休校中の自学自習プリント、今回はロシアとポーランドについてです。
前回
bunbunshinrosaijki.hatenablog.com
1 ロシア・ツァーリズムの形成…西洋近代を支配の道具にして貴族を支配
イヴァン3世 モスクワ大公国
15世紀にモンゴル人から自立 (1 )を自称
諸侯勢力を抑えて専制強化 南ロシアに領土を拡大
シベリアの一部(コサックの(3 )が占領)を編入
1613年 (4 )朝 ミハイル=ロマノフの即位
1670年代 ドン=コサックの[5 ]の反乱→鎮圧
[6 ](大帝)(17世紀末~18世紀)
1690年代 ヨーロッパ視察
→西欧化政策…海軍の建設、行政改革、鉱山開発、工場建設
シベリア経営の推進
国境をスタノフォイ山脈とアルグン川とする
1700~21 (9 )戦争(大北方戦争)
デンマーク、ポーランドと同盟、スウェーデン(カール12世)と争う
→バルト海進出。新首都(10 )の建設開始
[11 ](18世紀後半)… 啓蒙専制君主
南方…ロシア=トルコ戦争
キュチュク=カイナルジ条約:(12 )=ハン国を併合
東方…オホーツク海に進出→[13 ]の日本派遣
(14 )の農民反乱→農奴制の強化
補足
スカンディナビアからビザンツ帝国を結ぶドニエプル水系、その東に位置するヴォルガ水系は毛皮やスラヴ人奴隷の交易路としてムスリム商人をはじめとする様々な商人が入り込みました。その東は遊牧民の世界が広がります。
この地域で動く莫大なマネーをめぐって、ルーシ(ロシア)貴族たちはハザール国(カスピ海と黒海北岸の南ロシア草原地帯にあったトルコ系民族の遊牧国家)やブルガール人と縄張り争いを繰り広げました。
13世紀にバトゥの軍がルーシ貴族を服属させます。この中でモスクワ大公がモンゴルにすり寄り、モンゴルにおさめる貢納を取りまとめる権利を得て力を蓄えます。
15世紀にイヴァン3世は周辺の貴族を統合し、モンゴルが衰退するのを見て貢納の支払いを拒否します。この時「モンゴルの子分」に代わって「ビザンツの後継者」を自らの権威とし、ロシア教会を「第三のローマ」と称します。
*10世紀にキエフ公国のウラディミル1世がギリシア正教を受容したことは有名ですが、モンゴルは宗教には寛容なので、その支配後もキリスト教の信仰は続いていました。
ヴァシーリー聖堂(モスクワ) 卒業生提供 イヴァン4世の命で建設されていました。高速道路沿いに似た建(以下略)。
イヴァン4世は大貴族を抑えるために中小貴族、聖職者、士族にも政治参加の機会を与える「全国会議」を創設し、また常備軍である銃兵隊を新設しました。治世後半にはオプリーチニナという親衛隊を組織、反対する貴族をテロルによって弾圧しました。
(((((( ;゚Д゚)))))ガクガクブルブル
またカザン=ハン国、アストラハン=ハン国を併合してヴォルガ河流域に勢力を拡大、コサックのイェルマークを派遣してシベリアにも進出します。
*「モンゴル押し」の研究者からすると遊牧民を支配下に置く様子は「モンゴルの後継者」です。
しかしイヴァン4世が亡くなると内紛が起こり、ボリス=ゴドゥノフが皇帝になりますが、偽物の皇帝が現れるなど混乱します。
ステンカ(スチェパン)ラージンはコサック(厳しい負担に耐えかねて逃亡した農民などからなる武装集団)の出身で、ヴォルガ水系で盗賊行為を行っていました。1670年に反政府の武装蜂起を開始しますが失敗し、処刑されます。
*戦後ロシア民謡が日本で流行します(『カチューシャ』『走れトロイカ』)、シベリア抑留の帰還者、「歌声喫茶」と呼ばれる社会主義運動、ボニージャックスに代表される商業的音楽など、ロシア民謡と戦後日本の関係は奥深そうです。
民謡のひとつに「ステンカラージンの歌」があります。ラージンがペルシャの姫を娶って「ふにゃけ」になったのを部下にとがめられて、姫をヴォルガ河に投げ込むというお話。
参考:浜崎真吾「戦後日本における「ロシア民謡」の受容と変容ー訳調はいかに作られるか」
https://core.ac.uk/download/pdf/96947681.pdf
つまりロシアは有力貴族が群雄割拠し、農奴から厳しい取り立てをしていたために度々反乱がおきるという状態です。ツァーリは強力な権限を持っていますが、うかうかしていると貴族にいいようにされてしまいます。とはいえ貴族も農民反乱が手を付けられなくなればツァーリの軍隊を借りざるを得ません。
ピョートル1世はまず「西欧化政策」を進めるため自ら視察団に同行し(身分は隠していたがバレバレだったとか)、アムステルダムの造船所で技術を学びます。ちょうどオランダは17世紀末に衰退がはじまっていた頃、多くのオランダ人がこの後ロシアに渡り、様々な技術を伝えます(そういえばロシアとオランダの国旗は似ている)。
ピョートルは帰国すると徴兵制の導入や官僚制を整備し、諸侯たちに出仕を命じて監視下に置きます。「ひげ税」は有名です。
近代化の資金は毛皮・穀物・鉄の輸出でした。そこで港を確保するために黒海に進出しますが、オスマン帝国は手ごわく、なんとかアゾフ海には進出します。
そこで矛先をバルト海に向け、スウェーデンで幼少のカール12世が即位すると戦争を起こします。カール12世もなかなかの器量でピョートル1世を苦しめますが、ポルタヴァの戦いで敗北し、i最終的にニスタット条約でバルト海岸を奪われます。
サンクトペテルブルク、冬宮(エルミタージュ美術館)。造営前のこの一帯は荒れ果てた沼地でした。農民たちは労働に駆り出され、1万ともいわれる死者を出したそうです。近代化を強制労働で行うという矛盾。なお冬宮は「血の日曜日事件」の舞台。現場に血が流れすぎです。卒業生提供
ネルチンスク条約の背景については過去ログ
bunbunshinrosaijki.hatenablog.com
エカチェリーナ2世はドイツ貴族の出身で、夫のピョートル3世を廃して(この話は昼ドラみたいで面白いけどネット上なので自粛)皇帝に即位します。
彼女は啓蒙専制君主として知られ、ヴォルテールと親交があり、ヨーロッパの名画を大量に買いつけました。それはエルミタージュ美術館の収蔵品になっています。
また三度にわたるポーランド分割に関与して領土を拡大し、オスマン帝国と戦って黒海の出口を確保しました。クリミア半島情勢が緊張して以来入試でよく出題されるところです。
プガチョフの反乱鎮圧後にエカチェリーナ2世は地方自治を改革し、貴族の出仕の義務をなくして地元に戻ることを許すとともに領地の所有権や売却権を認めました。その結果貴族の農奴に対する収奪はさらに強まりました。
大黒屋光太夫は白子(現三重県鈴鹿市)を出帆後遭難してカムチャッカ半島に漂着しました。イルクーツクで出会った自然科学者のラクスマン(光太夫を日本に連れてくるラクスマンの父)計らいでペテルブルクでエカチェリーナ2世に謁見し、帰国を許されます。
2 ポーランドの選挙王制と分割…貴族共和政に大国の圧迫
14世紀初 カジミェシュ3世…国力増強
1410年 タンネンベルクの戦いでドイツ騎士団を破る
16世紀後半 ヤギェウォ朝断絶 選挙王制
貴族(シュラフタ)が選挙で国王を選出、身分制議会の代表権を独占
輸出向けの穀物の増産…農場領主制の発達
ポーランド分割
第2回分割(1793) プロイセン・ロシア→[16 ]の抵抗
第3回分割(1795) 残りの領土を3国が分割→ポーランドの消滅
補足
選挙で王を選ぶのは中欧では七選帝侯をはじめベーメン、ハンガリーでも行われていました。ポーランドでは18世紀末には約20万人の有権者がいたそうで、これはもう「貴族共和政」です。
ポーランドは地理的に周辺国家の影響を受けやすいです。17世紀は「大洪水時代」と呼ばれスウェーデンの干渉を受け、18世紀の大北方戦争やその後のポーランド継承戦争では大貴族の派閥がそれぞれ対立する大国と結んだために混乱します。
*現在ポーランドは国民の9割がカトリックで少数民族は人口の約3%、しかし近世のポーランドは多民族・多宗教国家でした。17世紀の非カトリック諸国と争いの中でポーランド人意識とカトリックが結合します。
「ポーランド分割」が行われた18世紀半ばはポーランドの国力回復期でした。エカチェリーナ2世は元愛人のスタニスワフ2世を王位に就けて何かと内政干渉をしますが、その国力回復を見てプロイセン、オーストリアと第一次ポーランド分割を行ないます。
その後スタニスワフ2世はヨーロッパ初の成文憲法「5月3日憲法」を制定し(1791年)、身分制を維持しつつ立憲君主制を目指しますが、貴族の権力維持を狙う「抵抗勢力」がロシアと結んで(ロシア・ポーランド戦争)改革は挫折します。
コシチューシコはこの時開催された議会に議員として参加、ロシアの干渉で亡命しますが、1792年の第二次ポーランド分割を機に帰国しクラクフで蜂起します。一時はワルシャワを制圧しますが、ロシア・プロイセン連合軍に敗北します。
教科書では扱いが小さいですがかなり頑張ってます。(`・ω・´)
ポーランド分割の風刺画 ウィキメディアコモンズ パブリックドメインの画像。下手エカチェリーナ2世の隣がスタニスワフ2世。王冠が飛びそうなのを押さえています。
空欄
1 ツァーリ
2 イヴァン4世
3 イェルマーク
4 ロマノフ
5 ステンカ=ラージン
6 ピョートル1世
7 ネルチンスク
8 アゾフ
9 北方
10 ペテルブルク
11 エカチェリーナ2世
12 クリム
13 ラクスマン
14 プガチョフ
15 ヤゲウォ
16 コシューシコ