はじめに
家庭学習でお困りの方対象に「19世紀のアジア・アフリカ諸地域」について整理します。第3回は「インド・東南アジアの植民地化」です。
今回の視点は「点から面の支配へ」です。
教科書(実教出版、帝国書院、東京書籍、山川出版社)、資料集(帝国書院、浜島書店)、一般書(山川出版社『詳説世界史研究』同『世界近現代全史』『世界各国史』)をベースにしています。
画像は断りがない限りウィキメディアコモンズ、パブリックドメインのものです。
参考
目次
1 インドの植民地化
① イギリスによるインドの植民地化…拠点から領域へ
アウラングゼーブ帝の死後、地方勢力の独立
→英仏が海岸に拠点を作り、現地勢力の争いに介入
イギリスがフランスを駆逐
(1 )戦争(1744)…計3回 マドラス周辺を確保
(2 )の戦い(1757)…フランス、ベンガル太守軍を破る
② イギリスの領域支配
東部:1765年 ベンガル・ビハール両州の徴税権(3 )獲得
南部:18世紀後半 (4 )戦争
西部デカン:18世紀後半~19世紀前半 (5 )戦争
西北部パンジャーブ:19世紀半ば (6 )戦争
③ 東インド会社の統治機関化とインド社会の困窮化
1813年 対(7 )貿易独占廃止
1833年 (8 )と対(9 )貿易の独占廃止
商業活動の停止→インド統治機関に変身 地税徴収
旧来のインド社会…ひとつの土地に様々な人びとが権利を持つ
(10 )制…徴税の仲介人に土地所有権を与える
(11 )制…農民に土地所有権を与えて徴税する
新しい土地制度の導入→共同体的人間関係の変化→重い税負担→困窮化
イギリスの産業革命以降 機械製綿布のインド流入 手工業の衰退
綿花・(12 )(インディゴ)・アヘンの輸出
英語教育や近代司法制度の導入
補足
① ムガル帝国の衰退とヨーロッパの進出
ムガル帝国のアウラングゼーブ帝は17世紀にマラーター王国(シヴァージーが建国)と争いますが、18世紀に彼が死亡するとムガル帝国は解体、デカン高原ではマラーター諸国の連合体であるマラーター同盟、ムガル帝国の中心部であるアワド州ではアワド王国など、各地で独立勢力が台頭します。
同じ頃インド洋交易にポルトガル(ゴア①)、オランダ(スリランカ)、イギリス(マドラス②・ボンベイ③・カルカッタ④)、フランス(ポンディシェリ・シャンデルナゴル)が沿岸部に拠点を築き、暴力を伴いつつ交易に参入します。
英仏はヨーロッパでの戦争と連動してインドで争い、オーストリア継承戦争との関連で始まった第一次カーナティック戦争ではデュプレクス率いるフランスが優勢でしたが、七年戦争中のプラッシーの戦い(クライヴが活躍)、第三次カーナティック戦争でイギリスが勝利します。
1765年にムガル皇帝はイギリス東インド会社にベンガル州(オリッサ含む)とビハール州のディーワーニー(徴税権)授与し、イギリスはインド植民地化への一歩を踏み出します。
インド帝国の地図 ①~④は文中の番号 地名から地図上の位置がひらめくようにしておきましょう。マイソール→マラーター→シクと南から北です。
② インドの村落共同体
16~18世紀の西部デカン高原に関する史料によると、当時の言葉「農民60人と12種類の職人」のように、村落には農民家族に加えて大工、鍛冶、陶工、床屋、洗濯人、占い師など「バルテー職人」が住んでいました。
彼らは村の正規成員(「ワタン」(村落での利得)の保有者)で、共同体内部の仕事を分業していました。職人たちは「バルテー」と呼ばれる村の収穫物の一部や現金、免税権を与えられていて、彼らの中には不可触民カーストも含まれていました。
この村落共同体が数十集まったものが地域共同体で、その長である郷主は大きなワタンを保有し、村落の利害を調整したり、王国の要請があれば動員をかけて兵力を提供したりしました。
こうした村落にイギリス人が「地税」を持ち込み、政府と農民の間を仲介するものに徴税を任せ、その仲介者(ザミンダール)に私的土地所有権を与えるザミンダーリー制が始まると、農民以下多数の人々が従来持っていた利得が消滅します。
権利を失った人々は、新たなサービス関係を個別に結ぶか、土地の権利を獲得する以外の選択肢がなくなり、村落共同体内の人的結合関係が激変します。
また税の支払いは現金となり、19世紀前半の農産物価格の下落で税の支払いのために多くの生産物を販売しなければならず、農民の生活は困窮しました。
③ 夫が死んだら妻は後を追う?
サティー(寡婦殉死)とは寡婦が亡夫を荼毘に付すときにその火に身を投じて焼身自殺をすることで、主にヒンドゥー高位カーストの間で行なわれ、特に18世紀から19世紀にかけて、ヨーロッパ人の進出で不安感広がるベンガル地方で増えました。
亡夫の親戚から強要されたり、引き返そうとしたらバラモンに押し戻されたりと問題が多く、キリスト教宣教師から批判が起こり、地元でもラーム=モーハン=ローイらがヒンドゥー社会の改良に取り組む一環でサティーに反対します。この結果ベンガル総督が1829年に「サティー禁止法」を制定しました。
また高位カーストでは寡婦は再婚ができませんでした。寡婦は実家に帰るか、婚家に残るしかでした。また高位カーストでは女児の「幼児結婚」(形式だけ。ロリとか言わない)の風習があり、実際の結婚生活に入る前に夫が死ぬ場合もありました。1856年に法律が制定されて、寡婦の再婚がOKになりました。
空欄
1 カーナティック
2 プラッシー
3 ディーワーニー
4 マイソール
5 マラーター
6 シク
7 インド
8 茶
9 中国
10 ザミンダーリー
11 ライヤットワーリー
12 藍
13 ラーム・モーハン・ローイ
2 インド大反乱とインド帝国の成立
背景
藩王国の取りつぶし政策 旧支配層の不満
契機~経過
1857年 インド人傭兵(14 )の大反乱勃発
デリー占領→ムガル皇帝[15 ]の擁立
東インド会社の解散→インドの直接統治開始
影響
1877年 インド帝国の成立…[16 ]女王がインド皇帝に就任
司法・行政の統治体制の整備
分割統治:住民の宗教とカーストを固定化し対立を煽る
補足
① インド大反乱
19世紀半ばに東インド会社の貿易独占が終了し、イギリスはインドを「非公式帝国」(従属下にあるものの公的な支配を伴わない地域)から「公式帝国」(植民地)へ再編しようと目論見ます。
1830年までにイギリス産綿製品の輸出がインドのそれを上回り、インドはイギリスの綿製品の輸入し、藍、砂糖、綿花、アヘンなど一次産品を輸出するようになりました。
イギリスはインドの「近代化」を進め、税制の改革や鉄道・電信網などインフラ整備を行い、1837年に公用語をペルシア語から英語に変更し、近代的な学校制度や伝統的な風習を廃止します。
こうしてインドでは従来の分権的な支配から中央集権支配が強まります。有力者の領域である藩王国は嫡子のない場合は取りつぶされました。最大の藩王国であるワフド王国ですら藩王がイギリス東インド会社との条約を拒否したことを理由に取りつぶされました。この結果各階層でイギリスへの不満が高まります。
東インド会社はインドの下級武士を傭兵(シパーヒー)として雇用していました。現金給与が魅力的で、藩王国の高位カーストの子弟などが小遣い稼ぎにシパーヒーに志願しました。
しかしインドの平定が終了してシパーヒーの活動は海外が中心になります。バラモン層は海外を不浄と考えるので(平安貴族?)海外勤務を嫌いました。また先述のワフド王国出身のシパーヒーが多く、その取りつぶしは反感を招きます。
そこに追い打ちをかけたのがエンフィールド銃の導入です。銃に「火薬包み」(火薬と弾がセットになっている)を装填する際に包み紙をかみ切る必要がありますが、それは牛(ヒンドゥーでは神聖視)や豚(ムスリムには不浄)の脂紙でできていました。
シパーヒーの多数であるバラモン層や上層ムスリムは特に宗教上の規律に厳しく、この銃の使用はいわば「踏み絵」でした。
イギリスは新式銃の使用を拒否した兵士を投獄し、これがシパーヒー蜂起の直接のきっかけになりました。
エンフィールド銃と「火薬包み」の模式図。赤いところをかみ切ると火薬と弾が出てくる
しかし反乱軍には指揮官としての訓練を受けたものがおらず、一方イギリス軍には一貫した戦略や補給網がありました。反乱軍が各個撃破される中、マラーター同盟の小王国ジャーンシー藩王国の王妃であったラクシュミー=バーイーはジャーシーン城に立てこもり、女性部隊を組織するなどイギリス軍を苦しめました。
② インド帝国
1877年にインド帝国が成立し、総督(副王)を通じてのイギリス政府の直接統治となります。司法体制や地方行政制度が整備され、藩王国取りつぶし政策は廃止されるかわりに藩王たちは植民地統治の役割が与えられました。まさに「藩屏」です。
インドでは19世紀までシク教の成立に見られるように宗教観の相互浸透の動きがあり、カーストや宗教の間にも融合の傾向がありました。クシャトリヤやバラモンがムスリムであったり、ある農民のカーストにムスリムとヒンドゥー教徒とシク教徒が同居することもありました。日本の「神仏習合」みたいです。
こういうあいまいな状況は支配者にとって不都合です。そこでイギリスは1871年の第1回国勢調査から宗教とカーストを記録させ、全国・地方ごとの宗教別人口とカースト集団の名前や規模を確定しました。
イギリスはその結果を利用して宗教やカーストを固定し、対立・分断を煽って支配を容易にしようと企みました。いわゆる分割統治です。そういえば某国では飲み屋や大学をターゲットをして政府の無策を(以下略)。
空欄
14 シパーヒー
15 バハードゥル=シャー2世
16 ヴィクトリア
3 東南アジアの植民地化
東南アジア 外務省のHPより 東ティモールを加筆
① オランダの「インドネシア」支配
16世紀:ジャワ島の(17 )を拠点 アンボイナ事件(1623)
18世紀半ば:ジャワの(18 )王国を滅亡させる 香辛料貿易が不振
→18世紀末にオランダ東インド会社が破産 オランダ政庁による直接統治
19世紀:商品作物の栽培を導入 住民の抵抗…ジャワ戦争(1825~30)
1830年 (19 )制度の導入 総督ファン=デン=ボス
耕地の一定割合に(20 )、藍、サトウキビを作付け低価格で買い付ける
→飢餓の発生 農村に貨幣経済が持ち込まれる
19世紀c~20世紀初頭 (21 )戦争 スマトラ北西部を支配下に
→オランダ領東インド完成
② マレー半島
18世紀末~19世紀初頭 マレー半島の港市を獲得
1826年(22 )植民地の建設
→ペナン・マラッカ・(23 )を領有
1895年 (24 )成立 ボルネオ島北部を加える
20世紀 インドから大量の移民を導入(印僑)
プランテーション経営…(25 )の生産 (26 )鉱山
イギリスが3次のビルマ戦争で(27 )朝を破る
1886年 イギリス領インド帝国に併合
ミャンマー南部のデルタ地帯で(28 )のプランテーション拡大
④ フィリピン…スペインの進出
拠点(29 ) メキシコ銀と中国産商品を交換…(30 )貿易
→商品作物生産の拡大
商人・高利貸しによる土地の集積 →大土地所有が進行
補足
① 「強制」栽培制度
オランダは18世紀にマタラム王国の王位継承戦争に介入して王家を最終的に4つに分裂させました。
1825年からそのひとつが反乱を起こし(ジャワ戦争)、オランダは5年かけてこれを鎮圧しますが、折からのベルギーの独立とスマトラ島のイスラーム改革運動(パドリ派、ワッハーブ派の影響)との争いで財政が悪化しました。
17世紀には世界商業の覇権を握ったオランダは、その後イギリスやフランスの追い上げをうけて失速、かつては大きな利益を生んだ香辛料も価格が下落しました。
オランダの頼みの綱は東南アジア植民地だけとなり、オランダ政庁は1830年にコーヒー・藍・サトウキビなど指定した作物の栽培を村落に割り当て、指定した量の商品を定められた値段で供出させる強制栽培制度をジャワで導入しました。
「強制」という言葉から農民が一方的に搾取されているように聞こえますが、プランテーションだとすべて商品作物の栽培ですから、農民にとっては従来の農業をしながら現金収入も得られるシステムです。「政府管理制度」と呼ぶ場合もあります。
*18世紀に「カントリー・トレーダー」(ヨーロッパ系地元商人)と中国商人が東南アジアにインドの綿織物を持ち込んで農産物を「爆買い」して中国に販売したので、時の支配者が農産物の流出を規制したのがこの制度の始まりだそうです。
https://www.gsid.nagoya-u.ac.jp/ohashi/web-content/tokubetu41.html
ただし生産物の買い上げ価格は低く、主食の米の生産が十分でなくなり飢饉が発生、稼いだ現金も地税に巻き上げられるので批判が高まり、1870年代には民間農園会社が農民と契約して土地を借用するようになり、農民は自由主義経済、貨幣経済に組み込まれます。
② シンガポールとマレー半島の華僑、印僑
1511年にポルトガルがマラッカ王国を滅ぼすと、国王はマレー半島のジョホールに逃れてジョホール王国を建国しました。
1819年にイギリス人のトーマス・ラッフルズがシンガポールに上陸し、ジョホール王国の許可を得て商館を建設、自由港とします。1824年には正式にイギリスの植民地となります。
イギリスは海峡植民地を足場にしてマレー半島に進出し、各地のスルタンから統治権を奪い、1914年までにはマレー半島全土を支配下におきました。
イギリスにとってのマレー半島の魅力はその経済的価値の高さにあり、なかでも錫とゴムが注目されました。錫はブリキ(缶詰)、ゴムは自動車のタイヤと補給や戦術を一変させた「戦略物資」でした。
錫鉱山では中国人(アメリカ合衆国やオーストラリアで腕前は実証済み)が、ゴム・プランテーションではインド人(主に南インドのタミル人)が政策的に移民された結果、現在のマレーシア複合社会が形成されました。
空欄
17 バタヴィア
18 マタラム
19 強制栽培
20 コーヒー
21 アチェ
22 海峡
23 シンガポール
24 マレー連合州
25 ゴム
26 錫
27 コンバウン
28 米
29 マニラ
30 アカプルコ
4 ベトナムの植民地化
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地図上の①~④、a~cは文中のそれに該当
17世紀 北部は鄭氏、南部は阮氏(江南王国) 交易で繁栄
清朝より(33 )国王に封じられる
清の制度を導入、カトリック教徒の迫害→[34 ]の介入
黒旗軍の抵抗…[36 ]が組織
1883年 (37 )条約…ベトナム北部・中部を保護国化 ③
1884~85 (38 )戦争
1885年 (39 )条約 清、ベトナムの宗主権放棄
1899 年 (41 )の編入 ④
補足
阮朝の嘉隆帝の時代には良好だったフランスとベトナムの関係は、明命帝以降の皇帝がキリスト教を弾圧するようになると悪化します。
1858年に嗣徳帝がスペイン人宣教師を処刑すると、スペインとフランスの連合艦隊がダナン(ベトナム戦争の撤退で有名)やフエを攻撃します。
次いでフランスはメコン・デルタ東部三省を割譲する第一次サイゴン条約を阮朝に認めさせ、さらに1867年には西部三省も奪い、フランス直轄植民地コーチシナを成立させます。
さらにフランスは中国を目指して北上しますが、北部国境地帯は太平天国の流れをくむ黒旗軍などの華人武装集団が跋扈していました。1873年にフランス軍はハノイや紅河流域を占拠しますが、阮朝の要請を受けた劉永福に敗北します。
その後フランスは攻勢に転じ、1887年にフランス領インドシナ連邦を形成してメコンデルタを米の生産地として開発しました。
とはいえフランスは清仏戦争で苦戦し、その結果時の政権が崩壊しています。
ランソン攻勢の一場面
空欄
31 西山
32 阮福暎
33 越南
34 ナポレオン3世
35 カンボジア
36 劉永福
37 フエ
38 清仏
39 天津
40 インドシナ連邦
41 ラオス
5 シャム(タイ)の独立
18世紀 (42 )朝(チャクリ朝) 都:バンコク
モンクット(ラーマ4世) 1855年 イギリスと(43 )条約
→米、仏とも同様の修好通商条約を結ぶ
[44 ](ラーマ5世) 近代化政策
1904年 英仏協商 シャムを英仏の均衡地帯とする
補足
シャム(タイ)の経済基盤は王室による独占貿易でしたが、自由貿易を求めるイギリスをはじめとする欧米各国の圧力にさらされます。
1855年のボーリング(バウリング)条約でイギリスに治外法権と港での居住や通商の自由を認めました。同様の条約をアメリカやフランスとも結び、王室独占貿易体制は崩壊しますが、ラーマ4世は巧みな外交政策でシャムの独立を維持します。
続くラーマ5世(チュラロンコン)は内閣制度の導入、地方行政組織の整備など統治機構を整備し、徴税請負をやめて一元的な税制による国家財政制度、法制、徴兵制、学制など近代化政策をすすめました。
こうした政策と英仏の緩衝地帯という背景もあり、シャムは東南アジアで唯一独立を保ちました。グーテンホーフ・カレルギーの世界連邦地図ではシャムは「?」マークです。しらんのか~!(`・ω・´)
2021年共通テスト第二日程世界史Bのスクリーンショット(DNCによる元地図加工)
ラーマ4世はイギリスからアンナ・レオノーウェンズを家庭教師に招き入れ、西洋の教育を子弟に行いました。アンナはこの体験を元にして本を出版し、それを元にマーガレット・ランドンが小説『アンナとシャム王』を創作、これがミュージカルや映画の原作になりました。
ミュージカル
空欄
42 ラタナコーシン
43 ボーリング
44 チュラロンコン
まとめ
- イギリスが持ち込んだ近代的な契約関係やカーストの蒸し返しがインド社会の困窮や分断の一因になった
- イギリスがヒンドゥーやイスラームの文化を蔑ろにしたのが大反乱の契機
- プランテーション開発で華人、インド人の移民が活発化する
- フランスは割と弱い
- シャムはサイド6(わかる人向け)
- アジア内交易は継続し民族資本も成長する。やられっぱなしではない