はじめに
公立高校は世界史の教科書を終わらせるのもままならないのに入試ではテーマ史が出る問題、今年度の直前チェックは移民の歴史について、第2回は奴隷貿易です。後半に入試問題を引用しました。
画像はウィキメディアコモンズ、パブリックドメインからの借用、地図は無料地図と「世界の歴史まっぷ」をお借りしました。
前回
bunbunshinrosaijki.hatenablog.com
類似の回
bunbunshinrosaijki.hatenablog.com
参考文献
目次
1 奴隷貿易と「新大陸」
①奴隷貿易の開始
労働力としてアフリカから黒人奴隷を導入
スペイン:鉱山開発
17世紀 奴隷貿易の拡大
ヴァージニア植民地 (2 )プランテーションに黒人導入
オランダ、イギリス、フランスが奴隷貿易に参入
18世紀 イギリスの奴隷貿易独占
1713年 (3 )条約
スペイン植民地に対する独占的奴隷供給権(4 )を得る
大西洋の奴隷貿易(5 )貿易
ヨーロッパからアフリカに(6 )・雑貨・綿製品を輸出
西インドからヨーロッパに(7 )、コーヒーを輸出
「世界の歴史まっぷ」より大西洋の拡大図
奴隷貿易の影響
イギリス
砂糖貿易とともに莫大な利潤がもたらされる
港町の(8 )に資本が蓄積される
奴隷貿易の商品としてインド産(9 )の需要が高まる
利益が後背地の(10 )の綿織物工業に投資される
→産業革命へ
北アメリカ植民地
造船業や海運業の発達
ニューヨークやボストンが奴隷貿易港として栄える
砂糖のモノカルチャーのため食料輸入が止まると飢饉が発生
西アフリカ
16世紀:(11 )王国→現ナイジェリア付近
17世紀:ダホメー王国、アシャンティ王国→内陸部
奴隷狩りで労働力不足や人口停滞に陥り、開発が遅れる
補足
奴隷制度は古今東西に存在しますが(「生き物」に仕事をさせるなら人間が一番使い勝手が良い (´・ω・`) )、特にムスリム商人は西アジアへトルコ人、スラヴ人、黒人を奴隷として供給していました。
彼らは主にアフリカ東海岸で交易をしていたので、ポルトガル人は彼らとの競合を避けてアフリカ西海岸での奴隷貿易をはじめ(南下していくうちに喜望峰に到達する)、さらに他のヨーロッパ諸国も参入してきます。
新大陸のプランテーションが拡大するにつれて奴隷の需要が増します。現地部族の争いにヨーロッパの火器が利用され、現地の王国・アフリカの奴隷商人・ヨーロッパ商人が結託してアフリカ人を大量に奴隷化していきます。
「ベニン王国」は私立の入試問題で出題されます。八村塁選手で有名になった「ベナン」はフランス領でちょい西側です。
アフリカから連れ出される人々
奴隷船の様子 tight pack(死者が出るのを見越して積めるだけ積む)か loose pack(ゆっくり積んで死者を減らす)かが議論されました。健康面に配慮?してグループに分けて毎日甲板に出させて踊るよう強要されたそうです。
『アメリカ黒人史』によると、西海岸のアフリカ住民は相互に文化的接点があり、教養豊かな人も多く、船上で情報交換をしていたそうです。彼らの文化が新大陸のアフリカ系文化の源になったのかもしれません。
運よく生き延びて「荷揚げ」されると、家族構成は無視されて用途別に購入され、農園主のところへ連れていかれました。
オークションを告知するちらし
カリブ海ではサトウキビプランテーション、北米ではタバコ、19世紀になると綿花プランテーションで働かされました。
サトウキビプランテーションを描いた19世紀のリトグラフ、シオドア・ブレイ作。トローペンミュージアム蔵
白人年季奉公人は景気に左右されて安定供給ができない、現地人は地の利を活かして脱走する、他所から連れてくる(しかもぱっと見が違う)方が農場主には都合がいいです。「黒人は奴隷労働に適している」といった考えは後付けです。
厳しい労働や農場主の監視の中で黒人奴隷たちは自らの文化を生み出しますが、そのうち「ケーク・ウォーク」は白人の踊りを見よう見まねで踊り、パロディー化(白人農園主への批判を含む)したものといわれています。
ドビュッシーが好きな人だとこれ。いわばパロディーのパロディーです。
ゴリウォーグのケークウォーク - 子供の領分(ドビュッシー)Debussy - Golliwogg's Cakewalk - Children's Corner - pianomaedaful
② 奴隷貿易や奴隷制度の廃止
フランス
(12 )島で[13 ]が奴隷解放運動
1804年 黒人共和国の(14 )が独立
イギリス
クエーカー教徒やウィリアム・ウィルバーフォースの奴隷廃止運動
1807年 奴隷貿易の廃止
1863年 リンカンの(15 )宣言
ブラジル
1948年 (16 )宣言第4条で奴隷制・奴隷売買が禁止される
補足
トゥサン=ルヴェルチュールは1790,91年にエスパニョーラ島西部のフランス植民地サン=ドマングで黒人暴動が起きるとそれを指導し、独立運動に転化させました。
1794年、ジャコバン政府の時代ににフランスで黒人奴隷制の廃止が出されるとフランスに協力し、革命介入のためにハイチを攻撃しに来たイギリス軍を撃退しました。
立命館の過去問に「ブラック・ジャコバン」って書かせる設問がありました。この肖像画は、フランス革命の将軍の一連の肖像画の一部として作られました。ジョン・カーター・ブラウン図書館蔵。
彼は1800年8月に憲法を制定して奴隷を解放し自ら大統領に就任して、独立を宣言します。しかしナポレオンはハイチ独立の弾圧に転じ、投降すれば独立を承認すると嘘をついて、ようやくトゥサンを捕らえました。
トゥサンはフランスに送られ1803年に獄中で死亡しますが、ハイチでは黒人指導者が独立闘争を続け、1804年1月1日にハイチ共和国として独立を達成しました。
位置関係
ブラジルは16世紀半ばの植民開始から砂糖の生産でポルトガルの重要な資金源でした。19世紀初めに南部のリオデジャネイロとサンパウロで砂糖生産が拡大し、さらに1830年代にはコーヒープランテーションが拡大し、南部がブラジルの奴隷輸入の中心となります。
1830年代に奴隷貿易が公式には認められなくなった後もコーヒー生産のために公然と奴隷貿易が行われていました。国際的批判の中で1850年に奴隷貿易を禁止するものの、国内の他地域から奴隷を購入してコーヒーを生産していました。
1865年に合衆国で奴隷制が廃止された後も奴隷制は存続しますが、奴隷解放運動が高まり、1888年にようやく奴隷制度が廃止されます。この結果帝政を支えていた保守層が離反し、1889年に革命が起きてブラジルは共和制に移行します。
奴隷貿易が廃止された影響で、プランテーション主は契約労働者(年期契約奉公人や苦力)に切り替えました。新しく中国やインドから移民労働者がやってきましたが、待遇は奴隷とあまり変わりませんでした。
日本からは1908年にコーヒー農園への家族での移民が始まり、1924年移民法で日本人がアメリカから締め出されるとその数が増えました。彼らが現在日本で生活する日系ブラジル人4世、5世の祖先にあたります。
2 空欄
1サトウキビ
2タバコ
4アシエント
5三角
6武器
7砂糖
9綿布(綿織物)
10マンチェスター
11ベニン
12サン=ドマング
13トゥサン=ルヴェルチュール
14ハイチ
15奴隷解放
16世界人権
3 入試問題演習
① 慶応大学 経済学部 2020年
1)年代順に並べ替え
1 オランプ・ド・グージュ処刑
2 トゥサン=ルヴェルチュール獄死
3 ルイ16世処刑
4 ロベスピエール処刑
2)奴隷貿易廃止に尽力したイギリスの議員
3)西インド諸島でサトウキビプランテーションが拡大するに伴い、北米大陸のイギリス植民地からの食糧、材木の輸入が増加した理由
解答例
1)
3 ルイ16世処刑 1793.1
1 オランプ・ド・グージュ処刑 1793.11
4 ロベスピエール処刑 1794.7
2 トゥサン=ルヴェルチュール獄死 1803
2) 1 ウィルバーフォース
3) プランテーション開発が進み島内で耕地や森林が減少したから。北米植民地は糖蜜を輸入するなど西インド諸島と関係を深めていたから。62字
*並び替え問題は「なんじゃこりゃ!」ですが、ジャコバン独裁がルイ16世を処刑した後確立したこと、その治世で反革命的な言説を弾圧したことと黒人解放には好意的だったこと、ナポレオンがそれをちゃぶ台返ししたことを知っていれば解答可能。
②東京大学 2013年
課題
大西洋からインド洋、太平洋にかけて広がる海を舞台とした交易活動は、17世紀に入り、より活発となり、それにともなって、さまざまな開発が地球上に広く展開されるようになった。それらの開発によって生み出された商品は、世界市場へと流れ込んで人々の暮らしを変えていったが、開発はまた、必要な労働力を確保するための大規模な人の移動と、それに伴う軋轢を生じさせるものであり、そこで生産される小hんや生産の担い手についても、時期ごとに特徴を持っていた。
17世紀から19世紀までのこうした開発の内容、人の移動に伴う軋轢について、カリブ海と北アメリカ両地域への非白人系の移動を対象にし、奴隷制廃止前後の際に留意しながら論じなさい。540字
指定語句
アメリカ移民法改正(1882年) リヴァプール 産業革命 大西洋三角貿易 奴隷州 ハイチ独立 年季労働者(クーリー) 白人下層労働者
解答例
ブラジルで始まったサトウキビプランテーションは17世紀にカリブ海のスペイン、イギリス、フランス植民地に広まり、労働力としてアフリカから黒人奴隷が導入された。18世紀にイギリスが奴隷貿易を独占すると、イギリスからアフリカへ銃や日常品が、アフリカからカリブ海へ黒人が、カリブ海からイギリスへ砂糖が輸出される大西洋三角貿易が発達した。これで繁栄したリヴァプールはその利益を貿易品のインド綿布を国内で生産することに投資し、産業革命につながった。フランス革命が勃発するとフランス領ハイチで黒人が蜂起し、独立を宣言して黒人奴隷を解放する憲法を定めた。ナポレオンはこれを鎮圧しようとしたが1804年にハイチ独立を認めた。黒人解放後はインド人年季労働者が導入された。北米南部では17世紀にタバコプランテーションで黒人奴隷が導入され、19世紀には産業革命の影響で綿花プランテーションが拡大し黒人奴隷も増加した。しかし工業化が進んで奴隷制に反対する北部と南部が新州を奴隷州とするか否かで対立して南北戦争が発生、戦後に憲法修正第13条で奴隷制は禁止された。黒人解放後は中国人年季労働者が導入されるが白人下層労働者との対立が発生し、1884年のアメリカ移民法で中国人労働者の移民が禁止された。534字
*第一段落のヒント
「大西洋」=三角貿易
「インド洋」=インド産綿布やインド人労働者
「太平洋」=中国人労働者
「開発」=プランテーション
「世界市場」=砂糖、綿花、綿製品
「大規模な人の移動」=移民
「労働力」=黒人奴隷、華僑、印僑、クーリー
「軋轢」=奴隷解放運動、中国人労働者と白人下層労働者との対立
続きます。