はじめに
家庭学習用の大量のプリントをもらってお困りの方対象に「19世紀のアジア・アフリカ諸地域」について整理します。
今回は「インドの民族運動」です。教科書では分割して記述されていますが、入試では一気に出ることが多く、また世界史が苦手な人だと「ベンガル分割令とローラット法はどっちが先だっけ?」問題が発生します。
教科書(実教出版、帝国書院、東京書籍、山川出版社)、資料集(帝国書院、浜島書店)、一般書(山川出版社『詳説世界史研究』同『世界近現代全史』『世界各国史』)をベースにしています。
NHKEテレ「高校講座世界史」、監修の水島司先生は『詳説世界史B』の執筆者で、インド史部分は先生のこだわりが全開です。
この巻も胸アツです。
目次
1 イギリス領インド帝国
① 帝国支配
電信・鉄道・港湾の整備
茶・コーヒー・藍・綿花のプランテーション開発
行政・司法の近代化 カーストの固定
英語の学校教育→植民地支配の協力者としてエリート層の育成
民族資本の形成、アジア内貿易が拡大
1885年 インド(1 )の結成 インド人エリートの諮問機関
② 民族運動の高揚
1905年 (2 )分割令 インド総督カーゾン
民族運動の中心であるベンガル地方のヒンドゥーとイスラームを分断する
1906年 (3 )大会
急進派の[4 ]の指導
英貨排斥・(5 )(自治)・(6 )(国産品愛用)・民族教育
→1911年 ベンガル分割令撤回
1906年 (7 )連盟の結成…イギリスの支援
空欄
1 国民会議
2 ベンガル
3 カルカッタ
4 ティラク
5 スワラージ
6 スワデーシ
7 全インド=ムスリム
補足
① 鉄道とインド支配
1858年のインド統治改善法で英領インドが成立、1877年にはヴィクトリア女王がインド皇帝に就任しますが、統治は副王であるインド総督が取り仕切りました。
ディズレーリ首相とヴィクトリア女王
いわゆる「公式の帝国」として行政・司法・徴税・インフラ・教育の整備が進められます。インド統治にかかった費用は「本国費」(ホームチャージ)と呼ばれ、インドの税収でまかなわれましたが、直接インド人に関係ない、例えばインドの鉄道に投資したイギリス人投資家への利息、インドに駐在するイギリス人官僚への給料と帰国後の年金、イギリスがインドの権益を守るための戦争(アフガン戦争など)の費用もここから支出されました。(#゚Д゚)ゴルァ!!
インドの独立後に鉄道網はインド国鉄の所有となり、幹線は改軌によってゲージ(線路の幅)が統一され、現在主要都市間はほとんど直通運転が可能になりましたが、建設当時はプランテーションの生産物を港に運ぶ幹線は1676mm(広軌)、輸送量の少ない地方の路線は狭軌(1000mmと762mm)、さらにダージリンヒマラヤ鉄道のような特殊地形では別のゲージでした。
鉄オタには胸アツかもしれませんが、乗り換え、積み替えが面倒です。
ゲージの話はインドとイギリスについて記した古典に出てきます。
ちなみに日本で三つのゲージが併走するのはここだけです。
これら鉄道は、政府が元本および高い利回りを保証する約束でイギリスで資金を集めて建設されましたが、建設費がかさむ割に利益が出ません。赤字は「ホームチャージ」につけ回しされました。(#゚Д゚)ゴルァ!!
ただし成長しはじめたインドの民族資本家がこのインフラを使ってアジア各地に工業製品を輸出し、インドはイギリスへの貿易赤字をこの「アジア内貿易」の黒字で埋めていました。この資本家の中から民族運動の担い手が出現します。
*発展:19世紀前半にインドはイギリスからの輸入超過になりましたが、その貿易赤字を中国へのアヘンや綿花の輸出、東南アジアやアフリカへの綿製品輸出などの黒字で埋める、という「多角決済」を行なっていました。例の三角貿易もそれです。
その仲介をしたのが「カントリー・トレーダー」と呼ばれるイギリス系貿易商人や華僑で、ジャーディン=マセソン商会はアヘン貿易で有名です。
この項目を学習しているとアジア・ヨーロッパ間取引に視点が行きがちですが、近年は「アジア内貿易」に注目が集まっています。
くわしくはこれ
休憩タイム
② エリート教育と民族運動
「公式の帝国」になれば下級官吏が大量に必要になります。「イギリス人に忠実で英語が話せる下級官僚インド人」の増加が期待されて、英語による教育が始まりました。一方で初等教育は置き去りにされて、1947年にインドが独立したときの識字率は35%という愚民政策(読み書きができると悪事がばれる)の極みでした。
*発展:一部財界人が「英語は国際語」「しゃべれないのは学校のせい」とスピーキング偏重で英語検定を礼賛するのは国際主義ではなく英語コンプレックスで植民地主義です。
この結果弁護士や技術者・官僚などの現地人エリート層が形成されますが、彼らはイギリス人から人種差別を受けます。例えばインド人判事がヨーロッパ人刑事犯を審理できるという法案は激しい反対で骨抜きになりました。(´・ω・`)
こうした中でインド人エリートは次第に民族的自覚を持つようになり、イギリス側も彼らを懐柔して植民地支配を安定させたいという思惑もあって、1885年にインド国民会議が発足しました。
年に1回の総会でイギリスに待遇改善を控えめに求める穏健な国民会議でしたが、インド総督カーゾンがヒンドゥー教徒の多い西ベンガルを本ベンガル州、ムスリムの多い東ベンガルにアッサムを加えたベンガル=アッサム州に分割しようとすると、ティラクら急進派が主導権を握り、分割反対運動を展開しました。こうして国民会議は政治組織の国民会議派へと変貌しました。
なお「排斥」を意味する「ボイコット」は、19世紀のイギリス軍人であるチャールズ・ボイコット大尉がアイルランドの小作人を過酷に扱ったため、1880年に彼らが結成した土地改革同盟から排斥されたことに由来します。
*人名に由来する言葉では他にブルマー、リンチ、八百長などが思い当たりますが、野球好き専用で「江川る」もあります。
2 インドの民族運動
第一次世界大戦中 イギリスは英領インドに戦後の(8 )を約束
英領インドから兵士が戦線に投入される 物資・資金協力
1919年 インド統治法…州行政の一部をインド側に認めただけ
(9 )法…令状なし逮捕、裁判なしの投獄
(10 )事件…イギリス兵が民衆に発砲
南アフリカで人権活動 (12 )運動を提唱
→サティヤーグラハ(真実の把握)
全インド=ムスリム連盟の支持→全インド的民族運動へ脱皮
農民による警官殺害→運動中止(1922)
1929年 国民会議派の(13 )大会
[14 ]らが主導権確立、完全独立(15 )を決議
1930年 ガンディーの「(16 )」開始
→ロンドンで第2回(17 )会議開催も合意に至らず
1935年 (18 )法成立
州政治のインド人への委譲(中央権力はイギリス人が掌握)
州選挙実施(1937)→国民会議派政権とムスリム地域政党政権に分かれる
第二次世界大戦 イギリスが再び戦争協力を要求
国民会議派「インドから出て行け」(クイット・インディア)運動
→イギリス、国民会議派を非合法化
1940年 全インド=ムスリム連盟(指導者:[19 ])
新国家(20 )の建設を目標にする
空欄
8 自治
9 ローラット
10 アムリットサール
11 ガンディー
12 非暴力・不服従
13 ラホール
14 ネルー
15 プールナ=スワラージ
16 塩の行進
17 英印円卓
18 新インド統治
19 ジンナー
20 パキスタン
補足
① ガンディーと「サティヤーグラハ」
ガンディーはヒンドゥー教徒の裕福な家に生まれ、若いころにイギリスにわたり弁護士の資格を取りました。
仕事の関係で南アフリカに行き鉄道に乗っているとき、一等車の切符を持っているのに貨物車へと追いやられました。ガンディーは南アフリカでインド人差別に反対する運動を展開し、1915年にインドに戻ってきました。
ガンディーは大戦中イギリスへの協力を呼びかけました。イギリスは戦後のインドの自治を約束し、大戦では150万人のインド兵が戦争に駆り出され、戦死者は3万6000人にのぼりました。
しかし戦後イギリスは大戦で疲弊、インドの富が頼りです。そこでインド人にはわずかしか自治を認ない一方、ローラット法を制定して民族運動を弾圧、アムリットサールで反対する民衆に無差別で発砲しました
アムリットサール事件の慰霊碑。アムリットサールはシク教の聖地として有名。Joanjocさんの作品。
そこでガンディーは非暴力・不服従運動を指導します。
殴られたら倍返ししたくなるものですが、ガンディーは「人間は強いから暴力をふるうのではなく実は弱いから暴力に訴える」と考えます。「非暴力・不服従」を貫き通すことによって、弱い心をもった暴力をふるう人たちの心を変えられる、ある意味「人間の解放」まで考えた運動だったといえます。
これにムスリムが協力、ガンディーもムスリムが行っていたカリフ擁護運動(オスマン帝国が大戦で負けてカリフ制の存続が危機)に賛同し、ヒンドゥーとムスリムが協力してイギリスへの非協力運動を展開しました。
ガンディーはイギリスからの経済的自立を促しかつ宗派を問わず共闘できる運動のシンボルとして糸車を用いました。この時作られた独立インドの旗にも描かれています。
1931年にインド国民会議で採択された旗。サフランはヒンドゥー教、緑はイスラム教、白は2宗教の和解とその他の宗教を表します。出典= http://www.crwflags.com/fotw/flags/in-hist.html
しかし1922年に運動参加者が警察官を殺害する事件が発生、ガンディーは突如非暴力運動を停止したため独立の機運は水を差されます。ガンディーの「人間の解放」という「真理の追求」は容易ではありませんでした。同じころカリフ制も廃止され、ヒンドゥーとムスリムの共闘も立ち消えになります。
その後国民会議派ではネルーら急進派が台頭し(世俗主義や社会主義指向)、1929年のラホール大会で「完全独立」(プールナ・スワラージ)を決議します。1930年にガンディーが植民地政府が専売にしている塩を作るという「塩の行進」を始めると運動は各地に拡大し、全世界でも非暴力・不服従運動は知られるようになります。
② インドとパキスタンの分離独立
第二次世界大戦が勃発が勃発するとインド総督府が参戦を宣言しますが、国民会議派のガンディーやその後継者ネルーは抗議し、反対の立場を取ります。
一方全インド・ムスリム連盟はイギリスに協力することで、戦後のムスリム国家としての独立を目指そうとします。全インド・ムスリム連盟は新インド統治法後の選挙で惨敗を喫し危機感を募らせていました。1940年のラホール大会でムスリム多住地域の独立を決議します(後に言う「パキスタン決議」)。
イギリスは第二次世界大戦に勝利しますが、戦争で疲弊したイギリスにはもはやインドの統治を続ける力はなくなっていました。19世紀以降イギリスは一貫してインドの債権国でしたが(独立されて貸した金がチャラにされては困る)、第二次世界大戦で立場は逆転、イギリスはインドに対して13億ポンドもの巨額な負債を抱えていました。
イギリスはインドの統治権を手放すことを決め、協議を始めます。イギリスは後のインド・パキスタン・バングラデシュの3連邦の上に統一連邦を置く国家を提案しましたが合意に至らず、最後の総督マウントバッテンは統一インドを諦め、英領インドはヒンドゥー教徒が多く住むインドと、ムスリムが多数派のパキスタンに分かれて独立することになりました。
ネルーやジンナーらと協議するマウントバッテン(中央)。彼はイギリス女王エリザベス2世の夫の叔父にあたり、第二次世界大戦中のカサブランカ会議やカイロ会議に出席し、ビルマで日本軍と戦いました。インドでの職責を終えた後は海軍の要職を歴任して引退、1979年にIRAのテロで命を落としました。
この結果インドにいたムスリム、パキスタンにいたヒンドゥー教徒が住み慣れた土地から移動することになり、その途上で両者が衝突して数十万人を超える命が失われました。最後まで両者の宥和を説いたガンディーも1948年に熱烈なヒンドゥー教徒に暗殺されました。
まとめ
- 公式の帝国になり帝国を支える人員が必要になったので、イギリスは忠実な現地人エリートを養成しようとしたが、彼らが差別の前にして民族意識に目覚める
- ガンディーの非暴力・不服従運動やヒンドゥーとムスリムの融和は理念は崇高だが現実には難しく、ネルーらが国民会議派の主導権を握る
- 第二次世界大戦でイギリスが疲弊し、英領インドはインドとパキスタンに分離独立するが、その過程で多くの人が亡くなり、独立後も両者は対立を続けている