ぶんぶんの進路歳時記

学習方法、進路選択、世界史の話題について綴ります

自宅待機中の自習プリント(オスマン帝国と西欧の衝撃)

はじめに

 2021年7月頃から新型コロナウイルス感染症が拡大し、国際的スポーツ大会が開催され児童の集団観戦が推奨される一方、部活動、学習塾、学童保育クラスターが発生するなど、「10代は感染リスクが低い」という「伝説」は崩壊しています。

 学校は夏休みの延長や家庭学習、授業はオンラインという自治体もあるそうです。

 本日から何回かに分けて、家庭学習用の大量のプリントをもらってお困りの方を対象に、「19世紀以降のアジア・アフリカ諸地域」について整理します。

 第1回は「オスマン帝国と西欧の衝撃」です。

 問いは「列強の侵略、蹂躙されて黙っているのか?」です。 

 教科書(実教出版帝国書院、東京書籍、山川出版社)、資料集(帝国書院、浜島書店)、一般書(山川出版社の『詳説世界史研究』『世界近現代全史』『世界各国史』)をベースにしています。図版は断りがない限り、ウィキメディアコモンズパブリックドメインのものです。

参考図書

こちらも 

目次

 

1 オスマン帝国の動揺

16世紀 オスマン帝国…アジア・ヨーロッパ・アフリカに拡大

17世紀 第2次ウィーン包囲失敗(1683)

 (1       )条約(1699)でハンガリー喪失

18世紀 チューリップ時代 西欧化政策 経済活動さかん

1768年 第一次ロシア・トルコ戦争

 1774年 キュチュク・カイナルジ条約

 ロシアの黒海自由通行権承認

 ロシア皇帝オスマン帝国内のギリシア正教徒の保護権承認

1781年 第二次ロシア・トルコ戦争

 ロシアの(2      )国の併合を認める 

地方勢力の台頭

アーヤーンの自立…徴税請負権を持つ

(3      )運動

 18世紀中頃アラビア半島 ムハンマドの教えに戻ることを主張

 (4      )家と連携してワッハーブ王国を建設

19世紀 シリアのアラビア人キリスト教徒のアラビア文化復興運動

→アラブ人の民族意識が高まる契機に

カフカス 18世紀末以来ムスリムがロシア軍に抵抗

 シャミール、ムハンマド=アリーやオスマン帝国に支援を求める

オスマン帝国の最大領域

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補足

① やわらかい専制

 オスマン帝国はスルタンの権威のもと、強力な軍隊と中央集権的な官僚機構を持ちつつ、納税を条件に様々な宗教集団が自治を認められる(「ミッレト制」と呼ばれる)「やわらかい専制」で広大な支配領域を統治していました。

 またオスマン帝国はイランを除く中東世界を統一し、メッカとメディナの庇護権を持ちました。その権威は絶大で、他地域のイスラーム王朝は外交文書でその統治の正統性の保証をオスマン帝国スルタンに求めました。東トルキスタンで一時的に政権を樹立したヤークーブ・ベクオスマン帝国に支援を求めました。

*発展 昔の教科書には1517年にセリム1世がマムルーク朝を滅ぼし、彼らが庇護していたアッバース朝の末裔からカリフの称号を譲り受けた(スルタン・カリフ制)とありましたが、オスマン朝スルタンがカリフの地位を主張するのはロシアに敗北した18世紀半ば以降のようです。

 このようにオスマン帝国イスラーム共同体の指導者であり、領内では中央集権体制のもと多様な文化集団を実情に応じながら支配する、という多元的な体制でした。

 18世紀には西欧の政治制度や技術が受容されますが、多様な文化への寛容さの一環と解釈できます。

 しかし19世紀には列強が軍事力で逆転します。また列強はオスマン帝国自由主義ナショナリズムを持ち込みます。「専制君主の恩恵のもとでの自治など真の自由ではない!同じ民族が国家を形成して自由と平等を実現する」という大義名分がオスマン帝国を弱体化するために利用され、バルカン半島ギリシャで反乱が発生します。

 オスマン帝国はこうした中で体制変革を迫られることになります。 

② オスマン帝国の分権化

 17世紀末から18世紀にかけてオスマン帝国は対外的には領土を減らしましたが、西欧の技術や文化を吸収し、後期のオスマン文化が成熟していった時代です。

 アフメト3世の時代は西欧から逆輸入されたチューリップが装飾として流行したことから、チューリップ時代と呼ばれています。

アフメト3世の時代の祝祭(王子の割礼)の様子(1720年頃)

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 イェニチェリと並んでオスマン軍を支えたのはティマール(徴税権を行使できる知行地)を保有する騎兵(シパーヒー)でしたが、火砲をはじめとする軍事技術の進展で役割が縮小し、銃で武装した非正規兵が戦時に給与で雇われるようになりました。

 軍隊を維持するために政府は現金収入が必要となり、その結果ティマール制は解体し、徴税請負制度が導入されました。

 しかし徴税請負人は政府に上納する以上の税金を取り立てたため、地方では騒乱が頻繁に起こります。17世紀末にこれを解消するために徴税請負人は終身制となり(任期制だと過度の取り立てが起きる)、帝国の各地で在地の有力者、いわゆる「アーヤーン」が成長します。

 彼らはその財力で私兵を雇い、18世紀半ばになると中央政府の要請に従って対外戦争の一翼を担うようになります。その代表は後述するムハンマド=アリーです。

 こうしてオスマン帝国では分権化が進行します。これを「帝国の衰退」ととらえることもできますが、地方の有力者は列強の侵略に対して抵抗したり、地元での近代化の中心になります。

③ ワッハーブ運動とその影響

 ワッハーブ派は18世紀の前半、アラビア半島中部のナジュド地方でムハンマド・ブン・アブドルワッハーブによって開始されました。

 ワッハーブ派預言者ムハンマドの時代の純粋なイスラームに帰れと主張し、イスラームの教えに紛れ込んだすべてを「逸脱」として排斥しました。標的にされたのはスーフィーズムや聖者・聖地崇拝で、異教徒であるヨーロッパ人も目の敵にしました。

 ワッハーブ派はナポレオンの遠征後に急激な高揚を見せ、1802年にはシーア派の聖地カルバラーを奪い、1803年から1805年にかけてメッカとメディナを破壊しました。

 ワッハーブ派の運動はスーフィーズムの改革を促し、アルジェリアアブドゥル・カーディルなどスーフィーズムを基盤とする列強への抵抗運動につながりました。

発展:ムアーウィヤがカリフを名乗るとアリーの血統のみをムハンマドの後継者(イマーム)とみなす人々(シーア派)はアリーの子をたてて抵抗します。

 第3代イマームフサインは680年に挙兵しますがカルバラーで死亡します。彼の命日にはアーシュラーという追悼祭が行われ、フサインの殉教を悼む劇が上演され、信徒は涙を流し、町に繰り出してフサインの痛みを体験するために自らの身に鎖を打ち付けて血を流しながら練り歩きます。


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④ キリスト教徒のアラブ文芸復興?

 「シリア」は現在のシリア、レバノン、ヨルダン、パレスティナをふくむ地域を指し、交通の要衝として様々な民族や文明が交錯する場所です。

 アラブ人の中には多数派のスンナ派イスラームだけでなく、特にレバノンの山岳地帯ではマロン派キリスト教徒とイスラームドルーズ派の集団が形成されていました。

 このキリスト教の知識人が、宗教・宗派の対立を超えたアラブ人としての自覚を促し、アラビア語という原語を通じて民族としての意識を高めようと、アラブ文芸復興運動を開始します。

 なお現レバノンにはキリスト教イスラームの18の宗派が存在し、各宗派に政治権力配分がされています。  

空欄

1カルロビッツ

2クリム=ハン

3ワッハーブ

4サウード

 

2 エジプトの自立と挫折 

1798年 ナポレオン率いるフランス軍の上陸

[5        ]:1805年 エジプト総督に就任

マムルーク勢力を一掃し、中央集権化と富国強兵策を推進

→軍事・税制・法制の西欧化、官営工場の設立

1819年 ワッハーブ王国を一時的に滅ぼす

1821~29 (6     )独立戦争オスマン帝国を支援

1831~40 2度の(7          )戦争 

 支援の見返りにシリアの領有とエジプト総督の世襲権を要求

 1840年 ロンドン会議 イギリス(パーマストン外相)の干渉

 エジプトとスーダン世襲権を得るにとどまる

1838年 オスマン帝国が英仏と不平等条約 エジプトにも適用

→国内市場の開放 綿花生産の拡大 外債の累積

1869年 (8      )運河の開通…フランス人[9     ]の指導

1875年 スエズ運河持ち株をイギリス首相[10      ]に売却

→エジプト財政、イギリスの管理下に置かれる

1881~82 [11     ]の民族運動「エジプト人のエジプト」

→イギリスが単独出兵 事実上の保護国

補足

 ブログで紹介済みですが、エジプトはフランス軍の侵攻を受け、いち早く「ウエスタン・インパクト」を経験したために、列強の支援のもとに西欧化を急ぎます。

 しかし英仏に言われるままに綿花プランテーションとインフラ(鉄道、港湾)に過剰な投資をしたために外債が累積、イギリスに国を乗っ取られてしまいます。(´・ω・`)

 そうした中でウラービー運動に見られるような「エジプト人」意識が生まれます。

 シタデルの惨劇。ムハンマド=アリーはエジプトの総督の就任したものの、現地のマムルークたちは反乱の機会をうかがっていました。彼がオスマン帝国からワッハーブ王国遠征を命じられると、その遠征軍司令官任命式という名目で有力なマムルーク400人あまりを居城におびき寄せて殺害しました。((((;゚Д゚))))

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ムハンマド・アリー朝の版図 斜線部がワッハーブ王国征服

クリエイティブ・コモンズ 表示3.0 ドンくん、エリック・GABA(スティング- FR:スティング)の作品

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こちらも

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空欄

5ムハンマド=アリー

6ギリシア

7エジプト・トルコ

8スエズ

9レセップス

10ディズレーリ

11ウラービー

3 オスマン帝国の改革

18世紀末:セリム3世 近代軍創設 中央集権の回復を目指す

1826年:マフムト2世 (12      )軍団の解散

1839年 [13            ] ギュルハネ勅令

(14     )実施…司法・行政・財政・軍事・教育の西欧化改革

イスラーム国家から法治主義による近代国家へ

宗教や民族の別なく「オスマン」とみなす

→ヨーロッパ工業製品の流入による土着産業の没落

1853~56 クリミア戦争 外債への依存が進む 列強による財政管理

「新オスマン人」…西欧の自由主義の影響を受けた青年官僚の台頭

1876年 (15      )憲法

 ミドハト=パシャが起草。アジア最初の憲法

1877年 ロシア=トルコ戦争の勃発

 [16       ]が憲法と議会を停止 専制政治復活

 オスマン主義に代わってパン=イスラーム主義を標榜

補足

① 軍隊の改革

  セリム3世は1789年の即位、洋式の軍隊を設立し、ティマール地や徴税請負権の一部、酒・羊毛・絹(ユスティニアヌス以来絹織物は有名)に課せられる新税がその財源に充てられました。いわゆる「財政軍事国家」です。ただし軍の役所は「ジハード局」と呼ばれ、兵員にはイスラームの教育が施されていました。

 しかしイェニチェリや改革反対派と衝突し廃位されてしまいました。

 後を継いだマフムト2世はイェニチェリを全廃し、司法や教育制度の改革、各省庁や各国大使館の設立など中央集権的な西欧化政策を進めますが、セルビアの反乱、ギリシャ独立戦争、エジプト・トルコ戦争と対外戦争が相次ぐ中で急死します。

マフムト2世。被っているのがフェズ(トルコ帽)で、官僚たちはターバンの代わりにこれを着用するよう定められました。肖像画は洋装が多く「異教徒の帝王」と揶揄されたそうですが、イスラームの権威もしっかり活用していました。

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② タンジマート

 アブドゥルメジト1世は1839年トプカプ宮殿の薔薇宮(ギュルハネ)で勅令を発し、臣民の身分保障法の下の平等、生命・名誉・財産の保証)、公平な裁判、税制改革を志しました。

 オスマン帝国のスルタンは臣下に対して財産没収や処刑の権利を持っていて、どのような有力者であっても執行されました。((((;゜Д゜))))))) この勅令によって官僚は君主の恣意から自由になり、思い切ったことができるようになります。

 また刑法や商法ではフランスの法律が導入され、教育では新式学校が初等・中等教育に導入されました。一方でカーディーイスラーム法官)によるシャリーア法廷や、ウラマーを養成するマドラサは存続しました。

 ギュルハネ勅令は西欧化の宣言と言われますが、文面では伝統的なイスラームの文言が多用されていることから、イスラームの伝統に立ちつつ西欧の文化を導入して直面する問題に対処するという思想が見られます。

 しかし1838年に英仏と結んだ通商条約によってイギリスの綿製品など工業製品が低関税で輸入されるようになり、綿花やタバコなどの商品作物の生産を除くと、国内の産業は衰退し、外国資本への従属が進行しました。

③ クリミア戦争とミドハト憲法

 1853年にロシアが聖地管理権問題から黒海西岸のワラキア、モルダヴァに兵を進めるとオスマン軍は苦戦、翌年に英仏が介入します。1855年セヴァストポリ要塞が陥落してロシアは敗北しますが、オスマン帝国は戦費調達のために英仏から借款を受けます。

 クリミア戦争で英仏に大きな貸しを作ったオスマン帝国は、英仏の要求で非ムスリム臣民の待遇を大幅に改善することになり、英仏はそれを利用して経済進出を図ります。

 1855年には非ムスリムへの人頭税が廃止され、従来の「スルタンのもとでの不平等な共存」から、宗教を問わずオスマン帝国臣民をすべて「オスマン人」とする「オスマン主義」へと踏み出します。

 しかし列強からの借金は膨らみ、1870年代のヨーロッパの不況がとどめとなり、1875年に帝国財政は破綻、英仏独などが設立したオスマン債務管理局が国内の諸税を直接徴収するようになり、オスマン帝国は「半植民地化」の危機にさらされます。

 この時、西欧の文化に影響を受けた知的エリートが従来のトップダウン式改革に反発し、「自由」「祖国」「国民」「平等」などの理念を掲げて言論活動を繰り広げます。彼らは「オスマン」と呼ばれ、タンジマートのもとで官僚にも採用されます。

 この中で頭角を現すのがミドハト=パシャ(パシャは大宰相のこと)です。彼はアブドゥルハミト2世のもと憲法作成に取りかかり、1876年にスルタンを皇帝とし、イスラームを国教とし、宗教の別を問わないすべての「オスマン人」の平等と人権の保障、二院制議会や地方自治の制度を明記した帝国憲法(ミドハト憲法)が発布されます。

 しかしアブドゥルハミト2世は「新オスマン人」たちを警戒し、スルタンの大権を憲法に明記するように指示、憲法発布直後にこの大権を使ってミドハト=パシャら憲法制定に関わった「新オスマン人」たちを追放します。

 そして1877年にロシア・トルコ戦争が勃発するとスルタンは議会の閉鎖と憲法の停止を命じ、以後30年間、専制政治を行ないます。

空欄

12イェニチェリ

13アブドゥルメジト1世

14タンジマート

15ミドハト憲法

16アブドゥルハミト2世

 

まとめ

① 「ウエスタン・インパクト」

 16世紀にユーラシアではイスラーム王朝や清朝が繫栄しますが次第に衰退し、19世紀の「西欧の衝撃」(ウエスタン・インパクト)でヨーロッパ中心の政治・経済システムに組み込まれ、ここから非ヨーロッパ世界の「近代」が始まる、というのは高校世界史の定番の枠組みです。

 教科書は列強の侵略に対する非ヨーロッパ世界の動きは次のように分類します。

  1. 列強に植民地化される
  2. 既存の体制は存続するものの列強に政治・経済的に服従する
  3. 西欧の政治制度や科学技術を受容する
  4. 「伝統」や「民族」(これも西欧由来の考え)に目覚めて抵抗する
  5. 3と4を合体させて国民国家を形成する

 大まかに言うと、1は東南アジアやアフリカ、2はイスラーム王朝や清朝、3は清朝の洋務運動、4は各地で広範囲に発生、5は日本の明治政府や中華民国になります。

 この整理は「わかりやすい」ですが、「非ヨーロッパは昔はよかったが途中でダメになって、ヨーロッパに出会って再び発展した」、つまり近代をアプリオリに「正義」ととらえ、その達成の過程(ゴールは国民国家の形成)を描き、近代化に成功した国が偉い、という単線的発展論には陥らないようにしたいです。

 様々な場面で人々がどう西欧に向き合ったか、あるときは戦い、あるときは文化を頂戴し、あるときはその文化をもとに自らのアイデンティティ(今回の場合はイスラームの再考とか「オスマン人」というあり方)を問い直す、など、その時代を生きた人々の「もがき」に注目したいです。

 そしてこの「もがき」は現代を生きる私たちにとっても必要なことです。

② 今回のまとめ

  • オスマン帝国は多様な文化を受け入れる素地が有り、西欧の文化もそのひとつ
  • 18世紀以降は分裂状態ではあるが、その中で地方有力者が育ち、アイデンティティにつながる新しい動きも起きている
  • 19世紀以降の列強の大規模な侵略に対して、イスラームの枠を維持しつつ近代化を受容して対抗しようとするが、形勢は悪い
  • 言われるままにお金を借りると破産する