ぶんぶんの進路歳時記

学習方法、進路選択、世界史の話題について綴ります

休校中の自学自習プリント(中国史、制度史・経済史編4)

 休校中のひまつぶしプリントの最終回スペシャル(拡大版)、明と清です。前回の宋元と同じく入試の頻出範囲です。

 これはひつまぶしではなくてうな重。ぶんぶんお気に入りの店。

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前回

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8 明

(o)明 1368年 朱元璋洪武帝)建国 首都[P    ]

① 統治システム

 制度:(77     )省・丞相(長官)の廃止,六部直属化

    朱子学の官学化→科挙制整備

 軍制…軍戸の戸籍設置→(78    )制に編制

 農村…(79   )制

    110戸=1里(10戸を里長戸),残り100戸を10甲にわける

    租税台帳(80    )・土地台帳(81    )の整備

    (82    )制定…民衆教化の教訓(6カ条)里老人が説いて回る

 永楽帝…[Q    ](北平)に遷都 (83       )の設置

 

② 対外政策

14世紀:(84     )(武装私貿易集団)の活動さかん 

洪武帝:(85     )政策→民間人の海上交易禁止

    朝貢貿易…対外関係は国家間の朝貢冊封関係に限定

    →日本…足利義満朝貢、(86     )貿易

永楽帝:[87     ]の南海遠征…各地で朝貢を勧誘

(88    ):中山王尚巴志)が統一 中継貿易

        中国・東南アジア・日本・朝鮮半島を結ぶ

(89     )王国…鄭和の南海遠征の基地

           鄭和後はイスラームを受容。香辛料と綿布の取引

15世紀以降…周辺地域が朝貢貿易の拡大を求める

 1449年(90    )の変…(91   )のエセン=ハン

 16世紀:「北虜南倭

  (92    )のアルタン=ハン、北京を包囲(1550年)

  後期倭寇の活動…王直五島列島や[R    ]を拠点

  ポルトガル…1557年[S    ]に居住権 私貿易に参加

 1570年代:解禁の緩和。日本以外との民間貿易(互市)を認める

 

③ 経済発展

1)農業生産の拡大

 長江下流域:新品種の導入、肥料の使用、二毛作など技術改良

       桑・麻・綿花などの商品作物の栽培

       綿織物(南京)・(93   )(蘇州)の家内制手工業

 長江中流域:湖広地方(現在の湖北・湖南省)が稲作の中心地

       「(94    )熟せば天下足る」

2)商工業の発達

 (95   )商人(塩の専売)・(96    )(新安)商人の活動

 福建…海禁を破って海上交易

 (97    )と生糸…日本・西アジア・ヨーロッパへ輸出

  →江西省の[T     ]で陶磁器の集中生産…染付、赤絵

 大都市に(98   ・     )を設置…情報交換

3)銀の流通拡大

 ポルトガル: (99     )銀…戦国時代(100   )銀山の開発

               日本の銀と中国の陶磁器・生糸を交換

 スペイン :(101     )銀…(102    )貿易(ガレオン貿易)

               新大陸の銀を[U   ]に持ち込む

 税制:16世紀,(103      )…両税法が各種の税で複雑化

    各種の税・徭役を銀に一本化して納入

    江南ではじまり張居正の時全国化

 (104      )…科挙に合格しながら出仕せず

         地方都市に在住して農村や商業を支配

補足

 紅巾の乱に身を投じ徐々に頭角を現してきた朱元璋は江南の士大夫層の支持を受け、南宋以来経済の中心となった江南の経済力を背景に明を建国します。

 明は元の「商業重視、社会構造にはノータッチ」から「農村の統制」に乗り出します。まあ前の政権がしたことは全否定したくなるものです(笑)。貿易もユーラシア循環から海禁に転じます。

 14世紀に日本では南北朝の争乱が発生、海の領主である倭寇が朝鮮沿岸や中国沿岸を荒らし、明は日本に対して倭寇討伐の要請を行います。

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 これを背景に明は私貿易を禁止し、貿易は「周辺国が中国に貢物を持っていき返礼の品をもらう」を建前とします。東・東南アジア諸国は中国の物産を求めてこの「冊封朝貢体制」に参入します。

 とはいえ国家使節団に商人がついてきて、使節が皇帝に拝謁している間に取引をするのはOKでした。日本の勘合貿易も同じで、堺と博多の商人が随行して利益を得ますが、のちにこの両者が寧波で大騒動を起こします(1523年 寧波の乱)。

 16世紀になると北方の遊牧民朝貢貿易の拡大を求めて攻め込んできますし、南方では密貿易が横行します。後者が後期倭寇です。

 ポルトガルは1519年に広州にやってきて、ゴアでやったような武力を用いて拠点占拠や略奪を行いますが明につまみ出されます。それで江南の密貿易商人の力を借ります。種子島にやってきたポルトガル人が王直関係の船に乗っていたのはこのためです。

 なお2020年の東京外国語大学早稲田大学で王直の拠点のひとつである「五島列島」を答える問題がありましたが、川口春奈💛のファンなら即答です。

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 16世紀半ばに明が倭寇の掃討に乗り出す一方、ポルトガルは日本から銀を仕入れ、それを元手に中国で陶磁器や生糸を仕入れ、中国と直接取引できない日本に高値で売れば莫大な利益が出ることに目を付けます。倭寇と競合して日本と直接取引するには中国の沿岸部に商品の仕入れと物資補給のための拠点が必要です。

 そこでポルトガルは明の役人にわいろを渡して「濡れた荷物を乾かす場所」という口実でマカオに上陸し、そのまま居座ってしまいます。

 こうして中国には日本の銀とスペインが新大陸から持ち込んだ銀が流入し、租税も銀納になりますが、農民は普段銀を使わないので納税期に購入することになり(税を払う頃になると銀の値段が上がる(´・ω・`))、貨幣経済に飲み込まれます。

 なお明は銀を遊牧民対策に必要な物資購入にあてたので基本国外には流出せず、銀はブラックホールのように吸い込まれていきます。 

参考 

 

9 清

(p)清 1616 ヌルハチ建国(アイシン)→1636ホンタイジ国号を清

 →1644順治帝山海関を越えて李自成の乱を平定 首都[P     ]

① 政治制度

漢族には中華皇帝、遊牧民には「大ハーン」としてふるまう

チベットダライ・ラマウイグルベク制は存続

軍制:(105    )…ヌルハチが編成 満州族の軍事・行政組織

          軍人(旗人)には土地を支給

制度 満州人が中心。儒教科挙・官制など従来制度を利用

   満漢併用制(要職は旗人だけか旗人・漢人同数)

   軍制…八旗、(106    )…漢人で組織する常備軍

   (107      )…皇帝直属の諮問機関 雍正帝の時

   (108      )…藩部の統括 乾隆帝の時に整備 

文化 伝統的学問の保護・振興の一方で反満州的なものは排除

   大規模編纂事業…『康煕字典』『古今図書集成』(109    )

    (110     )・禁書…反清的言論・思想の弾圧

   (111    )令…漢人男性に満州人風俗を強制

   イエズス会宣教師の暦学・地理学・数学・絵画を重用

   →(112   )問題でキリスト教の布教は禁止

 

② 対外政策

康熙帝…(113    )令

 台湾の鄭氏の貿易を封じるために対岸の都市住民を強制移住させる

 →「17世紀の危機」と相まって貿易が縮小

台湾の征服後は海禁緩和

 互市貿易:民間商船の出航と外国商船の来航を認める(外交関係不要)

      貿易港の税関(海関)が管理

 乾隆帝…ヨーロッパ船の来航を[V    ]に指定

     →(114    )(商人組合)が貿易独占

 外交関係を持つ場合は冊封朝貢の手続きが必要

  朝鮮、琉球(17世紀に島津氏に服属 日清両属)

  ベトナム阮朝 越南国)、タイ、ミャンマー

  日本…外交関係なしで中国商人が長崎に来航して民間貿易

 

③ 経済 税制

 税制変革…18世紀初め,(115    )制導入…人頭税逃れが横行

      丁税が土地税にくりこまれる 人頭税実質廃止

 人口の増加…山間部の開発。(116     )やサツマイモの栽培

 漢人が華中・華南の山間部や満州、台湾に移住、開墾

 福建や広東の沿岸部から海外への移住

 →東南アジア各地に(117    )(華人)社会が形成

   商人…オランダ、スペインの植民地に貿易・流通で関わる

   技術者・労働者…タイ・ベトナムの水田、ジャワの砂糖

           マレー半島の鉱山開発 

補足

 清は元と同じく中華皇帝と大ハーンの両方の顔を使って農耕地域と遊牧地域を統合します。海域では海禁解除後は本音と建前を使い分けます。

 東京外国語大学2016年と早稲田大学政治経済学部2020年にジュンガルに関する資料問題がでていました。

 16世紀にタタールアルタン=ハンがチベット仏教に帰依したことをきっかけに(この時彼が送った称号が「ダライ・ラマ」)中央ユーラシア東方ではチベット仏教が急速に拡大します。

 ダライ・ラマ政権は軍事力や寄進の提供を受けるために世俗権力と提携したので、モンゴル・清・オイラト諸部族はダライ・ラマの提携相手になろうと競います。

 そのうち17世紀後半にオイラトの一部族のジュンガルが勢力を広げて、チベット仏教の保護者の座を清と争います。

 同じころロシアのピョートル1世毛皮を求めてシベリアへの進出を本格化させ、黒竜江アムール川)流域にやってきます。ジュンガルはロシアに何度も使節を送っていて交易を行っていました。

 15世紀以降、明や朝鮮で毛皮の需要が拡大すると女真による中継貿易が盛んになり、その争いの中でヌルハチが勝利します。清は満州の住民に毛皮の貢納を課してたので、ロシアとジュンガルが結びつくのは困ります。

 康熙帝三藩の乱を平定するとジュンガル遠征を開始します。建前上中華帝国には国境はないのですが、康熙帝としてはジュンガルつぶしに注力したい、それがネルチンスク条約の背景です。

 その後三度にわたる戦争の末、乾隆帝ジュンガルを滅ぼしこの地域を「新疆」と名付けました。

 なおイエズス会宣教師は三藩の乱の鎮圧に際して大砲の製造を指導したり、ロシアとの条約締結の間に入るなどしています。一方ロシアはアムール川以南をあきらめ、東に進んで18世紀にはアラスカまで到達します。毛皮に対する執念です。

世界の歴史まっぷ。ほんと助かります。

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sekainorekisi.com

 清は毛皮の見返りに満州住民に絹織物を与えますが、これが交易品としてアイヌを経て松前に渡り、「蝦夷錦」(清と国交を開いていないから)と呼ばれて珍重されました。

 日本では17世紀に徳川幕府が成立すると、朱印船が東南アジアや台湾に赴き、中国商人から中国の物産を手に入れます(出会貿易)。東南アジアには多数の日本人が移住します(日本人町)。

 しかし次第に対外交易を制限してキリスト教を禁制とし、1635年には日本人の海外渡航を禁止し、「四つの口」(長崎、対馬、薩摩、松前)に貿易の窓口を限定します。日本版海禁、後に「鎖国」と呼ばれます。

 17世紀末には生糸や砂糖の自給が可能になり、対外貿易への依存度が低下します。

 

空欄

P 南京
Q 北京
R 平戸
S マカオ
T 景徳鎮
U マニラ
V 広州

77 中書
78 衛所
79 里甲 
80 賦役黄冊 
81 魚鱗図冊
82 六諭 
83 内閣大学士 
84 倭寇
85 海禁 
86 勘合
87 鄭和
88 琉球
89 マラッカ
90 土木
91 オイラト
92 タタール
93 生糸
94 湖広 
95 山西
96 徽州
97 陶磁器
98 会館・公所 
99 日本 
100 石見
101 メキシコ 
102 アカプルコ
103 一条鞭法
104 郷紳
105 八旗
106 緑営 
107 軍機処
108 理藩院
109 四庫全書
110 文字の獄 
111 辮髪
112 典礼
113 遷界
114 公行 
115 地丁銀 
116 トウモロコシ
117 華僑

 

まとめ

 もともと大学の東洋史学は社会経済史が中心なので、今回整理した内容は昔からよく出題されていましたが、最近は「グローバル・ヒストリー」の視点=関係性の観点からユーラシアの歴史を読み直す試みが進んでいます。

 鄭氏が台湾のオランダ勢力を追い出して反清復明運動を展開し、徳川幕府にも援助を申し込んだ話、18世紀に華人が東南アジアに進出し、砂糖生産でオランダ人に協力した話は東京大学の小論述で既出。新大陸の作物が中国の人口増加を支えたことも京都大学の論述で既出です。

 全4回で紹介したのは二年生までの範囲、5月の全統模試の範囲です。受験生はこの休校でさすがに短文投稿サイトや動画投稿サイトは飽きたと思うので、これを機に卒業して勉強しましょう。

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