ぶんぶんの進路歳時記

学習方法、進路選択、世界史の話題について綴ります

世界史文化史直前チェック(キリスト教1 成立)

 難関私立大学になればなるほど出題される文化史、今回はキリスト教の成立です。

 キリスト教ローマ帝国支配下パレスティナで誕生し、地中海世界に広まってローマ公認の宗教となり、中世ヨーロッパに引き継がれました。キリスト教は現在最大の信者がいる世界宗教です。

世界の主要宗教分布図。パブリックドメイン

 世界史B・世界史探究の教科書(実教出版帝国書院、東京書籍、山川出版社(小説世界史と新世界史)、資料集(帝国書院、浜島書店)、ミネルヴァ書房『大学で学ぶ西洋の歴史 古代・中世編』『論点・西洋史学』、週刊朝日百科『世界の歴史』、第一学習社の倫理の資料集を参考にしています。

 画像は断りがない限りパブリックドメインのものです。

 あくまで世界史の入試を特化した作りなので、イエス様の教え等については別のサイトを参考にしてください。

 空欄は共通テスト・中堅私立大学必須、着色してある事項は難関私立大学必須の用語です(ぶんぶんの長年の経験と勘によるもの)。

目次

 

0 ユダヤ教

① 出エジプト

 前13世紀,[1      ]がヘブライ人を率いて新王国を脱出

 唯一神から「十戒」を授かりパレスチナに定住とされる

 前1000年頃 ヘブライ王国成立

② バビロン捕囚(前586~前538)

 新バビロニアネブカドネザル2世,(2    )王国を征服

 ヘブライ人をバビロンへ連行

 アケメネス朝のキュロス2世ヘブライ人を解放

③ ユダヤ教の成立…民族的苦難に耐えるなかで成立

 教典『(3      )』ヘブライ語

 唯一神[4     ]、(5     )思想、律法主

 (6     )待望思想(メシア、キリスト)

 *善悪二元論や最終戦争→ゾロアスター教の影響を受けている

④ パレスティナへの帰還~ローマの支配

 ユダ王国:バビロン捕囚終了後に復活 神殿の再建

  ヘレニズム時代にはセレウコス朝シリアの支配を受ける

 紀元前2世紀:ハスモン朝

  マカベア戦争の結果自治が認められる。ヘブライ王国の領域を回復

 前63年:ポンペイウスパレスティナ征服 シリア総督の支配

 前40年:元老院 親ローマのヘロデユダヤの王と認める

    後6年:アウグストゥスの時に属州化

 ユダヤ戦争(66年、131年)→135年にユダヤ人はイェルサレムから追放

空欄

1   モーセ 
2   ユダ 
3   旧約聖書 
4   ヤハウェ 
5   選民 
6   救世主 

1 初期キリスト教

① キリスト教の成立

エス…前7~前4年に誕生,28年ころから布教活動

 (1     )派によるユダヤ教形式主義化を批判

 神の絶対愛と(2    )愛を説く

30年ごろ,ユダヤ教指導層による告訴

 総督ピラト,イエスをローマへの反逆者として処刑

 イエスの復活→弟子たちはイエスをメシア(3    )と確信

使徒の伝道

 [4     ] 後に初代ローマ教皇とされる

 [5     ]「異邦人の使徒」→キリスト教を東地中海世界

『(6      )』2~4世紀 『福音書』『使徒行伝』を集大成

 (7      )(ギリシア語)で書かれる

キリスト教の広まり

 下層民や奴隷、上流階級への普及 教会が成立

空欄

1パリサイ
2隣人
3救世主
4ペテロ
5パウロ
6新約聖書
7コイネー

補足

1)ローマの属州支配がイエスを産んだ?

 紀元前6世紀にバビロン捕囚から解放されたユダヤ人(ユダヤ教徒)はイェルサレムに戻りユダ王国を再建しましたが名目上で、アケメネス朝、アレクサンドロスの帝国、セレウコス朝の支配を受けました。

 紀元前2世紀にセレウコス朝の支配から脱し自立します(ハスモン朝)が、次第にローマの干渉を受けるようになり、前63年にポンペイウスに征服され、元老院からユダヤ王の地位を認められたヘロデパレスティナを支配し、イェルサレムの神殿を再建しました。

 しかしヘロデ王が死ぬと紀元後6年(アウグストゥスの時代)にローマ帝国の属州となりました。イエスが活動をはじめたのがその時期、紀元後30年頃です。

 当時のパレスティナユダヤ人社会は、イェルサレムの神殿を拠点とする祭司層と、シナゴーグ(会堂)を拠点とし律法を重視するパリサイ派が対立し、民衆の間では世俗を離れて共同生活を送ったり、ローマ支配への抵抗を訴える諸派が存在していました(そのひとつがイエスを洗礼した黙示派)。

 ローマへの反発と彼らにおもねる支配層への人々の反発が渦巻く中、イエスヨハネの洗礼を受けて宣教を始めました。

 『新約聖書』によれば、彼は祭司層はもとより律法至上主義のパリサイ派も厳しく批判する一方、当時差別の対象であった罪人(律法に反した人)、異邦人(ユダヤ人でない人)、徴税人、病人、身体障がい者と交流し、「神の愛は無差別にすべての人に注がれるものであり、どのような人であれ神の愛を信じるならば神の国に受け入れられる」と説きました。

 しかしイエスの態度はユダヤ人支配層の反感を買い、扇動された民衆の求めに応じて属州総督ピラトゥスの命でイエスは処刑されました。しかし三日後にイエスが復活して弟子たちの罪を赦したと『新約聖書』は記します。

*発展 ルーベンスの『十字架からの降下』

 アントウェルペン聖母マリア大聖堂(『フランダースの犬』のクライマックス)。イエスが告発、処刑されたときに男性の弟子たちは裏切ったり逃亡する一方、女性たちは十字架の死から岩屋での復活を見届けます。

2)弟子たちの宣教

 弟子たちは各地でイエスの思想を広めますが、中でもキリスト教の思想を形成したのは、最初はキリスト教を迫害していてのちに回心したパウロです。

 彼はイエスの十字架での死こそ神の救い(全人類の原罪をあがなう(贖罪))の証拠、すなわちイエスは世界の救世主(ヘブライ語メシアギリシア語でキリスト)と考え、十字架に示された神の愛を信じること、人は律法を守ることではなくイエスを信じることで救済される(信仰義認)、と各地で宣教しました。

 パウロローマ市民権を利用してアナトリアギリシア、ローマで伝道し、キリスト教世界宗教になるきっかけを作りました。しかしエルサレムユダヤ人に逮捕され、騒乱罪と神殿冒涜の罪でローマ総督に告訴され、処刑されました。

 一方パレスティナユダヤ人は紀元後60年頃からローマと戦争をはじめますが敗北、神殿は破壊されユダヤ教徒パレスティナから追放されます。いわゆる「ディアスポラ」です。そのうちイベリア半島に逃れたものはセファルディム、ドイツ・東欧に逃れたものはアシュケナージと呼ばれます。

*発展 サン=ピエトロ大聖堂

 ペテロはイエスの存命中から弟子たちのリーダー的存在であったようです。ローマ=カトリックはペテロを初代のローマ教皇とみなしていて、ローマで殉教した彼の墓のあったところに建てられたのがサン=ピエトロ大聖堂です。過去を自らの権威付けに使うことは古今東西見られる現象です。18世紀 ジョバンニ・バティスタ・ピラネージさんの版画。パブリックドメイン

② ローマ帝国キリスト教

1)迫害

[8     ]帝の迫害(64)ペテロ・パウロらが殉教

 信者の増大…(9      )(地下墓所)などで信仰を維持

[10      ]帝の迫害(303)帝国再建のために皇帝崇拝を強要

2)公認

313年 [11      ]帝が(12     )勅令を発布

325年 (13      )公会議

 (14      )派を正統とする→のち(15     )説に発展

 イエスの人性を重視する(16     )派を異端→ゲルマン人へ布教

[17      ]帝

 ミトラ教(東方の密儀宗教)を皇帝の権威に利用 キリスト教迫害

3)国教化

392年  [18       ]帝の異教禁止令…オリンピアの祭典も中止

4)教会と教義の確立

司教エウセビオスが『教会史』を著す(4世紀)

五本山:帝国末期

 ローマ・コンスタンティノープル・(19      )

 イェルサレム・(20      )教会が有力な5教会となる

 ローマ教会は首位権を主張、司教はペテロの後継者として教皇と称す

5世紀

 ヒエロニムス:聖書のラテン語訳(ウルガータ)

 [21       ]:『神の国』『告白録』→神学の基礎確立

 教父哲学:古代ギリシア・ローマ文化とキリスト教を融合

431年 (22     )公会議

 イエスの神性と人性を峻別する(23      )派を異端

 ササン朝・中国(唐代に(24    ))に伝わる→東方正教会

451年 (25       )公会議

 イエスの神性を強調する単性論を異端

 非カルケドン派の分離

   →シリア正教会アルメニア教会コプト正教会エチオピア正教会

空欄

8    ネロ
9    カタコンベ
10    ディオクレティアヌス 
11    コンスタンティヌス
12    ミラノ
13    ニケーア
14    アタナシウス
15    三位一体
16    アリウス
17    ユリアヌス
18    テオドシウス
19    アンティオキア
20    アレクサンドリア
21    アウグスティヌス
22    エフェソス
23    ネストリウス
24    景教
25    カルケドン

補足

1)ローマ皇帝キリスト教を迫害した?

 教科書ではネロ帝やディオクレティアヌス帝の大迫害が有名ですが、ふたりの間では二度の短期間の迫害があるだけです。

 もともとユダヤ教徒に比べてもキリスト教徒は圧倒的に少数派、またローマは外来宗教には寛容だったので、キリスト教徒だけが大迫害されたというのは後世の「盛りすぎ」のような気がします。

 タキトゥスの『年代記』によると、ネロ帝は64年に起きたローマの大火を民衆が「ネロが大火を命じた」と信じて疑わなかったので、この風評をもみ消そうとして身代わりの被告をこしらえた、それが「日頃から忌まわしい行為で世人から恨み憎まれ「クリスチャン(Christiani)」と呼ばれていた者たち」と記します。

 ローマの大火とキリスト教徒の迫害を結びつけるのはタキトゥスの記述だけだそうですが、気になるのは文中の「民衆のキリスト教徒への嫌悪」です。

 ローマは父祖伝来の慣習を重視し、民衆レベルでも血縁的なつながりや地元の神々を祀るなど地縁的なつながりが重視されていました。

 しかしキリスト教徒は他の神を認めない上に遠くの信者間で連絡を取り合っていたので、民衆にとって彼らは「父祖伝来の慣習」を大事にしない非ローマ的集団と映ったと想像できます。

 政府の迫害よりも民衆の訴えの方が多かったことは、トラヤヌスプリニウスの往復書簡にも見られます。

歴史総合・世界史探究試作問題2022年より

 民衆が身近な者を「キリスト教徒だ!」と告発することが多数に及ぶので、属州長官が困っている様子がうかがい知れます

 トラヤヌス帝は「正規の告発状なしの訴えは受理しなくていい」という態度です。

 ただし「キリスト教徒として訴えられた」とあるので、キリスト教徒であること自体が告発の対象です(おそらくローマの神々の冒涜が原因)。文章の続きを見ると、政府主導では迫害しないが、正式な告発があれば棄教を迫り、それにも従わないと処罰したようです。

 二人の皇帝の大迫害は、民衆が潜在的に持つキリスト教徒への嫌悪感を自らの政治基盤強化のために利用したからと考えられます。

 そういえば今でも差別的な言動でネット民の歓心を買おうとする困った政治家は後を絶ちません。(´・ω・`)

2)正統と異端

 どの宗教にも聖典と呼ばれるものはありますが、「教義はこうです」と明確に定義しているとは限りません。

 キリスト教の根本教義である「三位一体説」(天地の創造主である神が「父と子と聖霊」という三つの位格(ペルソナ)で存在する)も聖書に明確に記されている訳ではなく、イエスの死後から451年のカルケドン会議までの約400年、『新約聖書』の各文書の編纂(4世紀)や神学者の論争を経て確立しました。

 つまりキリスト教地中海世界で広がる最中も教義が確定していなかったわけで、イエスの教えに対する受け止め方に違いが出て当然です。そうしたバリエーションのうち、教会から排除された考え方が「異端」です。

 異端が広がる背景はローマ上層部へのキリスト教の普及です。ギリシア哲学の素養を持つローマの知識人は「とにかくキリストを信じればいい」のようなおおざっぱな解釈に飽き足らず、キリスト教を哲学的に解釈しようとしました。

 最も有名なのはアリウス派です。アリウスはアンティオキア派神学を学び、後にアレクサンドリアで司祭になります。彼は「子なるキリスト」が「父なる神」に創造されたのなら存在しなかった時期があり、無限の存在である「父なる神」と同じ性質ではあり得ず、創造者より劣り創造者に従属する、と考えます。

 合理的な解釈ですが、この「従属説」だと「父なる神」と「子なるキリスト」という神が二人いる=多神教になってしまいます。

 アリウスが作った『タレイア(饗宴歌)』が船人や旅人たちに歌われて彼の説は東方一帯に広まりました。すでに教会は財産を持つようになっていたので、経済的事情も絡んで論争は燃え広がりました。

 313年にコンスタンティヌス帝がキリスト教を公認し、自らの権威付けに使おうとしますが、教会が2派に別れて争っている状態は困ります。そこで325年にニケーア公会議を開いて論争の決着をつけようとしました。この会議でアリウス反駁の論陣をはったのがアレクサンドリア助祭アタナシウスでした。

 論争の結果、会議はアリウス派に異端宣告を出し、父と子は同一本質(ホモウシオス)であるという信条を採択しました。

 アリウスは流刑になりましたが、その後もアリウス派の支持者は健在で、アタナシウスもアレクサンドリアの司教らによって罷免されるなど論争は続き、最終的に三位一体説が勝利するのはアリウスもアタナシウスも没した後の381年のことでした。

 5世紀になると「キリストは真の神でもあり真の人でもある」が論争の的になりました。コンスタンティノープルの主教でアンティオキア派の神学者であったネストリウスは、キリストにおける人性と神性の区別を明確にすべきと主張しました。

 アリウスのように三位一体を否定している訳ではないので問題がないような気がしますが、431年のエフェソス公会議で異端と宣告されネストリウスは追放となりました。

 その後シリアのキリスト教徒が彼の教えを発展させて独自の教団を作り、布教の結果ネストリウス派はペルシアからインド、中央アジアから中国に(景教)伝わりました。ルブルックの旅行記やバール=サウマのローマ訪問などからモンゴル帝国内で信仰されていたことがわかります。現在でもその一派が活動しています。

大秦景教流行中国碑 パブリックドメイン

 ネストリウス派への反発からエジプトで広がったのが、キリストの神性と人性の区別を少々曖昧にして神性を重視したのが単性論です。451年のカルケドン会議で異端が宣告されますが、これに反発するアルメニア使徒教会コプト正教会(エジプト)、シリア正教会などが正統派教会から分離しました。これら教会は「単性論」でひとくくりにできないので「非カルケドン派」と呼ばれます。

3)若気の至りアウグスティヌス

 ボッティチェリアウグスティヌス像.1480年頃作成 パブリックドメイン

 アウグスティヌスは354年に北アフリカの小さな町に生まれ、16歳の時にカルタゴに出て修辞学を学びました。

 哲学に目覚めた思春期のアウグスティヌスは同時に愛欲にも目覚め(「私を囲む愛欲は煮えたぎるサルタゴ(大鍋)のようだ」というギャグが残っています)、ある女性と恋に落ち、18歳で一児の父になります。(/ー\*) イヤン♪

 しかし二人は身分違いのために結婚できず、子どもは早逝しました。(;´Д⊂)

 彼はその後修辞学の教師になりますが、ギリシア古典とともにマニ教にのめり込みました。

 マニ教ゾロアスター教の善悪二神の対立を基本とし、霊と物質の対立というギリシア的要素(グノーシス主義)が加わり、悪に属するとされた物質世界を嫌悪し、不殺生・肉食を慎む・酒を控える・性的な禁欲・無所有などの五戒を説きました。

 快楽におぼれたアウグスティヌスが反省するのにぴったりの信仰です。

 しかしミラノでアンプロシウス司教の説教を聞いてマニ教善悪二元論に疑問を持ち、32歳でキリスト教に回心しました。

 彼の思想の特徴は「神の恩寵」です。

 マニ教ではこの世の悪は悪の神が作ったもので、最終的には善の神と悪の神の闘争で善の神が勝つと教えます。しかしキリスト教では神はひとり、つまりこの世を作ったのは善なる神です。

 もうひとつアウグスティヌスが影響を受けたのは新プラトン主義です。

 古代ローマ末期のプロティノスにはじまるこの哲学は、「イデア」を人間が認識できない霊的な真理ととらえ、感覚器官や言葉ではなく直感でそれと一体化することを説きます。いわゆる神秘主義です。あらゆるものはひとつの真理に流れ込むので、この考えでもこの世は悪の神が作ったことにはなりません。

 じゃあなぜ善なるものから生まれたこの世が悪に満ちているのかというと、人間の意志が悪を生み出しているから、とアウグスティヌスは考えます。

 したがって人間は「原罪」を背負う存在、それは人間の自由な意志では克服できず(油断すると悪の誘いに負ける)、神の無償の愛(恩寵)によってしか救われない、とアウグスティヌスは説きます。

 言い換えると罪人こそ神の愛の対象、まさにイエスの教えです。

 このようにアウグスティヌス「原罪」「恩寵」という初期キリスト教の思想を、彼のギリシア・ローマ古典、マニ教、新プラトン主義という思想遍歴から正統派の教義として定義し直したといえます。

 

まとめ

  • ユダヤ教から発したキリスト教地中海世界で布教された
  • キリスト教は下層民だけでなくギリシア・ローマの古典を教養とする知識人にも受容され、キリスト教の分派を産む一方、正統派教義の確率にも影響を及ぼした
  • ネロ帝、ディオクレティアヌス帝の大迫害は有名だが、帝政前期は政府から積極的に弾圧するというより発見したら棄教を進めるスタンスだった
  • 帝政後期に皇帝は皇帝権を確立しようとしてキリスト教を公認した。このため教義の統一の必要が生まれ、いくつかの派が異端として追放されるが、それらは各地で布教を続けて現在に至る
  • キリスト教の正統派教義は古代ローマ末期の混乱の中で教父たちによって地中海の様々な思想を援用して体系化され、ゲルマン国家に引き継がれる

次回はヨーロッパ中世