ぶんぶんの進路歳時記

学習方法、進路選択、世界史の話題について綴ります

国公立・私大世界史直前チェック(東アジア近現代史4朝鮮半島)

 2020年度の入試問題を見ると朝鮮半島関連の出題が見られます。

 東アジア近現代史、第4回は朝鮮半島が舞台です。

 これまでの教科書、資料集に加えて山川出版社の『各国史』も参考にします。

過去回

bunbunshinrosaijki.hatenablog.com

戦後はこちら

bunbunshinrosaijki.hatenablog.com

 

1 朝鮮王朝の成立と動揺

建国:1392年:高麗の将軍[1    ](倭寇と争う)が建国

       首都(2     )(漢城、現ソウル)

社会:明の制度導入。科挙を整備し,(3    )を官学化

   15世紀前半…銅活字による印刷

         [4     ]:(5     )制定

        (官僚層は漢字使用 「諺文」と呼ばれ普及せず)

   15世紀末『経国大典』…法体系

   16世紀 (6     )が官僚を世襲し、門閥貴族化

混乱 (7   ・   )の倭乱(1592~93,1597~98)

    →文禄・慶長の役 豊臣秀吉の軍が朝鮮に侵入

     [8     ]の抵抗(亀甲船)、明の援助

   17世紀 江戸幕府と関係修復→将軍の代替わりに朝鮮通信使

   1637年 清の冊封を受けるも清を夷狄視

       →自ら正統な中華の継承者と自負(小中華

        中国以上に儒教的価値観が厳格に守られる

   18世紀以降 有力家門による政権独占と党争

   1811~12 [9     ]の乱…大規模な農民蜂起

補足

 朝鮮王朝は清朝に対抗して「小中華」意識を強めます。徳川幕府の「カピタン(オランダ商館長)江戸参府」はまさに「朝貢」、ベトナム阮朝)もカンボジアラオスに優越意識を持っていました(これがカンボジア内戦にも影響します)。

 「ローカル版中華思想」は東アジアのビジネスモデルでしたが、これが19世紀にヨーロッパの対等外交の原則砲艦外交の挑戦を受けます。

 空欄

1 李成桂
2 漢陽
3 朱子学
4 世宗
5 訓民正音
6 両班
7 壬辰丁酉
8 李舜臣
9 洪景来


2 開国圧力と宮廷内の対立

① 開国

米、仏が来航し開国・通商を要求

→国王[10     ]、摂政の[11    ]が実権、鎖国政策

大院君と王妃[12    ]一族の対立→大院君排除

日本による開国

 1875年(13     )事件 日本軍艦の挑発に朝鮮側が発砲

 1876年(14       )締結

  →釜山、仁川、元山3港の開港,領事裁判権を含む不平等条約

 米、英、露、仏などとも修好通商条約を締結

 

② 宮廷内の対立と日清の干渉

1882年 (15     )軍乱 軍隊が大院君を擁立,漢陽で反乱

    閔氏一派の要人や日本人を殺害 清軍の介入で鎮圧

親清派(事大党)と[16     ]ら親日派開化派 独立党)の対立

1884年 (17     )政変

    開化派が親清派の打倒をはかるも失敗

    (18    )条約(1885)日清両国は撤兵 出兵時の事前通告

 

③ 日清戦争

契機:1894年(19      )戦争

   [20     ]率いる東学信徒と農民の反乱

   東学…[21    ]が1860年頃創始。民間信仰、儒、仏、道を融合

   戦争鎮圧に日清両軍が出勤し,開戦

結果:1895年(22    )条約

   清は朝鮮の独立を認める

   大韓帝国(1897~1910)高宗が大韓帝国皇帝に即位

影響:閔妃、ロシアに接近→日本公使、閔妃を暗殺(1895)

補足

 1866年にはアメリカとフランスが開港を求めて朝鮮近海に迫りますが、大院君政権が撃退します。朱子学至上主義の両班層は攘夷を支持します。

 18世紀後半からキリスト教天主教)が広まり、たびたび弾圧を受けます。1860年代に崔済愚は西学=天主教に対して東学を創始し、神仙思想に基づく教えを広めますが、西学ともども邪教として弾圧されます。

 攘夷の成功が保守層の妙な自信になり、日本に対しても従来の姿勢を変えません。大院君は「明治政府の外交文書に「皇」や「勅」の字が使われているのはルール違反」と受け取りを拒否します。攘夷を実行して痛い目に遭った日本との分かれ道です。

「世界の歴史まっぷ」さんの地図をお借りしました。

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 日朝修好条規は日本が結んだ不平等条約とほぼ同じですが、開港場で日本貨幣を使用する、朝鮮からの米穀輸出の自由など、後で問題になる条項もあります。

 特に米の輸出は、産業革命が進行する日本の労働者向けに拡大します。商人や地主には利益をもたらしますが、米の供給不足から米価の高騰が起こり、都市の下層民の生活を圧迫します。

*植民地支配時代には1918年の米騒動を背景に産米増殖計画が実施されます。1920年代には生産された米の4割は日本に輸出、食料不足を補うために満州から粟が輸入されるなど、まさに「飢餓輸出」です。やり手の地主は設備投資を進めて利益を上げますが、没落した中小農民は土地を手放し、日本や満州に移住したり都市に流入します。

 

 さて攘夷派は面白くありません。給与の遅配を巡って兵士が反乱を起こして大院君と攘夷派が復権しますが(壬午軍乱)、清朝の介入で閔氏政権が復活します。

 この後清朝は宗主権を強化し、閔氏政権も清朝の指導で洋式の軍隊(袁世凱が訓練にあたる)や外交通商の役所を整備します。

 一方清からの独立と内政改革を目指す金玉均ら開化派の一部は、1884年清仏戦争で清の駐屯軍が半減したのを好機と捉えクーデタを敢行(甲申政変)、中央集権的な政府の樹立を目指しますが失敗します。

金玉均。長崎での写真 日本は陰で金玉均を支援しますがクーデタが失敗すると知らんぷりします。ウィキメディアコモンズパブリックドメインの写真。
http://unsuk.kyunghee.ac.kr/jangmyun_2004/NZEO/bbs/view.php?id=gallery_km&no=25

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 下関条約で朝鮮の独立が認められ、1897年には清朝と同格であることを示すために国号を大韓とします。

 一方で日本の干渉が強まります。それに対して閔妃三国干渉を見てロシアに接近します。「夷を以て夷を制す」という中華的発想ともいえます。

 これに対して日本公使の三浦梧楼は、1895年10月の未明に景福宮を襲撃して閔妃を殺害しますが、かえって反日感情は高まります。 

空欄

10 高宗
11 大院君
12 閔氏
13 江華島
14 日朝修好条規
15 壬午
16 金玉均
17 甲申
18 天津
19 甲午農民
20 全琫準
21 崔済愚
22 下関

 

3 日本の支配と抵抗運動

① 韓国併合

日韓協約

 第1次(1904)日露戦争開戦後。日本が推薦する財政、外交顧問を置く

 第2次(1905)乙巳保護条約→外交権を奪われる(保護国

      (23     )設置(06)。初代統監[24      ]

  米(桂=タフト協定)英(第二回日英同盟)露(ポーツマス条約)

  列強が日本の韓国保護国化を承認

  →民衆の(25    )闘争(反日武装闘争)が激化(1905~)

 1907年 ハーグ密使事件(1907)

     第2回万国平和会議で保護条約の無効を列強に訴える

     →日本、高宗を退位させる

 第3次(1907)…内政権を奪われる、軍隊の解散

   →[26     ]がハルビン伊藤博文を暗殺(1909)

1910年 韓国併合

 植民地化。(27      )を設置。初代総督:寺内正毅

 (28     )政治…民族運動弾圧,土地調査事業実施

           米や綿花栽培の強制。インフラ整備

 

② 民族運動

1919年 (29     )運動

 背景:ロシア革命、ウィルソンの14か条 民族自決

 契機:ソウルで独立を求めて始まる→全国へ拡大

 結果:軍隊を動員して鎮圧

 影響:武断政治から(30     )(同化政策)に転換

    →教育制度、総督府に協力する親日派の育成

     日本向けの米の増産…農民の負担増加 

    上海で大韓民国臨時政府(1919.4)…総理:李承晩

 

③ 日中戦争第二次世界大戦

(31     )政策:日本語の使用、(32     )…日本式の氏名

日本の労働力不足…日本の鉱山、工場での労働に動員(1939~45)

         大戦末期には徴兵制実施

満州国境付近では抗日ゲリラ活動

補足

 日露戦争が発生すると大韓政府は中立を宣言しますが、日本は三度の日韓協約で韓国の主権を奪い、列強とはそれぞれの権益を承認しあいます。

 「保護国化」で外交権を奪っただけでなく、伊藤統監は韓国の大臣を統監府に呼び、そこでの会議で重要法案を事実上決定してしまいます。

 さらに1909年には韓国を植民地化することが「閣議決定」され、伊藤博文が暗殺された後「合邦声明書」を発表、主な列強の承認をとりつけて韓国を併合します。

 併合後は憲兵が一般の警察事務も行い(軍警?)、言論や出版の自由を制限するなど武断政治を行います。

 入試で出るのが「土地調査事業」です。全国の土地を測量し、すべて土地所有者を確定するとともに地価を確定して地税徴収の基礎とします。

 地主の権利が認められますが、先祖代々耕しているものの証書による裏付けがない農地、未申告の土地は国有地に編入され、後に払い下げられましたが多くは日本人が購入し、その結果小作農民の多くが農地を失いました。

 三・一独立運動の後は普通警察制度になり、地方制度では朝鮮の有力者も参加できるようになります。言論・出版規制も検閲は残るものの緩和されます。

 こうした「文化政治」は、「ガス抜き」と同時に「朝鮮の人々が日本への同化を望めば天皇の臣民として日本人と同一に扱う」という植民地主義的発想です。

1920年代から30年代にかけて朝鮮半島北部への資本投下が進み、化学工場(日本窒素、現チッソが主導)、鉱山、水力発電所が建設されました。水豊ダムは現在でも重要な電力源になっています。ウィキメディアコモンズパブリックドメインの写真。

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 この同化政策満州事変以後に強まります。

 日本は朝鮮人民族意識を抑えて(内鮮一体)戦争に動員しようとします。「皇民化政策」として神社参拝の強要、日本語教育の強化が組織的に行なわれます。

 1940年には「創氏改名」が施行され、「氏」を設定して家族全員がそれを名乗ること(中国や朝鮮半島は「姓」重視で男女は結婚しても別姓)を強要します。

 戦局が悪化すると、1943年には志願兵制度、1944年には最初の徴兵検査が実施されます。

 それ以前から朝鮮人労働者が土木工事・鉱山・軍需工場に動員されていました。

 1939年には日本人事業主が当局の許可を得て内地で働きたいもの募る「募集」、1942年には「官斡旋」(総督府内の朝鮮労務協会が対象者を募集して事業主に引き渡す)が始まります。この「公権力が直接ではなく外部団体が募集して、それに現地の人が「自発的」に応じる」は「従軍慰安婦」で論争になったことと同じです。

 1944年以降は、内地ではすでに実施されていた「国民徴用令」による「徴用」が行なわれます。 

*今問題になっている「徴用工」は、厳密には「徴用」に該当するのですが…。

www.huffingtonpost.jp

 

満州事変の戦費は日本円ではなく朝鮮銀行保有する日本円を信用にして発行した通貨(そのうち保有量を超えてジャブジャブ発行)でまかなっていました。戦争をしつづけないと通貨は紙くずです。

www6.nhk.or.jp

 

 こうした中で社会主義者キリスト教徒が抵抗したり、金日成(あの人とは別人らしい)が満州でゲリラ活動をしたりします。大韓民国臨時政府も1940年に重慶に移転して活動を続けます。

空欄

23 韓国統監府
24 伊藤博文
25 義兵
26 安重根
27 朝鮮総督府
28 武断
29 三・一独立
30 文化政治
31 皇民化
32 創氏改名

 

 駆け足の復習でしたが、お役に立てれば幸いです。