はじめに
入試は近づいてくるのに家庭学習が長引く一方、世界史では1870年以降覚えることが急激に覚えます。しかもこの範囲は現代に直結する部分で入試頻出です。
「帝国主義の列強の様子」後半です。
参考図書
資料集(帝国書院、浜島書店)
一般書(山川出版社『詳説世界史研究』『世界近現代全史』『もう一度読む世界現代史』、ミネルヴァ書房『西洋の歴史近現代編』『新しく学ぶ西洋の歴史』)
図版は断りがない場合はウィキメディアコモンズ、パブリックドメインのものです。
目次
2 列強の資本主義・対外拡張・国内改革
2)後発資本主義 ドイツの躍進
a)資本主義
重工業化が進展 20世紀にはイギリスを抜いて世界第2位の工業力
b)対外拡張
1880年代以降、アフリカや太平洋に植民地開発
[1 ]の即位(1888)
ロシアとの(2 )条約更新拒否,(3 )鎮圧法延長に反対
→ビスマルクの引退(1890)
「世界政策」の推進 →海軍の大拡張 イギリスと「建艦競争」
1905 1911 モロッコ事件
c)国内改革
1875年 ドイツ社会主義労働者党
ラサール派と、べーベルらマルクス主義派の合同
1890年 (4 )党と改称 第一党になる(1912)
19世紀末 修正主義:[5 ]、議会主義的改革の重視
空欄
1 ヴィルヘルム2世
2 再保障
3 社会主義者
4 社会民主
5 ベルンシュタイン
補足
① ユンカー=ブルジョワ的資本主義?
ドイツ帝国はプロイセン主導で成立しました。官僚や軍人は農業を経営する東部のユンカーで占められ、彼らは農産物を販売するため自由貿易体制を支持していました。一方で西部のライン川流域では工業化が進み、保護貿易を望んでいました。
1871年以降プロイセン=フランス戦争の賠償金を元に企業設立ブームがおきますが、1873年にヨーロッパで大不況が発生すると企業の倒産が相次ぎます。その中で資本集中が進み、銀行、石炭、化学、電機、木綿紡績などで大資本が形成されました。
ユンカーの農場も大不況で打撃を受けます。そのためユンカーも資本家も国内産業を守ることが優先事項になり、それを受けてビスマルクが保護関税法を制定します。
またビスマルクは不況で労働運動が激しさを増すと、社会主義者鎮圧法を発布する一方で労働者の社会保険制度を立ち上げ、消極的だった植民地獲得にも1880年代から乗り出します。
しかしフランスの対独復讐心が植民地獲得で「ガス抜き」されるのを期待してフランスの植民地拡大を承認したためにドイツの植民地は少なめ、急速な工業化の中で労働運動を徹底的に弾圧するのは時代に合わなくなってきました。
英国誌『パンチ』のビスマルク辞職を描いた挿絵
② 超弩級(ちょうどきゅう)?
1890年にビスマルクは引退します。原因は国内の社会問題が原因でしたが、協調外交を唱える彼がいなくなったことで、皇帝ヴィルヘルム2世は「世界政策」を掲げ、「ドイツの将来は海上にあり」として1898年から海軍の増強に努めます。
これに対してイギリスも海軍を増強、特に1906年に新型艦「ドレッドノート」が就航して従来艦が一気に陳腐化するとドイツも同型を計画、イギリスも「二国標準主義」(世界第2位と第3位の艦艇の合計数を上回る戦力を保有する)を唱えて海軍を増強します。これを「建艦競争」と呼びます。
*発展:ドレッドノートは副砲を装着せず単一口径の連装主砲塔5基を搭載しています。これらは艦橋に設置した射撃方位盤から統一して照準が可能で、命中率が飛躍的に向上しました。
当時の海戦は接近戦での体当たり(船首にエッジ(衝角)がついている。ダイダロスアタック?)と砲撃が戦法でしたが、新型艦では遠距離攻撃が可能になりました。ドレッドノート型は「ド(弩)級」、さらに大きい艦は「超弩級」と呼ばれ、昭和の人間には「超弩級の面白さ」です。
しかし艦隊建設には莫大な予算計上が必要です。これを世論に訴えるため設立されたのが「ドイツ艦隊協会」(1898年)で、重工業資本家や保守派を中心に2年間で会員60万の大衆組織となり、以後第一次世界大戦前のドイツで軍備拡張や世界政策を支える世論形成、ナショナリズムの高揚に大きな役割を果たしました。
イギリスも弩級戦艦の増強を決めますが、建艦競争や老齢年金などの社会保障費によって財政支出が膨大になったため、自由党内閣のロイド=ジョージ蔵相が所得税率の引き上げ、累進課税性の強化、相続税の引き上げ、土地課税制度導入などの「人民予算」を提案し、富裕層への課税を強化しようとしました。
これが上院に否決されたので、1911年にアスキス首相は議会法を制定し、下院で3度可決されたら国の法律になるとしました。
モロッコ事件の顛末はこちら
bunbunshinrosaijki.hatenablog.com
3)ロシア 専制政治下のもとでの工業化と第一革命
a)資本主義
1890年代にフランスからの資本導入で産業革命開始
国内市場狭く労働条件も劣悪
b)対外拡張
(6 )鉄道の建設…露仏同盟 フランスの資本
バルカン方面、中央アジア、東アジアへの進出
c)国内改革
政党の結成
1898年 ロシア社会民主労働党→分裂
(7 )(レーニンら) (8 )(プレハーノフら)
1901年 (9 )党…ナロードニキの流れ
1905年 (10 )党…自由主義者
1905年 第1次ロシア革命
日露戦争の戦況不利→(11 )事件→全国的な暴動に
(12 )の結成(労働者の自治組織) 海軍の反乱
皇帝[13 ]:十月宣言の発表
国会(14 )の開設,市民的自由の承認
1906年 [16 ]の改革…農村共同体(ミール)の解体
独立自営農を育成して帝政の支持基盤の拡大をめざすも失敗
→南下政策再開
空欄
6 シベリア
7 ボリシェヴィキ
8 メンシェヴィキ
9 社会革命
10 立憲民主
11 血の日曜日
12 ソヴィエト
13 ニコライ2世
14 ドゥーマ
15 ウィッテ
16 ストルイピン
補足
① ロシアは封建制、ミールは社会主義?
アレクサンドル2世の「大改革」で、経済(関税、銀行、税制)や社会(大学、地方自治、司法、初等・中等教育、軍隊)の近代化が進みました。
農村では1861年に農奴解放令が発せられますが、土地は個人ではなく共同体(ミール)に有償で引き渡されたので、農民はミールに縛られることになります。
一方地主が得た土地買い取り金のいくらかが経営資金になり、1870年代からは繊維工業(アラル海周辺で綿花生産が拡大)が起こります。
1890年代からは政府の強力な指導で重工業か発達します、農奴身分から脱したものの食うに困る農民が出稼ぎ労働者となり、工業化を底辺で支えました。
とはいえロシアの主な外貨獲得手段は穀物輸出ですから、農民は「飢餓輸出」と低賃金労働、これでは国内市場拡大は期待できません。
したがってロシアの工業化は外国資本に依存するほかなく、鉄道をはじめ鉱山、冶金、土木、機械など軍需関連の重工業に、フランスを筆頭にベルギー、イギリス、ドイツから巨額の外資が導入されました。
こうした中でロシアでマルクス主義思想が広まります。『資本論』第1巻の刊行は1867年ですが、ロシアは真っ先に翻訳されます(1872年)。
マルクスに影響を受けた人々は、ロシアを彼の「発展段階論」(原始共産制→古代奴隷制→中世封建制→資本主義→社会主義)の中に当てはめようとします。
ナロードニキはミールに「平等な共同体」という理想を見いだし、資本主義を一気に飛び越して社会主義を実現しようと考え、農村で社会主義を宣伝しますが、しょせんは「学生考え」で農民には受け入れられません。
その後ナロードニキは農民に土地を分配する活動に転換し、政府主導の資本主義化で共同体解体の危機を感じてテロに走り(アレクサンドル2世もその犠牲になる)、政府の弾圧を受けて壊滅します。
1880年代以降ロシアで資本主義が発達すると、プレハーノフらはいわゆる「教科書通り」に、まずロシアの封建制を市民革命で打倒し、その後社会主義革命を実現しようと考えますが、活動家の多くは弾圧を受けて逮捕や亡命生活を送りました。
20世紀に入り、ロシアで不況が発生すると労働者や農民の一揆が頻発します。この民衆運動に押されて社会主義政党が組織化され、1901年にはナロードニキ系が社会革命党を結成します。
ロシア社会民主労働党は1903年の第2回党大会で、少数の革命活動家(前衛)の党を目指すレーニンと、大衆政党を目指すマルトフが対立、党人事でレーニン派が多数を占めたので、以後レーニン派はボリシェヴィキ(多数派)、マルトフ派はメンシェヴィキ(少数派)と呼ばれました。
シベリア鉄道の様子 スーツ旅行チャンネル ゆっくり土建図鑑より
② 第一革命
ロシアで労働運動が続く中、1905年1月22日(ロシア暦1月9日)、司祭ガボンに率いられた労働者の集団(7~8万人)が労働者の権利要求をまとめた嘆願書を手に皇帝ニコライ2世のいるペテルブルクの冬宮を目指しました。これに対して近衛連隊の兵士が無差別発砲し、多数の死傷者がでました。
当時の写真
事件現場の冬宮 現エルミタージュ美術館 クリエイティブ・コモンズ 表示-継承 3.0 非移植
Photography (c) 1999 Zubro and released under GFDL
ロシアでは歴史上「偽ツァーリ」がしばしば現れます。
常に領主から過酷な収奪を受ける農民にとってツァーリは正義の味方、悪政も政治をろう断する「君側の奸」の仕業、最後はツァーリが悪者を成敗してくれるという、ある意味「信仰」です。『水戸黄門』の世界です。
しかしこの「血の日曜日事件」でツァーリへの信仰は揺らぎ、全国でストライキが拡大します。また当時は日露戦争の最中、独立のためにロシアの敗北を願うポーランド、フィンランドでは日本に協力してロシアを揺さぶる計画も持ち上がります。
6月27日には黒海艦隊の戦艦ポチョムキンで水兵の反乱が発生、戦争継続が難しくなったロシアはアメリカ大統領セオドア=ローズヴェルトの勧告を受け入れ、9月5日にポーツマス条約に調印します。
労働者の怒りは収まらず、10月にはモスクワでゼネストが発生します。ペテルブルクで組織されたソヴィエト(評議会)は憲法制定や労働者の権利保護の要求を掲げて全国のゼネストを支援します。
ポーツマスから帰国したウィッテはニコライ2世に迫り、皇帝はやむなく「十月宣言」を発して市民的権利と普通選挙にもとづく議会(ドゥーマ)の実現を約束します。この後皇帝任命の内閣が設置され、ウィッテが初代首相に就任します。
選挙を控えて自由主義者は立憲民主党を結成します。また結成済みの社会革命党やロシア社会民主労働党も動き出しますが、後者はブルジョワ革命にこだわるメンシェヴィキと、労働者を中心に農民も交えた「労農民主独裁」を目指すボリシェヴィキの溝は埋まりません。まあこういう「神学論争」は労働者にとっては関係ない話です。
12月の労働者の武装蜂起が弾圧されて革命は下火になり、選挙も不平等な仕組みになり社会民主党とボリシェヴィキは選挙をボイコット、選挙では立憲民主党が勝利して野党優位で最初の議会が開催されます。しかし開催前に発表された憲法はツァーリの大権を大幅に認めるもので、議会も1906年には武力で解散させられました。
その後ストルイピンが首相に任命され、テロ活動を徹底的に弾圧する一方、ミールを解体して(農民はミールから離脱できる、耕作地の私有化を進める、農民銀行が融資して資本主義的農業経営を支援する)自作農創出を目指しました。
彼は自作農を政権基盤に取り込むと同時に穀物を増産して輸出を拡大しようと考えました。穀物増産は進みましたが富農と貧農の格差は拡大し、かえって不安定要素を増やす結果になりました。
セルゲイ・エイゼンシュテインの『戦艦ポチョムキン』(1925年)は、別に撮ったカットを編集によって繋げることで一連のシーンにする「モンタージュ技法」を完成させた、無声映画の傑作といわれます。
4)アメリカ合衆国の膨張
a)資本主義
19世紀末に工業力世界一
1890年代にフロンティア消滅 西部開拓…農業地帯
移民:東欧、南欧…工場の不熟練労働者 中国系…西部の農園
資本集中 トラストの発達 ロックフェラー(石油)カーネギー(鉄鋼)
b)対外拡張
[17 ](共和党)
1898年 (18 )戦争
→プエルトリコ、グァム、(19 )領有
→(20 )保護国化(プラット条項)
1899年 (21 )宣言
国務長官ジョン=ヘイが発表→中国市場進出
[22 ](共和党)
( 23 )外交:カリブ海への干渉
コロンビアから(24 )を独立させ運河地帯を租借 パナマ運河着工
[25 ](民主党)「新しい自由」を標榜
(26 )外交…民主主義の道義的優位を説く
c)国内改革
革新主義…独占の規制や労働条件の改善
1890年 シャーマン反トラスト法…価格協定、独占の禁止
1914年 クレイトン反トラスト法…抱き合わせ販売、排他的取引の禁止
参考
空欄
17 マッキンリー
18 米西(アメリカ=スペイン)
19 フィリピン
20 キューバ
21 門戸開放
22 セオドア=ローズヴェルト
23 棍棒
24 パナマ
25 ウィルソン
26 宣教師
補足
① 「金ぴか時代」の光と闇
南北戦争後西部開発は急速に進み、金鉱開発はカリフォルニアに続いてネバダ、コロラド、サウスダコタに広がりました。
また「グレート・プレーンズ」地帯では、北東部で工業都市が成長して肉牛の市場が拡大すると、カウボーイによる「ロング・ドライブ」(鉄道のあるところまでカウボーイが牛を連れて行く)が発達しました。ハンバ~グ!
ナット・ラブ(1854 – 1921):アフリカ系アメリカ人のカウボーイで、以前は奴隷だったそうです。
その後機械の導入や新品種の開発のおかげで雨の少ない「グレート・プレーンズ」でも穀物生産も可能になり、世界屈指の穀倉地帯に変貌しました。
アメリカの工業・農業の様子
東部工業地帯では政府の保護関税政策と鉄道建設へ援助によって鋼鉄生産が拡大し、石油産業とともに企業の合同や資本の集中が進みました。
こうして西部の農業と東部の工業が広大な国内市場に支えられて、アメリカ合衆国19世紀末に工業生産力で世界第一位となり、下層階級から立身出世して巨万の富を得た人のサクセスストーリーは「アメリカンドリーム」としてもてはやされました。
マーク・トウェインはこうしたアメリカ合衆国の繁栄を「ギルデット(金メッキ)・エイジ」と揶揄しました。
しかし繁栄の裏には闇があります。
西部では1890年代にはフロンティアの消滅が宣言されますが、その裏で1886年に「アパッチ」の指導者ジェロニモが降伏して組織的な抵抗は終了、1890年にはサウスダコタ州ウンデットニーで多数の「スー」が虐殺されました。
東部では東欧や南欧からの移民が急増し、特にポグロムが激しくなったロシアから大量のユダヤ人が渡ってきます。この「新移民」が「旧移民」労働者と対立します。1893年には経済恐慌が発生し、労使間の対立が激化します。
広大な国土と国内市場を持つアメリカ合衆国はそれまで植民地支配には乗り出していませんでしたが、ペリーの世界周航に見られるように海上には以前から関心があり、19世紀末からとカリブ海、太平洋へ本格的に進出をはじめます。
移民について
bunbunshinrosaijki.hatenablog.com
② 「素晴らしい小戦争」は「大いなる逸脱」?
アメリカ=スペイン戦争の発端は、1895年に発生したスペイン領キューバの第二次独立運動でした。
18世紀末からキューバでの砂糖やコーヒーの生産は大幅に伸び、1830年代には世界最大の輸出国となりました。アメリカは19世紀半ばからキューバの砂糖を買い付けていましたが、第一次独立戦争後は事業に失敗した砂糖農園をアメリカ企業が買収するなど資本投下が進みました。
砂糖生産で力を蓄えたクリオーリョ層が武装蜂起し、スペイン軍をゲリラ戦で悩ませました。
*発展:当時のアメリカでは新聞2社の発行競争が激化、購読者数を増加させるために両社ともキューバの暴動をセンセーショナルに、捏造記事を交えて報道しました。
同時代のアメリカ=フィリピン戦争時のニューヨークジャーナルの風刺画。フィリピン人を銃殺しようとするアメリカ兵の背後には「10歳以上の者は皆殺し」と書かれています。ラインハルト様?
1898年、アメリカ合衆国の戦艦メイン号がキューバのハバナ港で謎の爆沈をとげ、乗員260名が死亡しました。新聞社はスペインの仕業と扇動し、「メイン号を忘れるな」の合言葉が武力介入の世論を導きました。あれトンキン湾事件?
これに対してアメリカ議会は武力行使を決議、スペイン軍を蹴散らしプエルトリコを占領、同じ時期に独立革命が起きていたフィリピンでは香港にいた艦隊がマニラ湾でスペインを撃破しました。
1898年12月にパリで結ばれた講和条約でアメリカはスペインにキューバの独立を認めさせ、フィリピン・グァム・プエルトリコを割譲させました。
その際アメリカはキューバの独立を認める条件としてキューバへの干渉権、海軍基地の設置、キューバの他国との条約や借款の制限などを認めた8項目の「プラット条項」をキューバ憲法に付記することを求め、1902年に5月にキューバ憲法にこのアメリカの修正条項が加えられて成立し、キューバ共和国の独立が実現しました。
プラット条項は1934年に廃止されましたが、その後もアメリカ資本によるキューバ経済支配はカストロの革命まで続きます。1903年の互恵通商条約で設けられたアメリカ海軍のグアンタナモ基地は、イラク戦争の捕虜を虐待したことで問題になりました。
収容施設の一つ「キャンプ・デルタ・ワン」
最低限の被害で多くの利権を得たことから、国務長官ジョン・ヘイは米西戦争を「素晴らしい小戦争」と呼び、戦争の結果中国大陸進出が見えてきたので、彼の名義で1899年から1900年にかけて「門戸開放宣言」が出されました。
騎兵隊が「未開地を文明化する」という名目で先住民を迫害したアメリカ合衆国は、今度は軍艦を派遣して「自由貿易を擁護する」という大義を掲げて東アジアに進出します。いわばアメリカ流自由貿易帝国主義ですが、米西戦争は露骨な帝国主義政策なので、これを「大いなる逸脱」という人もいます。うーん?
*発展:パナマ運河についてのよくわかる解説。ゆっくり土建図鑑より
1977年にカーター米大統領とパナマの間で条約が交わされ、米国は政府機関の「パナマ運河委員会」を通じて1999年末まで運河の管理、運営、維持を行い、それ以後はパナマ政府に運河が移管されました。移管の式典にはカーター元大統領も出席しました。
閘門(水門)で仕切ったドックに注水・排水して水面の高さを調節することで、船を昇降させます。
参考
https://www.panama.emb-japan.go.jp/jp/panama-canal/
まとめ
- 資本主義の発展は不均等。後発資本主義で植民地のないドイツは植民地再分割を求めるが英仏の厚い壁に跳ね返される
- ロシアは外資で産業革命を達成するが、その基盤は農民の飢餓輸出と底辺労働であり、その足腰の弱さは第一次世界大戦の総力戦で致命傷になる
- アメリカは広大な国内市場を背景に、工場労働者を受け入れて農業と工業を両立させる。そのパワーは国内市場統一後はカリブ海や太平洋・東アジアに向かう