今年の国立大学の入試問題を解答し、次年度の学習のヒントとします。
今回は大阪大学です。出題は「グローバルヒストリー」時々文化史で、昨年は後者が多めでした。前者ではモンゴルや東南アジア、14世紀の危機のような横断的な出題が過去問で散見されます。
外国語学部は世界史と数学からの選択で、数学は文系サービス問題、無理ゲー(文理共通問題)、差が出るの3問構成なので、世界史もそれに合わせてあります。
解答例は正解ではありません。著作権はぶんぶんにあります。阪大の字数制限は「○○字程度」で、退職された某教授に伺ったところ「1割オーバーぐらいはOK」らしいので、解答例もそれに従います。
まず何も見ないで解答した後、教科書(実教出版、帝国書院、東京書籍、山川出版社)でウラを取っています。受験生からすればイカサマです。
問題はこちらから 読売新聞にリンク
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文中の記号(難易度メーター)
◎:必答 ○:まあいける △:難しいが解答すれば合格に近づく
▲:かなり難しい ×:ドボン
目次
Ⅰ
*「」はその正解のヒントとなる資料や文章の一部
問1~問3
問1 ③ ◎ ユダヤ教徒「カトリックが西インドから追放しようしたキリスト教の明確な敵」
問2 ② ◎ ユダヤ教徒の説明「シオニズム バルフォア宣言」
問3 16世紀から17世紀のヨーロッパにおけるカトリック教会の状況 100字程度○
カトリックは宗教改革に対抗してトリエント公会議で教皇の至上権を確認し、綱紀粛正をはかった。またイエズス会は海外布教を展開した。この結果カトリックは南欧で勢力を維持したが、新旧両派の対立は三十年戦争など17世紀まで続いた。109字
解答に向けて
問3、100字なので16世紀の宗教改革→対抗宗教改革→カトリックの巻き返し→17世紀の新旧両派の対立、の筋立てを書く。サービス問題の部類。
トリエント公会議は1545年から1563年まで断続的に18年間行われました。つまり現役受験生が生まれてから今までと同じ期間続いたことになります。シュマルカルデン戦争(1545年)、アウクスブルクの和議(1555年)もこの期間中の出来事です。
当初は宗教対立を克服することを目指し、プロテスタント側の参加も想定されたのですが彼らが参加を拒否し、最終的にはカトリック側の「対抗宗教改革」としての性格が強くなりました。
公会議ではまずルターの「聖書のみ」に対して、聖書と聖伝が教えのよりどころであること、ウルガータ訳がカトリック教会の唯一の公式聖書たることを決議しました。
また七つの「秘跡」についても改めて聖書における根拠を主張して有効としました。
秘蹟の中で有名なのが「聖体拝領」(神父からパンとワインをもらう)、聖変化によってパンとワインがキリストの体と血になることを確認しました。
方法はこちら
*聖体拝領はイギリス国教会、ルター派でも簡素化して行われています。
教会改革に関連しては、聖職者の世俗化を防止する対策が決定され、贖宥状の販売は禁止(ただし「贖宥」の意義は有効)、聖人や聖遺物の崇敬、煉獄など聖書にはないものの教会の伝統に由来する教義も有効とされました。
問4~問6
問4 奴隷が17世紀以降のアメリカ大陸や西インド諸島に多数存在していた、このような状況が生じた経緯を説明。150字程度○
スペインは先住民を強制的に働かせて銀山の開発やサトウキビの栽培を始めたが、疫病や過酷な労働のため先住民の人口が激減した。そこで新たな労働力としてアフリカの黒人が奴隷として導入された。その後イギリスやフランスも同様のプランテーションを西インド諸島や北米で開発し、奴隷供給権を手に入れたイギリスが大西洋三角貿易で黒人を取引した。162字
問5 資料3の出来事 ハイチの独立◎
問6 資料3が示す事件の背景にはフランスが最終的に軍事介入を断念したという事情もあった。その理由を当時のフランスの内政・外政の状況を踏まえて説明 100字程度×
ナポレオンはイギリスとの争いに集中するためルイジアナを売却するなど新大陸からの撤退を進めていた。またハイチで敗北した部隊への援軍派遣がイギリスの海上封鎖で難しくなり、独立を認めた方が自らの権力維持に利すると判断したから。110字
解答に向けて
問4 グローバルヒストリーの本丸で、大阪大学、東京大学で何度か出題されている。私立大学、センター試験(共通テスト)でもおなじみ。
「状況が生じた経緯」なので、「先住民の人口激減がきっかけ」と「各国のプランテーションの形成による大西洋三角貿易で拡大」の2点は書きたい。サービス問題の部類。
問6はドボン問題。大本営の帝国書院の教科書を使っている人でさえ100字埋めるのは不可能。ぶんぶんのブログを読んでいても無理。
ヒントの「外政」からルイジアナ売却とイギリスとの争いが想起できるかが鍵。内政では、「革命の子ナポレオンが奴隷制にこだわるのは格好悪い」という高校生目線の記述もあり(ナポレオンはハイチの独立に激おこで、奴隷制を復活させていますが)。
参考
bunbunshinrosaijki.hatenablog.com
Ⅱ
問1~問2
問1 表1で扱われている作物 ② ◎ ゴム「マレー半島で1914年以降急増」
問2 表1、表2では19世紀末から20世紀初頭に東南アジアからの輸出産品の構成や世界市場における東南アジア産品の占める割合に変化があったことが確認できる。その要因について、宗主国との関係や技術革新、人口移動を踏まえて説明 120字程度△
1870年代にオランダの政府栽培制度が廃止された以後はジャワ島では砂糖以外のし好品の生産が減少した。20世紀になるとアメリカ自動車産業向けのゴムや石油の輸出が増え、人口が少なかったマレー半島やボルネオ島に英領インドや、中国・日本からの移民が急増した。120字
解答に向けて
このブロックは阪大の教授陣が中心に執筆している帝国書院の教科書210ページからのベタ出題です。その一般向け『市民のための世界史』にも記述があります。
問1 ゴム園の様子
問2、オランダ政庁の政府栽培制度は生産物の買い上げ価格が低い上、主食の米生産が十分できなくなって飢饉が起こったことから「これは「強制」栽培制度だ!」という批判が高まって、1870年代までに大半が廃止されました。
マレー半島のイギリス領地域では、中国系やインド系(タミル系が多い)移民の急増で先住のマレー人が少数派に転落しました。
1957年にマラヤ連邦、63年にシンガポールとボルネオを合せてマレーシア連邦となった時、中国系の多いシンガポールがマレー人優先政策(中国系の方が経済的に豊か)に反発して独立するなど、その後も紛争は続きました。
マレー語、英語、中国語、タミル語で書かれた看板 WhisperToMeさんの撮影
Creative Commons CC0 1.0 Universal PublicDomainDedication
なおマレー半島では錫鉱山も開発されました。錫は合金(ブリキ)に使われ、缶詰は戦場での食糧事情を飛躍的に改善しました。ゴム、石油と並ぶ戦略物資です。
問3~問4
問3 19世紀末から20世紀前半にかけて東南アジアのムスリム社会にこのような(メッカへの巡礼者の増加)要因について、表1表2で示されている経済的な変化や当時の世界的な交通環境を踏まえて説明。120字程度▲
東南アジアが世界システムに組み込まれると現地ムスリム商人の中にも富裕層が現れた。同じ頃汽船や鉄道が発達し、メッカ行きの汽船が就航してメッカへの巡礼が容易になり、富裕層を中心に巡礼者が増加し、その交流でムスリムとしての自覚がより高まっていた。120字
問4 東南アジア島しょ部ではアラビア文字で書かれた新聞・雑誌が数多く出版され、国境を越えて広く流通した。こうした雑誌の流通量増加の背景について。史料1グラフ1を踏まえて。150字程度▲
アフガーニーは近代の受容とイスラームは矛盾しないと説き、アラビア語で『固き絆』を発行してムスリムの大同団結と列強への抵抗を提唱し、これが各地に伝わった。当時東南アジアでは宗主国の政策で知識人が出現し民族意識も芽生えはじめた。彼らが印刷技術とムスリムの共通語を使って民族的な主張をはじめた。152字
解答に向けて
帝国書院の教科書の引用 210ページ
植民地支配は東南アジアに輸出額と人口の急速な増加をもたらした。ただし、輸出品ができず開発効率が低い地域は放置された。少数のヨーロッパ人による支配を維持するために、インド人や中国人を経済面で優遇したり、特定の民族や宗教信者ばかり官吏・軍人に採用するなどの方法によって、現地の住民は分断された。もっとも近代文明の流入は、西洋崇拝につながる一方で、新しい民族文化やナショナリズムを生み出した。近代的な教育は一部でしか普及しなかったが、それでも現状を批判したり、伝統文化の価値を再発見する知識人が出現し、労働運動やデモ・ストライキの方法も伝わった。汽船など交通・通信の発達は、華僑・印僑を急増させただけでなく、メッカ巡礼者の増加によりムスリムの自覚が高まる基盤ともなった。
問3は「要因」なので、ムスリム商人の中に富裕層が出現したこと、彼らが当時就航した汽船でメッカ巡礼に行きやすくなったことを書く。120字は長い。
オランダ領東インドからのメッカ巡礼について
問4は様々な解答が考えられますが、ぶんぶんは資料の「エジプトやインドやトルコでは日刊紙等の発行する上で助け合いをすることが、民族と祖国の人々の宗教を強くする」に着目し、アフガーニーの運動の広がりと東南アジアでの知識人の出現のふたつを背景として書いてみました。
まずアフガーニーについてです。エジプトでイギリスに対する抵抗運動を呼び掛けたアフガーニーは、追放後パリで弟子のムハンマド=アブドゥフともに『固き絆』を発行し、「ムスリムがヨーロッパの近代に学んで自己改革し、団結し西欧に対抗するべき」と訴えました。これを「パン=イスラーム主義」といいます。
雑誌はイギリスの弾圧をすり抜けて各地にひそかに持ち込まれ、多くのムスリムの間で広まりました。
またアフガーニーはイランの王がタバコの利権をイギリスに売り渡したことに対して、シーア派のウラマーに書状を送り、抗議活動に協力を求めました。
ウラマーのシーラーズィーはイギリスへの利権譲渡を撤回するまでタバコの使用を禁ずるファトワーを出し、これがイランに広がり始めた電信(イギリスはインドと連絡するために中東経由の電信網を敷設していた)で各地に広まり、その結果タバコ利権は撤回されました。いわゆる「タバコ=ボイコット事件」です。
これまでのムスリムは『コーラン』の伝統的な解釈に従い、それが各地のマドラサで伝授されるスタイルでしたが、汽船や電信の発明でムスリムの横のネットワークが生まれました。アフガーニーの主張はグローバル化の波に乗り各地で芽吹きました。
汽船の話はズバリ的中か!?
bunbunshinrosaijki.hatenablog.com
次に東南アジアの状況です。ジェンダーの回のカルティニのところでも書きましたが、オランダは過酷な植民地政策の結果ジャワ島の住民が疲弊したことを反省して倫理政策に転換し、富裕層の子弟がヨーロッパに留学生として派遣されました。
オランダからすれば(U^ω^)わんわんお!を育成するための政策ですが、それまで島しょ部にバラバラに住み、集団としての意識がなかった彼らが留学先で「インドネシア人」という民族的自覚を持ちます。
このように民族・祖国・イスラームが結びつき、西欧の技術である新聞や雑誌と、ムスリムの共通語であるアラビア語を介して、その思想が広まります。
ただし、たしかに「民族」や「国民」という西欧近代の概念が西欧の植民地支配を掘り崩すことになるのですが、それは現地の人々を引き裂く要因にもなりえます。近代が根本的に抱える矛盾といえます。
参考
bunbunshinrosaijki.hatenablog.com
bunbunshinrosaijki.hatenablog.com
まとめ
- 大阪大学を志望する人は、文化史とグローバルヒストリーは必須です。
- 大阪大学のグローバルヒストリー問題は、「近代世界システム論」に依拠しつつそれをアジアの側から批判的に検証して発展させるという視点です。
- 教科書を読み解く際には、今のグローバル化した社会がどのように形成されてきたか、また西欧主導のグローバル化にアジア・アフリカの人は向き合ったのか、さらに西欧主導のグローバル化以前にはどのようなグローバル化があったのか、という点に注意しましょう。
- 大阪大学の過去問は当然、難関国立・私立に似た問題が多いので、それらに取り組みましょう。
- 論述は字数制限がきつい、逆に字数が多すぎることがよくあります。字数に応じて「抽象的」と「具体例」を使い分けましょう。
- 大阪大学の先生が書いている教科書や一般書を読みましょう。「押し」には貢ぎましょう。(`・ω・´)
これ