はじめに
昨今ジェンダーの視点から歴史を再考する動きが高校現場に及んできています。実教出版の『世界史B』には「世界史のなかのジェンダー」というコラムが掲載されています。
入試問題でも女性の権利獲得の歴史(東京大学)、女性参政権運動(九州大学)、「オランブ=ド=グージュ」(早稲田)が出題されています。
今回は世界史の教科書(実教出版、帝国書院、東京書籍)と資料集(帝国書院『タピストリー』と浜島書店『アカデミア』)の範囲内で、「世界史のなかのジェンダー」について整理します。
第2回はフランス革命期から19世紀にかけての女性の権利獲得運動です。
『論点・西洋史学』(ミネルヴァ書房)『女性の権利の歴史』(岩波市民大学 人間の歴史を考える⑧)中村俊子『女性差別はどう作られてきたか』(集英社新書)『女性たちの世界史大図鑑』(河出書房新社)を参考にしています。
WEBでは「比較ジェンダー史研究会」を参考にしています。
画像は断りがない限りウィキメディアコモンズ、パブリックドメインのものです。
「教科書に出てくる女性」は、ジェンダーや女性の権利獲得とは直接関係ない人名もありますが、私立の空欄補充で出題されるので参考までにつけておきます。
過去回
bunbunshinrosaijki.hatenablog.com
目次
7 フランス革命とジェンダー
1789年 フランス人権宣言 人間の自由・平等 国民主権→男性を想定
1791年 [18 ] 『女性の権利宣言』
女性に男性と権利において平等と主張
メアリ・ウルストンクラフト(英)『女性の権利の擁護』(1792年)
フランス革命中、女性の権利要求が広範囲にわたって展開
1792年 離婚が法的に認められる(一方から、双方の合意)
1804年 (19 )(ナポレオン法典)
女性の従属的地位を規定
補足
1789年8月26日に成立した「人権宣言(人および市民の権利宣言)」はその名の通り「すべての人」と「すべての市民」の権利を明確に保障した体系的な宣言です。
*第1条、第2条のみ全文で他は項目
第1条(自由・権利の平等)人は、自由、かつ、権利において平等なものとして生まれ、生存する。社会的差別は、共同の利益に基づくものでなければ、設けられない。
第2条(政治的結合の目的と権利の種類)すべての政治的結合の目的は、人の、時効によって消滅することのない自然的な諸権利の保全にある。これらの諸権利とは、自由、所有、安全および圧制への抵抗である。
第3条(国民主権)
第4条(自由の定義・権利行使の限界)
第5条(法律による禁止)
第6条(一般意思の表明としての法律、市民の立法参加権)
第7条(適法手続きと身体の安全)
第8条(罪刑法定主義)
第9条(無罪の推定)
第10条(意見の自由)
第11条(表現の自由)
第12条(公の武力)
第13条(租税の分担)
第14条(租税に関与する市民の権利)
第15条(行政の報告を求める権利)
第16条(権利の保障と権力分立)
第17条(所有の不可侵、正当かつ事前の補償)
そうは言うものの、参政権が税金を納めている裕福な男性に限定され(制限選挙)、ユダヤ人や奴隷は市民から排除されていました。
*黒人奴隷については過去回参照。全フランス植民地での奴隷制廃止は1848年。
bunbunshinrosaijki.hatenablog.com
1791年憲法では女性は「能動市民」ではなく「受動市民」という位置づけで政治的権利から排除されていました。これに対して「人権宣言」制定直後から「これは男権宣言にすぎない」と看破し、1791年に「女性および女性市民の権利宣言」を発表したのが、オランプ・ド・グージュです。
「女性および女性市民の権利宣言」 は「人権宣言」の構成や文言をほとんどそのままで主に権利の主体について「人:homme」を「女性:femme」に、「市民:citoyen」を「女性市民:citoyenne」に改める形で書かれていました。
例えば第1条で「女性自由なものとして生まれ、かつ権利において男性と平等なものとして生存する」とし、第17条では「財産は、結婚していると否にかかわらず良性に属する。財産権は、そのいずれにとっても不可侵かつ神聖な権利である」としています。
また第6条で女性市民の政治参加の権利、第11条では子どもの父親を明らかにする権利(非嫡出子とその母親に対する救済は女性にとって重要課題)、第13条から第15条にかけても男性と同等の権利が保障される(税金も平等に負担するから職業への参画やその地位も男性並みであるべき)と女性の権利を訴えています。
フランス革命期には1789年のヴェルサイユ行進以来女性たちも革命に関わり、サン=キュロットたちのクラブや民衆協会にも女性が参加します。
民衆運動が過激になった1793年5月には女性だけの政治結社である「革命共和主義女性協会」が設立されますが、その過激な活動が原因となって同年10月に女性の政治結社が禁止されます。
こうした中で、民事上については1792年に離婚法が成立し、7つの法定原因による法定離婚や当事者の合意による協議離婚が認められ、相続についても女性の法的地位が向上します。しかし女性参政権については、国民公会内に理解を示す人もいましたが、ロベスピエールらジャコバン派(山岳派)は逆に女性の政治活動を制限します。
グージュもジャコバン派を批判したために反革命の容疑をかけられ、1793年11月に断頭台の露と消えてしまいました。
民法に関してもテルミドール9日のクーデター以後は女性の権利は後退し(離婚や相続がふたたび不平等に)、1804年のナポレオン法典では、妻の無能力、夫権への従属など「その①」で述べた慣習法に逆戻りしました。
この「逆コース」は、いわゆる「市民革命」が「下克上」(二番手が一番手を引きずり下ろす)が目的で、自由・平等はそれを正当化する言説(ディスクール)、したがって白人男性以外の自由・平等運動はむしろ革命の妨げ、意地悪な言い方をすれば革命は男性市民が女性や奴隷を搾取する上に成り立っているといえます。
そういえば某国の国際スポーツ大会も「多様性」と言いつつ組織委員会のメンバーが「女性は話が長い」と言ったり、開会式の関係者が障がい者を虐待したことを武勇伝のように語ったりとか(以下略)。
フランス革命の影響を受けたメアリ・ウルストンクラフトも女性解放運動の先駆ですが、彼女の啓蒙主義的な主張(女性教育の必要性、理性による社会改革)は、上記のような革命の矛盾にまでは踏み込めませんでした。
8 産業革命、帝国主義とジェンダー
工業化以前:家庭は生産と消費の場を兼ねる
工業化以後:生産は家庭の外へ移行 公的空間と家内空間が分離
労働者階級:工場で女性や児童が労働→労働法の出現
中産階級:男性と女性の性的役割分担(女性は家事と育児)
→「専業主婦」の誕生…家事は使用人に任せる
19世紀イギリス:[20 ]女王
→「公職を離れると良き妻・良き母」というイメージ
帝国主義の時代:
従属地域では先住民を労働や家事奉公人に利用
上層部には西洋式教育が導入される
*教科書に出てくる女性の人名(19世紀)
[21 ]:クリミア戦争に従軍。近代看護法
[23 ]:ハワイの女王。アメリカの圧力で退位
カルティニ:ジャワ島 女子教育の重要性を訴える
補足
ヴィクトリア朝の女性
産業革命によって、女性や子どもも含む家族全員による家内生産から、家から離れた工場で生産する、つまり家庭と労働が分離します。この時、大きな工場を経営する家族は、男性の経営者だけが働けば十分な生活ができるようになります。これが「ミドルクラス」(中産階級)です。
この結果労働から解放された中産階級の女性には家庭をとり仕切る「主婦」の役割が与えられ、また子どもは「小さな大人」から「子ども」(独自の世話や教育が必要な存在)と認識されるようになります(「子どもの誕生」には諸説あり)。
こうして中産階級の女性は「妻」や「母」としての役割、いわゆる「性的役割分業」が期待されるようになります。
19世紀のイギリスでこの動きと結びつくのが福音主義とヴィクトリア女王です。
福音主義(イエスの福音を重視する)は従順で信心深い女性を礼賛しました。
ヴィクトリア女王はジョージ3世の孫で、叔父にあたる国王たちは離婚・愛人など放蕩三昧で国民から不人気でした。
彼女が国王に即位すると道徳観が厳格になり、家族との私生活が重視され、女性の性規範からの逸脱(売春、不倫、婚前交渉)が厳しく咎めれました。女王自身もアルバート公と結婚すると、絵画や写真で「良き妻、良き母」を演出します。
こうした「ヴィクトリア朝価値観」がミドルクラスの「アイコン」、すなわち女性が、貴族のように政治に口出ししない、労働者のように働かない、家族を癒し道徳的に導く専業主婦(当時の言説では「家庭の天使」)であることが、彼らの階級的アイデンティティになったといえます。
逆に言うと、中産階級の女性が社会的地位と経済力を確保するには結婚が最適解、結婚せずに「淑女」としての品位をどうにか保てる職といえば、世紀末になって教職、公務員、看護職(後述)などの地位が上がるまでは、文筆業か家庭教師(ガヴァネス)くらいでした。
日本でも結婚を「永久就職」と言った時期もありました。
結婚を巡る姉妹の確執
19世紀イギリスの女子私営学校の様子。「レスペクタブルなレディ」
https://www.agulin.aoyama.ac.jp/mmd/library01/BD83038261/Body/link/ab40038261.pdf
一方労働者階級は男性も女性も働かざるを得ません。そこへ「ヴィクトリア朝的価値観」が浸透し、女性は家事も育児も仕事も背負い込むことになります。
またミドルクラスの女性が家事を使用人に任せて「有閑化」し、デパートで買い物をしたりファッションを楽しむようになると服の需要が増加します。その結果縫い物仕事が増大し、それは女性労働者の低賃金労働で支えられます。
19世紀イギリス女性の職業に関する論考
さてミドルクラスは鉄道の発達で郊外に家を構えるようになり。女性たちは郊外暮らしで孤独を感じるようになります(アフタヌーンティーの背景もこれとされる)。
19世紀に福音主義の影響で奴隷制廃止運動が始まります(この運動に尽力したウィルバーフォースは慶応で出題)。ミドルクラスの女性の中には「家庭的役割の延長」として子どもの禁酒運動、慈善運動、奴隷制廃止運動にかかわるものが現れ、これが19世紀後半の女性参政権運動の土台(第1波フェミニズム)になります。
フローレンス・ナイチンゲール
H.レンソールさんの著作より。パブリックドメイン。
裕福なジェントリの家庭に生まれたナイチンゲールは幼少期に質の高い教育を受ける機会に恵まれました。しかし貧しい農民の悲惨な生活を目の当たりして、人々に奉仕する仕事に就きたいと考えるようになりました。
ナイチンゲールは看護職を志して病院に就職します。当時「看護婦」は病院で病人の世話をする単なる「召使」と見られていて、彼女は専門的教育を施した看護職の必要性を訴え、1860年にはロンドンで看護学校を創設しました。
ナイチンゲールが有名になったのはクリミア戦争(1853~56)への従軍です。彼女は兵舎病院の不衛生を改善し、その結果病院での死者が激減しました。彼女が負傷兵たちの死亡原因を「予防可能な疾病」「負傷」「その他」に分けて視覚化したものは「レーダーチャート」の元祖です。
医学については、女性の助産師(産婆)や薬草師は存在しましたが、医学教育からは女性は排除されていて、18世紀には男性医師が女性の民間療法をまじないと決めつけ、出産にも男性産科医が進出しました。
19世紀に医学教育の権利を求める女性たちが現れ、運動の結果、1848年にボストン、1874年にはロンドンで女子医学校が設置されました。
そういえば日本にも女子医大がありますし、医学部入試でコソーリ男女に点数差をつけた事件がありました。
イブ・カルティニ
カルティニ (1879~1904)の時代のジャワ島はオランダの植民地統治下にあり、ひどい搾取が行われていました。その結果ジャワの経済力が衰えます。
それでオランダは「倫理政策」(1901年から1927年頃まで)を開始し、現地住民に初等教育の機会が与えられ、親オランダ的な現地住民のエリートたちは専門教育も受けられるようになり、中にはオランダ本国へ留学する若者たちも出てきました。
カルティニは知事の娘で、ヨーロッパ人の学校でオランダ語を学び、1902年にジャワの女子を対象にした私塾を開きますが、志半ばで亡くなります。死後彼女のオランダ人の友人にあてた手紙が出版されて広く知られるようになり、その収益でカルティニ基金が設けられ、各地にカルティニ女学校が開設されました。
大学入試センター試験 1999年の問題
同じく1999年のセンター試験より
空欄
18 オランブ=ド=グージュ
19 フランス民法典
20 ヴィクトリア
21 ナイチンゲール
22 マリー・キュリー
23 リリウオカラニ
続く