はじめに
家庭学習用の大量のプリントをもらってお困りの方対象に「19世紀のアジア・アフリカ諸地域」について整理します。
今回は「西アジアの民族運動」、中心はオスマン帝国(トルコ共和国)とイランについてです。今回の問いは「近代化にはイスラームか脱イスラームか?」です。
教科書(実教出版、帝国書院、東京書籍、山川出版社)、資料集(帝国書院、浜島書店)、一般書(山川出版社『詳説世界史研究』同『世界近現代全史』『世界各国史』)をベースにしています。
図版は断りがない場合はウィキメディアコモンズ、パブリックドメインのものです。
アフガーニーの生きざまがアツいです。
目次
1 イスラームと民族運動
① パン=イスラーム主義
[1 ]:イスラームの自己改革と団結を主張
弟子のムハンマド=アブドゥフとともにパリで『固き絆』発行
→(2 )主義の広まり
アフガーニーの影響
エジプト:ウラービー運動(1881~82)アブドゥフが参加
イラン:1891年 (3 )=ボイコット運動
② オスマン帝国
1839年 (4 ):司法・行政・財政・軍事の西欧化改革
帝国に住む人を宗教・民族の別なく「オスマン人」とする(オスマン主義)
1876年 (5 )憲法:諸宗徒の平等を認める
スルタン[6 ]、憲法を停止
列強による財政管理 鉄道建設 1903年 (7 )鉄道建設開始
1908年 (8 )革命
1908年 ブルガリア独立、オーストリアがボスニア・ヘルツェゴヴィナ併合
1911年 イタリア=トルコ戦争 第一次バルカン戦争
領土縮小の中でトルコ主義を主張→帝国内の非トルコ系の離反
③ イラン
18世紀末 (10 )朝成立 首都(11 )
1828年 (12 )条約
1848年 (13 )教徒の反乱
サイイド=アリー=ムハンマド 救世主(マフディー)を自称
1891年 タバコ=ボイコット運動
1906年 立憲革命
→1911年 ロシア軍の介入 議会の閉鎖
④ アフガニスタン
18世紀半ば ドゥッラーニー朝
イギリスと三度にわたる(14 )戦争
第二次 英、アフガニスタンの外交権を得る インドとの国境策定
第三次 独立達成(1919年)
空欄
1アフガーニー
2パン=イスラーム
3タバコ
4タンジマート
5ミドハト
6アブデュル=ハミト2世
9進歩と統一
10カージャール
11テヘラン
12トルコマンチャーイ
13バーブ
14アフガン
補足
① アフガーニーとパン=イスラーム主義
アフガーニー(1838/39~97)の本名はセイエド= ジャマーロッディーン= アサダーバーディーです。イラン出身ですが、スンナ派・シーア派の枠を超えた活動を展開したこともあり、「アフガニスタン出身」と称しました。
*「イスラミック・ステート」の中心人物もテロ集団の結集のため「バグダーディー」と称していました。
彼は『クルアーン』やハディースの伝統的な解釈に固執するウラマーに対して、『クルアーン』には努力と変革の必要性が書かれてある、新時代に合った解釈が必要と訴え、ムスリムの内部改革と同時に帝国主義への抵抗のためにムスリムが団結すること、後に言う「パン= イスラーム主義」を提唱しました。
彼は大反乱前後のインドに赴き、近代科学に触れると同時にイギリス植民地主義の脅威を目の当たりにしました。彼はムスリムが団結してヨーロッパに対抗するためにはその文化を学ぶべきと考え、オスマン朝・エジプト・インド・フランス・ロシア・イランを歴訪します。
エジプト滞在時(1871~79年)には立憲主義的改革を求める知識人・官僚らの組織化に関与しますが、イギリスと副王から嫌われてエジプトを追われます。しかし彼の活動はのちのウラービー運動の思想的基盤を築きました。
アフガーニーはパリに移り、ウラービー運動に参加し国外退去になった弟子のムハンマド=アブドゥフと合流して政治評論誌『固き絆』を発行し、カリフであるオスマン帝国のスルタンを中心にムスリムが大同団結して列強に対抗することを訴えます。
*発展:今はSNSを利用した呼びかけは普通ですが、伝統的なイスラーム教育は教師との直接対話でした(主体的で対話的(以下略))。
印刷技術の発達により、印刷物によってイスラームの知識を広めることが容易になります。その端緒が『固き絆』でした。また1870年代には汽船海運業の発達が進み、特にオランダ船による東南アジアからの直通航路開通によりメッカ巡礼が急増しました。
こうしたメディアや交通の発達がムスリムの意識改革を促します。
汽船のイメージ図。イギリス船籍の「シティ・オブ・ベルリン」。1874年進水の大西洋航路用客船
その後アフガーニーはカージャール朝イランに招かれますが、政府の「利権の切り売り」を批判して国外退去になります。
次にアフガーニーはオスマン帝国のアブドゥルハミト2世に招かれます。
スルタンは当時専制政治を敷いていて、自らカリフを名乗り、ムスリムの団結を訴えて帝国内の非トルコ系ムスリムと国外のムスリム諸民族の支援を取りつけようとしていました。知名度のあるアフガーニーは彼にとって利用できる存在でした。
しかし立憲制など近代化で西欧に対抗しようと主張するアフガーニーと、専制政治のためにカリフの地位を利用しようとする(一見「パン=イスラーム主義」だが実はオスマン帝国の延命を狙った「オスマン主義」)アブデュルハミト2 世との意見は合わず、アフガーニーは幽閉され、病にかかって無くなります。
「イスラーム世界」の存在を強調しその統一をめざしたアフガーニーの思想と運動は挫折しましたが、後世に大きな影響を残しました。
参考
https://kias.asafas.kyoto-u.ac.jp/1st_period/contents/pdf/kb1_1/15hirano.pdf
② 青年トルコ革命
アブドゥルハミト2世の専制期、オスマン帝国の税収をそのまま債務の回収にあてる「オスマン債務管理局」(1881年)が設立され、鉄道・港湾・銀行・公共事業の利権が列強に譲渡され、帝国の植民地化はますます深まりました。
この中で西欧流の教育を受けた青年知識人が立憲制の復活を求めます。彼らは当局の弾圧でパリに活動拠点を移して宣伝活動を展開します。彼らは当時ヨーロッパで活動していた「青年イタリア人」にちなんで「青年トルコ人」と呼ばれました。
1905年にロシアで第一革命が発生し、日本が日露戦争で勝利すると、「青年トルコ」の影響が軍隊にも及び、特にサロニカの陸軍青年将校の中で運動が広まります。
サロニカはバルカン半島最大の貿易港で、後背地のマケドニアにはトルコ人、ギリシア人、ブルガリア人、セルビア人が共存していましたが、19世紀以来「民族」概念が持ち込まれると対立が生じました。
この青年将校たちを中心に1907年に「進歩と統一委員会」が発足、翌年スルタンに迫って立憲制を復活させました。
1881年のバルカン半島。「Salonika」とあります。1878年のサン=ステファノ条約でサロニカはブルガリア領となり、保護者であるロシアがここから地中海に出る腹づもりでしたが、ベルリン条約でブルガリアの領土は大幅に縮小、ロシアの野望はくじかれました。
サロニカの港
「統一と進歩委員会」支持派が選挙で勝利したことに対して反対派がクーデタを起こしますが失敗、裏で糸を引いていたとされるアブドゥルハミト2世は退位に追い込まれます。
こののち議会の権限を拡大する憲法改正が行なわれますが、「進歩と統一委員会」の軍人が裏から政治に口を出すようになります。
*トルコ共和国建国後もたびたび軍部の政治介入が発生します。現大統領のエルドアンはそれをなくして民主主義を回復することを公約に掲げて選挙で勝利しましたが、その大統領が強権的です。
混乱に乗じてブルガリアが独立、オーストリアがボスニアとヘルツェゴヴィナを併合します。1911年にはイタリア=トルコ戦争と第一次バルカン戦争が発生します。
政治的な危機の中で、エンヴェル=パシャら「統一と進歩委員会」はクーデタで実権を握ります。
タンジマート以来帝国は「オスマン主義」(オスマン朝スルタンの元に多様な文化集団が結集する)を採っていましたが、領土が縮小したため政府は「トルコ主義」(トルコ人の言語や歴史を誇りにする)に舵を切ります。
とはいえ帝国の枠を越えて中央アジアのトルコ人(ロシアの圧迫を受けて亡命してくるものもいた)と連帯する「パン=トルコ主義」はロマンの世界、「絶対領域」であるアナトリアの「トルコ民族意識」が強調されはじめます。
これにアラブ人など帝国内の非トルコ系は反発し、分離・独立を求めはじめます。
③ タバコ=ボイコット運動
サファヴィー朝滅亡後のイランでは戦乱が続きましたが、18世紀末にカージャール朝が成立します。しかし各地には遊牧諸部族の有力者が割拠し、南下するロシアとグルジアの宗主権をめぐって争い敗北します。
1828年にロシアとの間にトルコマンチャーイ条約が結ばれると、同様の条約がイギリス、フランスとの間にも結ばれてイランは列強への従属の度を強め、特にロシアとイギリスはイランにおける権益をめぐって激しく対立しました。
カージャール朝もオスマン帝国同様西欧化をすすめますが、外国からの借款が増え、その担保に国内の利権を切り売りしました。イギリスが最初に得たのが電信線の敷設権で、さらに鉄道敷設権、地下資源の採掘権、発券銀行の設立権まで供与しました。
*イランの電信網整備のおかげでイギリスと英領インドの電信網が直接つながります。
1890年に国王はイギリス人投機家にタバコの生産と流通の独占的利益を売り渡してしまいます。これに対して1891年、アフガーニーの働きかけに応じたウラマーが国王が利権譲渡を撤回するまでタバコの使用を禁じるファトワー(宗教令)を発しました。
ファトワーは電信網に乗って各地に伝えられ、タバコ=ボイコット運動が全国に拡大しました。抗議運動の結果国王はタバコ利権の譲渡を撤回、イラン人の民族意識が高まります。植民地支配のためのインフラが民族運動を高揚させたのは皮肉です。
続いてウラマーや商工業者が専制政治に反対して議会開設を要求し、1906年に国民議会が開かれ、翌年初めにはフランス人権宣言の影響を受けた憲法が発布されました。
しかし議会は政治や社会の変革について具体的なプランを欠き、その隙をついて国王は1908年にロシア人の指導するコサック軍を使って議会を解散します。
市民の抵抗でいったん議会は復活しますが、この間イギリスとロシアは英露協商を結んで(1907年)勢力圏を確定し、1911年にロシアの軍事干渉で議会は解散、憲法も廃止されました。
アフガニスタンについてはこちら
bunbunshinrosaijki.hatenablog.com
2 西アジアの近代化と世俗化
2と3はこれを参照。羽田先生登場。
① オスマン帝国
第一次世界大戦で同盟国側で参戦 1918年降伏
1920年 (15 )条約締結…領土の縮小(1/3)
1919~22 ギリシア軍の(16 )侵入
[17 ] (ケマル=アタテュルク「父なるトルコ人」)
1922年 (18 )制の廃止
1923年 (19 )条約
1923年 トルコ共和国の宣言 ケマルが大統領 首都:(20 )
世俗化・近代化政策
政教分離:女性のヴェール、男性のトルコ帽禁止 一夫多妻の禁止
「トルコ民族主義」を統治の原理に
(22 )党による一党独裁体制
② イラン
大戦中,中立維持→イギリス・ロシアの介入
1925年 [23 ]のクーデタ (24 )朝成立 世俗化政策
1935年 イランと改称
③ エジプト
1914年 イギリスがエジプトを正式に保護国化
大戦後戦後(25 )党中心の独立運動が活発化
1922年 エジプト王国の成立
イギリスは保護権放棄も(26 )運河の支配や特権を継続
1936年 エジプト・イギリス同盟条約
完全な主権を回復、スエズ地域の駐屯権継続
空欄
15 セーヴル
16 イズミル
17 ムスタファ=ケマル
18 スルタン
19 ローザンヌ
20 アンカラ
21 カリフ
22 共和人民
23 レザー=ハーン
24 パフレヴィー
25 ワフド
補足
① ムスタファ=ケマル
1914年に第一次世界大戦が勃発するとエンヴェル=パシャらはドイツ側(同盟国。枢軸国ではない)で参戦します。
ロシア領カフカスを目指した作戦では大敗、東部アナトリアに住むアルメニア人を親露的という理由で強制移住させようとして多数の死者を出します。アラビア半島ではヒジャーズのアラブ反乱のように戦後の独立を期待して決起する動きも現れました。
形勢不利なオスマン帝国でしたが、地中海とインドの連絡ルートを脅かし続けます。そこで連合軍はイスタンブルを占領しようとガリポリ半島に集結し上陸作戦を開始しました。これをムスタファ=ケマルが食い止め、彼は英雄として賞賛されます。
1918年にオスマン帝国は連合国と休戦協定を結びましたが、連合国は大戦中にオスマン帝国領の分割を策定していて、休戦協定に違反して各地の占領を開始しました。さらにギリシアが列強の承認を得てイズミルを占領しはじめます。
*セーヴル条約によるオスマン帝国の分割。青はギリシャに割譲。水色ではアルメニア人、濃いベージュ色はクルド人の独立国家が予定されていました。他は凡例を参照。Str1977 さんの作
参考 サイクス・ピコ協定の分割案
これに対して各地で抵抗運動が始まります。ムスタファ=ケマルが残存する兵力をまとめて国民軍とし、1920年にイスタンブル政府がセーヴル条約を結ぶとアンカラにトルコ大国民議会を招集し、1922年にはギリシアをイズミルから駆逐しました。
② トルコ革命の光と闇
トルコ大国民議会は1922年にオスマン帝国の君主の職責をスルタンとカリフに分離してスルタン制を廃止、イスタンブル政府の内閣は総辞職します。翌年にローザンヌ条約を結んで主権を回復、共和国を宣言してムスタファ=ケマルを大統領に選びました。
スルタンのメフメト6世は1922年に亡命してオスマン帝国は滅亡、その従弟がカリフに就任しますが、1924年にカリフ制も廃止されました。
その後ムスタファ=ケマルは政教分離による脱イスラーム化と近代化を進め、同時に国民を結束させるためにトルコ語やトルコ史の研究を奨励し「トルコ人ナショナリズム」を共和国の原理にしました。アヤ=ソフィアも無宗教の博物館になりました。
しかしアナトリアにはクルド人など少数派も存在します。セーヴル条約ではクルド人国家の独立が約束されていましたがローザンヌ条約では破棄され、現在でもトルコ共和国はクルド人の独立を認めていません。
現在政教分離の国是は揺らいでいます。エルドアン大統領はアヤ=ソフィアの再度のモスク化、女性のスカーフ着用解禁、飲酒の販売規制などイスラーム回帰を進めています。裕福な政教分離支持層に対するムスリムの不満を利用しているといえます。
③ イラン、エジプトの世俗化
カージャール朝は第一次世界大戦中は中立を守りましたが、ロシアとイギリスに分割占領され、ロシア革命後は油田の利権を持つイギリスが影響力を強めます。
ソ連と国境を接する北部ではロシア革命に影響されて革命政権が発足、利権を維持したいイギリスが革命の鎮圧にあたった軍人レザー=ハーンを支持します。
彼はクーデタで権力を掌握し、1925年にカージャール朝を廃して自らを王(シャー)として立憲君主政のパフレヴィー朝を開き、イギリスとの不平等条約を破棄して独立します。
レザー=シャーはトルコ共和国にならって脱イスラーム化と近代化を進め、同時に古代イラン文化の研究を推奨して「イラン人意識」を国民統合に利用しました。国号をペルシアから「アーリヤ人の国」を意味するイランに改めたのもその一環です。
エジプトも同様にアラブ民族主義のワフド党政権が誕生しますが、彼らの支持基盤は都市や農村の有産層で、イギリスは彼らの独立を認めて、宗教と結びつく革命運動を抑えて利権を保持する、いわば「クッション」にしたと考えられます。
この世俗化路線に不満なムスリムが1928年にムスリム同胞団を結成し、大衆を相手に社会活動や慈善運動を展開しました。
3 アラビア半島の分割と自立
① イギリスの「三枚舌」外交
1915年 (26 )協定:フサインの蜂起
オスマン帝国への反乱を条件に、戦後のアラブ人独立国家建設を支持
1916年 (27 )協定:英仏露
英仏によるオスマン帝国の分割
1917年 (28 ) 宣言:ロスチャイルドへの書簡
パレスティナをユダヤ人の「ナショナル・ホーム」とすることを支持
② 委任統治領
パリ講和会議でアラブ人の独立国家は認められず
仏がダマスクス占領→敗北したファイサルは(29 )国王に
(30 )統治:国際連盟から委任された国が非独立地域を統治
→旧オスマン帝国領はA式(住民自治を認め早期独立を促す地域)
委任統治国と独立年
イギリス:イラク(1932) (31 )(1946)
*パレスティナ…トランスヨルダンから分離、ユダヤ人の入植が進む
フランス:(32 )(1946) レバノン(1941)…シリアから分離
③ サウジアラビアの独立
1932年 (34 )王国と改称
政教一致体制 1938年 石油の採掘始まる
空欄
26 フセイン・マクマホン
27 サイクス・ピコ
28 バルフォア
29 イラク
30 委任
31 トランスヨルダン
32 シリア
33 イブン=サウード
34 サウジアラビア
補足
過去回
bunbunshinrosaijki.hatenablog.com
① ハーシム家とサウード家
第一次世界大戦が発生するとイギリスはメッカの支配者であったハーシム家のフサインと交渉し、アラブ人がオスマン帝国と戦って勝利すれば戦後の独立を支援すると約束しました(フサイン=マクマホン協定)。
そこでフサインとファイサルは蜂起し、1916年にヒジャーズ王国を建国、北上してダマスクスを制圧し、アラブ臨時政府を樹立します。
この時にファイサルの軍事顧問を務めたのがロレンスで、それを元ネタにした映画がこれ
しかしファイサルが出席したパリ講和会議でアラブ人の独立は認められず(大戦中に石油が大量に見つかったから)、ファイサルはダマスクスから追放され、1921年に人工国家イラクの国王(まったく縁もゆかりもない)に就きます。
一方サウード家は18世紀のワッハーブ王国建国に関与した有力な家系で、イブン=サウードは第一次世界大戦中にイギリスに協力して力を蓄え、1920年にイギリスの承認のもと中部アラビアに王国を建てます。
さらに1925年にフサインのヒジャーズ王国を併合し、1932年にアラビア半島のかなりの部分を統一してサウジアラビア王国を建国しました。
サウジアラビアはスンナ派の改革派であるワッハーブ派と結んで政教一致の体制を今日まで維持しています。一方で安全保障や石油採掘ではアメリカと強い関係を持ち、湾岸戦争もサウジアラビアの基地が利用されました。