はじめに
家庭学習用の大量のプリントをもらってお困りの方対象に「19世紀のアジア・アフリカ諸地域」について整理します。
第5回は「東南アジアの民族運動」です。入試では帝国主義の時代か戦間期に書けてぶち抜きで出題されます。
今回の問いは「植民地支配が民族運動を形成した?」です。
教科書(実教出版、帝国書院、東京書籍、山川出版社)、資料集(帝国書院、浜島書店)、一般書(山川出版社『詳説世界史研究』『世界近現代全史』『世界各国史』)をベースにしています。
参考
シリーズの中で特に気合いが入っている巻のひとつ
1 東南アジアの「国民」意識形成
① インドネシア
オランダの「倫理政策」…現地住民の福祉や教育の改善
カルティニ:ジャワの女性教育運動のきっかけ
1908年 ブディ・ウトモ ジャワ人貴族の子弟 医学校中心
1911年 (1 )同盟の結成(サレカット=イスラム)
ジャワ人とアラブ人の商人中心。相互扶助と自治要求
1920年 (2 )結成→厳しい弾圧
1927年 (3 )党の結成 [4 ]の指導→弾圧
② フィリピン
1880年代 [5 ]の言論活動
1896年 フィリピン革命 カティプーナンの蜂起
1899年 [6 ]:フィリピン共和国(マロロス共和国)樹立
→アメリカ=フィリピン(米比)戦争 アギナルド降伏
1902年 アメリカの統治開始 フィリピン議会(1907年)
1930年代 地主批判、労働争議が頻発
1934年 フィリピン独立法の成立
10年後の独立約束。独立準備政府(コモンウェルス)の発足
③ ベトナム
[7 ]:(8 )会の結成(1904)
1905年以降 (9 )(東遊)運動
日本への留学生派遣運動→日本・フランスの弾圧
→ベトナム(10 )会(1912,広東)で反仏運動
ファン=チュー=チン 各地に「義塾」を作り啓蒙運動→仏の弾圧
1925年 ベトナム(11 )結成…指導者[12 ]
1930年 (13 )の成立→フランスの弾圧
1930~31 元僧侶サヤー=サンの農民運動
1930年 (14 )党 [15 ]らの指導 反英運動
1935年 新インド統治法でビルマが分離
⑤ シャム(タイ)
1932年 ビブーンら人民党のクーデタ 立憲君主制
1939年 国号をタイに変更
空欄
3インドネシア国民党
4スカルノ
5ホセ=リサール
6アギナルド
7ファン=ボイ=チャウ
8維新
9ドンズー
10光復
11青年革命同志会
12ホー・チ・ミン(グエン・アイ・クォック)
14タキン
15アウンサウン
補足
① インドネシア
オランダがジャワ島にバタヴィアを建設する際、中国出身の熟練の職人が雇用されました。さらにオランダが製糖業に乗り出すと、その労働者として中国系移民(華人、華僑)が増加しました(東大の過去問にあり)。18世紀半ばには華人の虐殺事件も発生しますがその後も華人は増え続け、商業で財をなすものも多数出現します。
サレカット=イスラムはこの華人系商人に対抗するムスリム商人組織として結成されましたが、次第に民族主義団体としての性格を強めます。この時期華人系商人が孫文の国民革命を支援していたことも関係しています。
1906年にはオランダに留学した学生の間で「東インド協会」が作られます。島嶼からなるこの地域では「民族的な一体感」は希薄でしたが、彼らがオランダに集まり、植民地支配が作った枠組みを自らの結社の枠組みにしたことは「インドネシア」意識形成につながり、その後インドネシア共産党、インドネシア国民党と「インドネシア」を冠した政治団体が結成されます。
インドネシア共産党。アジア最初の共産党(中国共産党は1921年、日本共産党は1922年)は激しい弾圧にあい壊滅、その後地下活動を続けインドネシアの独立と共に復活しますが、9・30事件で壊滅します。写真は1925年の大会の様子。多言語。
② フィリピン
東南アジアでナショナリズムがいち早く形成されるのがフィリピンです。
フィリピンは本国生まれのスペイン人(ペニンスラール)が実権を握り、その下に現地生まれのスペイン人、次いでスペイン人と華人・現地人の混血(メスティーソ)、最下層に原住民という構造でした。
スペインはヨーロッパ船のマニラ入港を排除していましたが次第に貿易圧力が強まります。18世紀には中国産向けの農産物輸出も行なわれ、1834年にマニラが開港するとフィリピンは砂糖などのプランテーションが拡大し自由貿易体制に組み込まれます。
このため中国向け農産物を扱う華人や華人と白人のメスティーソの経済力が高まり、原住民の中にも比較的富裕な中間層が形成されました。
また17世紀にアジアでは最古の大学(サント・トマス大学)が置かれるなど教育が盛んで、現地知識人を生み出す素地がありました。
現地住民の最初の知識人は教会の聖職者でした。フィリピンはカトリックの信仰が義務づけられていて、一般住民の居住区にある教区教会に「在俗司祭」が進出し、ペニンスラールの修道会所属司祭との軋轢が生じました。
スペイン政府が在俗司祭を排除しようとしたため、在地司祭の地位擁護運動が発生します。この過程で「本国生まれ」と「現地生まれ」という対立軸がうまれ、後者の人々の中に「フィリピン人」意識が形成されます。
その後軍港労働者の暴動が発生すると、スペインは地位擁護運動の中心だった在地司祭3名に罪を着せて処刑します。この事件でスペイン支配に対するナショナリズム意識が高まります。
スペインに留学したホセ=リサールは言論活動でフィリピン人の民族的自覚を高めようとしますが、自助努力を唱える彼の考えは民衆に届かず、逮捕され流刑になります。
リサールは日本滞在中に貿易商の娘の臼井勢似子と親しくなり、二人で歌舞伎を見物に行ったり日光や箱根にお泊り旅行♡に行ったそうです。日比谷公園に彼の銅像があります。彼はフィリピン革命には直接関与していませんでしたが、逮捕され処刑されました。
アントニオ=ボニファシオは「パッション」(キリスト受難詩)を利用して下層労働者の支持を得て、1892年に秘密結社カティプーナンを結成し、1896年に武装蜂起してフィリピン革命が始まります。
しかしカティプーナン内部で都市の急進派と地方の有力者の間で主導権争いが勃発、後者の代表であったアギナルドがボニファシオを粛正して実権を握ります。
革命軍は苦戦しアギナルドは香港で亡命政府を作りますが、1898年にアメリカ=スペイン戦争が勃発、フィリピンでもアメリカがスペインを攻撃します。
これを見たアギナルドは再び武装闘争を再開、1899年にマロロスでフィリピン共和国の樹立を宣言し、大統領に就任します。
しかしアメリカ合衆国はフィリピンの独立を認めず、アメリカ=フィリピン戦争が勃発、1901年にアギナルドは降伏しました。1902年にはアメリカの統治が始まりますが、この過程で「フィリピン人」国民意識が定着します。
リサールに共感し、独立戦争に参加したマリアノ・ポンセは来日してアジアの団結を唱える宮崎滔天らから武器援助を取り付けます。また当時日本に亡命中であった孫文とも親交を持ちました。
1899年に武器を積んだ布引丸が長崎を出航しましたが途中暴風雨で沈没、アメリカからの厳重な抗議もあり、日本からの武器購入・輸送計画は頓挫しました。
大学入学共通テスト 試行調査(H29年)世界史Bに「ポンセ君」が登場します。HPのスクリーンショット
出典
③ ベトナム
ベトナムでは19世紀末に阮朝の反仏運動が下火になると、中国の変法派の主張に共鳴する文人が現れます。その代表のファン=ボイ=チャウは1904年に広南で「維新会」を設立します。
この頃日本にはアジアの革命家たちが集まっていて、日本の日露戦争の勝利は彼らを勇気づけました。ボイ=チャウは1905年に来日し、亡命中の梁啓超を通じて知り合った犬養毅らから人材育成の必要を説かれた、1905年から「東遊」運動と呼ばれるベトナム青年の日本への留学運動を組織しました。
しかし日本政府は1907年にフランスと日仏協約を結んで支配領域を相互に認め合うと、フランス政府の要請に従って翌年から留学生を強制帰国させました。
その後ボイ=チャウは辛亥革命に鼓舞され、1912年に維新会を「ベトナム光復会」に再編して武力によるベトナム独立を目指しましたが、成果は得られませんでした。
ホー・チ・ミンについては別回参照。彼はコミンテルンに参加しましたが「ベトナムの独立」を最優先する民族主義者でした。一方コミンテルンは「世界革命」を標榜、ベトナム共産党がカンボジアやラオスを含む「インドシナ共産党」に改称したのは、共産主義に忠実な若手の突き上げからでした。
ホー・チ・ミンはナショナリズムに偏向していると批判されモスクワで不遇の生活を送りますが、1930年代にコミンテルンが「人民戦線」戦術を取ると彼は再び表舞台に現れます。
bunbunshinrosaijki.hatenablog.com
2 日本の占領と抵抗運動
後半はこの2本を参考にしています。
1940年 大東亜新秩序…「(16 )圏」
1941年 太平洋戦争開始 東南アジアを占領
1943年 大東亜会議:ビルマ・フィリピンに独立付与
日本による資源の収奪、労働者の徴用→各地で抗日運動
植民地政府は存続 1941年 ホー・チ・ミンが(17 )を結成
1945年 植民地政府を解体し日本が直接統治 三国の形式的独立
② マレー半島
1941年12月 マレー半島上陸
1942年2月 (18 )占領(昭南市)
③ フィリピン
1942年1月 マニラ占領
④ オランダ領東インド
1942年3月 ジャワ占領 軍政施行 スカルノの対日協力
1942年3月 ラングーン占領
→独立付与も日本軍の支配下 泰緬鉄道の建設
1944年 アウンサン、反ファシスト人民自由連盟結成
⑥ タイ
1941年 日タイ同盟条約 連合国に宣戦布告
→日本の降伏後、平和宣言を発し枢軸国扱いを回避
空欄
16大東亜共栄
17ベトナム独立同盟(ベトミン)
18シンガポール
補足
① 日本の東南アジア支配
近代国家日本は朝鮮半島や中国大陸への進出を軍事戦略としていましたが、日中戦争が泥沼化する中で、「大東亜新秩序」構想を名目に石油などの重要資源を産する東南アジアへの「南進」が唱えらえるようになりました。
ヨーロッパ戦線でドイツが東南アジアに植民地を持つオランダ、フランスを降伏させ、イギリスを追い詰めると、日本はチャンスとばかり「南進」を始めます。
1940年6月にフランスが降伏すると、日本はヴィシー政府と交渉して北部仏印に進駐します。さらに1941年に南部仏印に進駐すると、アメリカはイギリス、オランダとともに日本資産を凍結し、8月に日本への石油の輸出を禁止します。これに対して日本では対米開戦論が浮上、12月から太平洋戦争(アジア太平洋戦争)が始まります。
日本は短期間にマニラ、シンガポールなど諸都市を占領し、シンガポールでは多くの華人系住民を殺害しました。
日本は東南アジアのほぼ全域を占領し、独立国タイと植民地政府のあるインドシナ以外には軍政を敷きます。「大東亜の解放」とはいうものの日本にとっては物資調達が最重要課題なので、「日本による独立」はこの時点ではありませんでした。
しかし1942年のミッドウェー海戦以後戦局は悪化、日中戦争を継続したままなので南方に兵力を割けない、そこで現地住民を戦争に動員したい、そのためには大衆に影響力のある独立指導者の協力が必要になってきます。
東南アジアに独立が「付与」されるのは1943年の大東亜会議と戦局が悪化してから、しかもこの時はフィリピンとビルマだけでした。
大東亜会議に参加した首脳。左からモウ(ビルマ)、張景恵(満州国)、汪兆銘(南京国民政府)、東條英機、ワンワイタヤーコーン(タイ外交官、ビブーンは欠席)、ラウレル(フィリピン)、チャンドラ・ボース(自由インド仮政府)
独立した地域も実質的には日本の軍政下のままです。日本には東南アジアに十分な工業製品を供給できる経済力はないので「共栄圏」とは名ばかり、一方的な資源の収奪が続きます。
大戦末期の1944年にベトナムでは天候不順に日本への米供出が加わって飢饉が発生、連合国の海上封鎖で軍隊すら補給がままならず、住民は物不足とインフレーションに悩まされます。
読むべき本
*発展:占領地で物資を購入する(ただで持っていくのは泥棒で国際法違反)ために本国通貨を使うと通貨量が増大して本国財政がパンクするので、「軍票」という疑似紙幣を使いました。もちろん無尽蔵に発行できず、正規通貨に「紐付け」して最後は精算するのですが、戦争に負けたら紙くずになります。ビルマまで使われたルピー建ての軍票。
② 日本に対する態度
ビルマやインドネシアの民族運動家(アウンサウンやスカルノ)は、当初は対日協力をすることで宗主国から独立する力を蓄える、つまり日本を利用しようと考えますが、戦局が悪化する中で自主独立を考えはじめます。
スカルノは日本の占領は長続きしないと考え、日本に協力して戦争の仕方を教えてもらい、独立に備えたと後に回想しています(『映像の世紀』第6集)。
日本は資源の豊富なインドネシアを重視し、現地社会を青年団、婦人会、隣組で相互監視させ、日本語教育を行ない、物資や労働力を提供させました。特に人口の多かったジャワ島は「ロームシャ」供給の拠点になりました。
敗戦濃厚の中で日本はインドネシアの独立準備を進めましたが、日本が降伏するとインドネシア人による独立を主張する青年たちがスカルノを拉致、海軍武官府の前田精少将が仲介してその自宅でインドネシア共和国の独立が宣言されました。
現地に残った一部の日本兵はオランダとの独立戦争にも参加しました。
スラバヤでの戦闘で使用された日本製の軽戦車
フィリピンはすでにアメリカから独立を約束されていました。現地地主層は表向きは日本に協力しましたが、極東米軍が組織したユサフェや、共産党が組織したフグハラハップなどが激しい反日ゲリラ闘争を展開しました。
独立国のタイは、1940年にかつてフランス領インドシナに割譲した土地を奪回し、太平洋戦争が勃発すると日本と同盟して日本軍の駐屯を認め、イギリスに奪われたマレー半島4州も「回復」します。
しかし泰緬鉄道の建設に多くの「ロームシャ」が徴用されるなど負担が増大すると日本と距離を置くようになり(大東亜会議にビブーンは欠席)、ビブーン下野後の新政権は連合国側につく「自由タイ運動」と連絡を取り合っていました。
日本が降伏すると、タイは8月16日に「対米英宣戦は日本に強制されて行った😢」と宣言し、戦後世界で枢軸国扱いされることを回避しました。(`・ω・´)
③ 泰緬鉄道
泰緬(たいめん)鉄道は、太平洋戦争中の1942年から43年にかけて建設されたタイとミャンマーを結ぶ鉄道で、日本軍、連合国の捕虜、東南アジア各地域から徴用された「ロームシャ」が建設作業に動員されました。
複雑な地形、熱帯気候、疫病の中での過酷な労働で大量の死者を出しました。鉄道はインパール作戦にも利用されましたが、大戦後はイギリスの命令で取り壊され、現在はタイ側の一部が観光用の路線として残っています。
映画『戦場にかける橋』の舞台になったクウエー川鉄橋。「クワイ河マーチ」は関西では替え歌で有名。
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出典
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