はじめに
家庭学習が長引いて何を勉強したらいいか困ってきた人を対象に、最近入試で頻出の「遊牧民の世界」について整理します。
今回は10世紀~12世紀、遊牧民勢力がユーラシアで覇を競う様子についてです。時系列じゃないのは大人の事情です。
今回の問いは「遊牧民がいかに効率的に農耕地帯を管理するか?」です。
教科書(実教出版、帝国書院、東京書籍、山川出版社)、資料集(帝国書院、浜島書店)、一般書(山川出版社『詳説世界史研究』『世界各国史』(中国史、中央ユーラシア史)をベースにしています。
画像は断りがないものはウィキメディアコモンズパブリックドメインのものです。
参考
目次
1 11世紀のユーラシア中部~東部の地図
ぶんぶんは『世界の歴史まっぷDL』の正規会員です。お借りしました。
2 唐末・五代・北宋と遊牧民
トルコ系遊牧民は西方中央アジア草原地帯に移動 「トルキスタン」
→一部はオアシスの道をおさえる(西ウイグル国)
→一部は唐に帰順し中国山西地方へ移動(沙陀突厥)
875年 (1 )の乱→各地で節度使((2 ))が群雄割拠
907年 節度使の[3 ]が禅譲で即位。(4 )建国 都:開封
923年 沙陀・遊牧民の連合が建国し後梁を滅ぼす(後唐) 都:洛陽
→その後、(5 )・後漢・(6 )と沙陀系の王朝が続く(五代)
936年 後唐の内紛→石敬瑭(ソグド系突厥)が契丹の援助で後晋建国
→契丹に(7 )を割譲する
960年 後周の武将[8 ]が禅譲で宋建国 都:(9 )
空欄
1黄巣
2藩鎮
3朱全忠
4後梁
5後晋
6後周
7燕雲十六州
8趙匡胤
9開封
10禁軍
補足
① 沙陀突厥
沙陀はもともと西突厥に属した部族集団で、チベットが強勢になった9世紀はじめに圧迫を受けて唐に帰順し、山西省に移り住み、遊牧生活を送りながら唐の北辺防備の一翼を担っていました。
李克用は黄巣の乱を破って唐から節度使に任じられます。彼のもとにはソグド系突厥、ウイグル、チベット、漢人が集まり「沙陀連合」が形成されました(○走族みたい)。彼の配下の軍は全て黒い衣装で統一していたことから鴉軍(あぐん カラス軍)との異名があり、周りからその勇猛さを恐れられていました。
黄巣の乱後、各地で節度使(藩鎮)が自立しますが、李克用と朱全忠が二強でした。しかし策謀にたけた朱全忠は李克用を破って中原に進出、907年に唐の皇帝から禅譲を受けて皇帝に即位、開封を都に置き、国号を梁(後梁)とします。
李克用は新王朝を承認しませんが翌年急死、子の李存勗が後を継ぎます。彼は軍事的才能を発揮して沙陀を中心とする遊牧民連合を率いて盛り返し、朱全忠死後の後梁の内紛に付け込んでこれを撃破、933年に帝位につきます。彼らは唐王朝の復活を大義名分にしていたので国号を唐(後唐)、都を洛陽に置きました。
② 沙陀と契丹の対峙
李克用が朱全忠と争うちょうどそのころ、北方から契丹の耶律阿保機が攻め込んできて人口や家畜を略奪していました。
李克用は耶律阿保機に援助を求め、阿保機も共同戦線を受け入れますが、阿保機は裏切り朱全忠との提携を選びました。(´・ω・`)
後唐を立てた李存勗は軍人としては優れた才能を持っていましたが平時の統治はからっきしで、軍人の不満が強まり暗殺されました。その後内部抗争が発生し、新皇帝に反旗を翻した石敬瑭(「石」はタシケテント出身のソグド人の姓。いわゆるソグド系突厥)が敵である契丹に援軍を要請します。
阿保機はすでに亡くなっていて、第二代耶律堯骨(太宗)は援軍を出して後唐の軍勢を破り、936年に石敬瑭は契丹の後ろ盾で皇帝に即位、国号を晋(後晋)とします。契丹の軍勢が帰った後彼は洛陽に入城、翌年に開封に遷都します。
石敬瑭は援軍の見返りに燕雲十六州を契丹に譲り、堯骨と石敬瑭は父子の契りを結び(堯骨の方が年下だけど)、互いを皇帝と認めて北朝と南朝と呼び合い、後晋から契丹に毎年絹を送り、定期的に使者を往来させたり、国境線を決め互いの逃亡民の受け入れ禁止するなど盟約を結びました。
この盟約は1004年の澶淵の盟のモデルになります。
北宋を立てた趙匡胤も「沙陀連合」からのし上がった武人です。鮮卑を中心とする遊牧民、漢人の連合体から生まれた隋唐は「拓跋国家」と呼ばれますが、宋は「沙陀王朝」といえます。
2 契丹と西夏
916年 [11 ]が部族を統一
926年 (12 )を滅ぼす
936年 第二代太宗 燕雲十六州を獲得 947年 国号を遼
1004年 (13 )の盟 宋が契丹に毎年絹や銀を送る(歳幣)
統治:二重統治体制
→遊牧民・狩猟民は部族制(北面官) 農耕民は州権制(南面官)
文化:(14 )文字の使用 仏教の受容
11世紀 チベット系の(15 ) [16 ]の建国
1044年 慶暦の和議
→宋より「夏国主」の称号 宋から歳賜(銀、絹、茶)
宋と契丹の対立を利用して中継貿易で利益を得る 金とは同盟
中国の文物、制度の導入 西夏文字
契丹とは建国当初は争うが、のちに友好関係を保つ
空欄
11耶律阿保機
12渤海
13澶淵の盟
14契丹
15タングート
16李元昊
補足
① 契丹の新しさ
耶律阿保機は契丹部族の内紛を勝ち抜き、周辺諸地域の征服戦争に明け暮れる、典型的な遊牧民の長ですが、新しいタイプの遊牧王朝を作っています。
遊牧王朝は基本的に多様な遊牧民部族連合からなります。それは有事には強力な軍事力になりますが、指導者がダメな人だとすぐ内紛になってしまいます。
阿保機は「可汗」(カガン)である自分の一族を皇族とし、直系の血縁集団と通婚関係のある集団を政治の中核に据え、可汗と同族関係のある軍勢を皇帝直属の親衛隊としました。これはチンギスハンの軍団(チンギスを中心として右翼に直系の子ども、左翼に兄弟と姻戚関係のある部族の軍勢)も同じです。
*発展:この集団は「オルド」(可汗の住居(天幕i)と従臣の天幕群のこと。可汗の後宮♡も含む)と呼ばれます(KOEI の『蒼き狼と白き牡鹿』をやったことのある人にはおなじみ)。オルドはそれぞれ農耕民の住む地域(頭下州県)を与えられ、平時には馬や農産物を生産し、有事には兵隊を動員して可汗に従いました。
阿保機はまた王朝の中心部に定住農耕民を入植させ、遊牧民の活動する草原地帯に城郭都市を建設しました。
遊牧民は農耕をしないので食料は農耕民から入手します。中国王朝と遊牧民王朝は常に農耕と遊牧の境界面(北京の北から黄河が大きく曲がるオルドスに至る帯状の地帯)で 衝突を繰り返していました。燕雲十六州はまさにそれにあたります。
阿保機は農耕と遊牧の境界面にたびたび出撃して農民を誘拐し(戦乱に嫌気がさして逃げてきたものもいる)、入植地に城郭都市を築いて農耕をはじめ手工業や商業を行わせていました。「ヒャッハー!」といいながら村を破壊するのではない、安定的に食料や手工業製品を手に入れるシステムです。
遊牧民は部族を編成してそれぞれ定められた範囲で遊牧生活を営む一方、農耕民には唐の制度をモデルに州権制が敷かれました。いわゆる「二重統治」で、阿保機は漢人をブレーンにし、公文書も契丹文字と漢文の両方で作成していました。
契丹のこの複合的な支配制度によって、これまでの戦乱と分裂を繰り返した遊牧民王朝よりも安定した支配体制を築くことに成功し、その一部は金やモンゴル帝国にも引き継がれます。
契丹文化の展示会。遊牧民的な金の飾り、革袋を模した陶磁器、仏教の信仰など、グローバルワイドです。
「ヒャッハー!」の元ネタ 暴力は何も産みません。
② 西夏の国際感覚
西夏(大夏)はかつて羌と呼ばれたチベット系タングートで10世紀には陝西、甘粛を拠点にタングート連合を結成、契丹と宋の争いの狭間で時には両者と戦い、時には和睦しながら勢力を蓄えます。李元昊はオアシスの道に通じる河西回廊を押さえ、1038年に即位して国号を大夏とし、北宋を破って盟約を結びます。
両者とも同時並行で契丹と戦っているため互いに講和を急ぐ必要があり、西夏は名目上は北宋の家臣ですが北宋から銀、絹、茶など巨額な歳賜を手にし、国内で皇帝を自称することを事実上不問にしてもらいます(外交文書が夏国王でなくて夏国「主」)。
西夏の様子を描いた日中合同映画。仏教が盛んな様子がうかがい知れます。ヒロインの中川安奈さんは若くしてお亡くなりになりました。合掌。
3 12世紀のユーラシア中部~東部の地図
かなり昔、HPの方のダウンロードシステムからお借りしました。
4 マンチュリア(東アジア東北部)
[18 ]が建国 唐の冊封を受ける 文化の吸収
都城として(19 )を建設
9世紀には「海東の盛国」と称され、日本とも通交
1115年 [20 ]が部族を統合、国号を金(大金)
首都:上京会寧府
→契丹の皇族[21 ]はカラ=キタイ(西遼)建設
1126~27 (22 )の変 開封を占領して徽宗、欽宗を捕虜にする
1142年 紹興の和議
南宋が金に対して臣下の礼を取る 毎年銀と絹を払う
統治:
遊牧民は(23 )(十進法の政治・軍事組織) 華北漢人は州県制
都を燕京(現在の北京)に移す (24 )文字
宗教は放任 (25 )教(王重陽が開く 儒・仏・道の融合)
空欄
17靺鞨
18大祚栄
19上京竜泉府
20完顔阿骨打
21耶律大石
22靖康
23猛安・謀克
24女真
25全真
補足
① 遊牧民ではない女真
女真(原語の「ジュルチン」が訛って音写)は10世紀の漢文史料からみられるようになり、現在のロシア沿岸部から遼東半島に広がる複数の部族集団のことです。
この地域(ユーラシア東部)は降水量が多く、山岳や丘陵地から流れ出す川で形成されるる河谷ごとに部族集団を作り、狩猟や牧畜、農業を営んでいました。
10世紀末には契丹の支配下にはいりますがすべての女真を統治できたわけでなく、契丹の教化が及ぶ人々は「熟女真」、及ばない人々は「生女真」と呼ばれました
この「生女真」地域から契丹に真珠、朝鮮人参、金、貂皮、海東青(ハヤブサ)などが輸出されるようになり、この交易路の要衝にあった完顔部が勢力をのばし、完顔阿骨打が部族闘争を勝ち抜き、1115年に国号を金として契丹から自立します。
金の軍事力を支えたのは猛安・謀克と呼ばれる軍事組織で100~300戸を1謀克、10謀克を1猛安に編成し、戦時には戸ごとに兵士を供出する仕組みです。「猛安」は女真語で「千」を意味するので、匈奴以来の十進法による軍事組織に由来しています。
最初は女真人の部族組織でしたが、金が拡大するにつれて渤海、契丹、漢人も猛安・謀克に取り込まれ、金の軍隊もまた様々な種族から構成されていました。
また生女真地域は馬の産地として名高く、金は豊富な馬を利用して精強な騎馬軍団を形成し、その機動力で契丹や北宋を圧倒しました。
② 12世紀の多国体制
阿骨打は独立を認めない契丹の遠征軍を返り討ちにし、さらに契丹の領域に侵入すると契丹軍は総崩れになります。契丹の皇帝は逃亡しますが、阿骨打の後を継いだ弟が西夏と盟約を結ぶと逃げ場を失い、1125年に約200年間強勢を誇った契丹は滅亡します。
これに先立ち北宋は金に使者を派遣して契丹を挟撃する約束をしますが、北宋軍は全く役に立たず、契丹の敗北が決定的になってから契丹の副都で燕雲十六州にある燕京を攻めますが大敗北、結局金が独力で燕京を無血開城させます。
金は宋に燕雲十六州の大部分を北宋に返還し、北宋が契丹に贈っていた同額の歳幣および返還した燕京の税収分をもらう約束をしましたが、北宋が履行しないので1125年に出兵、翌年開封を占領し、上皇の徽宗と皇帝の欽宗を含む北宋の朝廷の約3000人を北方に連れ去り、宮廷の財宝を持ち帰りました。
その後皇帝の弟高宗ら北宋の残存部隊は江南に逃れ宋を再建(南宋)、金は何度か江南に出兵しますが南宋を攻め落とすことはできませんでした。
そのうち北方のモンゴル高原の遊牧民の活動が活発化して金は戦争継続が困難になり、同じく南宋でも秦檜ら和平派が力を得たこともあり、両者の思惑が一致して1142年に淮河を国境にする、南宋が金に臣従する、南宋が金に歳貢として銀と絹を贈るという盟約を結び(紹興の和議)、ひとまず平和共存関係が構築されました。
なお金はすでに西夏や高麗も臣従させていて、いずれも相手側から誓約書を先に出させて金が返答する形式で、紹興の和議も同じ形式でした。つまり北宋と契丹のような対等な盟約ではなく、金の方が上という明確な上下関係がありました。
こうして金は淮河以北の農村地帯を手に入れ、首都を上京会寧府から燕京に移し、新しい都城を建設して「中都」と命名します。女真王族はほぼすべて華北に移住し、金の軍事力も多くが華北に移動しました。しかしその後の南宋攻めはことごとく失敗、その間にモンゴル高原で新しい勢力が台頭します。
一方敗北した契丹の耶律大石は途中遊牧勢力を集めながら西方に逃れ、カラハン朝の首都ベラグサンを攻略し、ここでハンを自称して自立します(西遼 カラ=キタイ)。
その後カラ=キタイは西はサマルカンドに進出、東は西ウイグル国に代官を送って間接支配するなど、モンゴルが台頭するまで約80年間東西トルキスタンを支配します。
*発展:秦嶺山脈と淮河を結ぶ線は年間降水量1000mmの等量線と一致することから「チンリン・ホワイ線」と呼ばれ、一般的にこの線より以北が小麦地帯、以南が稲作地帯とされています。
まとめ
- 遊牧民王朝は単一の遊牧民からなるのではない。様々な部族の連合かつ別の遊牧民集団や農耕民も包含する多様な連合体である
- 契丹は皇帝の血統を中心に親衛隊を編成したり、農耕民を遊牧民とは別の方法で管理するなど安定的な統治システムを構築し、それは後の王朝にも引き継がれる
- 10~12世紀には王朝がユーラシアで並び立ち、それぞれが内政や軍事力を整え、他の王朝の状況を冷静に観察しながら戦争と同盟を繰り返した
- 13世紀のモンゴル帝国は、こうした多様性や新統治システムを引き継ぎつつ、戦乱になりやすい多国体制を精算して「モンゴルの平和」を実現する