ぶんぶんの進路歳時記

学習方法、進路選択、世界史の話題について綴ります

自宅待機中の自習プリント(ロシア革命)

はじめに

 入試は近づいてくるのに家庭学習が長引く一方、世界史では1870年以降覚えることが急激に覚えます。しかもこの範囲は現代に直結する部分で入試頻出です。

 今回は「ロシア革命」を整理します。

 今回の問いは「ソ連社会主義は総力戦の双子の弟?」です。

ベースとなる参考図書 

教科書(実教出版帝国書院、東京書籍、山川出版社

資料集(帝国書院、浜島書店)

一般書(山川出版社『詳説世界史研究』『世界近現代全史』『もう一度読む世界現代史』、ミネルヴァ書房『西洋の歴史近現代編』『大学で学ぶ西洋史近現代編』)

図版は断りがない場合はウィキメディアコモンズパブリックドメインのものです。

青木先生の実況中継は講義本の草分け。とくに旧版のロシア革命の回が濃い。

動画

www.nhk.or.jp

目次

 

1 ロシア革命

① ロシア二月革命三月革命

背景

 第一次世界大戦に参戦も総力戦に耐えられない

 都市への食料・燃料供給低下 戦争反対の機運高まる

 中央アジアの諸民族の反乱(1916)

契機

 1917年3月 (1       )で大規模なデモやストライキ発生

 労働者・兵士のソヴィエト…[2      ]の退位…(3      )朝滅亡

経過

 臨時政府(立憲民主党 リヴォフ公)

 ソヴィエト(メンシェヴィキ 社会革命党)二重権力状態 戦争は継続

 ウクライナフィンランド…民族革命の進行

 1917年4月 ボリシェヴィキの指導者[4      ]の帰国

 →「(5     )」発表 即時講和 すべての権力をソヴィエトへ

 臨時政府 [6      ]政権(社会革命党)ボリシェヴィキを弾圧

 コルニーロフ将軍の反革命ボリシェヴィキが鎮圧 勢力拡大

② ロシア十月革命(十一月革命)

1917年11月7日 レーニントロツキーボリシェヴィキ武装蜂起

全ロシア=ソヴィエト会議…新政権成立を宣言

「(7     )に関する布告」…無併合、無賠償、民族自決

「(8     )に関する布告」…地主の土地を没収

空欄

1    ペトログラード
2    ニコライ2世
3    ロマノフ
4    レーニン
5    四月テーゼ
6    ケレンスキー
7    平和
8    土地

補足

① 総力戦に耐えられない

 ロシアは19世紀以来、バルカン半島中央アジア中国東北部に出兵を繰り返し、国内でもめ事が生じると外部との戦争で目をそらさせることが常態化していました。

 第一次世界大戦前もロシアでは労働争議が相次いでいました。おそらく今回も同じ感覚でドイツと開戦したのかもしれません。実際に開戦によって愛国心が高まり、労働者や農民の蜂起はいったん沈静化しました。

 しかし戦争は工業国のドイツですら備蓄してあった弾薬を2ヶ月で使い切るぐらいの総力戦・消耗戦になり、経済の足腰が弱いロシアは耐えらなくなります。

 1915年頃から戦局は不利になり、開戦から2年間で百万人にのぼる犠牲者を出しました。兵士の士気は下がり、逃亡(新兵の多くは農民からの徴用)が相次ぎました。

 国内では兵器生産を優先したために経済のバランスが崩れて物資が不足し、ストライキやデモが頻発しました。1916年には事態はさらに悪化します。戦場に兵士や物資を輸送することを優先したため鉄道輸送が滞り、都市での食糧難が発生します。

 1917年2月23日(グレゴリウス暦3月8日)、国際婦人デーの日に食糧を求める女性工場労働者のデモが始まり、失業者やに男性労働者が合流して、デモはペトログラード(ドイツと戦争しているのでペテルブルクをロシア語風に改名)全域に広がります。

出典 http://www.marxists.org/francais/broue/works/1971/00/broue_all_06.htm

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 この蜂起に軍隊も加わり、各地でソヴィエトが結成されます。この時期ソヴィエトを指導していたのはメンシェヴィキや社会革命党で、兵士や労働者がソヴィエトに集まりました。

 3月2日、ニコライ2世はドゥーマ(国会)と軍の意向に従い退位、ロマノフ朝は滅亡しました。これを二月革命グレゴリウス暦三月革命)といいます。

 大戦とロシア革命の影響はロシア周辺部にも及びます。1917年にはフィンランドウクライナが、1918年はポーランドバルト三国、ザカフカースが独立を宣言します。1916年には中央アジアカザフスタンで反乱が発生しました。

② 要求を実現するには政権奪取しかない! 

 臨時政府は言論出版の自由を認め、民族や宗教による差別を撤廃するなど自由主義的な改革を打ち出しますが、連合国との関係を重んじて戦争は継続したので民衆の支持を得られず、ソヴィエトとの二重権力状態になります。各地で従来の支配体制が崩壊し、首都は食糧難とインフレーションに悩まされます。

 この時スイスに亡命していたレーニンがドイツ参謀本部が手配した「封印列車」で急遽ロシアに帰国し(ロシアを中から揺さぶる目的。イギリスのアラブ支援と同じ)、臨時政府を否定しソヴィエト権力の樹立を骨子とする「四月テーゼ」を発表しました。

 一方臨時政府はソヴィエトにいた社会革命党右派のケレンスキーを陸海軍大臣にします。ケレンスキーは実権を握ると戦争継続を主張、7月に労働者の戦争反対デモが発生するとこれを弾圧して臨時政府の首相に就任します。

 この時ボリシェヴィキは弾圧を受け、レーニンフィンランドに逃亡します。

 しかし8月に軍の司令官コルニーロフが反旗を翻し首都に迫ると、それを鎮圧する力がない臨時政府はボリシェヴィキ武装を許し(赤軍)、事態を収拾します。

 こうして臨時政府は求心力を失い、10月に再びロシアに戻ってきたレーニントロツキーは首都での武装蜂起を計画します。党中央委員会の中には反対するものもいましたがレーニンは押し切り、トロツキーが労働者の武装化を進めます。

 10月25日、ボリシェヴィキ武装蜂起を決行、駅・通信局・銀行など重要拠点を押さえ、冬宮を制圧してケレンスキー以外の臨時政府のメンバーを逮捕しました。

 同日深夜、冬宮でソヴィエト大会が開催されました。メンシェヴィキや社会革命党右派はボリシェヴィキの非合法クーデタを非難して退席、残ったものでソヴィエト権力の樹立を宣言、無併合・無賠償の即時講和をうたう「平和に関する布告」と、地主や皇族の土地を取り上げ農民団体に分配する「土地に関する布告」を採択しました。

 革命が進行するなかで、7月の労働者の蜂起のような民衆の自然発生的な暴動に限界が見えてきました。民衆側は革命の「前衛」であるボリシェヴィキに期待し、ボリシェヴィキも大衆運動では権力奪取ができないので武装組織を作って暴力によるクーデタを目指します。その結果が十一月革命(ロシア暦十月革命)です。

 

2 ソヴィエト連邦の成立

③ ボリシェヴィキの一党支配

憲法制定議会選挙で(9      )が第1党に

1918.1 ボリシェヴィキ憲法制定議会を封鎖 一党支配体制(1918年後半)

1918.3 (10         )条約…外務人民委員[11      ]が交渉

 不利な条件でドイツと休戦(ドイツ敗北後に無効宣言)

共産党と改称…首都(12      )

地主からの土地の無償没収と農民への分配

工業・銀行・貿易の国営化や国家管理

1919年 (13      )の結成(モスクワ)

 世界革命を支援 アジアの民族運動にも働きかけ(国共合作など)

④ 干渉戦争とソ連の成立

1918年 干渉戦争

 チェコ兵救出を口実に英仏米日等が出兵 日本の(14    )出兵

(15    )の増強、(16     )(非常委員会)設置…反革命の取り締まり

(17      )主義→企業の国営化、食糧の強制徴発

 →農業や工業生産力低下

1921年 (18      )の実施

 一定の範囲での資本主義経営・市場経済の復活→国民経済の回復

1922.10 日本軍、シベリアから撤退

1922.12 ソヴィエト社会主義共和国連邦

 ロシア・ウクライナ・(19     )・(20     )の4共和国

1924.1 新憲法公布

空欄

9    社会革命党
10    ブレスト=リトフスク
11    トロツキー
12    モスクワ
13    コミンテルン
14    シベリア
15    戦時共産
16    赤軍
17    チェカ
18    新経済政策
19    ベラルーシ
20    ザカフカース

補足

① 平等な社会を暴力と監視で実現する?

 ペトログラードでの革命後、モスクワもボリシェヴィキが掌握します。とはいえ街中では労働者や旧官庁職員がストライキサボタージュ武装蜂起に抵抗、民衆は市内の商店を略奪して回っていました。そこでボリシェヴィキは1917年12月にチェカ(反革命サボタージュおよび投機取り締まり全ロシア非常委員会)を設置しました。

 この組織は「ゲー・ペー・ウー」「内務人民委員会」と名前や組織を変えながら、ボリシェヴィキ権力にとって不可欠は「暴力装置」となります。例えば政府への食糧引き渡しを拒む農民に対して「富農(クラーク)」とレッテルを貼って逮捕しました。

 この組織はソ連時代を通じて反革命、反体制派を厳しく弾圧する秘密警察として機能し、冷戦後は東欧諸国も同様の組織を作り(東ドイツのシュタージなど)人民を弾圧しました。

 さて延期されていた憲法制定会議が1918年1月に開催されました。会議では社会革命党が多数を占めましたが、ボリシェヴィキ憲法制定を求める会議支持派の代議員や民衆を武力で排除し、会議を解散させました。

 これにより広範な社会主義勢力が結集する政治体制の可能性はなくなり、ソヴィエトを唯一の権力とする独裁が成立し、当面はボリシェヴィキと社会革命党左派が権力を握ります。

タヴリーダ宮殿で開催された全ロシア憲法制定議会 謎の煙? 

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② なんでよその国の革命を妨害するの?

 ソヴィエト政権は公約の講和に乗り出します。政権内では講和に反対して革命戦争を主張するものもいましたが、最終的にレーニンが押し切り、1918年3月にブレスト・リトフスク条約を結び、ウクライナから東北部に至る広大な領土を失いました。

 さらに5月には西シベリアで本国に帰還させるためにウラジヴォストークに移送中の戦争捕虜であるチェコ兵が反乱を起こし、これを支援する名目で英・仏・米・日など10か国以上がウラジヴォストークに上陸、シベリアの反革命軍(白軍)を支援しました。中でも日本は約73000人の大兵力を送りました。

 連合国側が出兵したのは、社会主義革命が自国に及ぶことを警戒したのはもちろんですが、ドイツ軍が西部戦線に集中するのを防ぐ、帝政ロシアに多額の資金を投下しているフランスは「貸し倒れ」を避けたい、日本は日露協約でロシアと分割した満州の利権が喪失すると困る、など様々な思惑がありました。

*発展:ニコライ2世一家は当時シベリアからウラル地方のエカテリンブルクに移送されていましたが、白軍が迫る中で一家と最後まで付き従った使用人全員が殺害されました。白軍がニコライ2世を擁立することを恐れたレーニンの指示と言われています。ソヴィエト政府は真相を秘匿し続け、彼らの遺体が確認されたのはソ連崩壊後でした。

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③ 戦時共産主義と新経済政策

 内外の危機にの中でレーニンは戦時共産主義をとり、兵士を志願制から徴兵制に変え、食糧は配給制、すべての工場を国営化し私的商業を禁止するなど、徹底的な生活統制を行いました。

 とりわけ重要なのが農産物の強制徴発制でした。容赦ない割り当て徴発の取り立てで余剰まで取り上げられたので、農民は自分たちが消費する分までに生産を縮小し、農民の蜂起が続発しました。これらはボリシェヴィキの「赤色テロ」で徹底的に弾圧されました。

 最初は反革命軍が優勢でしたが次第にボリシェヴィキ側が盛り返します。農民からすればボリシェヴィキも極悪ですが、地主が帰ってくれば帝政時代に逆戻り、海外の干渉もナショナリズムを刺激します。

 同じころ同盟国側は次々と降伏し、ドイツでは革命が発生します。レーニンたちはソヴィエト政権の安定のためにはヨーロッパで革命が成功する必要があると考え、1919年に世界革命を支援するコミンテルンをモスクワで結成します。

 しかしドイツやハンガリー社会主義革命は失敗、1920年にはヴェルサイユ体制に不満なポーランドが攻め込んできて領土を奪われます。

 また反革命軍や外国軍が後退すると民衆の戦時共産主義に対する不満が爆発、タムポツ県では大規模な農民の蜂起、クロンシュタット軍港では水兵が決起します。

 これらは赤軍に鎮圧されましたが、ボリシェヴィキは方針変更を余儀なくされ、1921年ロシア共産党ボリシェヴィキから改称)第10回大会で「新経済対策」(ネップ)が採択され、納税後手元に残った余剰生産物の自由販売や、大工場や鉄道以外の私的企業が認められます。

 1921年は凶作で南ロシアで大飢饉が発生して500万人ともいわれる餓死者を出し、工業・農業とも落ち込んで破局的状態に陥りますが、翌年は豊作に恵まれ、ネップの効果も徐々に表れ、1925年から26年に戦前の生産力の水準にほぼ戻るまでになりました。

④ ロシア革命とザカフカス中央アジア

 ロシア革命は労働者・兵士による都市革命として始まり、農村の反地主革命へと発展しましたが、帝政ロシア時代に植民地として組み込まれた周辺部の被抑圧民族の戦いも忘れてはいけません。

こちらをお借りしています。

www.freemap.jp

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 ザカフカスロシア帝国内でも最も複雑な民族構成と多様な宗教分布を持つ地域で、グルジアジョージア)、アルメニアアゼルバイジャンが三大民族で、バクー油田カスピ海西の半島の付け根)はロシア資本主義発展の要でした。

 革命後各地に社会主義勢力が入り乱れて自治政府が誕生しますが、民族自決の実現は難しく、グルジア出身のスターリンはこの地をロシア共和国に統合しようとしますが、1922年の段階では三共和国が連邦共和国を作り、ソヴィエト連邦に加入しました。

 綿花プランテーションが展開していた中央アジアでは、パン=イスラーム主義やトルコ主義の影響を受けて「トルキスタン人」という意識が芽生え始めました。

 これまで徴用の義務が免除されていたムスリムに対して、ロシア帝国が1916年に大戦中の人手不足から徴用令を発すると、ムスリムの大反乱が勃発します。

 この反乱は鎮圧されましたが、二月革命で帝政が倒れると中央アジアとザカフカスムスリム民族自決による連邦共和国の実現を臨時政府に求めました。

 しかしボリシェヴィキ自治政府赤軍を使って徹底的に弾圧、「平和に関する布告」の信仰の保障や民族の自治は絵に描いた餅でした。

 その後もムスリムのゲリラ戦は続き、1924年ロシア共産党トルキスタンの分断を図ってこの地をウズベク、タジク、キルギストルクメニスタン、カザフなどの民族共和国に分割し、ソヴィエト連邦に組み込みました。

 ソ連崩壊後、これらの国々は独立を達成しています。サッカーのアジア予選でお馴染みの国もあります。

*発展:カザフ・ソビエト社会主義共和国は冷戦中の核開発の中心となり、領内にはソ連の核実験の中心地としてセミパラチンスク核実験場が、宇宙開発の中心となるバイコヌール宇宙基地が作られました。独立後、宇宙基地はロシア共和国にリースされています。

ソユーズの打ち上げ。NASAによってのみ作成されたため、米国のパブリックドメインにあります。

 出典: http://spaceflight.nasa.gov/gallery/images/station/crew-10/html/jsc2004e46228.html

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まとめ

  • 経済が脆弱なロシアは総力戦に耐え切れなかった
  • レーニンボリシェヴィキは権力を奪取するためには組織と武力が不可欠と考え、暴力で臨時政府と反対派を打倒した
  • 反革命と干渉戦争の中で、ボリシェヴィキは戦時共産主義を敷いて労働者や農民を統制した。農民を犠牲にして安い食糧を都市に供給して工業化を進めるモデルは、のちの農業の集団化に引き継がれる
  • コミンテルンによる世界革命の支援は失敗に終わり、ソヴィエト連邦はこの後スターリンのもとで一国社会主義に舵を切る
  • 第一世界大戦の中で生まれたソヴィエト=ロシアの社会主義は、一党独裁のもと戦争状態を口実に人民を管理する「総力戦モデル」となった
  • 第二次世界大戦後、東欧の社会主義政権はソ連モデルを採用したため反対運動が各国で発生し、1989年にソ連の後ろ盾を失なうとあっけなく崩壊した
  • 「食い物の恨み」を見くびってはいけない