ぶんぶんの進路歳時記

学習方法、進路選択、世界史の話題について綴ります

自宅待機中の自習プリント(帝国主義とアフリカ分割)

はじめに

 家庭学習用の大量のプリントをもらってお困りの方対象に「19~20世紀のアジア・アフリカ諸地域」について整理します。

 第2回は「アフリカの分割」です。順番が時系列でないのは大人の事情です。

 今回の問いは「アフリカ分割、そこまで分けるのなぜ?」です。 

 教科書(実教出版帝国書院、東京書籍、山川出版社)、資料集(帝国書院、浜島書店)、一般書(山川出版社『詳説世界史研究』同『世界近現代全史』)NHKEテレ「高校講座 世界史」をベースにしています。

旧版Eテレ「高校講座 世界史」でアシスタントの寺田ちひろ♡と微妙な空気感でかけあう宮本先生の著書 

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目次  

 

1 アフリカの分割開始

19世紀半ば,[1     ](米)[2     ](英)の中央アフリカ探検

ベルギー国王[3      ]がスタンリーの探検を援助

コンゴの独占をはかる→イギリス、ポルトガルが反対

ベルリン会議(1884~85)

(4     )自由国(ベルギー王の私領)の承認

アフリカ植民地化の原則

 アフリカは「無主の地」、最初に領有を行った国に先占権

 沿岸部を支配すればその内陸部にも優先権

 実効支配の原則:他国の通商を保障することが領有の条件 

 →列強によるアフリカ分割が進む

補足

① アフリカ探検は奴隷制反対がきっかけ?

 17世紀から18世紀にかけて大西洋三角貿易が行われました。西アフリカでは奴隷貿易に依存するベニン王国ダホメ王国などが奴隷狩りによって1000万人以上の男女をアメリカ大陸に送り出したため、人口は停滞し社会は荒廃しました。

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  産業革命が進展すると奴隷貿易は次第に「割に合わなく」なり、19世紀初頭にイギリスでは福音主義の立場からウィルバーフォースらの奴隷反対運動がはじまり、1807年に奴隷貿易が廃止、1833年にイギリス領植民地での奴隷制が廃止されます。

過去ログ 

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 スコットランド出身の宣教師リヴィングストンは、1841年にキリスト教の布教と奴隷貿易を廃絶のためにアフリカに渡りました。彼は「キリスト教は慈悲深い宗教で、混乱し破滅に瀕したアフリカの人々に平和をもたらす」と信じていました。

 彼はアフリカ南端から布教の拠点を求めて内陸部へ北上、途中ライオンに襲われて大怪我をしたり、飢餓や疫病に悩まされます。1855年ザンベジ川で巨大な滝を発見、当時の国王の名前にちなんで「ヴィクトリアの滝」と名付けます。


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 彼はヨーロッパ人としては初のアフリカ横断に成功しますが、三度目の探検で行方不明になります。その時新聞社の依頼でリヴィングストンの捜索に乗り出したのがイギリス生まれでアメリカでジャーナリストをしていたスタンリーです。

 捜索開始から10か月、スタンリーはタンガニーカ湖近くの村で病に倒れ孤立していたリヴィングストンを発見しました。まさに「生きとったかぁ~!」(関西の一部では「こんにちは」の意味)です。

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 スタンリーはさらに探検を続け、2度目の探検で謎とされていたナイル川の源流を突き止め、コンゴ川を下ってアフリカ大陸横断に成功しました。

② 先に「ここ取った!」って言えば優先権?

 スタンリーのコンゴ探検に目を付けたのがベルギー国王レオポルド2世です。国王はからコンゴの調査を依頼されたスタンリーは第3回の探検に出発、コンゴに5年間滞在し、現地の首長と「契約」して植民地経営の核になる都市、農園、沿岸部と内陸部をつなぐ道路を建設しました。

 探検のスポンサーであるレオポルド2世にすべての権利が帰属し、1882年からは「コンゴ国際協会」が当地の支配を代行します。これに対して沿岸部に利権を持つイギリスとポルトガルが反発します。

 この時ビスマルクが介入し、1884年~85年にベルリン会議が開催されます。14か国が参加した会議の結果、コンゴは分割され、レオポルド2世の私領としてのコンゴ自由国、北にフランス領コンゴ、南にポルトガルコンゴアンゴラ)となりました。

 またアフリカ沿岸部における植民地化の原則が確認されました。

  • 実効支配の原則:占領が認められる条件はヨーロッパ人の活動(通交・交易)を保障できる実効支配が行われていることが必要。
  • 先占権:ある地域を最初に占領した国がその地域の領有権をもつという先占権をもつ。また沿岸部を占領した国が内陸部の併合も認められる。

 この会議を契機として列強のアフリカ分割は本格化し、列強間の調整を通じた地図上での植民地分割が行われていきました。

 ヨーロッパ人にとってアフリカ内陸部は未知の領域でしたが、探検家の調査が進み、その結果が分割に利用されました。また熱帯雨林の開発の障害になるマラリアの特効薬が開発・普及したことも内陸部への進出を容易にしました。

 そして19世紀後半は科学の時代、「未開」のアフリカに文明をもたらすことは「正義」だと、ヨーロッパの多くの人が信じて疑いませんでした。(´・ω・`)

過去ログ 

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空欄

1リヴィングストン
2スタンリー
3レオポルド2世
4コンゴ

2 列強のアフリカ分割 

① イギリス:アフリカ縦断政策

エジプト:1880年代,(5     )運動鎮圧→保護国

スーダン:(6     )派の抵抗 ゴードン死亡 →1899年征服

ナイジェリア、ケニア南アフリカ(後述)

② フランス:アフリカ横断政策

1830年 (7      )出兵 

1881年 (8      )の保護国

サハラ地域から(9     )に至るアフリカ横断政策

→西アフリカではサモリ=トゥーレのサモリ帝国が抵抗

1898年 (10     )事件…スーダンでイギリスと衝突

 フランスが譲歩、東スーダンでのイギリスの優位を認める

1904年 (11     )協商

 英のエジプト,仏のモロッコ優越権を相互に承認

③ ドイツ:1880年代に急速に関心を持ち始める

(12      )・西南アフリカ・東アフリカなどを獲得

→西アフリカではヘレロ人、東アフリカではマジマジ蜂起

(13     )事件(1905,1911)フランスのモロッコ支配に挑戦

 1905年 (14     )事件

  皇帝ヴィルヘルム2世がタンジールに上陸 モロッコの門戸開放要求

 1906年 (15     )会議

  モロッコ事件の処理。ドイツは支持を得られず

 1911年 (16     )事件

  モロッコの反乱鎮圧を口実にフランスが出兵 ドイツが軍艦を派遣

④ ポルトガル奴隷貿易の時代からアフリカの沿岸部に拠点

西岸:(17     ) 東岸:(18      )を獲得

⑤ イタリア:北アフリカに関心

1880年代 英仏とともにソマリランドを分割、エリトリアを獲得

1895年 エチオピア侵入

1896年 (19     )の戦い フランスの支援を受けたメネリク2世に敗北

1911~12 イタリア=トルコ戦争:(20    )(トリポリキレナイカ)獲得

⑥ 分割の結果

人為的な境界線の策定→人間のつながりや交易網を破壊

(21     )帝国・(22     )共和国を除き列強の植民地となる

リベリア共和国

 アメリカ植民協会が解放奴隷のアフリカ系住民を入植させる

 1847年に共和国建国 少数の移民が多数の先住民を抑圧

こちらの地図をお借りしました。自習の方は手元のプリントの中に地図があるので色塗りしてください。

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作者など著作権情報はこちら

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補足

① フランス

 フランスの領域が広大ですが、砂漠地帯も多く経済的な「うまみ」がなさそうです。

 第三共和政下のフランスでは共和諸派1881年の選挙で大勝します。彼らの路線は「オポルチュニスム(日和見主義)」とよばれ、財界の利害には忠実ですが共和主義的な改革への取り組みは十分ではありませんでした。あれ某国にも自由とか民主といいながら(以下略)。

 当時フランスでは対独敗戦と屈辱講和で国民各層にナショナリズム的な不満が鬱積していました。1880年代末のブーランジェ事件、1890年代末のドレフュス事件はその例です。この「愛国心のはけ口」のために政府は植民地の拡大を目指しました。

 なおフランスは現在でも世界中に点在する海外領土を手放していません(海外県)。

青い海を見て休憩 太平洋の分割は各自で学習してください。


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② ドイツ

 ビスマルクにとってもフランスの愛国心が対独復讐心以外に向かうのは好都合です。ビスマルクも1879年に保護関税法を成立させ、1880年代には植民政策に積極的になりましたが(太平洋のビスマルク諸島(メラネシアの一部、ミクロネシアの獲得もこの時期から)、フランスの植民地拡大を支持した分、ドイツ植民地は少なめでした。

 このビスマルクの協調外交を清算して「世界政策」に乗り出すのが皇帝ヴィルヘルム2世です。

 英仏協商でフランスがモロッコの優越権を承認されたことを受けて、フランスはモロッコの財政に干渉します。これに反発したヴィルヘルム2世はヨットで地中海を横断中に突如タンジールに上陸し、スルタンに会見してモロッコの独立と門戸開放の維持を表明しました。

 スルタンはこれに力を得てフランスに対する態度を硬化させ、ドイツはモロッコ問題に関する国際会議の開催を要求するなど、独仏関係は緊張しました。

 1906年にスペインで開催されたアルへシラス会議(12か国が参加)では各国がドイツ支持に回らず、フランスのモロッコに対する優先権は黙認されました。

 さらに1911年にドイツはモロッコに軍艦を派遣しますが、ドイツはフランスのコンゴ植民地の一部と引き換えに、事実上フランスのモロッコ保護国化を受け入れます。

③ やられっぱなしではない

 現地住民は一方的に列強の攻勢に屈服したわけではなく、固有の文化や伝統を守るために立ち上がり、近代化を受容しながら抵抗しました。

 エジプトでは「エジプト人」意識が生まれ、ウラービーら青年将校がエジプト副王を動かし、近代化政策をすすめます。

 スーダンはエジプトの支配下に置かれ、1870年代には太平天国の鎮圧で名を挙げたゴードンが総督に任命され、収奪が強化されました。

 民衆の不満が高まる中、ムハンマド=アフマドは「マフディー」(「正しく導かれた者。救世主の力を持つ)と称し、ジハードを提唱します。マフディー派は急速に勢力を拡大し、1883年にはイギリス・エジプト連合軍を破って東スーダンを掌握します。

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 グラッドストンはイギリスに戻っていたゴードンをハルトゥームに派遣します。イギリスはエジプト軍をスーダンから撤退させ、自国の管理下に置く腹積もりでしたが、好戦的で撤退作戦に不向きなゴードンがもたつく間にマフディー派はハルトゥームを包囲し、ゴードンは殺されました。この後東スーダンのマフディー国家は1898年まで持ちこたえました。

 ドイツは綿花などのプランテーションの労働力として現地民を奴隷化しようとしたため抵抗運動を招きます。

 アフリカ領東アフリカの蜂起は「マジマジの蜂起」と呼ばれ、現地民はドイツ軍の弾丸を液体に変えてしまうという魔法の水「マジ」を与えられて抵抗しました。ドイツはその鎮圧に約3年の時間を要し、現地民側は数十万人の犠牲を出したといわれています。この結果ドイツは植民地経営の見直しを迫られました。

 エチオピアではメネリク2世のもと近代化政策がすすめられ、イタリアと条約を結んで武器供与をうける代償に保護権とエリトリア割譲を認めました。

 しかしメネリク2世が権力基盤を固めるとフランスに接近し、イタリアとの条約を破棄します。怒ったイタリアがエリトリア側から侵入しますが、フランスからの武器供与を受けたエチオピアにアドワで大敗を喫します。

 このように列強の侵略とそれに対する抵抗の過程で「民族」意識が形成され、のちの独立運動の根拠になりますが、列強が分割の際に引いた恣意的な国境線(同じ文化集団が分断されたり、違う文化集団が一緒にされたりする)が後で問題になります。

空欄

5ウラービー
6マフディー
7アルジェリア
8チュニジア
9ジブチ
10ファショダ
11英仏
12カメルーン
13モロッコ
14タンジー
15アルヘシラス
16アガディール
17アンゴラ
18モザンビーク
19アドワ
20リビア
21エチオピア
22リベリア

3 南アフリカ戦争

ケープ植民地:17世紀にオランダが補給基地として建設

 オランダ系移民((23     )人)が入植

1814年 (24     )会議→ウィーン議定書でイギリスがケープ植民地獲得

 ブール人は北上(グレート・トレック)

 (25     )共和国・(26     )自由国を建設

 →金、ダイヤの発見

ケープ植民相[27     ]の侵略 ローデシアを建国

1899~1902 南アフリカ(ブール)戦争 本国植民相[28        ]

1910年 南アフリカ連邦(1910)

 アフリカーナーの現地民差別…(29     )(人種隔離政策)の原型

ケープタウン・カイロ・カルカッタを結ぶ(30    )政策の推進

補足

① グレート・トレック

 ケープ植民地では17世紀以来オランダ系植民者の子孫(ブール人 アフリカーナー)が先住民を奴隷化して農園主として生活していました。ブールはオランダ語で「農民」を意味します。

 ナポレオン戦争後ケープ植民地がイギリスの支配下に置かれると、ボーア人は「二級市民」扱いされ、また19世紀の奴隷廃止の流れで労働力が確保しづらくなります。

 そこでボーア人は北方に移住し(グレート・トレック)、現地人(ズールー人)と戦って土地を奪い、オレンジ自由国、ついでトランスヴァール共和国を建設します。

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② セシル=ローズとブール戦争

 セシル=ローズは若くして南アフリカでダイヤモンド鉱山や金鉱山を経営して(デ・ビアス鉱山会社)財を成し、41歳でケープ植民地の首相に就任します。

*「ダイヤモンドは永遠の輝き」の会社です。youtubeにCM動画が落ちているかも(ご利用は個人責任で)

 彼は1895年にトランスヴァール共和国の北にローデシア植民地をたて、同年に私兵をトランスヴァール共和国に侵入させますが失敗、辞任に追い込まれます。

ケープタウンとカイロに足を置き、鉄道用の電線を敷設しようとするローズ。「神は世界地図がより多くイギリス領に塗られることを望んでおられる。できることなら私は夜空に浮かぶ星さえも併合したい」と著書の中で豪語しています。

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 ローズ失脚後、イギリスの植民相ジョゼフ=チェンバレントランスヴァールに圧力をかけ、1899年に開戦に持ち込むと、オレンジ自由国トランスヴァール側について参戦しました。

 ブール人側はゲリラ戦で激しく抵抗、業を煮やしたイギリスは、焦土作戦や女性・子どもを含む一般人を劣悪な強制収容所に隔離するなど過酷な作戦を展開しました。

 ブール戦争でロイター通信の特派員は、イギリス軍の戦況報告よりも迅速に戦果をロンドンに伝達しました。その結果イギリス軍の行為が明るみになり、国際社会から非難を浴びました。通信技術とメディアの力は無視できません。

強制収容所の様子。12万人のボーア人、先住民黒人が収容所に入れられ、さらに広大な農地と農家が焼き払われました。収容所では2万人が死亡したとされています。

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③ アパルトヘイトの原型

 南アフリカ人種隔離政策(アパルトヘイトは、1948年に国民党によって立法化された一連の差別法を指しますが、それ以前から差別法はありました。

 ブール戦争でイギリスが勝利すると 白人のうち支配層を形成するイギリス系に対しアフリカーナーの多くは経済的な弱者となり、「プア・ホワイト」と呼ばれる貧困層を形成していました。

 とはいえ白人は南アフリカ連邦では少数派、仲間割れをすると多数派である先住民黒人を抑えられません。そこで1911年には「鉱山労働法」が制定されて熟練労働を白人のみに制限、1913年の「原住民土地法」では先住民の居留地を定め、居留地外の先住民の土地取得や保有、貸借を禁じる、などアフリカーナーを保護する法律を作りました。

 1927年には「背徳法」が成立し、異人種間の性交渉が禁じられました。こうした一連の差別立法が人種隔離政策に引き継がれました。

 なお南アフリカにはインド系移民も多数暮らしています。1850年代にナタール植民地でサトウキビのプランテーションの開発が始まると、ズールー人(狩猟と戦士の人なので農業は苦手)の代わりにイギリス領インドから年季労働者を受け入れました。

 そのままナタールに留まったインド人労働者はさらに工場や鉄道事業に進出し、さらに裕福なムスリム商人も渡航して商店を経営するようになりました。そのため現地白人との対立が発生し、インド系移民の権利が制限されました。この辺はオーストラリアの白豪主義アメリカの移民法と同じ構造です。

 これに対してインド人の人権闘争に立ち上がるのが若き日のガンディーで、彼の活動の結果、インド系移民に対する差別的な規定が廃止されました。

発展:1971年に「ホームランド」といわれる「国」を10地区建設し、人口の大多数を占める先住民黒人を国土の13%の不毛の土地に居住させました。これらは最終的には独立国にして、先住民の南アフリカの市民権と参政権を奪い「外国籍の出稼ぎ労働者」として扱おうとする魂胆でした。某国も外国籍の労働者には冷たいです。

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空欄

23ブール
24ウィーン
25トランスヴァール
26オレンジ
27セシル=ローズ
28ジョゼフ=チェンバレン
29アパルトヘイト
303C 

まとめ

  • アフリカ探検は奴隷制度が存続する「未開」のアフリカを「文明化」するという動機で始まった。
  • アフリカ分割は「資本主義の発達のため」というよりは「まず分割しましょう」みたいな部分もある。そのため国境線が恣意的に設定された。
  • エチオピアリベリア以外は列強に分割されたが、その過程で各地で抵抗運動が発生し、近代を受け入れる中で「民族」意識が形成された。
  • 南アフリカの差別政策は19世紀初頭からの少数の白人が多数の先住民黒人を圧迫する流れと、イギリスのブール人懐柔政策の中で形成された。