ぶんぶんの進路歳時記

学習方法、進路選択、世界史の話題について綴ります

国公立私立世界史直前チェック(イスラーム王朝の領域、都市の位置)

はじめに

 2025年度共通テスト「世界史探究」の正答率を見ると、受験生はイスラームの王朝や都市が苦手のようで、「14世紀」から「マムルーク朝」を答える問題の出来が悪く(正答率39%)、「アズハル学院」から「カイロ」を選ぶ問題もいまいちでした(同60%)。

 今回は苦手さんのためにイスラーム王朝の範囲や都市の位置を復習します。

 啓隆社さんから「記号なし白地図」の使用OKというありがたいお声を頂戴しましたので(ブログも閲覧いただき感謝)、それにぶんぶんが下手な手書きを加えました。

 本文は実教出版山川出版社の世界史探究の教科書を参考にしています。

啓隆社

www2.keiryusha.co.jp

姉妹品 イスラーム文化

bunbunshinrosaijki.hatenablog.com

目次

 

1 イスラーム成立~正統カリフ時代

濃い色がムハンマド時代、薄い色が正統カリフ時代の領域

A:(1    )…ムハンマドが622年に聖遷(2    )を行った場所

B:(3    )…(4     )地方の交易都市。クライシュ族が支配

C:(5      )の戦い…642年、ウマルが(6    )朝を破る

*どうしてイスラームは拡大したの?

 ムハンマドが死ぬと盟約を結んでいた部族が離反します。アブー・バクルが彼らを討伐してひとまずウンマの解体は回避しますが、歴代カリフはアラブ部族の関心を対外戦争に向けさせ、そこから得られる戦利品で彼らをつなぎとめようとしました。「一神教を信じる我々こそ正義ぃぃぃ!」は征服を正当化する大義名分です。

 ササン朝ビザンツ帝国の争いで周辺各地が疲弊していたこと、東西キリスト教会の対立でエジプトやシリアの社会が混乱していたこともアラブ部族の征服が成功した背景です。

 多くのアラブ人は家族とともに支配地に作られてたミスル(軍営都市)に移り住み、これら地域の新たな支配層になりました。不安定な牧畜生活よりも戦争で一攫千金は魅力的です。

空欄

1:メディナ 2:ヒジュラ 3:メッカ 4:ヒジャーズ 5:ニハーヴァンド 6:ササン

2 ウマイヤ朝時代

D:(1    ):シリア総督(2    )の根拠地でウマイヤ朝の都

E:(3       )地方:8世紀にウマイヤ朝が進出

F:(4      )地方:現地(5     )人の改宗がはじまる

G:(6      )の戦い:732年、フランク王国宮宰(7     )と争う

イラン系ムスリム

 ソグディアナ地方はアラル海に注ぐアム川とシル川にはさまれた地方です。ここを原住地とするイラン系のソグド人は各地にコロニーを形成して東西交易で活躍していました。8世紀初めにウマイヤ朝がソグディアナに進出、751年にアッバース朝が唐にタラス河畔の戦いで勝利すると、この地のトルコ人イスラーム化が進みました。

 ソグド人は世界史の教科書ではいつの間にかフェードアウトしますが、イラン系ムスリムとしてその後も活躍します。

 イランの東北部からアフガニスタントルクメニスタンにかけての一帯はホラーサーンと呼ばれ、正統カリフ末期からウマイヤ朝にかけてイスラームが広まりました。しかし新改宗者(マワーリー)が差別に反発してアッバース革命に協力、アッバース朝では軍人や官僚として王朝を支えました。

参考

bunbunshinrosaijki.hatenablog.com

空欄

1:ダマスクス 2:ムアーウィヤ 3:ソグディアナ 4:マグレブ 5:ベルベル

6:トゥール・ポワティエ間 7:カール=マルテル

3 アッバース朝と三カリフ鼎立時代

あ:(1    )朝 756年にウマイヤ朝の一族が建国。首都J(2    )。

い:(3    )朝 909年にチュニジアに建国 969年にエジプト支配

→首都I(4    )。(5     )学院は最古の高等教育機関

H:(6     ) アッバース朝の首都。(7      )川の西岸

う:(8    )朝 8世紀、イラン系スンナ派地方政権 都:ブハラ

え:(9     )朝 イラン系シーア派。964年にHに入城。

アッバース朝カリフから(10    )の称号を得る

バグダードの「四つの口」

 バグダードは762年にアッバース朝第2代カリフのマンスールによって新都に定められました。人口100万人を超える、長安と並ぶ当時世界最大の都市でした。

 円形の城壁の南西に「クーファ門」(アラビア半島方面)、北西に「シリア門」(東ローマ帝国方面)、北東に「ホラーサーン門」(中央アジア方面)、南東に「バスラ門」(インド洋方面)があり、9世紀前半に建設された「知恵の館」ではギリシアの学問がアラビア語に翻訳されるなど、バグダードは交易と文化の結節点でした。

 8世紀のアッバース朝最盛期のカリフであるハールーン=アッラシードが登場する『千夜一夜物語』が各地の説話の集大成なのも納得です。

 バグダードの古地図。パブリックドメインの画像

 コルドバのメスキータ。西ゴート王国時代のキリスト教会がウマイヤ朝になってモスクとしても利用され、10世紀に拡張工事が行われました。13世紀にキリスト教徒がコルドバを奪うとモスクはカトリックの聖堂に転用されました。卒業生提供。

空欄

1:後ウマイヤ 2:コルドバ 3:ファーティマ 4:カイロ 5:アズハル 

6:バグダード 7:ティグリス 8:サーマーン 9:ブワイフ 10:大アミール

4 11世紀 トルコ系の西進

お:(1    )朝:1055年にバグダード入城。(2    )の称号を得る

か:(3    )朝:トルコ系。東西トルキスタンの支配とイスラーム

き:(4    )朝:トルコ系。10世紀にアフガニスタンに建国

く:(5    )朝:ベルベル人が建国。都:マラケシュ ガーナ王国を攻撃

セルジューク朝は十字軍と戦った?

 セルジューク朝スンナ派神学を保護し、神秘主義を容認したガザ―リー、自分の名を冠したニザーミーヤー学院を建てたイラン系の宰相ニザーム=アル=ムルク、また『ルバイヤート』を著しジャラリー暦の作成に参加したウマル=ハイヤーなど文化人を輩出しました。

 地図を見るとシーア派ファーティマ朝が健在で、彼らに対抗するためにスンナ派が保護されたと考えられます。

 11世紀後半にファーティマ朝セルジューク朝の攻撃でシリアから後退、しかし11世紀末にはセルジューク朝の分裂に乗じてイェルサレムを占領しました。第1回十字軍はセルジューク朝東ローマ帝国アナトリアに進出したことがきっかけですが、十字軍がイェルサレムで戦ったのはファーティマ朝の軍勢でした。

空欄

1.セルジューク 2.スルタン 3.カラハン 4.ガズナ 5.ムラービト

5 12世紀 十字軍の時代

け:(1      ):契丹の一族耶律大石が中央アジアに逃れて建国

こ:(2        )朝:トルコ系マムルークがアム川下流に建国。イランに支配地を広げるもチンギス=ハンに滅ぼされる

さ:(3     )朝:イラン系とも。北インドに侵入を繰り返す

し:(4     )朝:ヨーロッパ勢力の(5      )と争う

す:(6     )朝:クルド系の(7      )がスンナ派を回復

 シリアに進出しイェルサレムを奪う。第三回十字軍と争う

*コンヤは最高?

 セルジューク朝内で地方政権が分立したうち、アナトリアを拠点としたのがルーム=セルジューク朝です。「ルーム」はローマの意味で、アナトリアがかつてローマ帝国の支配地であったことにちなみます。首都は公会議で有名なニケーアでしたが、第一回十字軍にその地を奪われるとコンヤに都を移しました。「踊るスーフィー」(前述「イスラームの文化」の回に動画リンクあり)で有名なメフレヴィ―教団はコンヤが拠点です。

 ルーム=セルジューク朝はシリアの十字軍国家救援に向かった第二回十字軍を消耗させますが、その後地方勢力が分立します。こうしてアナトリアのトルコ化とイスラーム化が進み、後のオスマン帝国台頭を準備しました。

 コンヤはリディア時代からの都市で、アレクサンドロス大王のアケメネス朝征服の後にセレウコス朝支配下に入り、ギリシア語で「イコニオン」と呼ばれました。その後ローマ帝国に組み込まれ、パウロの布教でキリスト教が広まりました。まさに文明の十字路で、モスクもイスタンブルっぽいです。パブリックドメインの画像。

十字軍国家とイスラームの争いについて

bunbunshinrosaijki.hatenablog.com

空欄

1:西遼(カラ=キタイ) 2:ホラズム=シャー 3:ゴール 4:ムワッヒド

5:レコンキスタ 6:アイユーブ 7:サラーフ=アッディーン

6 13世紀 バグダードからカイロへ

せ:(1    )朝:十字軍とモンゴルを撃退。メッカ・メディナの保護権

そ:(2    )ウルス(イル=ハン国):(2 )がアッバース朝を滅ぼす

→第7代(3      )、イスラームを国教とする

た:(4    )王朝:(5     )が建国 北インド支配

ち:(6    )朝:都(7      )。アルハンブラ宮殿

*最強国家マムルーク朝

 1250年、アイユーブ朝マムルークのクーデタで滅亡し、マムルーク朝が樹立されました。マムルークのひとりであったバイバルスルイ9世の十字軍を破り、またフレグ・ウルスの軍勢を撃退しました。

 スルタンになったバイバルスは1258年に滅亡したアッバース朝の一族をカイロでカリフに擁立し、メッカ・メディナを支配することでイスラームの正統な支配者であることを示し、1291年には十字軍をシリアから駆逐しました。

 こうして破壊されたバグダードに代わってカイロがイスラーム世界の政治・経済・文化の中心となり、マムルーク朝ではイクター制が整えられ国際商業が繁栄しました(カーリミー商人)。

 しかし14世紀にはペストが流行して人口は激減し、マムルークの内紛やティムール朝オスマン帝国との争いが続いてマムルーク朝は衰退しました。

 Amir al-Maridaniのモスクの中庭。カイロ。パブリックドメインの画像

空欄

1:マムルーク 2:フレグ 3:ガザン=ハン 4:奴隷 5:アイバク 6:ナスル 7:グラナダ

7 アフリカ

つ:(1    )王国:西アフリカ産の(2  )や象牙、(3    )などが

 地中海の物資やサハラ産の(4     )と取引された(塩金貿易)。

て:(5     )王国:14世紀、国王(6         )のもとで繁栄

と:(7     )王国:15世紀後半にマリ王国に代わる

 セネガル川、ニジェール川上流域にある金の産地を支配 イスラームを受容

 K:(8     )は交易都市、学術都市として発展

な:(9     )文化圏:バントゥー系の文化とイスラーム文化が融合

ザンベジ川流域:L:(10      )石造建築群 ムスリム商人と交易

(11      )王国:11~15、15~19世紀 インド洋交易で栄える

*マンサ=ムーサは地元では不人気?

 ぶんぶんは国立民族博物館で吟遊詩人の展示を鑑賞しましたが、マリ王国の建国叙事詩「スンジャタ」を語り継ぐのが「グリオ」と呼ばれる吟遊詩人です。

 マンサ=ムーサは、14世紀の旅行家イブン=バットゥータの『旅行記』の記述(メッカに巡礼に行く途中、カイロで喜捨をし過ぎてカイロ市内の金の価格が暴落した)で世界史の教科書に載るほど有名ですが、「グリオ」が口承で伝える王の系譜の中では扱いが小さいそうです(Wikipediaおよび博物館の展示より)。

 グリオが語る始祖の活躍はマリの人々のアイデンティティの拠り所になっていますが、外面はよくても浪費癖のあったマンサ=ムーサは「誇るべき祖先」に該当しないということでしょうか。 

 1375年に作られた世界地図の一部。金を持つマンサ=ムーサとマグリブから来たムスリム商人が描かれている。パリ国立博物館蔵の二次元コピーでパブリックドメイン

参考

bunbunshinrosaijki.hatenablog.com

 ジェンネはニジェール川の支流に浮かぶ島に建設された都市で、南北交易の結節点としてガオやトンブクトゥと並んで繁栄しました。泥でできたモスク。アメリカの公務員が撮影したのでパブリックドメイン

 西アフリカではその後奴隷貿易が盛んになりますが、ベニン、ダホメ、アシャンティ、ボルヌ王国の位置はこちらの記事の最後を参照。

bunbunshinrosaijki.hatenablog.com

空欄

1:ガーナ 2:金 3:奴隷 4:岩塩 5:マリ 6:マンサ=ムーサ 7:ソンガイ

8:トンブクトゥ 9:スワヒリ 10:ジンバブエ 11:モノモタパ

8 東南アジア

M:(1     ):最初アユタヤ朝に服属していたが、15世紀に(2    )の南海遠征の基地になり明に朝貢。遠征終了後に王がイスラームを受容

N:(3     )海峡:1511年にポルトガルがマラッカを占領すると、ムスリム商人はここを通るルートも使うようになる。その結果O:(4    )、R:ジョホール、P:(5    )などのイスラーム港市国家が発展した。

Q:(6     ):16世紀にジャワ島でヒンドゥー教国の(7     )王国が衰退した後成立したイスラーム国家。農業生産で発展

アチェに「イスカンダルの女王」?

 マラッカがポルトガルに占領されると、以降はポルトガルイスラーム港市国家がマラッカ海峡の交易の支配をめぐって争いました。中でもアチェスマトラ島の胡椒貿易を独占し、オスマン帝国とも取引していました。

この王(注:第3代スルタン)こそ、アチェ・ダルスサラム国の統治制度を創設し、イスラームの侵攻を強化するために、イスタンブルの王国であるルム(注:オスマン帝国)のスルタンの元へ施設を派遣した国王である。ルムのスルタンは各種の職人と火器を作るのに秀でた職人を送ってきた。それで、この王の時代に大砲が鋳造されたのである。歴史学研究会編『世界史史料4』より

バンダ・アチェの大モスク、マスジット・ラヤ・バイトゥルラーマン。パブリックドメインの画像。

2025年共通テスト「歴史総合・世界史探究」追試より

 アチェの第14代スルタンであるタージ・ウル・アラムは4代の女王の最初です。父である第12代スルタンのイスカンダル・ムダ(「若きアレクサンドロス」の意味)はマレー半島への出兵を繰り返し、反対者に対する弾圧で名を馳せました。

 彼はマレー半島のパハンを征服し、捕虜にしたイスカンダル・ターニーを養子にして後継者とし、娘アラムと結婚させました。しかしムダとターニーが相次いで亡くなり、有力者の協議でアラムが1641年にスルタン位を継ぐことになりました。

 ん~? イスカンダル(の娘)の女性君主? スターシャ?

 いかん、頭の中でスキャットがループする。川島和子さんのは貼れないのでこれを。


www.youtube.com

 共通テストの問題は「有力者がスルタンの死を契機にその権利を制限しようとして女性のスルタンをたてた」という従来説にもとづいていますが、東南アジアでは女系相続を認める伝統があるのでそれが優先されたとする意見もあります。

 実際に女性スルタンの時代は王権は弱体化して象徴的な存在となり、実権は地方の有力者や宗教指導者に移り、他方オランダ東インド会社の圧迫が強まります。ただし女王たちは国内勢力の自立と外圧に譲歩しながらも独立を保ったいう見方もあるようです。(ここまでWikipediaの英語版を参考)。

en.wikipedia.org

空欄

1:マラッカ 2:鄭和 3:スンダ 4:アチェ 5:バンテン 6:マタラム 7:マジャパヒト

付録 タテ整理でおさらい

括弧の中は世紀を特定する年代語呂合わせ

(1)エジプト

(1  )世紀 イスラームが(2     )から奪う(浪人になるムハンマド

(3  )世紀 (4     )朝の支配(カリフの位くれくれ)

(5  )世紀 (6     )朝(第4回十字軍(1202年)の前)

(7  )世紀 (8     )朝(モンゴルと争った)

(9  )世紀 (10     )帝国の支配(スレイマン1世の一代前)  

(2)イラン:・イラク

(11  )世紀 (12     )朝がパルティアを破る(軍人皇帝と争う)

(13  )世紀 ウマルがササン朝を破る(虫に刺されてニハーヴァンド)

(14  )世紀 アッバース朝成立(しつこい油を紙で拭く)

(15  )世紀 (16     )朝がバグダード入城(カリフ苦しむ)

(17  )世紀 (18     )朝がバグダード入城(はいれGOGO)

12世紀 ホラズム=シャー朝の支配

(19  )世紀 フレグがアッバース朝を滅ぼす(一気にご破算)

(20  )世紀 ティムール朝(モンゴル解体後)

 アフリカは「砂漠はがまん」(ガーナ→マリ(イブン=バットゥータはマルコポーロの後なので14世紀)→ソンガイ)、イベリア半島は「いや村人にひどいことをなさる」(後ウマイヤ→ムラービト(11世紀 入れ頃)→ムワッヒド→ナスル)で覚えましょう。

空欄

1:7 2:東ローマ帝国 3:10 4:ファーティマ 5:12 6:アイユーブ 7:13 8:マムルーク 9:16 10;オスマン帝国 11;3 12;ササン朝 13;7 14;8 15;10 16;ブワイフ 17;11 18;セルジューク 19;13 20;14

 受験生の最後の頑張りを応援しています。\\\\ ٩( ‘ω’ )و ////