はじめに
昨年度東アジア近現代史を解説したら、東京大学や一橋大学で「小中華思想」に関する出題があり、ひとりで「ズバリ的中ゥゥゥ!」って喜んでました。
今回はチベット、台湾と東アジアをユーラシアの内側と海域から見ていきます。
実教出版、帝国書院、東京書籍、山川出版社(詳説と新)の教科書、帝国書院と浜島書店の資料集、山川出版社の『詳説世界史研究』『世界各国史4中央ユーラシア史』『ポイントレクチャーテーマ別世界史』を参考にしています。
入試問題は自説の補強のため著作権法の範囲内(引用が従)で引用します。
前回
bunbunshinrosaijki.hatenablog.com
これいい本
目次
1 チベット
① チベットの位置
タクラマカン砂漠の南、ヒマラヤ山脈の北に広がる広大な高原地帯
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エベレストとチョモランマ ウィキメディアコモンズ、パブリックドメインの画像
② 前近代(9世紀まで)
五胡のうち(1 )と(2 )はチベット系とされる
氐:351年 苻健が長安を占領して前秦を建国。苻堅が華北を統一
383年 淝水の戦いで東晋に敗北
唐では党項(タングート)と呼ばれる→11世紀に(3 )建国
(4 )(とよくこん)
4世紀ごろに鮮卑の吐谷渾が羌を従えて青海地方に建国
隋の煬帝、唐の高宗の攻撃を受けて東西に分裂
唐代
チベット王国(5 )
7世紀に[6 ]が諸部族を統一 首都(7 )
641年 唐の太宗が文成公主を嫁がせる(公主降嫁)
中央ユーラシアにも進出 ウイグルと争う
文化:中国とインドの文化を受容
インドの文字をもとにチベット文字を作成
チベット(9 )の発達
9世紀に内紛で分裂。宗教的な領主(氏族教団)が分立
9世紀 唐と吐蕃の軍事力の低下を見て両国を攻撃 南部へ拡大
皇帝を自称して唐の冊封体制から自立
10世紀 南詔滅亡 (11 )に交代
補足
中国王朝は周辺諸国との外交において貢ぎ物と返礼のやりとり(朝貢)を行なった周辺諸国の支配者に対し、名目的に中国の官位や爵位を与えて皇帝の臣下とし(冊封)、中国を中心とする東アジア世界での国際秩序を構築して内外に示そうとしました。これを冊封体制と言います。
隋唐は鮮卑系の王朝(拓跋国家)、農耕地帯では秦漢以来の皇帝として、遊牧世界では「天可汗」(遊牧民の長)として振る舞います。
しかし周辺諸国との関係は一様ではありません。唐代では次のように分類できます。
都護府:諸民族の長を地方長官に任じて都護府の監督下で自治を認める
(羈縻政策)
家人の礼:公主を降嫁させて家父長制になぞらえた同盟関係を結ぶ
文成公主。仏教を信仰し、現在でもチベット仏教で崇拝される釈迦牟尼像をもたらしました。ウィキメディアコモンズ、パブリックドメインの画像
唐蕃会盟碑にはチベット語と漢文で条文が書かれ、合計三柱の石碑(グング・メル山の国境付近、ラサ(現存する)、長安)が建てられました。
碑文に「吐蕃と唐は甥と叔父の関係で、現在の国境を遵守すべし」とあります。素直に読むと唐と吐蕃が対等な関係で不可侵条約を結んだように見えますが、チベットを中国の一部と考えたい中華人民共和国は「唐と吐蕃が統一国家になる基盤となった証拠」と解釈していて、亡命チベット政府は「歴史の歪曲」と怒り心頭です(後述する『チベットハウス』のリンク先参照)。
実際のところ、安史の乱終結後はウイグルや吐蕃が勢力を拡大し、唐王朝はかろうじて江南で命脈を保っていました。
Inhorwさん撮影 クリエイティブ・コモンズ 表示-継承 3.0 非移植
空欄
1氐
2羌
3西夏
4吐谷渾
5吐蕃
6ソンツェン=ガンポ
7ラサ
8安史
9仏教
10南詔
11大理
③ 前近代(13世紀~18世紀)
モンゴルによるユーラシア支配の時代
氏族教団のひとつであるサキャ派が台頭 モンゴルと結ぶ
オゴタイ(オゴデイ)の子コデンがチベットを攻略
1260 [12 ](クビライ)が第5代大ハーンに即位
[13 ](パクパ)が帝師に任命される
元における仏教に関する全権を任される→王権を正統化
明代
14世紀末~15世紀:[14 ]による宗教改革
ゲルク派(15 )派 厳格な戒律を持つ
活仏:高僧の地位は生まれ変わりによって継承される
化身僧の頂点に(17 )の称号を贈る
清代
17世紀半ば ダライ=ラマ5世が政権を確立 (18 )宮殿の造営
軍事力や寄進の提供を受けるために世俗勢力と提携
→モンゴル、オイラト、清朝はダライ=ラマの提携相手になろうと争う
17世紀末~18世紀 後継者争いによる内紛
オイラトの一部である(19 )部や清が介入
外モンゴル支配
ダライ=ラマ支配地(西蔵)、青海、
内地(甘粛・四川・雲南に吸収)
新疆と名付ける
清朝は周辺部を(20 )とし、現地の指導者に統治をゆだねる
(21 )が事務を担当
補足
チベット仏教では、ダライ・ラマなど高僧は自身の死後、同じ日に生まれた「生まれ変わり」とされる男児を探し、後継者に指名して養育、修行をほどこします。
これだと出自に関わらず高僧になる可能性があるわけで、モンゴルの中でチベット仏教の権威が高まるきっかけになったと考えられます。
なお15世を同じ方法で選ぶのかについては議論があるようです。
清朝の支配者は唐や元と同じく、大陸農村部では中華皇帝として、北部西部の遊牧民地域では「天可汗」として振る舞いました。この地域で信仰が盛んなチベット仏教と結びつけば権威は絶大になります。
ジュンガルはチンギス=ハンの直系でないオイラトの一部で、当時東に進んできたロシアと結びついてチベット進出をうかがっていました。
世界の歴史まっぷより
康煕帝が三藩の乱と台湾の鄭氏を平定すると、イエズス会宣教師の援助(通訳と大砲)を得て、ロシアと国境を定め(ネルチンスク条約)、ジュンガルを破ります。
乾隆帝がジュンガルを平定してチベット仏教の保護者としての地位を確立し、チベットを藩部に組み入れます。この時期に形成された清朝の最大領土は、外モンゴルなど一部地域を除き、現在の中華人民共和国に受け継がれています。
ただし藩部は現地勢力に地方支配をゆだねる方式を取り、チベットではダライ・ラマ、モンゴルではモンゴル王侯、新疆ではムスリムの在地有力者(ベグ)が、清朝の派遣する監督官とともにそれぞれの地方を支配しました。
清朝からするとチベットはモンゴルのように自前の武力を持つわけではない、チベット仏教を権威付けに利用することが目的なので、清朝の監督下でダライラマ政権は高度の自治を認められました。
ポタラ宮殿 ソンツェン=ガンポの居城の跡に建設されました。 Antoine Taveneauxさん撮影 クリエイティブ・コモンズ 表示-継承 3.0 非移植
空欄
12フビライ
13パスパ
14ツォンカパ
15黄帽
16アルタン=ハン
17ダライ=ラマ
18ポタラ
19ジュンガル
20藩部
21理藩院
休憩
チベット僧侶によるチベット般若心経(Tibetan The Heart Sutra)
③ 19世紀から現代
19世紀
1841~1842 清・シク戦争 シク王国がチベットに侵攻
1855~1856 チベット・ネパール戦争
20世紀
1907 (22 )協商
→中央アジアでの勢力圏を設定
→ダライ=ラマ13世はインドに亡命
1911 中国で(23 )革命が勃発
1913[24 ]がラサに戻って独立を宣言
シムラ会議(1913~14)チベット・英・中
国境策定で紛糾し中華民国が調印せず。事実上の独立状態
イギリス チベットの親イギリス化を狙い近代化を援助
1951 十七か条協定で中国の支配下に置かれる。抵抗運動は弾圧
1956~59 チベット動乱
[25 ]はインドへ亡命し、チベット亡命政府を樹立
1959~62 (26 )紛争
シムラ会議の国境線(マクマホンライン)で停戦
1966 プロレタリア文化大革命 (27 )が仏教寺院を破壊
1980年代 「改革・開放」政策でチベットの近代化が進む
2000年代 大規模な経済開発 漢族の移住が進む
2006 青蔵鉄道開通
2008 ラサで大規模な暴動
補足
19世紀にイギリスがインドに進出すると、国境付近が怪しくなってきます。さらにロシアが中央アジアに進出してくると、イギリスはロシアの勢力がインドと接するチベットおよぶことを警戒します(いわゆる「グレートゲーム」)。
ただイギリスにとってチベットはインドの安全保障上の価値しかありません。それで英露協商では英露がともにチベットから手を引き、チベットの宗主権が清朝にあることを確認します。
つまり従来の「冊封・朝貢」関係の中に西欧の「対等外交」が割り込んできて、それが清朝とチベットの関係にも影響します。
イギリスはチベットについて中華民国の宋主権のもとに自治を行うという妥協案を示しましたが、中国・チベット・インドの境界が決まらず(後に中印国境紛争に発展)、チベットは「事実上の独立状態」という曖昧な状態が続きます。
新たに成立した中華人民共和国は「チベットは中国の一部分」として侵攻し、1951年にチベット政府と「十七か条協定」を締結します。
協定で中華人民共和国はチベット政権を西蔵地区のみの「ダライ・ラマが宗教と政治の両方の指導者として戴く」地方政府とし、青海や甘粛・四川・雲南のチベット人居住地区は共産党支配に組み込まれました。
1956年に四川や雲南のチベット人が暴動を起こすと人民解放軍が出動、1959年にはラサで暴動が発生し、ダライ・ラマ14世は「チベット臨時政府」を宣言してインドに亡命します。
ぶんぶんは京都精華大学で生のダライ・ラマ14世の講演を聴きました.。氏は2011年には政治の一線から身を引き、対話による世界平和に向けた活動を行なっています。
ダライ・ラマ14世とブッシュ大統領との会談(2001年)アメリカ合衆国連邦政府が職務上作成した著作物と同様の取り扱いを受けるためパブリックドメインとなります。
文化大革命が終結した1970年代末になると,中国政府は民族政策を転換し,少数民族に配慮した政策を講じるようになりました。
しかし1990年代以降の経済発展,とくに2000年以降の西部大開発戦略による地域振興策によって少数民族地域の開発は進みますが,一方で漢族とその資本が大量に流入し(鉄道開発がその象徴),漢族と少数民族の経済的格差は拡大しました。
また政治犯の逮捕や不当な扱い、学校での北京語の強化とチベット文化の縮小、寺院への規制などの人権の抑圧が国際社会から批判を受けています。
2008年3 月にはチベットのラサで大規模な暴動が発生し,2009年には同様に人権侵害が問題となっている新疆ウイグルのウルムチで漢族とウイグル族の大規模な衝突が生じました。
参考
空欄
22英露
23辛亥
24ダライ・ラマ13世
26中印国境
27紅衛兵
2 入試問題演習
① 名古屋大学 2018年
設問 唐の周辺民族に対する扱いとして本文では「羈縻州県」「冊封国」「敵国」の3つをあげているが、これらは具体的にどのような内容のものであるか。
解答例
羈縻州県は服属した地域で、その部族の長を地方長官に任命して都護府の監督のもとに自治を認めて間接統治をおこなった。冊封国は使者を派遣してくる国で、その君主に官位と爵位を与えて形式的な君臣関係を結んだ。敵国は唐と対等な国家で、公主を嫁がせて家父長制になぞらえた同盟関係を結んだ。
*ポイント 「敵国」とは対等な関係の国という意味(東京書籍の教科書より)。
② 信州大学 2017年
設問 地図C(清朝)の王朝から中華民国までの時期の民族の問題について、多民族国家という観点から次の語句を用いて300字以内で説明
解答例
女真族が建国した清は漢大陸を支配下に置き、周辺地域も平定して中華人民共和国に匹敵する地域を支配した。清は漢大陸では中華皇帝として明の制度を継承し中国の伝統文化を尊重したが文字の獄のように反清的なものは厳しく取り締まった。周辺部は藩部とし、チベットのダライ・ラマやウイグルのベグ制など現地の有力者の自治を認め、理藩院が事務を管理した。また遊牧民の長として振る舞い、彼らが信仰するチベット仏教を保護して権威を保った。辛亥革命が発生すると藩部も独立を宣言した。当初は漢族の国民国家を目指した中華民国は、後に五族共和を唱えて清朝の領域を受け継ぐことを表明し、独立した外モンゴル以外は中華民国に留め置かれた。299字
*ポイント 「五族共和」をどう使うかがこの論述の肝。「チベット仏教」も学習した使い方をしてみた。
③ 早稲田大学 文化構想学部 2021年
① 辛亥革命後、中華民国・( A )・現地政府の代表が参加した交渉の場で、中国の宋主権のもとに自治を行うという条約案が提示されたが(中略)中国代表は調印しなかった。1962年( B )との間に国境をめぐって大規模な武力衝突が発生し(後略)
設問2の正解選択肢 エ 1959年、中国の支配に反発する蜂起が弾圧されたことから、現地の指導者は( B )に亡命した。
解答例 A イギリス B インド
このブログを完成させた後で見つけた今年の問題。①の文章で「チベット」と判断して設問2で「エ」を選ぶ問題。Aは高校生にはドボン。『ポイントレクチャー』には載っている。
まとめ
山川出版社『新世界史』「「多民族国家」清朝」というコラムにこうあります。
清朝の皇帝は、満州政権に対する反抗を厳しく弾圧する一方で、漢人の尊重する儒教や文芸、満州人やモンゴル人の誇りとする武芸、チベット人やモンゴル人が信仰するチベット仏教など、それぞれの文化伝統を尊重して、共存を通じての統合に努めた。
中略
現在中華人民共和国領内に住むモンゴル・チベット・ウイグルの人々は、少数民族として位置づけられ、自治区が設けれれて言語・財政などにおける自治を法的に保障されている。ただ、今日においては、中央政府の政治支配や、多数民族である漢族の経済・文化的影響力は清代にくらべてはるかに強く、そこから起こる漢族と少数民族との摩擦が、少数民族問題として中国の抱える課題の一つとなっているのである。
2021年の大学入学共通テスト、世界史B第一日程の問題で、清朝の四庫全書編纂の際に歴史を書き換えた話が載っていました。
中華人民共和国は「ひとつの中国」を主張し、唐蕃会盟碑もチベット支配の根拠に使おうとしていますが、ここまで見てきた限りでは、チベットが中国王朝の支配下に入ったといえるのは清朝からで、それも「藩部」として文化は尊重され自治が認められていました。
21世紀に住む私たちの合言葉は「多様性」、歴史の中に今を生きるヒントを探したいものです。
しかし「歴史総合」は近現代史(しかも半分日本史)中心なので、多様性の知恵に触れる機会が減ってしまいそうで心配です。(´・ω・`)
付録
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