ぶんぶんの進路歳時記

学習方法、進路選択、世界史の話題について綴ります

自宅待機中の自習プリント(帝国主義の時代①)

はじめに

 入試は近づいてくるのに家庭学習が長引く一方、世界史では1870年以降覚えることが急激に覚えます。しかもこの範囲は入試頻出です。

 今回は2回に分けて「帝国主義の列強の様子」を整理します。

 今回の問いは「なぜ列強が世界進出するの?」です。

ベースとなる参考図書 

教科書(実教出版帝国書院、東京書籍、山川出版社

資料集(帝国書院、浜島書店)

一般書(山川出版社『詳説世界史研究』『世界近現代全史』『もう一度読む世界現代史』、ミネルヴァ書房『西洋の歴史近現代編』『新しく学ぶ西洋の歴史』)

最近の研究成果紹介

 図版は断りがない場合はウィキメディアコモンズパブリックドメインのものです。

 

1 帝国主義

① 第2次産業革命

(1    )と(2    )が動力源、(3     )工業などが中心

設備投資には巨額な資本が必要→銀行と提携した巨大企業の登場

資本集中 独占資本の形成

(4    ):企業の協定

(5    ):同業種の合同…例:ロックフェラー(石油)

(6       ):銀行を頂点に異業種を傘下に収める

② 植民地の重要性

商品市場、資本市場、資源の供給地、移民、ナショナリズムのはけ口

1870年代の不況→1880年代,アジア・アフリカに殺到、勢力圏を確定

③ 世界の一体化

ヨーロッパの文明の優越意識、軍事力の優越

交通…(7     )、国際運河、冷凍船

情報手段…電信網、海底(8      )、無線

④ 列強の対立

先発資本主義…イギリス・フランス 植民地豊富も経済力は下降

後発資本主義…ドイツ 重工業化進展も植民地が少ない→再分割要求

⑤ 国民統合

国民を生産や軍隊に動員 失業は移民で解決→国内の民主化進展

空欄

1    石油
2    電力
3    重化学
4    カルテル
5    トラスト
6    コンツェルン
7    蒸気船(汽船)
8    ケーブル

補足

① 第二次産業革命

 近頃「society 5.0」とかいう粗雑な議論が流行しているようですが、19世紀末のヨーロッパ各国では製鋼・冶金・石油(化学)・電気を中心とする第2次産業革命と呼ばれる技術の革新が大規模に進行し、それによって交通・運輸・通信手段などが大変革を遂げ,ヨーロッパ帝国主義諸国による軍事的・政治的世界支配を可能にしました。

 中でも重大な技術革新は石油と電力です。

 石油は19世紀中頃まではもっぱら灯油として利用されていたが,しだいに燃料油として注目され,とくに内燃機関が発明されると、ガソリンは20世紀初めには世界の主要なエネルギー源になりました。

 石油はまたその成分の分離・合成によって肥料・染料などの有機化学製品の原料にもなりました。リービヒはドイツの資本主義の発達を背景に肥料の科学的解明と有機化学の研究を進め、これが19世紀の後半から20世紀初めにかけての染料(合成薬品もここから生まれる)や肥料合成の基礎を形成しました。

 電気の分野における技術革新を見ると電気はまず電信に使われ,その後,電灯・照明・送配電・電動力(モーターの応用)の順で革新がおこりました。

 実用的な電信機は1830年代に発明され,鉄道網の普及とともに電信網の整備が進み、1851年には英仏海峡に海底電信線が敷設され,大西洋横断海底電信線も1866年に成功しました。

 この電信網によるネットワークは政治・軍事・商取引(今の電子決済の走り)などに利用されただけでなく、電信網を使って通信社が世界各地の最新のニュースを配信できるようになりました。1876年にはベルが電話を発明、最初船舶用であった無線技術もそののちラジオなどに応用され、「情報」が大きな価値を持つようになります。

Image of the All Red Line as drawn in 1902 or 1903

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 次に電灯照明の実用化です。電信機はわずかな電力で稼働しますが、電灯照明は大量の電力とその安定供給が必須です。ドイツのシーメンスジーメンスは1866年頃に自励発電機を発明し,巨大な電力需要を賄う大電力の発生を可能にして電気エネルギーの実用化への道をひらきました。

イラクにあるシーメンスの変電機 米軍が職務で撮影したのでパブリックドメイン

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② 帝国主義と人間の移動

 「帝国主義」とは,19世紀末から20世紀初めにかけて、各国(ヨーロッパ諸国およびアメリカや日本)が支配地域の拡大を目指して世界を分割したことを指します。

 ヨーロッパ主導の「世界の一体化」は,16世紀初めのヨーロッパの「大航海時代」に始まり、重商主義産業革命の時代を経て帝国主義の確立とともに完成しますが、帝国主義を支えたのはまず鉄道・船舶、電信のような運輸・通信技術の飛躍的発展、それに伴って急増した原料・商品など大量の物と人間の移動でした。

 この時期、世界の鉄道網のめざましい延長、大型蒸気船の増加、オーストラリアから食肉を運ぶ冷凍船の開発などがあり、世界の貿易額は1860~1910年の間に4倍以上増加しました。

参考

https://www.seijo.ac.jp/pdf/faeco/kenkyu/110/110-akasi.pdf

 それに伴って大規模な人口の移動が発生し、特にヨーロッパ大陸から新大陸への人口移動は大きく、1860~1920年のヨーロッパからの海外移住者の総数は3500万人で、そのうち2400万人がアメリカ合衆国に渡りました(実教出版の教科書)。

 また南・北アメリカ,東南アジア,アフリカの鉱山や農園の開発,鉄道建設を支えたのがインド人や中国人の出稼ぎ労働者で、その数は数百万人以上と言われています。

 こうして中心の工業国、それに支配される周縁である植民地・従属国、そのはざま(半周縁)で中心をうかがう新興工業国という帝国主義の基本構造ができあがります。

3 帝国主義の様々な要因

 高校世界史では「帝国主義」概念の元祖であるホブソン(英)とレーニン(露)に基づいて「経済的要因」から帝国主義が語られるのがオーソドックスです。

 ヨーロッパ諸国がおおむね産業革命を達成し、資本主義社会が成立します。資本主義はさらなる利潤を求めて各国は国内で余った資本の投資先や製品の輸出市場、原料の供給地を求めます。

 特に1870年代に大不況が発生するとその傾向が強くなり、さらに先述の第二次産業革命で重化学工業が発達すると、巨額な資本が必要になったため資本の独占が進み、企業に資金を提供する銀行資本と産業資本が融合し(金融資本)、彼らに支配されたヨーロッパ諸国が余剰資本の投下先を求めて植民地の獲得に乗り出す、という感じです。

 しかし経済的利害だけで帝国主義を説明するのは無理があります。

 例えばイギリスの海外貿易の主たる相手はカナダ・オーストラリア・インドで19世紀末以降新たに獲得された領土ではありませんし、ヨーロッパ各国の長期投資もそれぞれの国の植民地だけに集中していたわけではありません。「ここ何に使うん?」という植民地もあります。

 他の説明としては、各国が世界の中で地位の向上や外交上の優位を追求する(マウント合戦?)外交的な要因が古くから言われます。

 また産業革命で労働者が増加し(特に第二次産業革命では教育を受けた労働者が必要)、彼らの政治的自覚が高まり労働運動や社会主義運動が活発化します。

 そうなってくると政府も経営者の肩ばかり持つわけにはいきません(どこかの政府はコロナ禍でも業界(以下略))。

 国民国家には「凝集力」が不可欠です。国民が国家に帰属意識を持ち、生産・消費を回し(国民経済)、戦争に行ってもらう(国民軍)必要があります。今からすれば「スズメの涙」程度ですが、社会保険制度や参政権も順次拡大します。

 そういう中で帝国主義は、雇用を確保するなど社会改良の方策(社会帝国主義)、「俺の国は領土がでかくて格好いい」というナショナリズムによる「不満のはけ口」、という側面から考察可能です。

 特に19世紀後半には人種間の差異を科学的に証明し正当化しようとする人種思想が出現し、非ヨーロッパ人をヨーロッパ人より劣った存在と見る認識が広まり、それが植民地支配を正当化したことは否定できません。

「ヨーロッパの諸国民よ、諸君らの最も神聖な宝を守れ」。バリバリの黄禍論者ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の図案をもとにヘルマン・クナックフースが描いた、日本や清朝に対する警戒心を表した寓意画

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 以上を踏まえて、ヨーロッパ各国の帝国主義の時代を、a)資本主義の特徴、b)対外拡張政策。c)国内改革の3点から整理します。

*発展:なおこの帝国主義の解釈はいずれもヨーロッパ側からだという批判もあり、非ヨーロッパ側から考えるとどうなるかという論考もあります。

 

2 列強の資本主義・対外拡張・国内改革

① 先発資本主義国 イギリスとフランス

イギリス

a)資本主義

工業力は相対的に低下 「世界の工場」から「世界の銀行」へ

b)対外拡張

19世紀前半:自由貿易帝国主義不平等条約で市場開放

19世紀末:社会帝国主義…領土拡大で国内問題を解決

[9      ](保守党)スエズ運河株買収(1875)インド帝国(1877)

[10       ](植民相):南アフリカ戦争(1899~1902)

白人植民地の自治領化

(11     )(1901)・(12     )(1907)・南アフリカ連邦(1910)

c)国内改革

1906年 (13    )党の成立…社会主義を目標,漸進的な改革を志向

→(14        )設立(1900)

 [15   ]夫妻、バーナード=ショーらの(16      )協会

 ケア=ハーディーの独立労働党などが合同

自由党内閣の改革

1911年    国民保険法の制定 

1911年 (16    )法の成立

 海軍拡張のためロイド=ジョージが富裕層への課税を要求 下院の優越

1914年 アイルランド(17    )法成立

第一次世界大戦勃発で実施延期

 イングランド系が多い北部(18     )地方の反対

  (19      )党はアイルランド独立主張

 1916年 イースター蜂起

フランス

a)資本主義

農民が多いので資本主義の進展は緩慢→ロシアへの資本投資

b)対外拡張

ドイツに敗北→対外拡張で国民意識を高揚させる

1880年代:インドシナ・アフリカに植民地形成(ジュール=フェリ)

1890年代以降:外交的孤立を脱する 露仏同盟、英仏協商

c)国内改革

第三共和政 ドイツへの復讐心とフランス革命で国民統合

(20     )事件(1887~89)右翼のクーデター未遂事件

(21     )事件(1894~99)ユダヤ人将校の冤罪

→国論を二分 反セム主義 ゾラ『私は弾劾する』

1905年 (22     )法 国家の宗教的な中立

労働運動:(23       )

労働組合ゼネストなど直接行動で社会革命を実現する

1901年 急進社会党:クレマンソーら 共和主義 私有財産制擁護

1905年 フランス(24    )党:政党中心の労働運動

空欄

9    ディズレーリ
10    ジョゼフ=チェンバレン
11    オーストラリア
12    ニュージーランド
13    労働
14    労働代表委員会
15    ウェブ
16    フェビアン
17    議会
18    自治
19    シン=フェイン

20    ブーランジェ
21    ドレフュス
22    政教分離
23    サンディカリズム
24    社会

補足

① ジェントルマン資本主義?

 イギリスは19世紀以来大量の食糧や工業原料の輸入のため常に貿易赤字(入超)の状態で、その赤字は海運業や保険業の黒字でカバーされていました。

 19世紀末になるとアメリカやドイツが工業化して、一次生産物を特に英領インドから購入するようになり、英領インドはその黒字でイギリスの工業製品を輸入による赤字を埋めていました。これを「多角的決済」と呼びます。

 イギリスの工業製品はヨーロッパでは売れず、インド・西アジア・東アジアが主な輸出相手になり「世界の工場」ではなくなりますが、貿易の決済はポンド(スターリング)手形でなされます。

 またイギリスは海外諸地域への証券投資(鉄道事業や公共事業)を積極的に行い、20世紀にはその利子や配当金で貿易赤字を埋めていました。

 つまりイギリスは「世界の工場」から「金融、サービスの中心地」に脱皮し、国際経済での地位を保ちました。その象徴がロンドンのシティであり、資金を提供していたのがジェントルマン階級でした。

② 公式の帝国と非公式の帝国

 帝国主義は主に1870年代以降の対外膨張政策を指しますが、1953年にロビンソンとギャラハーが発表した「自由貿易帝国主義」では、帝国を「非公式帝国」=名目上は独立国家だが経済面を中心に外国に支配されている領域と、「公式帝国」=植民地など法的に宗主国に従属した領域、に分類しました。

 つまりイギリスは19世紀後半に帝国主義に目覚めたのではなく、19世紀を通じてイギリスは対外拡張に積極的であり、「非公式」か「公式」かはその時々の政策判断で決まると考えます。

 これを使うと、中国は腐った清朝を存続させて不平等条約で好き勝手するのが得策、インドは貯金箱なのでがっちり植民地化、エジプトは最初は金を貸す関係だったけどスエズ運河が開通して戦略的観点から保護国化、カナダやオーストラリアはコスト削減のために自治領化、と高校世界史の泣き所(笑)がすっきり説明できます。

③ 第三共和政の闇

 1870年代後半、フランス第三共和政の政権についた共和派は,オポルチュニスト(日和見主義者)体制と言われる穏健な政治路線をとっていました。

 これに反対する勢力として,共和派の急進派,また王党派やボナパルト派からなる右翼,さらに社会主義者アナーキストからなる左翼がありました。

 フランスは植民地獲得に積極的で、住民の抵抗運動は徹底的に弾圧する不寛容さでは頭一つ抜けていたのは、膨張政策がドイツに敗北したフランス人が一致団結できる「ナショナリズムのはけ口」だったのかもしれません。

 オポルチュニスト体制に対する不満を吸収する役目を果たしたのが、陸軍の将軍であったジョルジュ=ブーランジェでした。彼は1886年陸軍大臣となり、ドイツに対する強硬姿勢を主張して一躍国民的な英雄になりました。

 ブーランジェは議会の解散と憲法改正を要求し,1888年以降フランス各地の国会議員補欠選挙に立候補して,当選すると辞退を繰り返しました。

 1889年、パリの下院議員補欠選挙に勝利したとき,ブーランジェに独裁権力を与えようとする運動は最高潮に達しました。しかしブーランジェはクーデタによる政権奪取を決断できず,共和派政府が反逆罪で逮捕しようとするとベルギーに亡命しました。

 取り残されて落胆した運動は一気に瓦解し、2年後、ブーランジェは愛人の墓の前で拳銃自殺しました。

 フランスの国論を二分したドレフュス事件の始まりは1894年、パリのドイツ大使館から盗まれたドイツ人武官宛ての差出人不明の手紙にフランス陸軍の機密文書名が列記されていました。

 不完全な筆跡鑑定から犯人をユダヤ人で参謀本部付き砲兵大尉のドレフュスと断定したパリ警視庁と軍部は、非公開の軍法会議で本人の否定にもかかわらず終身禁固刑を言い渡し,南米ギアナ沖の悪魔島に送りました。

ドレフュス大尉の不名誉な除隊を描いた挿絵 出典 http://expositions.bnf.fr/zola/images/z385.jpg

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 1896年,今度はドイツ武官からスパイに宛てて書かれた手紙をフランス側が盗み出したところ、スパイの名は陸軍の別の少佐、先の手紙の筆跡ともほぼ一致しました。

 陸軍情報部長の中佐は調査結果を報告してドレフュスの冤罪を主張しましたが,軍部は同中佐を左遷してもみ消そうとしました。さらにドレフュスの家族が真犯人の少佐を告発すると,軍部は形式的な軍法会議で少佐に無罪判決を出しました(1898年。少佐はのち自殺)。

 ドレフュス擁護の世論が沸き上がり、この判決の2日後,ゾラは『オーロール』紙上に大統領宛ての公開弾劾文「私は弾劾する」を掲載しました。

 1899年にようやくドレフュスの再審裁判が開かれましたが,再び軍法会議は有罪判決を下し、大統領特赦という形でドレフュスを釈放しました。

 名誉回復を求めるドレフュスらはなおも7年間にわたって再再審を要求し、ようやく再再審が行われて無罪判決・名誉回復(軍に復帰)がなされたのは事件発覚から12年後の1906年でした。

 つまり権力者は自分の誤りを認めない、嘘を嘘で塗り固めようとする、その時にユダヤ人への反感(反セム主義)を利用し、政府応援団がその尻馬に乗ったわけです。他人ごとではありません。 

参考『世界の歴史 13 帝国主義の時代』中山治一、中央公論社(1975年)文章がアツい。

④ 政教分離法 1905年

 フランスではフランス革命以来カトリック教会を政治から排除しようとして(反教権主義)ローマ=カトリック教会とやりあってきました。しかし保守派とカトリック教会が結びつき、特に学校はカトリックの聖職者が抑えていました。

 第三共和政下の1880年代、初等教育の場で「無償・義務・世俗化」原則を導入する法律が制定され(フェリー法)、公教育から聖職者が締め出されます。これに対してローマ教皇が反発し、信仰心の厚い地域では流血事件にまで発展しました。

 この争いは次のローマ教皇の方針転換でいったん収束しますが、ドレフュス事件の際にカトリックの修道士が反共和主義の立場で組織的に政治介入を行ったために反教権主義闘争が再燃しました。

 政教分離法によって、信教の自由の保障、公共団体による宗教予算の廃止、聖職者の政治活動の禁止、宗教行事の公的性格の剥奪、教会財産の管理と組織運営は信徒会に委任するなどが決められ、信仰は完全に私的領域に限定されることになりました。

参考

https://core.ac.uk/download/pdf/148076721.pdf

 このカトリック教会との血みどろ?の争いから生まれた政教分離法は、現在生活と信仰が一体化しているムスリム移民の拡大で論議を呼んでいますが、単なる政教分離にとどまらず、人権や社会について深く考える機会かもしれません。

参考

https://www.l.u-tokyo.ac.jp/philosophy/pdf/eth03/L'affare_du_Fouland_a_l'ecole_public_en_France.pdf

 

まとめ

  • 第二次産業革命による資本の集積と、交通や通信技術の革新で世界が「狭く」なったことが、ヨーロッパ列強の対外進出を促進した
  • 帝国主義の要因は、ヨーロッパ側からは経済的、外交的、政治的要因から考えることができるが、いずれも「国民国家」の運営が背景にある
  • 各国の帝国主義の発展は、資本主義のあり方、19世紀時点での海外領土の有無、国内政治のあり方でバリエーションがある