はじめに
近頃入試問題を解答しているとアフリカに関わる出題が目立ちます。一橋大学2023年のモザンビークとジンバブエの戦後史は受験生を阿鼻叫喚に陥れました。
bunbunshinrosaijki.hatenablog.com
2024年もアフリカの話題が見られました。
bunbunshinrosaijki.hatenablog.com
今回からアフリカ史について先史から21世紀まで、入試問題を意識して復習します。第1回はおおむね16世紀までです。
実教出版、帝国書院、東京書籍、山川出版社の『世界史探究』の教科書、寺田ちひろ♡版Eテレ『高校講座世界史』アフリカ史を監修した宮本正興先生編の講談社現代新書『新書アフリカ史』と山川出版社の各国史、最新の研究動向は『岩波講座世界歴史(第3版)』18とミネルヴァ書房『論点・東洋史学』を参考にしています。
新課程対応で探究的なつぶやきを入れました。
目次
1 先史時代
化石人類の発掘
①(1 ):最初の化石人類
・アフリカでのみ確認。(2 )が特徴
・(3 )…現在最古とされる700万~600万年前の化石人骨
2001年に中央アフリカのチャドで頭骨が発見される
・ラミダス猿人…約450万年前の化石人骨。エチオピアで発見
・(4 )群…南・東アフリカで発見された猿人の総称
約420万~200万年前,直立二足歩行をおこない,石器(礫石器)を使用
②(5 )…約240万年前にアフリカに出現
・ホモ=ハビリス…約200万年前の東アフリカの地層で発見 初期のホモ属
・ホモ=エレクトゥス…約200万年前 世界に拡散→ジャワ原人・北京原人
→ハンドアックス、火の使用
③(6 )…約60万年前 新人と共通の祖先から分岐
→死者の埋葬、剥片石器の使用、毛皮の着用
④(7 )…現生人類(ホモ=サピエンス) 約20万年前
クロマニョン人、周口店上洞人
→骨角器、洞穴絵画、女性裸像
・「アフリカ単一起源説」…新人に連なる系統はアフリカで生まれて進化する
約10万年前頃には世界に広がったとする説
①DNA解析で明らかになる先史の世界
20世紀末にゲノム解析が可能になり、最新のネアンデルタール人のDNA分析から、サハラ以南を除くアジアやヨーロッパ人のDNAにネアンデルタール人の痕跡が含まれていることが明らかになりました。
こうした知見から、約20万年前に私たちの共通祖先となる新人(ミトコンドリア・イブ)がアフリカで出現し、それに連なる新人がユーラシア大陸各地へ拡散し、旧人や原人と共存、交雑しながら最後の氷期が終わる時期に新人と交替した、と考えるのが妥当な線のようです。
古代DNA -日本人の来た道-の展示パネルより

アフリカでは今から一万年前ごろに新人の後期石器文化が広範囲に及び、その中で東南部ではコイサン語系、中央部ではピグミー系、西部では現在の黒人の祖先につながる集団が広がりました。
探究的つぶやき
ゲノム解析恐るべし。サンプルが増えれば精度も上がるので期待しかないです。最近「お前はなに人か!」って尋ねてくる人がいるそうですが、「アフリカ出身です!」 と答えれば間違いないです。
参考
空欄
1猿人 2直立二足歩行 3サヘラントロプス 4アウストラロピテクス 5原人 6旧人 7新人
2 エジプト古代文明
①ノモスの形成
・ナイル川の定期的な氾濫を利用した灌漑農業 ヘロドトス「ナイルのたまもの」
・小規模な国家(ノモス)が形成される
②古代統一王朝
・前3000年頃,王(8 )による統一国家が形成される
・古王国:ナイル下流域のメンフィスを中心に栄える
→ピラミッド建設。ギザ(メンフィスの近く)のクフ王のものが最大
・中王国:中心は上エジプトの(9 )に移る
・新王国:前16世紀にヒクソスを追放し,シリアへ進出 都テーベ
・前14世紀:[11 ]4世が (12 )に遷都
・ (13 )一神教の強要 アマルナ美術(写実的)
・前13世紀:ラムセス2世がヒッタイトと争う(14 )の戦い
・前7世紀:ヌビア人の第25王朝 アッシリアの侵入で南方に退く
・前7世紀末:第26王朝(都:サイス)地中海貿易で繁栄する
・前6世紀:(15 )朝カンビュセス2世のエジプト征服
地図 啓隆社さん提供

A:メンフィス B:テル=エル=アマルナ C:テーベ X:カデシュ
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空欄
8ファラオ 9テーベ 10ヒクソス 11アメンヘテプ 12テル=エル=アマルナ 13 アテン 14カデシュ 15アケメネス
3 黒人国家の興亡
①(16 )王国(前920頃~後350頃)
・ナイル川上流域(ヌビア)に成立した最初の黒人国家
・前8世紀,エジプトに進出して第25王朝をたてる
・前7世紀に(17 )王国の攻撃を受けて(18 )に遷都
・製鉄技術と商業で繁栄。メロエ文字(未解読)。ピラミッド建造
②(19 )王国(紀元前後頃~12世紀)
・アラビア半島から移住したセム語系のアクスム人がエチオピア高原に建国
・4世紀にメロエ王国を滅ぼしナイル上・中流域を支配
・4世紀に(20 )教を受容
・6世紀前半 イエメンに進出 紅海交易で繁栄 金、象牙、奴隷の取引
・7世紀以降,北方からのイスラーム勢力の進出を受けて衰退
①「黒いファラオ」
『世界ふしぎ発見!』ヌビアの回を参考にしています。
新王国は金を求めてナイル川上流のヌビアに出兵しました。ツタンカーメンの副葬品のサンダルや杖(権力の象徴)の握り手にヌビア人が描かれています。「支配下に置いている」という表現と推察できます。
カイロ博物館
新王国が衰退するとヌビア人は自立してクシュ王国を建設しました。彼らはエジプトの文化を受容し、ナパタに建設されたピラミッドにはヒエログリフやミイラなどエジプトの影響がみられます。
*新王国の時代にはピラミッドは何のために作られたかは忘れられ、「墓」と思われていたようで、クシュのピラミッドは玄室が存在する正真正銘の墓です。
紀元前8世紀後半、クシュ王国のピアンキ王はエジプトに進軍、下エジプトで乱立する王朝を破って第25王朝を建てます。その後前7世紀にアッシリアがエジプトに進撃し、ヌビア軍は破れて南に撤退しました。
ピアンキ王の勝利の碑文(一部)。4つのナイルデルタの支配者から貢物を受けています。姿は削り消されています。パブリックドメイン

ヌビア人はメロエに王朝をたて、ピラミッドを建設します。メロエのものは入り口に神殿がついています。しかし19世紀にヨーロッパ人の盗掘に遭い、最大のピラミッドは財宝目当てに爆破されました。まったくとんだ「野蛮人」です。
メロエ朝は紀元後4世紀まで存続します。遺跡からローマ帝国やインドとの交易の跡がうかがえますが、ヒエログリフを改造したメロエ文字が解読できていないために、この時代のことはよくわかっていません。
メロエのピラミッド パブリックドメイン

探究的つぶやき
ヌビア人のファラオの像を削ったのは誰?『世界ふしぎ発見!』で吉村教授が遺物から「ヌビア人はエジプト人を尊敬していた」と考察していました。吉村氏は第25王朝はアッシリアの侵攻を防ぎ安定期をもたらしたと推論付けますが、一部の人は「悪夢のヌビア政権」と宣伝したのでしょうか。
空欄
16クシュ 17アッシリア 18メロエ 19アクスム 20キリスト
4 サハラ砂漠とイスラーム
サハラ砂漠…5000年前から乾燥化
→バンツー語系農民が南部に拡散。雑穀、豆類、ヤムイモの栽培
マグレブ地方…7世紀にウマイヤ朝が進出 (1 )人の改宗進む
→ムスリム商人による交易活動が活発化
サハラ砂漠南縁…(2 )川流域に黒人国家が興亡
①(3 )王国(7世紀頃~13世紀半ば頃)
・ニジェール川上流の(4 )やギニア湾岸の象牙・(5 )と,マグレブのムスリム商人が運ぶ(6 )とを交換するサハラの「塩金交易」で繁栄
・11世紀後半,北アフリカの(7 )朝の攻撃で衰退
②(8 )王国(1240~1473)
・サハラ交易で(9 )やジェンネなどの都市が繁栄
・14世紀前半、[10 ]がメッカ巡礼をおこなう
・14世紀後半、モロッコ出身の旅行家[11 ]がトンブクトウ来訪
③(12 )王国(1464~1591) 中心 ガオ
・16世紀末、モロッコの王朝の攻撃を受けて滅亡
①緑のサハラとバンツー語系の大移動
アフリカでは乾燥と湿潤が繰り返されました。8000年前には森林面積が最大となり、サハラ砂漠も雨に恵まれステップ化、サバンナ化しました。こうした地域では野生の動物の狩猟や牛の牧畜が可能でした。
現アルジェリアのタッシリ・ナジェールの岩絵には、牛を追う人や船に乗る人が描かれています。クリエイティブ・コモンズ 表示-継承 2.0 一般

5000年前から気候が乾燥化し、人々はサハラ砂漠から南下し始め、さらに1000年後に熱帯雨林がサバンナ化すると、バンツー語系の人々の大移動が始まりました。
この移動の過程で、従来の狩猟や採集に加えて農耕が行われるようになり、磨製石器や土器の作成や鉄器の生産も始まりました。
1 が紀元前2000年~1500年、以後時代が進んで10が紀元元年ら1000年にかけての移動。パブリックドメイン。

こうしたバンツー族の移動と交流が、アフリカ南部のザンベジ川、リンボボ川流域の大国家形成を準備しました。
アフリカでは複数の高さの違う農作物を同じ畑に植えて(混作畑)、どれかの作物がダメになった時の「リスクヘッジ」を行なったり、アジアから伝わったバナナや雑穀、アメリカ大陸から伝わったキャッサバも栽培されています。
参考
https://www.env.go.jp/nature/satoyama/satonavi/initiative/kaigai/pdf/207.pdf
探究的まとめ
「四大文明」概念は城壁、金属、文字など都市文明を人類の進化の証と捉えがちですが、アフリカの狩猟と農業を組み合わせた生活、大規模な移動と交流、口承文化には驚かされます。これを「未開」とみなすのは西欧合理主義の傲慢です。
口承文化についての古典
②黄金がニンジンのように土から生える?
啓隆社さんご提供

アラブ人はサハラ砂漠の彼方を「スーダン」(黒人の土地)と呼び、ニジェール川地域は西スーダンに分類されます。
西スーダンでは早くから王国が形成され、ガーナ王国はセネガル川やニジェール川上流の金鉱を押さえ、ムスリムの隊商貿易を介してイスラーム世界に大量の金を供給し、経済を支えました(ディーナール金貨)。
ガーナ王国ではムスリム商人が居住する地域と、従来の信仰を保持する王や土着の住民の居住区が分けられ、共存していました。
ベルベル人の多くが信仰していたのはハワーリジュ派でした。この派はアラブ有力者がイスラーム世界を牛耳ることを批判し(だからムアーウィヤと妥協したアリーを暗殺した)、ウマイヤ朝の支配に反抗していました。
9世紀にアッバース朝の支配が緩むと彼らはアグラブ朝(チュニジア)やイドリース朝(モロッコ)など地方政権を樹立しました。
ハワーリジュ派は内面の信仰を重視し、異教徒に信仰を無理強いしなかったことが、サハラ南部の黒人世界と平和的に交易できた理由と考えられます。
しかし11世紀のムラービト朝は正統派イスラームを奉じ、異端に対して宗教戦争を仕掛け、モロッコを征服します。ムラービト朝は西スーダンにも来襲してガーナ王国は衰退しました。

マリ王国はマンデ族が13世紀に建国した国家で、「グリオ」と呼ばれる吟遊詩人が初代の王スンジャータの業績を語り伝えています。
その後マリ王国はニジェール川中流域に進出し、トンブクトゥにはサハラ砂漠で産出された岩塩が、ジェンネには森林地帯から運ばれた金が集まりました。

14世紀、最盛期の王マンサ=ムーサはメッカ巡礼の際にカイロで金を喜捨してカイロの金価格が暴落したという話が有名で、14世紀にカタロニアで作成された地図にも描かれています。

イブン=バットゥータはマリ王国を訪れ、「彼らの美徳とすべき行為として、不正行為が少ない点がある」と記しています。また王国には「ワンガラ」と呼ばれる商人がいたことも記録しています。さらに時代が下ると専門の商人集団が各地に分散して小都市を結ぶネットワークを形成していました。
探究的つぶやき
近頃唐代のソグド人、元代のオルトク(テュルク系商人組合)などユーラシアの商人ネットワークに脚光が当たっていますが、サハラ砂漠に同様の商人ネットワークがあっても不思議ではないです。
空欄
1ベルベル 2ニジェール 3ガーナ 4奴隷 5金 6塩 7ムラービト 8マリ 9トンブクトゥ 10マンサ=ムーサ 11イブン=バットゥータ 12ソンガイ
5 インド洋交易と東アフリカ沿岸諸都市の発達
①モガディシュ以北
・古代からアラビア・イラン地域とのインド洋交易がさかん
・(12 )・(13 )・香辛料・金などが扱われる
②モガディシュ以南
・10世紀以降にムスリム商人が移住、海岸都市を建設
・(14 )・モンバサ・ザンジバル・キルワなど,インド洋交易で繁栄
・イスラームと現地の文化が融合した,(15 )文化が展開される
・19世紀にはアラビア半島のオマーンがザンジバルに拠点に沿岸部を支配する
③中南部アフリカ…(16 )川とリンボポ川に挟まれた地域
・(17 )遺跡…現地語で「石の家」
・(18 )王国(15~19世紀)…ショナ人が建国した王国
・15世紀以降にザンベジ川流域を支配。内陸の金やインド洋交易で繁栄
・16~17世紀に(19 )の進出で衰退。18世紀以降は小国家が分立
地図 共通テスト2021年追試の問題より

A:マスカット…オマーンの港 B:アデン…イエメンの港
E:モンバサ F:ザンジバル(島)
G:キルワ H:ソファラ…リンポポ川流域の王国の外港
ソマリアでは1980年代から内戦が勃発、首都モガディシュを奪い合います。1992年に国連安保理はPKOの派遣を決定、翌年には平和強制を任務とする第二次PKOを派遣しますが、武装勢力との衝突で死者が出てアメリカ軍が撤退、目的は果たせず1995年に撤退しました。
南北朝鮮の国連加盟とソマリア内戦を絡めた映画。対立する南北が協力しながらモガディシュを脱出する様子は胸熱。
①海の道とアフリカ東海岸
インド洋交易では「ヒッパロスの風」と称される季節風が利用されました。ギリシア語で記された『エリュトゥラー海案内記』には、アラビアのモカ港から多数の船が東アフリカに行き交易を行なっていることが記されています。
4~5世紀には東南アジア方面からオーストロネシア語族、マライ系の人々がインド洋を渡って住みつき、イネ、ココヤシ、バナナ、サトウキビ、イモ類などがアフリカに伝えられたとされます。特にバナナは主食として重宝されます。
アッバース朝の時代にはダウ船による交易が行われるようになります。東アフリカからは金や象牙が輸出され、ヨーロッパや中国にも運ばれました。一方で東アフリカからはローマのコインや中国製陶磁器の破片が見つかっています。
10世紀にアッバース朝が衰えてファーティマ朝が台頭すると、カイロから紅海を経由するルートが重要になり、アイユーブ朝、マムルーク朝に引き継がれます(カーリミー商人)。 その結果紅海の出入り口にあたるイエメンの商人が台頭し、東アフリカでもキルワをはじめとしてイエメンの影響が強まりました。
15世紀初頭に鄭和の艦隊の一部が来訪し、史書に「木骨都東」(モガディシュ?)、「麻林」(マリンディ?)という記述が残されています。鄭和の艦隊はこの時にキリンなどを持ち帰ったとされています。

16世紀にポルトガルがインド洋交易に参入し、ソファラを占領してモザンビークを拠点としました。当時東アフリカの各港市は貿易の利益を争っていたために一致団結できず、ポルトガルに個別に切り崩されました。
とはいえポルトガルの国力ではインド洋交易をすべて抑えるのは不可能、またイエメン・紅海方面には力が及ばなかったので、ポルトガルの監視を潜り抜けて交易は行われていました。
17世紀にポルトガルの勢力が衰退するとオマーンが台頭し、ポルトガルからキルワやザンジバルを奪い、19世紀には東アフリカ一帯を支配下に置きました。
探究的つぶやき
2004年のスマトラ島沖地震では津波がアフリカ東海岸にも押し寄せました。地球は広いようで狭い、そして2000年前からここを渡って交易をしていたとは驚きを禁じえません。
②大ジンバブエはシバの女王の都?
大ジンバブエ遺跡は現ジンバブエ共和国にある石造建築遺跡で、中でも有名な「グレートエンクロージャー」と呼ばれる壁は周囲250m、高さ11mで花崗岩を削り合わせてできています。
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19世紀末に欧米人がここを「発見」し、「『旧約聖書』のシバの女王と関係があるのでは」、「フェニキア人の財宝の隠し場所ではないか」という憶測から遺跡を徹底的に掘り返しました。
20世紀に入って学術的な調査が行われ、紀元後9世紀から15世紀にかけて繁栄したアフリカ人の王国の遺跡と結論付けられました。
リンポポ川流域の高原地帯は「四大文明」が生まれた北半球から最も遠い地域で、独自の文化が育まれました。紀元後500年頃からバンツー語系がここに移動して農業や鉄器を持ち込みました。
農業生産力を背景に強力な権力が生まれ、10世紀にはインド洋ネットワークとつながって大国家が形成されました。大ジンバブエはそうした中で建設されました。
14世紀の最盛期にはこの地に家屋6,000戸、18,000人が暮らしていたとされます。支配層は「壁」の内側に住み(『ザブングル』?)、遺跡からは中国製の陶器、キルワで鋳造された貨幣、金細工、鉄や銅製品が出土しています。
大ジンバブエは15世紀に急速に衰え、いくつかの後継国家が生まれますが、その一つがモノモタパ(ムタパ)王国です。
受験勉強で「モノモタパ王国=大ジンバブエ」とやってしまいますが、最近の教科書には「大ジンバブエの方が古い」と書いてあります。
ポルトガルがインド航路を開発するとこの地域に目を付け、沿岸部からムスリム商人を追い出して拠点を築きます、さらに王家の内紛に介入して金山を手に入れようとしますが17世紀に王国側が勝利します。
モノモタパ王国は以後農業と交易で繁栄しますが、王家の内紛やポルトガルとの争いは耐えず、輸出品の金や象牙が乱獲で減少すると有力者が分立し、19世紀末に王朝は事実上消滅しました。
探究的つぶやき
アフリカでは固有および諸地域の影響を受けた多様な文化が育まれたことがわかりました。しかし欧米人の「アフリカ人がこのような巨大な遺跡を作るはずはない」という差別意識には閉口します。
空欄
12奴隷 13胡椒 14マリンディ 15スワヒリ 16ザンベジ 17大ジンバブエ 18モノモタパ 19ポルトガル
続く



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