ぶんぶんの進路歳時記

学習方法、進路選択、世界史の話題について綴ります

世界史文化史直前チェック(キリスト教5 宗教改革~現代)

 難関私立大学になればなるほど出題される文化史のキリスト教編、今回は宗教改革から現代まで一気に概観します。

ヨーロッパの宗教分布 文科省の『地理総合』検定のページのスクショ

引用元

https://www.mext.go.jp/component/a_menu/education/detail/__icsFiles/afieldfile/2021/000015567/20210601-mxt_kyokasyo02-000015651_036.pdf

 参考文献は前回参照。画像は断りがなければパブリックドメインのものです。

目次

 

8 宗教改革

(1)ドイツ宗教改革

契機

メディチ家出身の教皇[1      ]

サン=ピエトロ寺院の改修資金捻出のために(2    )をドイツで大量販売

フッガー家が引き受け

1517年、ヴィッテンベルク大学神学教授の[3          ]

「4      )の論題」で贖宥状を神学的に批判

キリスト者の自由』…信仰義任説

展開

エックとの公開論争→ルター破門

(5      )帝国議会(皇帝カール5世)ルター、法律の保護外に

ザクセン選帝侯フリードリヒに匿われ新約聖書のドイツ語訳化

ドイツ農民戦争(1524)→途中から[6       ]の指導

→ルター、最初は農民に同情的→諸侯を支持

1526年 オスマン帝国のウィーン包囲

 →皇帝カール5世がシュパイエル帝国議会ルター派承認

1529年 第1次ウィーン包囲撤退後,再度ルター派禁止

 →ルター派の諸侯・都市が抗議文提出→(7     )の呼称

 →(8       )戦争

結果

1555年 (9      )の和議

 諸侯や都市はカトリックルター派かを選択できる

 領民は諸侯・都市の信仰に従う

影響

領邦教会の成立。領邦の自立促進

 

(2)スイスの宗教改革

[10     ]の改革…チューリヒで改革を開始(1523)カッペルで戦死

[11     ]の改革…(12      )で宗教改革(1541)

キリスト教綱要』

 (13    )制度…信者の代表が教会を運営 神政政治

 (14    )説…運命は予定されている→営利蓄財を是認

カルヴァン派の普及

 イングランドの(15     ),スコットランドの(16      )

 フランスの(17      ),オランダの(18       )

*マックス=ヴェーバープロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神

 カルヴァン派の思想を資本主義の勃興と結びつける

(3)イギリス国教会

[19        ]…最初ルター派を迫害

 王妃との離婚問題→カトリックからの離脱を企図

 1534年 (20      )法(国王至上法):修道院の解散、財産没収

[21      ]…国教会にカルヴァン派の教義導入,一般祈躊書(1549)

[22      ]…カトリックを復活,新教徒を弾圧

[23      ]…(24      )発布(1559)→イギリス国教会確立

(4)対抗宗教改革

1534年 (25      )会(ジェズイット教団

 スペインの[26       ]、フランシスコ=ザビエルらパリで設立

 軍隊的規律のもとにカトリックの勢力挽回に貢献 海外布教に成果

(27        )公会議(1545~63)

 新旧両派の会議として開催されるが新教側が出席せず

 カトリックの正統性と教皇の至上権を確認

 異端に対する宗教裁判所を設置 禁書目録を作成

対抗宗教改革の影響

 西ヨーロッパの北部以外はカトリックにとどまる

 旧教徒・新教徒の対立激化→ヨーロッパ各地に宗教戦争

 互いに異端審問を行い信者を規律化する…「魔女狩り」が行われる

明清へのイエズス会宣教師の派遣

 [28      ]:『坤輿万国全図』『幾何原本』

 アダム=シャール:『崇禎暦書』 フェルビースト:大砲製造

 ブーヴェ『皇輿全覧図』 [29      ]:円明園

典礼問題

 イエズス会の中国人の祖先崇拝や孔子崇拝を認める布教方法を教皇が問題視

 康煕帝イエズス会以外布教禁止。[30    ]帝:全面禁止

 布教禁止後も宣教師は宮廷で技術指導

空欄

1    レオ10世 
2    贖宥状 
3    ルター 
4    九十五か条
5    ヴォルムス 
6    ミュンツァー 
7    プロテスタント 
8    シュマルカルデン 
9    アウクスブルク 
10    ツヴィングリ 
11    カルヴァン 
12    ジュネーヴ 
13    長老 
14    予定 
15    ユグノー 
16    ピューリタン 
17    プレスビテリアン 
18    ゴイセン 
19    ヘンリ8世 
20    首長 
21    エドワード6世 
22    メアリ1世 
23    エリザベス1世 
24    統一法 
25    イエズス 
26    イグナティウス=ロヨラ 
27    トリエント 
28    マテオ=リッチ 
29    カスティリオーネ 
30    雍正帝

補足

① 贖宥状買うといいことがあるの?

 カトリック教会は、信徒の罪のうち軽微なもの(告解と聖職者の赦しなしで済む)は、教会の定めた一定の条件の苦行に従えば消滅するという解釈を、11世紀に教義に加えました。

 ウルバヌス2世が十字軍を提唱した時に、十字軍への従軍や従軍の代わりに金品を寄進することが上記に該当するとし、13世紀末にはローマの聖ペテロ・パウロ教会への参詣もそれに加えましたが、思ったほど参詣者も寄進も集まりませんでした。

 そこで時の教皇が参詣と同じ効力を持つとする贖宥状の出張販売を認めました。

 つまり贖宥状は参詣またはその支援によって罪があがなわれたことの証明書ですが、次第に販売が自己目的化、つまり「贖宥状を買えば罪が許される」という理屈で販売され、教会の収入源になりました。

 贖宥状は王権が整備されつつあった英仏では売れず、スペイン・ポルトガルでは売り上げが対ムスリム戦費に使用されたので、政治的統一が進まないドイツが市場として狙われました。いわゆる「ローマの牝牛」です。

 贖宥状の販売を代行したのがアウクスブルクフッガー家で、16世紀に皇帝や諸侯への金融の見返りに南ドイツの銀山やハンガリーの銅山の経営を独占していました。

 こうした大商人の営業独占や高利貸しに対する反発がドイツで宗教改革が一気に広まった背景と考えられます。

 贖宥状

 贖宥状の販売の様子 当時のリーフレット

② 「九十五か条の論題」は何を批判したの?

ウィキソースの「九十五カ条の論題」(英語版)の抜粋。ぶんぶんがグーグル翻訳を使いながら翻訳。

5.教皇は、自らの権限または教会法によって課された刑罰以外の刑罰を軽減するつもりはなく、また、刑罰を軽減することもできない。

21. したがって、教皇の贖宥状によって人はあらゆる刑罰から解放され、救われると主張する贖宥状の説教者たちは誤りである。

27.彼らは人に説教をしており、「貯金箱の中でグルデン金貨がチリンと音を立てるとすぐに、魂は煉獄から飛び出す」と言う。

32. 贖宥状を持っているので救いを確信していると信じている彼らは、教師たちとともに永遠に有罪とされるだろう。

36. 真に悔い改めたすべてのキリスト者は、たとえ贖宥状がなくても、罰と罪を完全に赦される権利を有する。

82. 言い換えると、教皇は、無数の魂を惨めな金と引き換えに償還するのであれば、聖なる愛とそこにいる魂の切実な必要性のために、なぜ煉獄を空にしないのだろうか。
90. 信徒のこれらの議論や不信感を、理由を述べて解決せず、力だけで抑圧することは、教会と教皇を敵の嘲笑にさらし、キリスト教徒を不幸にすることである。

94.キリスト者は、刑罰、死、そして地獄を経験しながらも、自分たちの主であるキリストに忠実に従うよう勧められるべきである。

95. したがって、平和の保証を通じてではなく、多くの苦難を乗り越えて天国に入るという確信を持ちなさい。

 「九十五カ条の論題」は1517年10月31日の夜にルターが神学教授を務めているヴィッテンベルクの教会の門に貼りだしたとされています。

 原文を見ると、89条までが信徒(ルターはアウグスティヌス修道会に所属)の「ブレーンストーミング意見集」になっていて、91条からがそのまとめになっています。

 「論題」は、贖宥状の効果は教皇権の範疇である教会法の違反には有効だが、すべての罪が赦されると宣伝して販売するのは誤り(すべての罪が赦されるには信者が真に悔い改めることが必要)、この状態を放置するのは教皇の立場を悪くするからキリスト教の教義に立ち返るべき、と主張しています。

*後にルターは贖宥状そのものを否定するようになります。

 当時南ドイツではマインツ大司教ドミニコ修道会を介して大々的に贖宥状を販売して利益を上げていました。「ラテン語で書かれた質問状を教会の門に貼る」は公開討論会の申し込みの作法です。つまりルターはドミニコ修道会との討論会を望んでいて、教皇やローマ=カトリック教会を否定する意図はなかったと考えられます。実際に彼はこの写しを地域の監督者であるマインツ大司教に送っています。

 しかし翌11月1日は万聖節の祝日でヴィッテンベルク城教会の献堂記念日、多くの民衆が中身はわからないもののルターの名前が入った貼り紙を目撃したでしょう。論題は俗語に翻訳されて印刷されたそうです。

 「九十五カ条の論題」は、ルターの「神学論争」という想定を超えて、教会やそれと結んだ大商人や諸侯に不満を持っていた人々に「教会の不正に異議を唱えるのは正義」という口実を与えることになりました。

 しかし手紙を送った大司教が一連の不正の黒幕とは、リアル時代劇です。

③ 宗教改革は史上初のメディア戦争?

 15世紀半ばにマインツの職人であったグーテンベルクがぶどうの圧搾機をヒントに活版印刷機を開発しました。初期の印刷物は宗教関係のものが多く、グーテンベルクラテン語の『42行聖書』(段組みが42行)を発行しています。

 1568年に描かれた印刷所の様子。向かって右側のレバーでインクを押し付けます。

42行聖書の冒頭

 1517年以前にドイツで出版された書物は100タイトル前後でしたが、1518~23年までの出版件数を合計すると3,113タイトルで、そのうち600タイトルがヴィッテンベルクで印刷されました。
 ルターの九十五カ条の論題もドイツ語訳されて出回り、ドイツ語の新約聖書や会衆讃美歌もベストセラーになりました。

 しかし当時のドイツの識字率は都市でも10~30%、全国的には5%程度と推定されています。宗教改革を広めたのは木版画を中心としたパンフレットです。

 贖宥状を売り歩いたドミニコ修道会のテッツェルの売り口上(「貯金箱の中でグルデン金貨がチリンと音を立てるとすぐに、魂は煉獄から飛び出す」)を批判したパンフレット。テッツェルは「免罪符を買えばこれから行う犯罪も許される」「お前の母ちゃんを煉獄から救いだせる」とも言ったとされています。

  祖先を罪から救うために金を払えってどこかで聞い…あれ、だれか来たようだ。

 チューリヒで発行された「神の水車」は、エラスムスとルターとツヴィングリがキリストのもとで小麦をパンにして(福音書を聖書にして)教皇に渡そうとするが、教皇たちは破門(バン)で威嚇するという版画で、中世の「神秘の水車」という図柄をモチーフに洒落を交えてルター派の主張を宣伝しています。

こちらを参考

④ プロテスタント

 「プロテスタント」は、カール5世が第一次ウィーン包囲後に一旦認めた再びルター派を弾圧したのでルター派諸侯や都市が「抗議書」を提出したことが由来ですが、現在はカトリック教会から分離した教会とその信徒全般に用いられます。

 プロテスタントは聖書を唯一のキリスト教の真理と考え、教皇の法令や公会議の決定の真理性を否定します。ルターは聖書の中でも特に「福音」(イエスの言行)を重視し、「人の救いはイエス=キリストによる罪の贖いや復活を信じることによってのみ得られる」とします。

 根拠は新約聖書の「神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり、信仰に至らせる。これは『信仰による義人は生きる』と書いてあるとおりである」という一節で、ルターの考えは信仰義認説と呼ばれます。

 礼拝・儀礼面では洗礼と聖餐以外の秘蹟を認めず、説教を重視します。聖書を理解するために讃美歌が利用されます(カトリックは「聖歌」)。

 プロテスタントのもうひとつの特徴は、神の前では聖職者も平信徒も同じく「罪人」であり(万人司祭)、聖職者の特権、教会財産、修道院生活を否定します。

 カトリックでは聖職者を神父、プロテスタントでは牧師と呼びます。神父はミサを執り行ったり秘蹟を行うなど特権を持ち、男性のみで生涯独身です。一方牧師は教区・教会で信仰を指導する信徒の代表なので結婚はOK、女性の牧師も存在します。
 ルターが作った賛美歌。説教を聞くより歌う方がアクティブラーニングです。

 プロテスタントの「聖書第一主義」「万人司祭」「俗語の利用」「儀礼の簡略化」は中世の「異端」とされた信仰の延長線上にあります。

 ただしプロテスタントは会派によって聖書の解釈が異なります。カルヴァン派ルター派がすべての人は救われるのに対して、救われるか否かは予定されている(予定説)を説き、教会組織はルター派が俗権と協調して領邦教会を作ったのに対し、会衆から選出された長老と牧師が教会を運営します(長老主義)。

 イングランド国教会はヘンリ8世のスペイン王女との離婚問題など政治的な理由から行われたため、国王がイングランド教会の最高責任者として主教(司教)の任命権を持つなど組織はカトリック的で、教義や儀式は両派の影響を受けています。

 プロテスタント修道院を否定するので、ヘンリ8世はこれ幸いとばかりイングランド修道院を解散させ財産を没収、議会も議員立法で王の方針を追認しました。この後国王はフランスやスコットランドとの戦争で戦費が拡大、没収した修道院財産の多くがジェントリや大商人の手に渡りました。

長老教会についてはこちらも参照

bunbunshinrosaijki.hatenablog.com

*発展

カルヴァン派の職業召命説(職業の成功は神の救いの証明=営利・蓄財の皇帝)が資本主義のエトスとマックス=ウェーバーは唱えました。「大塚史学」におけるマルクスと並ぶ元ネタのひとつです。

 

⑤ 宗教改革主権国家体制

一橋大学 2004年 第Ⅰ問

ドイツとイギリスそれぞれにおける宗教改革の経緯を比較し、その政治的帰結について述べなさい。

 カトリック教会も含めてこの時期各宗派が「信仰告白」を通じて独自の教義や組織を確立し、新旧両派とも異端審問や宗教裁判で信者の規律化を進めました。そして支配者がこれら宗派を受容し、領内の集権化に利用しました。

 1980年代に歴史学者のシリングはこうした動きを「宗派化」と呼んでいます。彼の分析対象はドイツの領邦教会で、アウクスブルクの和議の結果、領主や都市が選んだ信仰が領内で強制されてドイツは分権化=領邦国家の集権化が進みます。

 一方イングランド国教会やフランスのガリカニズム(国王がカトリック教会を監督)は国王が教会を支配下に置くことによって領内の集権化を進めています。

 「対抗宗教改革」と呼ばれるカトリックの巻き返しもトリエント公会議の内容は「宗派化」ですし、スペインは16世紀にカトリックの保護者を自認して「日の沈まない帝国」を建設し、カルヴァン派の多いネーデルラントを圧迫します。

 三十年戦争の契機であるベーメンの暴動も「宗派化」による集権化をめぐる対立、ナントの王令は対立よりも共存の方が王国の集権化に利するという判断でしょう。

 宗教改革による信者の規律化が主権国家体制の集権化に利用されたことは国立の大論述で出そうなテーマです。

対抗宗教改革

bunbunshinrosaijki.hatenablog.com

⑥ ルターはなぜ農民戦争を弾圧する側に回った?

一橋大学 2020年 第Ⅰ問 問2

「聖書のみ」というルターの主張は、各方面に大きな影響を及ぼした。「農民たち」が考える「聖書のみ」と、ここでルターが表明している意見の相違はどのようなものであり、どのような理由で生じたと考えられるか、述べなさい。

 ドイツ農民戦争は1524年からドイツ西南部ではじまり、翌年には農民の「十二カ条要求」が作成されました。これは序文で自らの行動は福音にもとづいていることを宣言し、本文で農奴制の廃止、地代の軽減、共有地の返還など経済的な要求だけでなく、教区による聖職者の選出、十分の一税の適正な利用(聖職者の扶養に利用し、余りは貧者に回す)など宗教的な要求もしています。

 宗教改革以前から似た要望はありますが、十二カ条要求は自らの要望をルターやツヴィングリの思想で理論武装しています。農民運動は、領邦君主の一円的支配に対する抵抗運動が先で、宗教改革の理念を運動の根拠としたといえます。

 教科書に「ルターは最初農民運動に同情的だったが後に諸侯の側に立った」とありますが、同情的だったのは農民の負担についてであり、聖書を現世的な要求の根拠にすることには強く反対していました。そしてミュンツァーが農民戦争を世俗の秩序破壊に向かわると、ルターは諸侯に農民反乱の鎮圧を求めました。

参考

cir.nii.ac.jp

 南ザクセンに生まれたトマス=ミュンツァーはライプツィヒ大学で神学を学び、1519年にルターと出会い、その思想に刺激されて教会改革に身を投じました。

 彼はツヴィッカウの教会説教師として活動する中で、フス派の再洗礼派の影響を強く受け、最後の審判千年王国の到来を説き、教会の腐敗堕落を激しく攻撃するようになり、諸侯を擁護するルターを批判し始めました。

 再洗礼派とは幼児洗礼を否定し、成人してから洗礼を受けるべきとする派で、14世紀の異端に見られます。16世紀にはツヴィングリから分離した一派が再洗礼派を結成し、スイス・ドイツ・ネーデルラントで勢力を拡大、1534年には北ドイツのミュンスターで市政を掌握して「新しきイェルサレム」と称し、信者は財産を放棄して派に寄付して共有する平等な共同体を結成しました。

 千年王国思想は、ヨハネの黙示録に示される「最後の審判の前にキリストが地上に再臨して千年間続く地上の王国を統治する」という信仰で、12世紀にフィオレのヨアキムがその理念をまとめ、1260年がその時と予言しました。

 彼の終末論はフランチェスコ修道会に伝わり「千年王国」が体系化されます。

 再洗礼派と千年王国キリスト教や教会を否定するものではありませんが、ミュンツァーはこれらを腐敗した現在の秩序を否定して新しい秩序を建設する根拠とし、農民運動を先鋭化させました。

 一方ルターにとって宗教改革は神学的な争いであって、既存の秩序をを破壊すれば信仰そのものが成り立ちません。現にルターはヴォルムス帝国議会で「法の保護外に置く」と通告され、ザクセン侯に匿われています。

 最終的にミュンツァーは諸侯軍に敗北し、捕らえられて斬首されました。

*発展

 「一橋レジェンド」のひとりである阿部勤也さんは中世の人々の心性を「二つの宇宙」と表現しています。自然の中に点在する都市や農村はまさに地球で、そこから追放されるのは宇宙空間に放り出されるようなものです(中世では村からの追放を「人間狼の刑」と呼んだ)。ルターが受けた「法の保護外に置く」もそのようなイメージです。

 

 このようにルターはカトリック教会を神学的に批判する一方、世俗の権威は認めたので、領邦君主にとっては願ったりかなったりです。

 ルター派を支持する領邦君主たちは領内の教会をルター派に替え、領邦内の教会の首長として教会を監督しました。これが領邦教会制度で、1555年のアウクスブルクの和議で正式に認められ、領邦君主は教会の統制を通じて領内の集権化を図りました。

8 近現代の出来事

① 16世紀~17世紀 宗教戦争の時代

主権国家の集権化が宗派化を通じて行なわれる→貴族間、国家間の争いが宗教戦争の様相になる

1568~1609 オランダ独立戦争

 フェリペ2世のカトリック政策→カルヴァン派住民の不満 

1562~98 [1     ]戦争(フランス)

 カトリックユグノーの争い 1572年 サンバルテルミの虐殺

1598年 [2     ]の王令

 ユグノーの市民的権利を認める 

 1685年 ルイ14世が廃止…ユグノーが亡命、プロイセンが受け入れ

1618~48 (3     )戦争

 (4     )の新教徒の反乱が契機 新旧両派の主権国家の争い

 フランスは(5    )側で参戦

 1648年 (6       )条約

 アウクスブルクの和議の再確認 カルヴァン派も認める

イギリス革命

1642~1649 ピューリタン革命 

 国王が国教会をスコットランドに強制  

1688~1689 名誉革命

 国王がカトリック化を企む→1673年 (7    )法

1689年 (8     )令…信教の自由

② 18世紀 啓蒙専制君主と革命の時代

啓蒙専制君主

啓蒙主義の宗教的寛容を権力強化に利用する

フリードリヒ2世(プロイセン) 宗教寛容令

[9      ](オーストリア) 宗教寛容令(1781)

 カトリック以外の信教の自由を保障、教会領を没収、修道院の解散

フランス革命カトリック教会

*思想・良心の自由。共和国と王権と結ぶ教会の争い

1789年 フランス人権宣言:思想・良心の自由    

1790年 国民議会が教会財産を没収 聖職者の公務員化

1792年 第一共和政 革命暦制定…グレゴリウス暦を廃止

1793年 エベール派がキリスト教を拒否して「理性の崇拝」を実施

1801年 宗教協約(コンコルダート)…[10    ]と教皇ピウス7世が和解

③ 19~20世紀 国民統合とキリスト教

国民国家形成過程で西ヨーロッパでは信仰の自由と政教分離が定着

イギリス

19世紀前半 奴隷貿易奴隷制の廃止…メソジスト教会の運動

1828年 審査法廃止…非国教徒も公職に。カトリックは排除

1829年 (11     )解放法…カトリックも公職に オコンネルの助力

1860年 北京条約 中国でキリスト教布教公認

ドイツ

1870年代 (12     )闘争

 ビスマルク、南部のカトリック教徒(後に中央党を結成)を攻撃 

フランス

ナポレオン3世 ローマ教皇領の保護 聖地管理権クリミア戦争

第三共和政フランス革命の理念を国民統合の核とする

19世紀末 (13     )事件:ユダヤ人将校の冤罪事件

 反ユダヤ(反セム)主義、カトリックの介入が政治問題に

1905年 (14     )法

 信仰の自由、公教育での宗教教育禁止(ライシテ)

イタリア

1870年 プロイセン=フランス戦争の際、ローマ教皇領を占領

 ローマ教皇,「ヴァチカンの囚人」と称しイタリア政府と反目

1929年 (15     )条約

 ムッソリーニがヴァチカンを国家として承認

④ 現代の課題

*教会が貧困や搾取に向き合う。ムスリム移民流入政教分離の原則

1960年代 (16    )の神学…中南米カトリック司祭 

 貧困や人権に関してカトリック神学の立場から政治的運動を行なう

2004年 フランス 宗教的標章規制法

 非宗教の公立学校における「目立った」宗教的標章の着用を禁じる

空欄

1    ユグノー
2    ナント
3    三十年
4    ベーメン
5    新教
6    ウェストファリア
7    審査法
8    寛容令
9    ヨーゼフ2世
10    ナポレオン
11    カトリック教徒
12    文化
13    ドレフュス
14    政教分離
15    ラテラン
16    解放

補足

① 啓蒙専制君主と宗教の寛容

一橋大学 2016年 第Ⅱ問

18世紀初頭にユグノーのために建てられたプロテスタント教会と、18世紀後半にポーランド人のために建てられたカトリック教会の宗教的、政治的背景。二つの聖堂が建設された理由を比較。

 シロンスクのヤドヴィガ(ドイツ語でアンデクスのヘートヴィヒ)はカトリック教会の聖女で、シロンスクの守護聖人として知られます。

1420年頃のテンペラ画。クラクフ国立博物館

 シロンスク(シュレジエン)はポーランド系住民が多く住む地域で、1740年からのオーストリア継承戦争プロイセン王フリードリヒ2世がここを占領すると、ポーランド系住民がベルリンに流入しました。そこで王は彼らのためにシロンスクの守護聖者である聖ヘートヴィヒ聖堂を建てました。

 1747年に着工し、1773年に完成しました。この聖堂は現在、シロンスクから移住してきたベルリン大司教区内のカトリック教徒たちの母教会となっています。

日文研データベースより。編者死亡から100年経過しているのでパブリックドメインのはず。

引用元

sekiei.nichibun.ac.jp

 プロイセン公国のフリードリヒ=ヴィルヘルムは、17世紀にオランダからの移住者、フランスからのユグノーの移住を受けいれ、三十年戦争で荒廃したプロイセンの土地を再興させ、停滞した経済を活性化をはかりました。

 プロイセンにとって宗教的寛容は国力の増加の方法であったといえます。

 ヨーゼフ2世も宗教寛容令を発しました。オーストリアカトリック教徒が多数派ですが、皇帝はカトリックの保護者ではなく国民の皇帝と定義し、専制体制を形成する意図があったと考えられます。カトリック貴族や教会は反発しますが、プロテスタントユダヤ人の権利が認められて商工業は発展しました。

 農奴解放令はヨーゼフの死後骨抜きになりますが、宗教寛容令は次の皇帝にも引き継がれ、約100年後、多文化国家オーストリア=ハンガリー帝国につながります。

 啓蒙主義の宗教の寛容はロシアのエカチェリーナ2世にも影響を与え、18世紀のロシア=トルコ戦争で黒海に進出すると、彼女はこれまで差別してきたタタール商人(イヴァン4世に滅ぼされたカザン=ハン国の住民)に活動の自由を与えました。これはロシアの西トルキスタン進出の足掛かりになりました。

② 宗教的標章法

東京大学 2012年 Ⅰ

地域ごとの差異を考えながら、アジア・アフリカにおける植民地独立の過程とその後の動向を論じなさい

指定語句

カシミール紛争 ディエンビエンフー スエズ運河国有化 アルジェリア戦争

ワフド党    ドイモイ      非暴力・不服従  宗教的標章法

リード文のヒント:旧植民地からの移民増加による旧宗主国内の社会問題

 フランスは第二次世界大戦後に「30年間の栄光」と呼ばれる好景気が訪れ、労働力不足を補うためにイベリア半島マグレブから移民を受け入れました。

 マグレブ諸国(アルジェリアチュニジア、モロッコ)はフランスの旧植民地であり言語的問題が少ないこと、地理的に近いことから労働移民が多く、特にアルジェリアは特別な待遇を受け, 1964年までは自由に行き来できたので人数的には一番多いです。彼らの大半は工場で非熟練労働に従事し、低賃金でフランスの高度成長を支えました。

 最初は一時的な出稼ぎでしたが次第に移民の定住化が始まり,家族も呼び寄せるようになりました。マグレブからの移民はムスリムが多く、フランスにおけるムスリムの人口は約570万人とも推計されていて、EU加盟国の間で最も多くなっています。

 さてフランスはフランス革命以来政治からカトリック教会を排除する戦いを続けました。また第三共和政フランス革命の精神を国民統合の中核と位置づけました。

 ドレフュス事件を契機に1905年に政教分離法が制定され、フランス政府はいかなる宗教も優遇せず、公共の場に持ち込ませない代わりに、信仰の自由などの権利を平等に保障する、という「ライシテ」の原則が確立しました。

 同じ頃からヨーロッパや植民地からの移民も増えて、ライシテは宗教の異なる移民を受け入れ、フランス社会に統合するためのイデオロギー、すなわち移民がフランスの価値観を理解した「フランス国民」となることを移民受け入れの前提としてきました。

 しかしムスリムにとって信仰とは生活そのものであって、宗教について私的空間と公的空間を峻別する「ライシテ」の原則とは相容れない部分があります。

 それが表面化したのがいわゆる1989年の「スカーフ論争」(ムスリムの女子生徒がスカーフを巻いて登校することの是非)です。スカーフとなど宗教的標が章単に個人の宗教の表明ならライシテの原則に抵触しないが、それが「これ見よがし」で宗教の勧誘に当たるならライシテの原則に抵触する、ということです。

 論争の間、フランスでムスリムの団体が組織化されるなどムスリムの権利意識が上がり、彼らが宗教的な要求をするようになる一方(学校の食堂はバイキング形式になりました)、労働者間の軋轢に2001年の同時多発テロを契機にイスラム原理主義への警戒心があいまって、移民排撃を目標とする極右勢力も台頭しました。

 結局2004年の法律では、こう規定されました。

公立の幼稚園、小学校、中学校及び高等学校においては、宗教的帰属をこれ見よがしに表わす標章又は服装を身につけることは禁止されている。校則には、処分に先立ち、当該児童・生徒と話し合いを行う旨を明記する

 小さな十字架のネックレスなどは個人の信仰の自由の範囲内です。ムスリムはこの法律を受けてバンダナに替えた人もいるそうです。なお校則違反をとがめられてから「これは信仰の自由だ!」と主張するのは不可です。

 日本国憲法でも信教の自由と政教分離基本的人権の重要な要素で、戦前の苦い経験を踏まえたものです。そういえば政党が宗教団体を集票マシーンにしたり、選挙応援の見返りにその団体の主張を政策に…あれ、誰かきたようだ。 

おわりに+リンク集

 入試で問われるキリスト教、なんと5回に渡ってしまいました。受験生の復習に役立てていただければ幸いです。

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