らす)、保馬法(軍馬を民間で飼育させる)はまさにそれですが、彼はさらに今でいう「政府の経済への介入」を行います。

 当時地主や大商人は高利貸しや投機を行っていて、中小商工業者や農民は窮乏していました。王安石はそれらを政府が行い(市易、青苗、均輸)政府の収入にする一方、中小商工業者や農民にしっかり稼いでもらう(税収も増える)ことを目指します。

*発展:当時政府は人民に徭役(地方の公的業務)を割り当てていました(差役)が、農民の没落を招いていました。王安石は徭役は希望者を募って当たらせ(募役)、給料を支給しました。一方人民からは差役の代わりに免役銭を,従来差役を免ぜられていた官戸(官僚を出した家)や商人からは助役銭を出させ,給料の財源にあてました。

 王安石の狙いは、地主や大商人など宋代に成長した中間層を抑え、人民を直接国家の統制におきつつ政府の収入を増やして北方の遊牧民と対峙する、という「富国強兵」策ですが、旧法派はまさにその中間層の代表で「民業圧迫だ」と批判します。

 政府の経済への介入はどこまでか、というのは古くて新しい話です。

 

3 12世紀のユーラシア中部~東部の地図

かなり昔、HPの方のダウンロードシステムからお借りしました。

f:id:tokoyakanbannet:20210906143525p:plain

4 宋の南渡と江南の発展

④ 宋の南渡(南宋)成立

1126~27 (25    )の変

 金の華北占領,上皇[26    ]・皇帝欽宗の捕捉

 皇帝の弟(高宗),江南に南宋建国(都:(27     )…杭州

対金政策…和平派[28     ]・主戦派([29     ]の対立

1142年 紹興の和議

 (30    )を国境 宋が金に臣下の礼を取り銀・絹をおくる

⑤ 宋代の経済

開封の繁栄:『清明上河図』…開封の繁栄を描く

 黄河と大運河の接点 物流の中心

 海運・河運の発達 江南の物資が運ばれて遊牧民対策に支出される

商業 物流の発達

 商業規制の緩和(常設店舗 夜間営業)

 新しい商業中心地((31    )・鎮)の発生

 同業組合の成立 (32   )(商人)・(33   )(手工業者)

貨幣経済の進展

 銅銭、金銀の地金の使用

 紙幣の流通:((34    )…北宋、会子…南宋

 富裕者の地主化…(35     )に耕作→小作料徴収

江南の開発

 江蘇・浙江・福建地域(長江下流域)「(36    )熟せば天下足る」

 囲田の造成,(37    )稲の導入→稲作の集約化・安定化

 陶磁器(江西省(38      )),茶・絹など特産品の集中生産

対外貿易の発達

 黄巣の乱で広州が壊滅 ムスリム商人はマレー半島に撤退

 朝貢貿易が不振 中国商人が(39    )船で交易に直接参加

 内陸貿易:契丹女真西夏との交易

 南海貿易:東南アジア・インド洋へ

 →チャンパー、三仏斉の朝貢 ムスリム商人が広州・泉州に蕃坊建設

  中国商人も東南アジアに居留地を建設

 東アジア貿易:高麗 日本方面

 →日宋貿易 明州(寧波)に来航 絹織物、宋銭の輸入 禅宗の伝来

 貿易管理機関の(40      )…広州、泉州、明州に設置

空欄

25    靖康
26    徽宗
27    臨安
28    秦檜
29    岳飛
30    淮河 
31    草子
32    行
33    作
34    交子
35    佃戸
36    蘇湖
37    占城
38    景徳鎮
39    ジャンク
40    市舶司

補足

① 秦檜は遊牧民と講和したヘタレ?

 金が北宋を滅ぼし、秦檜は北へ連行されますがその後帰国し、高宗の信任を受けて宰相になり和平を訴えます。しかし当時は岳飛を初めとする対金戦で軍功を挙げた武官が台頭しており、主戦派と和平派が激しく対立しました。

 秦檜は1138年に第一次和議を成立させますが不調で戦闘再開、主戦派の将軍たちはこれまでとは打って変わって次々と金軍を撃破、中でも岳飛の活躍はめざましく、開封の目前まで迫りましたが、高宗は戦闘中止を命じます。

 秦檜からすれば。主戦派の将軍(彼らは正規軍ではなく私兵を率いる軍閥)が勝ちすぎるのは将来の和平を考えると好ましくありません。秦檜は執拗に主戦論を語る岳飛を謀殺し、宋が金に服従するという和議を結びます。

 この後秦檜は宰相として十数年間権力をふるいますが、その間税制を改革し、金との国境沿いに補給基地を設け、正規軍を再建しました。

 中国の正史では、金と同じ女真の清の歴史書では秦檜に好意的ですが、他のものはひどい言われようをしています。

 なお明代に作られた岳飛廟の参道には鎖につながれた秦檜夫婦の鉄像があり、唾を吐いてOKでしたが、現在は禁止されています(画像なし)。

こちらも参照

bunbunshinrosaijki.hatenablog.com

『桃鳩図』は徽宗の筆になると伝えられる院体画の傑作の一つ。徽宗は宮廷画院の振興・改革に尽力し、自らも書画の才能を発揮しています。政治家としては、明代成立の『水滸伝』では側近に踊らされてたり、庭園造営に用いる大岩や木を遠く南方より運河を使って運ばせた(花石綱)など散々な言われようです。実際に宮廷では新法党と旧法党が激しい党派争いを繰り広げていて、徽宗は新法よりだったそうです。

f:id:tokoyakanbannet:20210915001324j:plain

宋代の経済についてはこちら

bunbunshinrosaijki.hatenablog.com

 

まとめ

  • 安史の乱以降、唐は遊牧民節度使に押されるも、江南の経済力を背景に資産に対する課税や塩の専売で国政を立て直した。
  • 唐が滅亡して北は遊牧民、南はアウトローが群雄割拠する時代になるが、その間旧来の貴族は没落、江南の開発が新興地主層によって進められた。
  • 宋は節度使の勢力を削減する一方禁軍を強化し、科挙官僚を採用して君主独裁体制を構築した。形勢戸とよばれる地主層が科挙を通じて政界に進出し、儒教の素養を持つ士大夫が貴族に代わって新しい支配層となった。
  • 宋は江南の経済力で契丹西夏と対抗しようとしたため、首都開封と江南を結ぶ水運、海運が発達し、都市経済が発達した。江南の開発も進んだ。