ぶんぶんの進路歳時記

学習方法、進路選択、世界史の話題について綴ります

国公立・私大世界史直前チェック(東アジア近現代史5 チベット)

はじめに

 昨年度東アジア近現代史を解説したら、東京大学一橋大学で「小中華思想」に関する出題があり、ひとりで「ズバリ的中ゥゥゥ!」って喜んでました。

 今回はチベット、台湾と東アジアをユーラシアの内側と海域から見ていきます。

 実教出版帝国書院、東京書籍、山川出版社(詳説と新)の教科書、帝国書院と浜島書店の資料集、山川出版社の『詳説世界史研究』『世界各国史4中央ユーラシア史』『ポイントレクチャーテーマ別世界史』を参考にしています。

 入試問題は自説の補強のため著作権法の範囲内(引用が従)で引用します。

前回

bunbunshinrosaijki.hatenablog.com

これいい本 

ポイントレクチャー テーマ別世界史

ポイントレクチャー テーマ別世界史

  • 発売日: 2020/08/03
  • メディア: 単行本
 

目次

 

 1 チベット

① チベットの位置

タクラマカン砂漠の南、ヒマラヤ山脈の北に広がる広大な高原地帯

世界の歴史まっぷより いつも助かります。

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世界の歴史まっぷ | 国別・時間軸からさがせる世界史・日本史 - オリジナル歴史地図無料ダウンロード (sekainorekisi.com)

エベレストとチョモランマ ウィキメディアコモンズパブリックドメインの画像

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② 前近代(9世紀まで)

五胡十六国時代

 五胡のうち(1   )と(2   )はチベット系とされる

 氐:351年 苻健が長安を占領して前秦を建国。苻堅が華北を統一

   383年 淝水の戦い東晋に敗北

 羌:青海省付近を根拠地とする遊牧民

   384年 姚氏が長安に入り後秦を建国

   394年 東晋劉裕の攻撃を受けて滅亡

   唐では党項(タングート)と呼ばれる→11世紀に(3   )建国

南北朝時代

(4     )(とよくこん)

 4世紀ごろに鮮卑吐谷渾が羌を従えて青海地方に建国

 南北両王朝に朝貢冊封に入る 東西交易で繁栄

 隋の煬帝、唐の高宗の攻撃を受けて東西に分裂

 →東吐谷渾は唐の支配下に、西吐谷渾は吐蕃に征服される

唐代

チベット王国(5     )

 7世紀に[6        ]が諸部族を統一 首都(7    )

 641年 唐の太宗文成公主を嫁がせる(公主降嫁)

 8世紀 (8    )の乱終結直前に長安を一時占領

     中央ユーラシアにも進出 ウイグルと争う

     唐蕃会盟碑:唐と吐蕃講和条約の内容を記す

 文化:中国とインドの文化を受容

    インドの文字をもとにチベット文字を作成

    チベット(9   )の発達

 9世紀に内紛で分裂。宗教的な領主(氏族教団)が分立

(10     ) チベットビルマ

 雲南で自立 唐の冊封を受けて漢字など中華文明を受容

 9世紀 唐と吐蕃の軍事力の低下を見て両国を攻撃 南部へ拡大

     皇帝を自称して唐の冊封体制から自立

 10世紀 南詔滅亡 (11    )に交代

 補足

 中国王朝は周辺諸国との外交において貢ぎ物と返礼のやりとり朝貢)を行なった周辺諸国の支配者に対し、名目的に中国の官位や爵位を与えて皇帝の臣下とし冊封)、中国を中心とする東アジア世界での国際秩序を構築して内外に示そうとしました。これを冊封体制と言います。

 隋唐は鮮卑系の王朝(拓跋国家)、農耕地帯では秦漢以来の皇帝として、遊牧世界では「天可汗」(遊牧民の長)として振る舞います。

 しかし周辺諸国との関係は一様ではありません。唐代では次のように分類できます。

都護府:諸民族の長を地方長官に任じて都護府の監督下で自治を認める

    (羈縻政策

冊封国朝貢する支配者に官爵を授けて君臣関係を結ぶ

    →新羅渤海南詔

朝貢国:使者を派遣して朝貢による交易のみ行なう

    →日本、チャンパー、シュリーヴィジャヤ、カンボジア

家人の礼:公主を降嫁させて家父長制になぞらえた同盟関係を結ぶ

    →突厥ウイグル吐蕃

文成公主。仏教を信仰し、現在でもチベット仏教で崇拝される釈迦牟尼像をもたらしました。ウィキメディアコモンズパブリックドメインの画像

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 唐蕃会盟碑にはチベット語と漢文で条文が書かれ、合計三柱の石碑(グング・メル山の国境付近、ラサ(現存する)、長安)が建てられました。

 碑文に「吐蕃と唐は甥と叔父の関係で、現在の国境を遵守すべし」とあります。素直に読むと唐と吐蕃が対等な関係で不可侵条約を結んだように見えますが、チベットを中国の一部と考えたい中華人民共和国は「唐と吐蕃統一国家になる基盤となった証拠」と解釈していて、亡命チベット政府は「歴史の歪曲」と怒り心頭です(後述する『チベットハウス』のリンク先参照)。

 実際のところ、安史の乱終結後はウイグル吐蕃が勢力を拡大し、唐王朝はかろうじて江南で命脈を保っていました。

Inhorwさん撮影 クリエイティブ・コモンズ 表示-継承 3.0 非移植

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空欄 

1氐

2羌

3西夏

4吐谷渾

5吐蕃

6ソンツェン=ガンポ

7ラサ

8安史

9仏教

10南詔

11大理

③ 前近代(13世紀~18世紀)

モンゴルによるユーラシア支配の時代

 氏族教団のひとつであるサキャ派が台頭 モンゴルと結ぶ

 オゴタイ(オゴデイ)の子コデンがチベットを攻略

 →サキャ派チベット中西部の統治権を認める

 1260 [12      ](クビライ)が第5代大ハーンに即位

  [13     ](パクパ)が帝師に任命される

   元における仏教に関する全権を任される→王権を正統化

   →チベット大蔵経モンゴル語、後に満州語に翻訳

   モンゴル語を記述するためのパスパ文字を作成

明代

 明と形式的に冊封朝貢関係を結ぶ

 14世紀末~15世紀:[14      ]による宗教改革

     ゲルク派(15    )派 厳格な戒律を持つ

     活仏:高僧の地位は生まれ変わりによって継承される

 16世紀 タタールの[16      ]がチベット仏教に帰依

     化身僧の頂点に(17        )の称号を贈る

     →パミール高原以東の内陸地域がチベット仏教圏に

清代

 17世紀半ば ダライ=ラマ5世が政権を確立 (18   )宮殿の造営

       軍事力や寄進の提供を受けるために世俗勢力と提携

 →モンゴル、オイラト清朝はダライ=ラマの提携相手になろうと争う

 17世紀末~18世紀 後継者争いによる内紛

 オイラトの一部である(19      )部や清が介入

 康煕帝:ロシアとネルチンスク条約を結びジュンガル部と争う

     外モンゴル支配

 雍正帝チベットを三分割

      ダライ=ラマ支配地(西蔵)、青海、

      内地(甘粛・四川・雲南に吸収)

 乾隆帝ジュンガル部を滅ぼして東トルキスタンを占領

     新疆と名付ける

 清朝は周辺部を(20   )とし、現地の指導者に統治をゆだねる

 (21    )が事務を担当

 政権の権威付けのためにチベット仏教イスラームの保護者を自認 

補足

 チベット仏教では、ダライ・ラマなど高僧は自身の死後、同じ日に生まれた「生まれ変わり」とされる男児を探し、後継者に指名して養育、修行をほどこします。

 これだと出自に関わらず高僧になる可能性があるわけで、モンゴルの中でチベット仏教の権威が高まるきっかけになったと考えられます。

 なお15世を同じ方法で選ぶのかについては議論があるようです。

www.dalailamajapanese.com

 清朝の支配者は唐や元と同じく、大陸農村部では中華皇帝として、北部西部の遊牧民地域では「天可汗」として振る舞いました。この地域で信仰が盛んなチベット仏教と結びつけば権威は絶大になります。

 ジュンガルはチンギス=ハンの直系でないオイラトの一部で、当時東に進んできたロシアと結びついてチベット進出をうかがっていました。

世界の歴史まっぷより

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 康煕帝が三藩の乱と台湾の鄭氏を平定すると、イエズス会宣教師の援助(通訳と大砲)を得て、ロシアと国境を定め(ネルチンスク条約)、ジュンガルを破ります。

 乾隆帝ジュンガルを平定してチベット仏教の保護者としての地位を確立し、チベットを藩部に組み入れます。この時期に形成された清朝の最大領土は、外モンゴルなど一部地域を除き、現在の中華人民共和国に受け継がれています。

 ただし藩部は現地勢力に地方支配をゆだねる方式を取り、チベットではダライ・ラマ、モンゴルではモンゴル王侯、新疆ではムスリムの在地有力者(ベグ)が、清朝の派遣する監督官とともにそれぞれの地方を支配しました。

 清朝からするとチベットはモンゴルのように自前の武力を持つわけではない、チベット仏教を権威付けに利用することが目的なので、清朝の監督下でダライラマ政権は高度の自治を認められました。

ポタラ宮殿 ソンツェン=ガンポの居城の跡に建設されました。 Antoine Taveneauxさん撮影 クリエイティブ・コモンズ 表示-継承 3.0 非移植

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空欄

12フビライ

13パスパ

14ツォンカパ

15黄帽

16アルタン=ハン

17ダライ=ラマ

18ポタラ

19ジュンガル

20藩部

21理藩院

休憩


チベット僧侶によるチベット般若心経(Tibetan The Heart Sutra)

 

③ 19世紀から現代

19世紀

 1841~1842 清・シク戦争 シク王国がチベットに侵攻

 1855~1856 チベット・ネパール戦争

 →援助をしない清朝チベットが不満を持つ

20世紀

 1907 (22   )協商

  英露は中央アジア進出をめぐって対立(グレート・ゲーム

  →中央アジアでの勢力圏を設定

   清朝チベットに対する宗主権を認める

  清朝が藩部地域の直轄領化を企図 チベットに侵攻

  →ダライ=ラマ13世はインドに亡命

 1911 中国で(23    )革命が勃発

 1913[24        ]がラサに戻って独立を宣言

 →中華民国は「五族共和」を旗印に清朝の領域を継承と主張

 シムラ会議(1913~14)チベット・英・中

  国境策定で紛糾し中華民国が調印せず。事実上の独立状態

 イギリス チベットの親イギリス化を狙い近代化を援助

 日中戦争ではチベットは中立

第二次世界大戦

 1949 中華人民共和国建国 チベットの独立を認めない

 1950 人民解放軍チベットに進攻

 1951 十七か条協定で中国の支配下に置かれる。抵抗運動は弾圧

 1956~59 チベット動乱

  中華人民共和国同化政策や漢族の移住に民衆が反発

  [25      ]はインドへ亡命し、チベット亡命政府を樹立

 1959~62 (26     )紛争

       シムラ会議の国境線(マクマホンライン)で停戦

 1965 チベット政府を廃止してチベット自治区発足

 1966 プロレタリア文化大革命 (27    )が仏教寺院を破壊

 1980年代 「改革・開放」政策チベットの近代化が進む

      鉄道建設 観光客の誘致 一方でチベット独立運動は弾圧

 1989 ダライ・ラマ14世 ノーベル平和賞受賞

 2000年代 大規模な経済開発 漢族の移住が進む

 2006 青蔵鉄道開通 

 2008 ラサで大規模な暴動

補足

 19世紀にイギリスがインドに進出すると、国境付近が怪しくなってきます。さらにロシアが中央アジアに進出してくると、イギリスはロシアの勢力がインドと接するチベットおよぶことを警戒します(いわゆる「グレートゲーム」)。

 ただイギリスにとってチベットはインドの安全保障上の価値しかありません。それで英露協商では英露がともにチベットから手を引き、チベットの宗主権が清朝にあることを確認します。

 つまり従来の「冊封朝貢」関係の中に西欧の「対等外交」が割り込んできて、それが清朝チベットの関係にも影響します。

 イギリスはチベットについて中華民国の宋主権のもとに自治を行うという妥協案を示しましたが、中国・チベット・インドの境界が決まらず(後に中印国境紛争に発展)、チベットは「事実上の独立状態」という曖昧な状態が続きます。

 新たに成立した中華人民共和国は「チベットは中国の一部分」として侵攻し、1951年にチベット政府と「十七か条協定」を締結します。

 協定で中華人民共和国チベット政権を西蔵地区のみの「ダライ・ラマが宗教と政治の両方の指導者として戴く」地方政府とし、青海や甘粛・四川・雲南チベット人居住地区は共産党支配に組み込まれました。

 1956年に四川や雲南チベット人が暴動を起こすと人民解放軍が出動、1959年にはラサで暴動が発生し、ダライ・ラマ14世は「チベット臨時政府」を宣言してインドに亡命します。

www.tibethouse.jp

 ぶんぶんは京都精華大学で生のダライ・ラマ14世の講演を聴きました.。氏は2011年には政治の一線から身を引き、対話による世界平和に向けた活動を行なっています。

ダライ・ラマ14世ブッシュ大統領との会談(2001年)アメリカ合衆国連邦政府が職務上作成した著作物と同様の取り扱いを受けるためパブリックドメインとなります。

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 文化大革命終結した1970年代末になると,中国政府は民族政策を転換し,少数民族に配慮した政策を講じるようになりました。

 しかし1990年代以降の経済発展,とくに2000年以降の西部大開発戦略による地域振興策によって少数民族地域の開発は進みますが,一方で漢族とその資本が大量に流入し(鉄道開発がその象徴),漢族と少数民族の経済的格差は拡大しました。

 また政治犯の逮捕や不当な扱い、学校での北京語の強化とチベット文化の縮小、寺院への規制などの人権の抑圧が国際社会から批判を受けています。

 2008年3 月にはチベットのラサで大規模な暴動が発生し,2009年には同様に人権侵害が問題となっている新疆ウイグルウルムチで漢族とウイグル族の大規模な衝突が生じました。

参考

中国チーム : アムネスティ日本 AMNESTY

空欄

22英露

23辛亥

24ダライ・ラマ13世

25ダライ・ラマ14世

26中印国境

27紅衛兵

2 入試問題演習

① 名古屋大学 2018年

設問 唐の周辺民族に対する扱いとして本文では「羈縻州県」「冊封国」「敵国」の3つをあげているが、これらは具体的にどのような内容のものであるか。

解答例

羈縻州県は服属した地域で、その部族の長を地方長官に任命して都護府の監督のもとに自治を認めて間接統治をおこなった。冊封国は使者を派遣してくる国で、その君主に官位と爵位を与えて形式的な君臣関係を結んだ。敵国は唐と対等な国家で、公主を嫁がせて家父長制になぞらえた同盟関係を結んだ。

*ポイント 「敵国」とは対等な関係の国という意味(東京書籍の教科書より)。

② 信州大学 2017年

設問 地図C(清朝)の王朝から中華民国までの時期の民族の問題について、多民族国家という観点から次の語句を用いて300字以内で説明

語群 五族共和 女真族 チベット仏教 藩部 文字の獄

解答例

女真族が建国した清は漢大陸を支配下に置き、周辺地域も平定して中華人民共和国に匹敵する地域を支配した。清は漢大陸では中華皇帝として明の制度を継承し中国の伝統文化を尊重したが文字の獄のように反清的なものは厳しく取り締まった。周辺部は藩部とし、チベットダライ・ラマウイグルのベグ制など現地の有力者の自治を認め、理藩院が事務を管理した。また遊牧民の長として振る舞い、彼らが信仰するチベット仏教を保護して権威を保った。辛亥革命が発生すると藩部も独立を宣言した。当初は漢族の国民国家を目指した中華民国は、後に五族共和を唱えて清朝の領域を受け継ぐことを表明し、独立した外モンゴル以外は中華民国に留め置かれた。299字

*ポイント 「五族共和」をどう使うかがこの論述の肝。「チベット仏教」も学習した使い方をしてみた。

③ 早稲田大学 文化構想学部 2021年

① 辛亥革命後、中華民国・( A )・現地政府の代表が参加した交渉の場で、中国の宋主権のもとに自治を行うという条約案が提示されたが(中略)中国代表は調印しなかった。1962年( B )との間に国境をめぐって大規模な武力衝突が発生し(後略)

設問2の正解選択肢 エ 1959年、中国の支配に反発する蜂起が弾圧されたことから、現地の指導者は( B )に亡命した。

 解答例 A イギリス B インド

このブログを完成させた後で見つけた今年の問題。①の文章で「チベット」と判断して設問2で「エ」を選ぶ問題。Aは高校生にはドボン。『ポイントレクチャー』には載っている。

 

まとめ

 山川出版社『新世界史』「「多民族国家清朝」というコラムにこうあります。

清朝の皇帝は、満州政権に対する反抗を厳しく弾圧する一方で、漢人の尊重する儒教や文芸、満州人やモンゴル人の誇りとする武芸、チベット人やモンゴル人が信仰するチベット仏教など、それぞれの文化伝統を尊重して、共存を通じての統合に努めた。

中略

現在中華人民共和国領内に住むモンゴル・チベットウイグルの人々は、少数民族として位置づけられ、自治区が設けれれて言語・財政などにおける自治を法的に保障されている。ただ、今日においては、中央政府の政治支配や、多数民族である漢族の経済・文化的影響力は清代にくらべてはるかに強く、そこから起こる漢族と少数民族との摩擦が、少数民族問題として中国の抱える課題の一つとなっているのである。

  2021年の大学入学共通テスト、世界史B第一日程の問題で、清朝の四庫全書編纂の際に歴史を書き換えた話が載っていました。

 中華人民共和国は「ひとつの中国」を主張し、唐蕃会盟碑もチベット支配の根拠に使おうとしていますが、ここまで見てきた限りでは、チベットが中国王朝の支配下に入ったといえるのは清朝からで、それも「藩部」として文化は尊重され自治が認められていました。

 21世紀に住む私たちの合言葉は「多様性」、歴史の中に今を生きるヒントを探したいものです。

 しかし「歴史総合」は近現代史(しかも半分日本史)中心なので、多様性の知恵に触れる機会が減ってしまいそうで心配です。(´・ω・`) 

付録

映画 

 ドキュメンタリー