ぶんぶんの進路歳時記

学習方法、進路選択、世界史の話題について綴ります

自宅待機中の自習プリント(世界恐慌の時代)

はじめに

 自宅待機も終了して学校は平常に戻ったようですが、この時期の三年生の世界史では覚えることが急激に覚え、しかも入試頻出です。動画授業だけではいまいちぴんとこなかた人は復習しましょう。

 今回は「世界恐慌とその対応」を整理します。

 今回の問いは「なぜ恐慌が世界に広まったの?」「対策はうまくいったの?」です。

参考図書 

教科書(実教出版帝国書院、東京書籍、山川出版社

資料集(帝国書院、浜島書店)

一般書(山川出版社『詳説世界史研究』『世界近現代全史』『もう一度読む世界現代史』、ミネルヴァ書房『西洋の歴史近現代編』『大学で学ぶ西洋史近現代編』『論点・西洋史学』)

図版は断りがない場合はウィキメディアコモンズパブリックドメインのものです。

参考 

www.nhk.or.jp

マストアイテム

目次

 

1 世界恐慌

世界恐慌とその影響:生産過剰→金余り→株式投機→バブル崩壊

(1)背景

 世界的な農業不況(生産過剰が原因) 工業製品も過剰

 農家は穀物価格が下落で収入減 労働者の賃金はあがらない 

 余剰資金が土地・株式の投機に向けられる

(2)契機

 1929.10 ニューヨーク株式市場(1     )街の大暴落(暗黒の木曜日

 工業生産の急落,企業・金融機関の倒産,労働者の大量失業

(3)経過

 アメリカ資本の引きあげ→ヨーロッパ諸国に波及

 (2     )=モラトリアム(1931)…賠償・戦債支払いの1年間の停止

 アメリカの高関税政策→さらに貿易が縮小する

(4)影響

 英・仏はブロック経済→国際経済縮小

 独・伊・日は対外侵略で恐慌を克服

 ソ連は影響受けず→社会主義の評価があがる

空欄

1    ウォール
2    フーヴァー

補足

① どうしてアメリカで大きな恐慌が発生したの?

 アメリカ合衆国1920年代に急速に工業化し、フォードシステム(ベルトコンベヤーによる大量生産)によって労働生産性も飛躍的に高まりました。

 しかし大企業が市場を独占しているため、生産性の向上が商品の価格低下につながらず、労働者の賃金もあまり上昇しませんでした。

 深刻なのはアメリカの総人口の5分の1を占める農民で、世界的な生産過剰による農産物の価格低下、負債の増加に苦しんでいました。つまり大儲けしたのは大企業だけ、労働者や農民はお金がない、生産と消費のアンバランスが拡大しました。

 1929年の段階で人口の70%はいちおうの生活水準が保てる限度と言われた年収2500ドル以下、この時期整備された消費者金融信用取引(いわゆる月賦とかローン)で庶民の買い物の規模は広がりましたが、借りた金はいつかは返さなければいけません。

 こうした生産と消費のアンバランスは1927年ぐらいから顕在化し始め、乗用車の販売台数は前年の80%を割り、住宅建設も1929年までには35%も減少しました。

 こうして実体経済が下降線をたどる中、大儲けをした企業は余剰資本を株式投資につぎ込んでいました。1929年後半になって工業生産や価格の低落が急ピッチになったのに株価は値上がりを続け、9月19日にはピークに達しました。

 しかし10月に入って株価は下がり始め。10月24日「暗黒の木曜日」にパニックが発生しました。(ここまで主に『もう一度読む世界現代史』より)。

ウォール街の群衆 出典:http://www.ssa.gov/history/wallst.html 連邦政府が公務で作ったものなのでパブリックドメイン

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② どうしてアメリカの恐慌が世界中に拡大したの?

 大企業と労働者・農民のアンバランスと同じことが国際経済でも生じていました。

 第一次世界大戦前まではイギリスが世界金融の中心にあり、各国が英ポンド(金と交換できる)を基軸通貨に多角的決済をする中で、イギリスが「最後の貸し手」として多少損をしても大丈夫な経済力を持っていれば経済は循環しました。飲み会に行って予算オーバーした分を上司が払ってくれる感じ?

 しかし新たに世界経済の覇権を握ったアメリカ合衆国はそういう役割を担う意思に欠け、確かにドーズ案などでヨーロッパ経済の資金需要を賄うものの、高関税政策をとって世界経済の不均衡を拡大しました。

 金本位制は各国の中央銀行が保管している金と同じ額の紙幣を発行する制度です。紙幣は金との交換が可能(兌換)なので価値を保証され、インフレーションが起こりにくい反面、紙幣発行量が金の保有量に左右されるためデフレになりやすく、経済不安が起こると通貨を金に交換する海外商人が増えて金が国外に流出する危険もあります。

*日本は第一次世界大戦中から金輸出を禁止していましたが1930年に再開、ちょうどアメリカの恐慌が世界に波及する絶妙なタイミングで、大量の金が海外に流出しました。

 経済大国アメリカ合衆国が高関税政策を取ればアメリカの貿易黒字が拡大、それを最終的に金で決済するとアメリカにどんどん金が集まり、他の国は金の保有量が減って紙幣発行量が減ります。各国は積極財政政策が打てなくなります。

 そうした中で、1928年から合衆国の対外投資の引き上げが始まり(株式投資熱をおさえるために連邦準備銀行金利を引き上げた)、29年に恐慌が発生すると債権回収を強化したので(いわゆる貸しはがし)、恐慌は世界中に波及しました。

 こうした「合衆国ファースト」の態度が恐慌を拡大させ、長期化させることになりました(ここまで主に『論点・西洋史学』)。

 

2 各国の恐慌対策

金本位制廃止 国家の経済介入 保護主義

(1)アメリカ合衆国

[3           ](民主党),大統領に当選(1932)

① (4       )政策の実施(1933年~)

 (5      )法…生産調整、余剰農産物買い取りで生産物価格の引き上げ

 (6      )法…生産の統制 労働者条件の改善で公正な競争の促進

 金本位制からの離脱、ドル経済圏(ドル=ブロック)

 (7      )開発公社の設立…公共投資による地域開発→失業者吸収

 (8      )法制定(1935)…労働者の団結権、団体交渉権を保障

 社会保障法(1935)…失業保険、退職金、老齢年金

 →労働運動の発展→産業別労働者組織委員会産業別組織会議(CIO)

② 外交政策

 ソ連の承認(1933)…市場拡大

 ラテンアメリカ諸国に対して(9    )外交

 →プラット条項廃止、ドル経済圏取り込み

 フィリピンの10年後の独立約束

(2)イギリス

第2次[10     ]内閣(労働党)…失業保険の削減でマクドナルド除名

マクドナルド挙国一致内閣…財政削減,(11      )制廃止

1931年 (12         )憲章 本国と自治領の対等

1932年 (13    )連邦会議(1932)…(14     )=ブロックの形成

(3)フランス

フラン=ブロックの構築

1935年  (15    ) 相互援助条約締結

1936年 (16      )内閣の成立

 国内でファシズム勢力の台頭→中道・左翼勢力が結集

 首班[17     ],社会党・急進社会党共産党(閣外協力)が提携

空欄

3    フランクリン=ローズヴェルト
4    ニューディール
5    農業調整
6    全国産業復興
7    テネシー川流域
8    ワグナー
9    善隣
10    マクドナルド
11    金本位
12    ウェストミンスター
13    オタワ
14    スターリン
15    仏ソ
16    人民戦線
17    ブルム

補足

① ニューディール政策は失業対策?

 アメリカ合衆国では1930年末から1931年末にかけて銀行の倒産が相次ぎ(1929年には642行→1931年には2298行が倒産)、1933年には工業生産高は1929年の約半分にさがり、失業者は1283万人と労働人口の四分の一にのぼりました。

預金を下ろそうとニューヨークのアメリカンユニオンバンクに集まる群衆 銀行は1931年に倒産。

出典:http://www.ssa.gov/history/bank.html

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 銀行の倒産は先述の海外投資引き上げを加速させました。オーストリアのクレジット=アンシュタルトが破産すると、この銀行はオーストリア政府に資金提供するために各国銀行とつながっていたために、ヨーロッパで大規模な金融不安が発生しました。

 この結果世界貿易が縮小し、販売路を失った合衆国の農民が困窮し、彼らに貸し付けを行っていた都市銀行が倒産、恐慌はスパイラルのように拡大しました。

 フーヴァー大統領は決して無策だったわけではなく、銀行への救済融資、輸入品に高関税をかけて農産物価格を維持(スムート=ホーリー関税法)、失業者対策のために州に連邦資金を貸し付けて公共事業に着手させるなど、いくつかはニューディール政策にも引き継がれました。

 しかし大恐慌にはより強い政府の産業への介入が必要でしたが、それはフーヴァーにとっては全体主義共産主義であり、踏み込めない領域でした。

 また合衆国の保護関税政策に対抗する形で他国も関税を引き上げたので世界貿易は縮小し、世界恐慌はさらに深刻化しました。

 新たに大統領に就任したフランクリン=ローズヴェルトは、まず銀行を四日間営業停止にし、体力のある銀行から順次営業再開させました。次いで「百日議会」と呼ばれた議会での矢継ぎばやの諸立法によって、政府主導による救済、復興、改革(3R)を目指すニューディール政策を遂行しました。

ローズヴェルトはラジオ放送を通して演説し、直接国民に訴えかけるスタイルを重視した、メディアを巧みに利用した大統領として知られています。彼が行った毎週のラジオ演説は「炉辺談話」fireside chats と呼ばれています。いわゆる「ザイオンス効果」(何度も会うと親近感を感じる)で、日本の政治家もメディアと広告代理店と結んでこの方法を使っ…、あれ、誰か来たようだ。

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 ニューディール政策は1935年を境に前期と後期に分けられ、前期は農業調整法・全国産業復興法・テネシー川流域開発公社など救済と復興が中心でした。

 農業調整法の補償金交付による作付け制限で、飢餓に苦しむ人々を無視して農産物を減らし価格をつり上げることには批判もありましたが、農家の所得は伸びました。

 全国産業復興法では、政府が企業の合同を促したり労働者の団結権・団体交渉権を認めるなど、「産業の自治」にとらわれず国家が経済の危機を名目に産業界への介入を図りました。

 しかしこうした政策は生産調整に応じることができる大企業や競争力のある農民には有利に働きましたが、中下層の都市労働者・農業労働者には厳しく、労働者の暴動も頻発しました(『映像の世紀』にその様子あり)。 

 そこでローズヴェルトは次の選挙が迫る1935年にワグナー法(全国産業復興法が違憲判決を受けたので新たに労働者保護立法を作った)、社会保障法(失業保険、老齢年金、母子施設や身体障がい者施設への補助)と、これまで「赤(共産主義)嫌い」の合衆国が無視してきた労働政策や社会福祉にも踏み込みました。

 この結果新しく成立した産業別組織会議(CIO)は民主党を支持し、リンカン以来共和党を支持してきた黒人層も民主党支持に転換し、ローズヴェルトは再選を果たしました。ちゃっかりさんです。(´・ω・`)

② ニューディールは成功した?

 恐慌対策としてのニューディールの評価はあまり高くなく、生産はかなり回復したとはいえ1937年の段階で失業者は770万人を数え、アメリカ合衆国の経済が完全に復調したのは1939年以降、第二次世界大戦がはじまり軍需生産の増大によってでした。

 景気回復という観点だけであれば、日本やドイツは対外拡張政策・軍需産業全体主義的抑圧によって景気回復を早期に果たしています。しかしそれは世界戦争という破滅の道の第一歩になりました。

 一方ニューディールは効果の面では今一歩だったとしても、政府が大胆な財政支出公共投資で経済に介入し、資本主義の行き過ぎを防いで国民生活を守るという試みは、社会主義革命や民族運動にさらされる資本主義の新しいあり方を示しました。

 ニューデールは合衆国の資本主義と民主主義を救い、国民を再統合することを可能にするだけでなく、「修正資本主義」「福祉国家」という、帝国主義に代わるオルタナティブとして他の資本主義諸国に受容されることになります。

*そのために赤字覚悟で財政出動する必要があり、各国は紙幣の発行が金の保有量に縛られる金本位制度から離脱し、管理通貨制度に移行します。その説明動画 ©NHK

www2.nhk.or.jp

③ ブロック経済はどこまで排他的?

 金融危機が深刻化したイギリスではマクドナルドが財政支出を減らすために失業保険を削減する法案を出しますが、これが労働党の分裂を招きマクドナルドは除名、自身の経済政策を支持する保守党や自由党の勢力を集めて挙国一致内閣を作りました。

 マクドナルドはまず金本位制を停止し、ポンドを切り下げて(金本位制下でポンド高のレートが設定されていたので輸出に不利だった)管理通貨制度に移行しました。

 また1931年のウェストミンスター憲章で1926年の帝国会議の取り決め(イギリスの自治領に対等な地位を与える)を確認し、1932年のオタワ会議でイギリスの自治領・植民地との貿易を優遇し(特恵関税)、それ以外の国に高関税をかける「オタワ体制」を構築しました。

 モノの移動に関するオタワ体制を補完するのが「スターリング=ブロック」です。これは金本位制に代わってポンドを基軸通貨とする国際金融体制で、イギリスと取引する諸地域はロンドンで準備金としてのポンドを保有するよう義務付けられました。

 こうしてイギリスと自治領・植民地間で閉鎖的な「ブロック経済」が成立したとされますが、最近の研究では、イギリスと自治領・植民地は包括的な関係ではなく二国間交渉が中心で、植民地・自治領はイギリスの工業製品を買う以上に一次産品をイギリスに売り、その貿易黒字でイギリスへの債務を返還したそうです。

 またスターリングブロックに関しては、自治領のカナダはアメリカ合衆国のドルブロックに入り、一方アルゼンチンはイギリスに冷凍食肉を売るためにスターリング圏に入ります。中華民国の幣制改革もアメリカとイギリスの支援を受け、銀行券(法幣)は事実上ポンドとリンクすることで信用を得ました。

 したがってイギリスの場合、「ブロック経済」のドアが完全に閉まっているわけではなく、特に金融に関しては帝国以外にもポンド使用を働きかけたみたいです。

一橋大学に「イギリスとアメリカのヘゲモニー交替」という出題がありましたが、第一次世界大戦後に世界一になりながら孤立主義アメリカに対して、イギリスは広大な帝国を維持し、重要会議に顔を出し、金融面でもヘゲモニーを維持していたということです。

*発展

 英領インドは大戦後事実上関税自主権を獲得し、インド産綿製品を守るために輸入綿製品に対する関税を引き上げました。イギリスもインドの債権を回収するためにインドの貿易黒字やルピー価値維持を望み、その結果綿工業や重工業が発達しました。

 一方日本はインド原綿の最大の輸入国で、日本の綿製品がインドで急増するとインドは狙い撃ちでそれに高関税をかけ、日本はインド産原綿のボイコットで対抗、今でいう「経済摩擦」が発生しました。

 とはいえインドにとって日本は「お得意様」、1933年の交渉では日本の綿製品への関税を緩和する代わりに日本がさらにインド原綿を輸入することで妥結しました。

 この時期日本は満蒙に「前のめり」になりますが、19世紀末以来アジア間貿易で工業製品を輸出していた日本が、粘り強く二国間交渉を重ねて多角的な経済運営を進めていけば、違う歴史もあったのでは…と妄想します。

参考

 

まとめ

  • アメリカの恐慌は大量生産による過剰供給に対して労働者・農民の低所得という需要と供給のアンバランスと、そのため生じた金余りが株式投機に向うという実体経済と株価のアンバランスが原因
  • アメリカの恐慌が世界恐慌になったのは、アメリカの保護関税政策や資本の引き上げという「超大国の自分ファースト」が原因
  • フーヴァー大統領はニューディールの先駆的な取り組みを行なったが、政府が産業に強力に介入することにはためらいがあった
  • フランクリン=ローズヴェルト大統領は、最初は競争力のある銀行・企業・農民を優遇して生産調整をすすめ、後半は労働者の権利や社会保障を重視し、国民を分断することなく需要と供給のアンバランス解消につとめた
  • ニューディルは恐慌対策としてはいまひとつだったが、アメリカ国民の再統合に成功し、国家が経済に介入する「修正資本主義」は、社会主義の攻勢にたいして資本主義の没落をくいとめるためのモデルとして、他国に波及した
  • イギリス、フランスなど植民地を多く抱える国は「ブロック経済」と呼ばれる貿易と決済の排他的経済圏を形成し、そうした経済圏を持たないドイツ、日本は戦争による軍需景気と排他的経済圏確保で恐慌からの脱出を図った