はじめに
ある世界史動画が物議をかもしているおかげで?東アジアの近現代史に注目が集まっているようです。(´・ω・`)
今回から、「アジアの近現代史は教科書ではブツ切れで何がどのつながるのかわかりにくい」という受験生のために、アヘン戦争から中華人民共和国成立までをぶっ通しで復習します。
高校世界史でこの単元は「ヨーロッパ列強の進出によって、中国は植民地化の危機に瀕するが、近代(科学技術、ナショナリズム、政治体制)を受容し、何度も失敗を重ねながら、近代化を達成する」というサクセスストーリー(=中華人民共和国の現在を肯定的に捉える)になっています。
こうした「進歩史観」には批判もあるので、その辺を自覚しつつ、東アジア近現代史を概観しましょう。
基本参考図書
一般書:『詳説世界史研究』『世界各国史 中国史』(山川出版社)、岸本美緒さんの『中国の歴史』(ちくま学芸文庫)、岩波新書のシリーズ中国近現代史。
1 清朝の動揺とヨーロッパの進出…貿易は外交か取引か?
18世紀後半…人口増加による土地不足,開墾による環境破壊
→1796年 (1 )教徒の乱勃発
朝貢貿易 ヨーロッパ船の来航は(2 )一港に制限
特許商人の(3 )が貿易を独占
イギリス:[4 ]の派遣(1792)→乾隆帝に自由貿易を求める
アマースト(1816)の派遣
補足
清朝の支配が安定する17世紀末から100年間で人口は倍増し、華中・華南の山間部への移住が進みます(木材、漆、茶などが産物)。ヨーロッパ経由で伝えられた新大陸産のトウモロコシやジャガイモが山地を開発して栽培され、人口増加を支えます。
しかし急激な開発は天災を招きます。白蓮教徒(世が乱れて弥勒菩薩が下生(人間の姿で現れる)と宣伝)の乱は陝西、四川、湖北など山あいの新開地で発生します。
同じ時期、ヨーロッパがアジア各地で交易を拡大します。
イギリスでは茶を飲む習慣が大衆の間にも広まり、中国から大量の茶を輸入する一方、イギリス産の機械織り綿布は、中国では綿織物が農民の副業として定着していた(明代に長江下流域で綿布や生糸の生産が拡大した)のでなかなか売れません。
イギリスは貿易港を増やすなど自由貿易を求めますが、清朝は「貿易は恩恵」=「中華の優れた文物を求めに来た「夷狄」に望みのものを与える」という建前です。
中華帝国には明確な国境があるわけではなく、中華皇帝の威光(天子の徳)が及ぶ範囲が「帝国」です。直轄地→18の省→少数民族居住地→藩部→朝貢国(中華から称号をもらい形式的な君臣関係を結ぶ、いわゆる「冊封」関係)→互市(貿易だけしにくる国。イギリスはこれ)がその範囲で、日本は圏外(化外)です。(´・ω・`)
もちろんこれは「建前」で、ヨーロッパは広州が貿易港に指定され「広東十三公行」と呼ばれる特許商人と取引をしていました。イギリスの商品は売れないので茶の代金を銀で支払っていました。
マカートニーは熱河の離宮で乾隆帝に拝謁し、歓待を受けたもののそれは「夷狄」に対するもてなしにすぎず、当然自由貿易は受け入れられません。
ヨーロッパ諸国は15~17世紀の戦乱の中で、互いの国境と主権を認め合って併存する「主権国家体制」を構築します。「中華的タテ関係」と「西洋的ヨコ関係」という構造の違いがこの問題の核心です。
拝謁の様子。アーノルド・J・トインビー『歴史の研究』の挿絵。ウィキメディアコモンズ、パブリックドメインの画像。教科書に載っている横柄な乾隆帝はイギリス人のイメージで、東洋文庫が所蔵しています。
空欄
1 白蓮
2 広州
3 公行
4 マカートニー
2 アヘン戦争とアロー戦争…「砲艦外交」
① アヘン戦争(1840~42)
背景 18世紀後半,広州の対外貿易の大半をイギリスが占有
(5 )の需要の増大、大量の(6 )が中国への流出
(7 )貿易の開始…インド産(8 )を中国へ
契機 中国でアヘンの吸引が広がる
→大量の銀の流失 アヘンの害悪が社会に蔓延
道光帝、[9 ]を欽差大臣に任命 広州に派遣
→アヘンの没収と破棄
1841年 三元里事件 広州で平英団が抵抗
結果 1842年 (10 )条約
英に(11 )の割譲,公行廃止,賠償金支払い
5港(12 ・ ・ ・ ・ )開港
対等外交の原則
1843年 五港通商章程・虎門寨追加条約
(13 )裁判権,協定(14 ),(15 )待遇
同様の条約…対米 (16 )条約(1844)
対仏 (17 )条約(1844)
② アロー戦争(1856~60)
背景 貿易は拡大しない
契機 (18 )事件(1856)→英仏軍,広州占領
結果 1858年 (19 )条約
10港開港、外国(20 )の北京駐在、キリスト教の布教の自由
外国人の内地旅行の自由 アヘン貿易の公認
清,批准を拒否→英仏軍の出兵、(21 )の破壊
1860年 (22 )条約
天津条約に加えて、天津の開港と英に(23 )半島南部割譲
影響 1861年 (24 )設置 対等外交を認める
補足
銀は高額なので農民は通常銅銭を使い、納税(地丁銀制)時に銀を買います。銀が流出して価格が上がると実質税金アップなので農民は困ります。
清朝の中ではアヘンを厳禁する派と、「アヘンを公認して税金をかければ?」という弛緩派が対立しますが、厳禁派の林則徐が広州でアヘンを没収、廃棄(石灰をかけたら白い煙が上がった)します。
イギリス政府は武力によって対等な外交関係を構築し、自由貿易を実現する好機と捉えて派兵を決定します。広州でアヘンを販売していたジャーティン=マセソン商会(現在も香港にオフィスを構える)もロビー活動をします。若き日のグラッドストンは「密売商人のために出兵?!」とお友だち優遇に激おこです。
イギリス海軍は広州、厦門、寧波を占領し、長江をさかのぼって(自力走行できる汽船だから可能)鎮江を押さえ運河を閉鎖(食糧輸送ルートが遮断)、南京に迫ったので清朝は屈服します。
*有名な版画、奥の汽船ではなく横のボートからの攻撃ではないかと言われています。ウィキメディアコモンズ パブリックドメインの写真 実物は東洋文庫にあり。
吉澤誠一郎「ネメシス号の世界史」
http://www.let.osaka-u.ac.jp/seiyousi/vol_10/pdf/JHP_10_2013_1-14.pdf
しかし南京条約以後もイギリスの綿製品はあまり売れず、イギリスはさらなる市場開放を求めますが清朝の動きが鈍く(北京にお伺いを立てるのに時間がかかる)、クリミア戦争後にフランス(ナポレオン3世)と共同出兵します。
天津、北京条約でイギリスが求めていたことがほぼ手に入り、清朝も 総理各国事務衙門で外交交渉に応じ、また開港場では徴税業務を行います(海関)。
また欧米列強は内地で商取引が可能になりましたが、商慣行の違いから租界(外国人居住地)に企業や銀行を置き、中国人商人(買弁)を介して取引を行ないます。この中から浙江財閥などの民族資本家に成長するものも現れます。
空欄
5 茶
6 銀
7 三角
8 アヘン
9 林則徐
10 南京
11 香港島
12 上海
12 寧波
12 福州
12 厦門
12 広州
13 領事
14 関税
15 最恵国
16 望厦
17 黄埔
18 アロー号
19 天津
20 公使
21 円明園
22 北京
23 九竜
24 総理各国事務衙門
3 ロシアの進出
1689年 (25 )条約…アルグン川と外興安嶺が境
1727年 (26 )条約
1792年 [27 ]が根室に
19世紀半ば,[28 ]が東シベリア総督に就任
→(32 )の建設
1881年 (33 )条約→イリ事件
ロシアはクリミア戦争に敗北すると中央アジアに関心を向け、ウズベク3ハン国のうちブハラ、ヒヴァを保護国化、コーカンドを併合します。
イギリスがコーカンド=ハン国のヤクブ=ベク将軍と結んで新疆方面に進出を図ると、ロシアはムスリムの反乱を口実に出兵してイリ地方を占領、清朝の撤退要求を拒んだので左宗棠が出兵します。
空欄
25 ネルチンスク
26 キャフタ
27 ラクスマン
28 ムラヴィヨフ
29 アイグン
30 北京
31 沿海州
32 ウラジヴォストーク
33 イリ
4 太平天国…民族運動?伝統的な反乱?
契機 [34 ] 広西省の客家出身 (35 )の結成
1851年 (36 )省金田村で挙兵…太平天国と称する
経過 農民や匪賊を吸収して膨張
1853年 南京占領→(37 )と改称 長江以南を支配
政策…「(38 )」をスローガン,女子も戦闘・労働に動員
アヘンの吸引や女子の(39 )を禁止
(40 )制度…土地の均分。実施されず
結果 太平天国内部の対立
清朝の反撃…八旗、緑営に代わって(41 )が組織化
(湘軍…[42 ],淮軍…[43 ])
列強…当初は中立→北京条約の締結後は清朝援護
(44 )軍の活動(米…ウォード,英…[45 ])
1864年…天京陥落
補足
教科書では太平天国は「中国の民族運動の曙」みたいな評価ですが、洪秀全は南京に後宮を作って美女と楽しんだり(๑>◡<๑) イヤン、龍の服をまとったりと伝統的な王朝の側面もあります。議員になったら料亭に行きたいですよね!カンパイ☆Yヽ(´∀`)ノ
常勝軍は、1860年の設立当時は外国人傭兵部隊でしたが、翌年に外国人を指揮官として中国人を兵士とする洋式軍隊に拡充します。『ラスト・サムライ』みたいです。
空欄
34 洪秀全
35 拝上帝会
36 広西
37 天京
38 滅満興漢
39 纏足
40 天朝田畝
41 郷勇
42 曾国藩
43 李鴻章
44 常勝
45 ゴードン
5 同治の中興…1860年代 欧米の統合の隙に近代化
太平天国の反乱後,一時的な安定(同治帝)
(46 )運動…富国強兵をめざし,西洋の学問や技術を導入
兵器、鉄道、紡績、造船、製鉄、鉱山開発
(47 )→清朝の体制改革には至らず
補足
「洋務運動の内容と限界」は難関私立の小論述テーマです。
「支配体制維持のために西洋の技術だけが導入された」が高校世界史的解答ですが、洋務運動は地方の大官が主導し、事業そのものも大官と結びついていて、各地で別々に展開し、軍隊も各大官の軍隊(北洋艦隊や福建艦隊)だったことも改革の限界のひとつといえます。
空欄
46 洋務
47 中体西用
続く