ぶんぶんの進路歳時記

学習方法、進路選択、世界史の話題について綴ります

国公立私立大学世界史直前チェック(アフリカ2 18世紀)

はじめに

 最近入試で頻出のアフリカ史について先史から21世紀まで復習します。第2回は18世紀の奴隷貿易の時代についてです。

 参考図書は第1回を参照してください。基本は世界史探究の教科書と講談社現代新書『新書アフリカ史』をもとにしています。

前回

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目次

 

6 ヨーロッパ勢力の進出と奴隷貿易

①インド航路

15世紀前半,(1    )率いる明の艦隊の一部が(2     )まで来航

ポルトガルによるアフリカ西岸探検…エンリケ航海王子ジョアン2世が推進

・1415年 エンリケがアフリカ北部の(3    )を奪取

・1488年(4      )がアフリカ最南端の(5     )に到達

・1498年(6      )が(2)を経由しインド西岸の(7     )に到達

・1510年にゴア、1511年にホルムズマラッカを占領

→ゴアを拠点にインド洋での香辛料貿易に参入

オランダ…1652年にアフリカ南端に(8    )植民地を建設

②大西洋三角貿易

・16世紀,西インド諸島ラテンアメリカの先住民が酷使や感染症で激減

・アフリカから(9     )が輸入される

・17世紀にアメリカ大陸や西インド諸島で(10     )・タバコ・綿花などのプランテーションがさかんになり,ヨーロッパ商人がアフリカで(11   )・雑貨を象牙・胡椒・黒人奴隷などと交換し,黒人奴隷をアメリカ大陸へおくりこんだ

③(12    )…新大陸への奴隷供給契約制度

・最初アフリカに拠点を持つポルトガル奴隷貿易を独占していたが、17世紀以降オランダ、イギリス、フランスが参入、1713年の(13    )条約でイギリスがフランスからアシエントの権利を譲渡される

ギニア湾岸の奴隷供給地では,(14   )王国(現ナイジェリア付近)・ダホメ王国アシャンティ王国などの黒人国家が奴隷貿易で発展

・送り出された奴隷の数は1千万人以上と推定,西アフリカ社会は人口減で停滞

④東アフリカ沿岸

アラビア半島南部のオマーン王国がザンジバルに進出

・19世紀半ばまで東アフリカ沿岸の海上交易を支配

ポルトガルのインド航路開拓は偶然たまたま?

 いち早くレコンキスタを完了したポルトガルは国土が狭く、領土的野心を対岸の北アフリカに向けました。

 15世紀初頭にセウタを占領するもののモロッコ以南は航海が難しく、イスラームや中国の航海技術(逆風を利用できる帆や羅針盤など)が伝わった15世紀後半に大西洋を南下できるようになり、ポルトガル船が1470年代にギニア湾に到達しました。

 ルネサンス以後に見直されたプトレマイオスの地図では、インド洋は内海なのでヨーロッパは直接インドには船で直接行けない世界線です。

 領土的野心以外では「プレスタ―・ジョン」(東にいるキリスト教の王でその向こうにエデンの東がある)の伝説も冒険心を搔き立てました。バルトロメウ=ディアスの別部隊がエチオピアキリスト教の王がいることを報告しています。

 ポルトガルが西アフリカ沿岸の支配者から土地を借りて拠点を築くと、他のヨーロッパ諸国も後に続きました。海上では海賊行為など行うヨーロッパも、強力な国家がある内陸部には手出しできませんでした。

奴隷貿易ムスリム商人の専売特許?

 16世紀になってポルトガルとスペイン、次いでオランダ、イギリス、フランスが西インド諸島南北アメリカ大陸でヨーロッパ市場向けのプランテーション経営に乗り出すと、先住民の人口減を補うためにアフリカから奴隷を輸入し始めました。

*この5カ国以外にもスコットランドブランデンブルクデンマークスウェーデンの商人が参入しました。

 当時ムスリム商人はサハラ砂漠縦断交易で黒人奴隷を取引していました。特に金が産出しない中央スーダンのカネム・ボルヌ帝国は奴隷輸出が交易の中心で、ソンガイ王国と激しく争っていました。

サハラ交易の奴隷の輸送。19世紀の版画。パブリックドメイン

 また地中海東岸ではムスリム商人が交易の利益をサトウキビプランテーションに投資し、その労働力を求めてアフリカ東海岸で奴隷取引を行っていました。

 ムスリム商人は黒人以外の奴隷貿易も行なっていて、家内奴隷(女性が多い)や軍人奴隷(マムルークは有名)が中心で、働きによっては解放されました。またサハラ交易では一度に輸送できる奴隷の量が限られました。

 2025年共通テスト追試験歴史総合・世界史探究の問題のスクリーンショット

 ヨーロッパ商人は東海岸には付け入る隙がないので西海岸に目を向けました。

 まずポルトガルが15世紀の後半に黄金海岸にエルミナに城塞を建設して奴隷貿易を開始しました。次いで新大陸に広大な植民地を有するスペインが外国政府や民間人に奴隷供給契約許可証を渡し、契約料と税金を王室におさめさせました。この奴隷供給の請負契約がいわゆる「アシエント」です。

エルミナ城。17世紀にオランダが占領して奴隷貿易を引き継ぎ、19世紀にイギリスが占領し一帯を「英領ゴールドコースト」とします。17世紀の版画。パブリックドメイン

 こうしてアフリカ西海岸の主要輸出品は金から奴隷に代わり、18世紀中頃にはカリブ海ジャマイカ(英領)、サン・ドマング(仏領)がブラジルと並んで奴隷貿易の目的地となり、大量の奴隷が「輸出」されました。

探究的つぶやき

最近はアフリカ内部での奴隷制ムスリム商人のサハラや東海岸での奴隷貿易、さらに南部アフリカでは東南アジアから奴隷を「購入」していたことなど、グローバルヒストリーの文脈で奴隷貿易を考える研究が盛んです。とはいえ大西洋の奴隷貿易は規模の大きさ、奴隷の扱いの惨さが桁違いです。

三角貿易でインドの綿織物がバカ売れ?

大西洋三角貿易 無料白地図を利用

A日常品 B武器 C奴隷 D砂糖 

 ヨーロッパ商人は綿布、銅や真鍮製品(サハラ南部は銅が産出しない)、ビーズなどの装飾品、火器や弾薬、アルコール飲料をアフリカに運んで奴隷と交換、南北アメリカカリブ海域で奴隷を降ろし、砂糖、原綿、コーヒーなどを積んでリヴァプール、ナント、リスボンアムステルダムなどへ引き返しました。

*原綿は18世紀末までは英領西インド産の比率が高いです。共通テスト試行調査第2回のスクリーンショット(引用元記載なし)

 

 特にインド産の綿布は西アフリカで人気を博しました。サハラ砂漠では日よけの布が必須で、色鮮やかなインド産の綿布は富や権力の象徴になりました。19世紀に奴隷貿易が禁止された後、フランスはパームオイルやらっかせいの輸入を始めますが、その際にもインド産の綿布が貨幣の代わりに取引されたそうです。

参考

 アフリカには古くからムスリム商人経由でガラス玉(とんぼ玉)が持ち込まれていましたが、大西洋三角貿易ヴェネツィアのビーズが大量に持ち込まれ、貨幣代わり(トレードビーズ)やアクセサリーになりました。

オークランド博物館蔵。クリエイティブ・コモンズ 表示 4.0 国際ライセンス

commons.wikimedia.org

探究的つぶやき

 これだけインド綿製品が売れるならヨーロッパ商人が「自分の国でこれ作ったら大儲けできる?」と思っても不思議ではありません。「リヴァプールの富がその後背地であるマンチェスターの綿工業につぎ込まれた」は入試の鉄板です。

④悲惨の極み「中間航路」

 奴隷貿易の期間に大西洋を渡ったアフリカ人奴隷の数には諸説ありますが、一般には1,200万人から2,000万人と見積もられています。ただし奴隷狩りの途中で殺されたり、奴隷船上での死者は含んでいません。

 奴隷たちは当初は戦争の捕虜は犯罪者、奴隷狩りや人さらいによって集められましたが、大西洋三角貿易で奴隷の需要が高まった17世紀後半からはアフリカ人支配者がヨーロッパ人から火器を購入し、戦争を仕掛けて奴隷を集めました。

 オーギュスト・フランソワ・ビアール『奴隷貿易1833年頃。現地の首長と白人の商人の間で取引が成立し、奴隷に焼き印が押される様子が描かれています。奴隷貿易に批判が集まっていたころの作品です。パブリックドメイン

 ゴレ島。セネガルの沖合にあるフランスの奴隷貿易の拠点。「負の世界遺産」に登録され、Eテレ「高校講座世界史」に、語り部が黒人の足に着けた鎖と鉄球を見せながら、黒人たちがどういう扱いをされたかを観光客に伝えるシーンがあります。パブリックドメイン

 三角貿易のうち奴隷を新大陸に送る航路は「中間航路」と呼ばれます。足首に鎖を付けられ、焼き印を押された奴隷たちは全裸で船に積み込まれ、一日に2回程度甲板で外気を吸うことが許されました。

 船内は不衛生で感染症が蔓延し、死亡した奴隷は海に投げ捨てられました。女性の奴隷は船員の性加害の対象になりました。船上での奴隷の暴動も記録が残っています。

 奴隷船のポスター。1789年頃。Eテレ「高校講座世界史」で寺田ちひろ♡が宮本先生の前で「なんですかこれ、バーコード?」と驚く演出があります。こうしたポスターは奴隷廃止論者(アボリッショ二スト)の運動で使用されました。パブリックドメイン

参考

奴隷貿易の影響

 奴隷制そのものはアフリカだけでなく古今東西(南北)に見られ、その労働や生活はは様々でしたが、大西洋三角貿易の奴隷は「商品」そのものです。

 西アフリカの奴隷貿易が拡大した結果、まず従来のトランスサハラ交易が廃れ、トンブクトゥやジェンネなどの交易都市やソンガイ王国やボルヌ帝国が衰退します。

 次いで奴隷を獲得するため社会が軍事化して軍事国家が形成されました。それがベニン王国、ダホメ王国アシャンティ王国で、奴隷貿易に従事した王侯や貴族階級、新興成金が利益を享受しました。

*最近は奴隷貿易や植民地支配の「仲介者」に関する研究が注目されています。また奴隷貿易が終了し、パームオイルやゴム農園の経営が始まると、アフリカ内で奴隷労働が横行することを指摘する研究もあります。『講座岩波世界歴史18』より。

 この結果大量の若い労働力が失われ、産業や技術が停滞しました。それは後の「アフリカの低開発」の背景になります。

地図提供 啓隆社

①ベニン王国 ②ダホメー王国 ③アシャンティ王国 ④ボルヌ王国

*発展学習 世界システム

 イマニュエル・ウォーラーステインは世界を分業体制ととらえる「世界システム」を提唱したことで知られています。

 16世紀に成立した「近代世界システム」は、中央(中核)では自由な賃金労働による商工業が発達して資本主義が勃興する一方、周辺(周縁)では一次産品が奴隷制や再版農奴制のもとで生産され、中核に供給される(半周辺はそれを仲介して富を蓄積し中核への移行を狙う)、とウォーラーステインは説きます。

イラストACの無料素材より

 彼のキャリアはアフリカ研究が出発点だったので、アフリカの低開発や低賃金は決して「未開」や「発展途上」ではなく資本主義の一部なのだ、という思いが「世界システム論」の原点と推察します。

 「世界システム論」には様々な批判があり(アジアやジェンダーからの視点など)、どれも一理ありますが、経済を各国単位の単線的発展で考えない視点は、グローバル化の下での不平等を考察する際に今なお有効です。

参考

探究的つぶやき

 1960年代にアフリカで独立国家が誕生すると「ヨーロッパ側からのアフリカ史」ではなく「アフリカからのアフリカ史」を編纂しようとする動きが起こり、その流れの中で「奴隷貿易」を「マァファ」(スワヒリ語で「巨大災害」の意味)と呼ぶべきという意見があるそうです(『岩波講座世界歴史18』より)。

 たしかに1,200万人以上が(さらに奴隷狩りや中間航路で命を落とした人は数知れない)郷土や家族から引き離され、モノ扱いされのですから、「巨大災害」に間違いありません。

 過去の見直しは現在の自己自認(国民国家の接着剤)と結びついていると感じる一方、受験勉強として歴史を学んでいるとつい言葉を覚えただけで終わりになりがちです。その時代を生きた人の「痛み」は私たちにとっては想像を絶するものですが、記憶し継承するのも歴史叙述の役割です。

空欄

1鄭和 2マリンディ 3セウタ 4バルトロメウ=ディアス 5喜望峰 6ヴァスコ=ダ=ガマ 7カリカット 8ケープ 9黒人奴隷 10砂糖 11火器 12アシエント 13ユトレヒト 14ベニン

続く