難関私立大学になればなるほど出題される文化史のうちよく出題されるキリスト教の歴史、今回は教皇権の衰退、異端、キリスト教文化についてまとめます。
共通テストは「史資料を使う」という強迫観念に駆られている(その割には読解よりもヒントの拾い読みだったりする)ためヨーロッパ史偏重になりがち、中世だと教会や封建領主の文書が多いのでその背景知識にしてください。
参考文献は初回参照。画像は断りがなければパブリックドメインのものです。過去回のリングは末尾にあります。
今回直接参考にしたもの 文献一覧が親切です。
これも便利
目次
6 教皇権の衰退期
背景…十字軍運動の失敗,教会の腐敗,国王権の伸張
(1)異端の輩出
ワルド(ヴァルド)派:12世紀後半,リヨンの商人ワルドが聖書信仰を主張
(1 )派:マニ教の影響をうけ成立
アルビジョワ派:南フランスの諸侯に保護されたカタリ派
(2 )十字軍
13世紀前半:フランス王フィリップ2世が開始
13世紀後半:ルイ9世が完了→王権が南仏に拡大
(2)教会大分裂
(3 )事件…聖職者課税をめぐり教皇と仏王が対立
教皇[4 ]が仏王[5 ]に捕まる(1303年)
「教皇のバビロン捕囚」
教皇がフランス王の影響下におかれる(~1377)
教会大分裂(大(7 ))(1378~1417)
14世紀後半 貨幣経済の進展と黒死病による人口減少→封建制度の解体
1381年 [8 ]の乱:税の削減、農奴制の廃止を要求
説教師[9 ]…「アダムが耕しイブが紡いだ時誰が領主だったか」
(3)中世末に教会革新運動
教会革新運動…教会の世俗化・腐敗を批判し宗教改革の先駆となる
[10 ]:オクスフォード大学教授
聖書を英訳,聖書にもとづく信仰を主張(14世紀後半)
(12 )公会議(1414~18)皇帝ジギスムントが招集
ウィクリフとフスに異端判決 フスを火刑
→ベーメンでフス戦争勃発(1419~36)
空欄
1 カタリ
2 アルビジョワ
3 アナーニ
4 ボニファティウス8世
5 フィリップ4世
6 アヴィニヨン
7 シスマ
8 ワット=タイラー
9 ジョン=ボール
10 ウィクリフ
11 フス
12 コンスタンツ
補足
① ワルド派とカタリ派
1073年にグレゴリウス7世が教皇に就任すると、教会改革が全西欧規模で行なわれるようになりました。彼は従来から問題視されていた聖職売買や聖職者の妻帯だけでなく、俗権による聖職者の叙任もやり玉に挙げました。
その流れでグレゴリウス7世は「腐敗した聖職者の授与する秘蹟は無効」とも言いました。当時民衆の間でもキリスト教が普及する中、彼らは腐敗した聖職者を目の当たりにしていました。グレゴリウス7世がローマ教会の政治力上昇のために行なった言説は、ローマ教会に巨大ブーメランとなって返ってくることになります。
叙任権闘争まっただ中の11世紀末から12世紀初頭にかけて、まず修道士や隠修士(修道院に属さず山中で修行していた人たち)が町々を遍歴して聖職者の腐敗を断罪し、民衆に使徒たちが行なっていた清貧な生活を送ることを訴えました。
12世紀後半、各地で中世都市が成立して都市人口が増加する中で、使徒的な生活を送り、聖書の教えに立ち返る(聖書に書いていない幼児洗礼や十字架・聖人・聖遺物崇拝の否定)という理念が、都市の下層民の中に広がりはじめました。
そのひとつがワルド派です。リヨンの高利貸であったとされるワルドは吟遊詩人のうたう聖者伝に影響され、聖職者を雇って聖書を俗語訳に翻訳させました。高利貸は教会法によれば救いにあずかれない賤業(働かないで稼ぐから)、彼はどうすれば自分の魂が救われるのか知りたかったのでしょう。
彼は自分の財産を貧者に分け与え、自ら使徒のような生活を志し、俗語訳の福音書を使って人々に説教しました。
ワルド派の主張は、福音書にある道徳や規律を厳格に守ること、道徳のない聖職者の秘蹟は無効であること、逆に道徳が備わっていれば誰でも聖職者になれること、蓄財によって腐敗したカトリック教会組織を否定し。聖書に書いていない教義(煉獄、聖者崇拝)は無効であることなど、教会の腐敗を批判しキリスト教の原点に回帰しようとするものでした。
1451年の写本に描かれた魔女としてのワルド派の押絵。当時は魔女として同一視されていました。ワルド派は13世紀に異端の宣告をされて弾圧されますが、秘密裏に集会を行なっていました。女性の信者も多く、女性の司教も認められていました。パブリックドメインの画像
一方カタリ派は、二元論でキリスト教の教義を根本的に否定する点が他の異端と大きく異なります。
二元論とは、神と悪魔、善と悪、霊魂と肉体、というように世界をふたつの原理の対立と捉える考え方です。世界史の教科書ではゾロアスター教(アフラマズダとアーリマン)のところで習う話で、ササン朝で生まれたマニ教が二元論を徹底させます。
マニ教では世界を光と闇、善と悪の二つの原理の対立と捉え、現世は悪の神が作ったもので、善は肉体の中に閉じ込められている、従って肉体=悪から逃れるために可能な限り正常な生活を送らなければならない、と考えます。そのため修行者は清貧と菜食を守り、暴力・殺生・肉食・飲酒は当然禁止、生殖も禁止です。
*発展
マニ教によると、善と悪の戦いの際に善の光が世界中に飛び散りました。メロン、キュウリ、ブドウは透き通っているので善の光を含むと考えられ、これを食べることは光を増やす=修行とされています。ぶんぶんもこれは参加したいです(不謹慎)。
パブリックドメインQより
一方キリスト教は一元論、神は唯一であり現世は善なる神が作ったもの、この世が労苦に満ちているのは人間が原罪を犯したから、しかし最終的に神によって許される、と教えます。
マニ教は3~4世紀に西は北アフリカに広まりますが、キリスト教父から批判を受けました(第1回を参照)。しかし二元論自体はキリスト教の中に浸透し、異端を生み出します。そして12世紀、教会改革運動と民衆へのキリスト教の浸透の中で民衆の異端として復活します。
カタリ派は、天界での戦いに敗れた悪が現世を創造し、天界で悪魔に誘惑された一部の天使を肉体の中に魂として閉じ込めたと考えます。死後に魂が天に帰るためには厳しい修行で悪である現世の肉体的欲求を断つ必要があるとしました。
カタリ派からすれば物欲に明け暮れるローマ教会は悪そのもので、彼らはその儀式や制度を否定し、独自の教会体制(清貧を実践する「完全者」とその帰依者)を維持し、南フランスでは上層の貴族や商人・職人、女性の中に信徒を広げていました。
これに対してインノケンティウス3世は、カタリ派およびその支持者であったトゥールーズ伯などへの十字軍を呼びかけました(アルビジョワ十字軍)。1229年にフランス王が諸侯と和約を結び、南フランスを王権に組み込むことで十字軍自体は終了しましたが、その後もカタリ派の活動は続き、教皇は異端審問制度を導入してカタリ派を摘発・処刑(火刑)し、ようやく14世紀初頭に鎮圧しました。
カルカソンヌにおけるカタリ派の追放を描いた絵画(1209年)著作権切れでパブリックドメイン。
13世紀に生まれたドミニコ修道会は他の異端と同じく清貧の生活を目指し、都市を中心に遍歴説教と托鉢で布教し、カタリ派を攻撃していました。
同じ頃中部イタリアのアッシジに生まれた富裕な商人の家のフランチェスコは、イエスの生活を模倣し、金銭を受け取らず托鉢をしながら俗語で布教を行ないました。彼の元に支持者が集まって兄弟団を結成し、教皇に認可を求めました。
両者とも俗人が布教し財産を嫌悪する点では異端と同じですが、教皇から修道会(托鉢修道会)として認可され、カタリ派の取り締まりに協力しました。
アッシジの様子。フランチェスコは死後2年というスピード審査で聖人に認定され、彼の遺体は新たに建設されたサン=フランチェスコ大聖堂の地下に移葬されました。パブリックドメイン
まとめると、カトリック教会は教会改革を通じて教皇に権力を集中しようと考えました。一方、都市の勃興でキリスト教が都市民衆に普及すると、彼らは腐敗した教会に飽き足らず「俺たちの信仰」を求めて聖書に立ち返る運動をはじめました。
これに対してカトリック教会は、自らを否定する集団は異端として徹底的に弾圧する一方、教会を否定しない集団は公認して異端の排撃に協力させる一方、都市での信者拡大に利用しました。公認の托鉢修道会は教会に対して不満を持つ信者を異端に流さずカトリックに回収する、今で言う「公式ライバル」なのかもしれません。
したがって批判の根本である教会の腐敗防止は解決しているとはいえません。そのためカトリック教会は14世紀に再び批判に晒されます。
② ウィクリフとフス
14世紀は教科書に「14世紀の危機」とあるように、世界的に天候不順や疫病が蔓延し、社会不安が発生した時期です。ヨーロッパでは教皇のバビロン捕囚、百年戦争、1348年からのペストの流行と事件が相次ぎ、そうした中で再び腐敗した教会を糾弾し、キリスト教の原点に回帰する運動が頭をもたげます。
イングランドではジョン王がインノケンティウス3世に屈服した後、多額の献金を支払うなど教皇に従順でしたが、教皇庁のアビニョン移転を機に不満が爆発し、百年戦争の時代には議会が教皇庁への献金を拒否を決議しました。
また大陸の聖職者が不在のままイングランドでの聖職者の位を持つこともあり(不在地主ならぬ不在聖職者)、教会財産が大陸に吸い上げられることも在地の貴族たちは不満でした。
こうした教皇庁への不満が渦巻く中で登場したのがオックスフォード大学神学教授のウィクリフでした。
彼は神から救いを定められた人ならだれでも聖職者足りえると考え、聖書のみがキリスト教の教義の最終的な源泉であるとしました。彼は聖書にもとづかない教会の慣習(聖者崇拝とか)を否定し、修道生活も聖書の誤解と切り捨て(修道士は隠遁して生活するがイエスも使徒もそんなことはしていない)、聖餐式の解釈(聖体のパンと葡萄酒がミサで授与されると外観は変わらないが質的にイエスの肉体と血に変容する)にも異議を唱えました。
この教会を真っ向から否定する説に対して、教皇はウィクリフの逮捕と異端審問を要求し、大学も彼を排撃してウィクリフは追放されます。彼は1384年に亡くなりますがその説はその後も人々に支持されました。
最終的に1414年のコンスタンツ公会議でウィクリフの説は異端の宣告を受け、遺体が掘り出されて火刑に処せられたそうです。((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル
同じ頃ベーメンでは高位聖職者に占める在地チェコ人の割合が少なく、ドイツ系の聖職者が多くを占めていました(地元採用ノンキャリと出向キャリアとの対立?)。
14世紀後半のチェコ人の民族意識の高揚と相まって、既存の教会を批判する改革派の聖職者たちが出現します。そのひとりがプラハ大学で神学を学んだフスで、彼はウィクリフの教えを共感し、15世紀初頭からプラハでチェコ語で説教活動を開始し、教会の富裕化を批判し、イエスの時代の質素な教会への復帰を主張しました。
彼の教会批判とウィクリフ主義がチェコ人の民族意識高揚と結びつき、プラハ大学をドイツ人の教師と学生を排除してチェコ人中心の大学にする改革運動に発展しました。しかしこれにプラハの大司教が反発、フスを教皇庁に訴えました。
大司教がウィクリフの著作をすべて焼却し、フスとその支持者を大学から追放すると、プラハではドイツ人とチェコ人の騒乱が発生しました。フスは南ベーメンの村で農民に説教しながら、聖書のチェコ語への翻訳や自らの著作をまとめました。
1414年にコンスタンツ公会議が開催され、フスは召還されました。皇帝ジギスムントはベーメンの名君と名高いカレル4世(皇帝カール4世)の子、フスは皇帝が擁護してくれるものと思って召喚に応じますが、逮捕され異端として火刑に処せられました。
教科書によく載っているフスの火刑 パブリックドメインの画像
フスが処刑されるとますますベーメンの改革運動は盛り上がり、フス派は原始キリスト教会の理念に立ち返るべく、ミサはチェコ語で行い、祈祷を簡単な讃美歌や説教に変え、服装や儀式のグッズも簡素化しました。また聖書に基づかない聖人崇拝を否定し、秘蹟(サクラメント。信仰儀礼)も簡素化しました。
しかし改革が過激になるとベーメンの貴族や聖職者は保守化し、急進的なフス派は保守派から分裂して南ベーメンで同時の共同体を作って抵抗しますが、1430年代に鎮圧されました(この激しい抵抗でジギスムントはベーメン王の即位式が遅れた)。
二人の説はローマ教会によって否定されましたが、万人司祭説、聖書中心主義、俗語による聖書の翻訳や説教、秘蹟の簡素化はプロテスタントの主張そのものです。
彼らの思想はルターによって復権し、奇しくもコンスタンツ公会議とルターの宗教改革の中間、15世紀半ばに出現した活版印刷機によって、隠蔽不可能なぐらい拡散することになります。
7 キリスト教文化(古代~17世紀)
(1)神学
4世紀 [1 ]:『教会史』を著す。ニケーア公会議に出席
[3 ]:『神の国』『告白録』→神学の基礎確立
8世紀 フランク王国の「カロリング・ルネサンス」
[4 ]… アーヘンに招かれる
11~12世紀 普遍論争
[5 ]…実在論 普遍は実在に先立って存在
[6 ]…唯名論 普遍は名辞、個のみが実存する
[7 ] 普遍論争を調停 スコラ学 著書『神学大全』
キリスト教と[8 ]哲学を融合
ロジャー=ベーコン…経験を重視 自然科学方法論
ドゥンス=スコトゥス…哲学と神学を分離
[9 ]…唯名論
(2)教会建築
ビザンツ様式…丸屋根 モザイク壁画
(10 )聖堂(イスタンブル)サン=ヴィターレ聖堂(ラヴェンナ)
ロマネスク様式…半円形アーチ 狭い窓
(11 )大聖堂(伊)クリュニー修道院(仏)ヴォルムス大聖堂(独)
ゴシック様式…尖塔、ステンドグラス
(12 )大聖堂(独)ノートルダム大聖堂(仏)ランス大聖堂(仏)
ルネサンス様式…ドーム、アーチ状
サンタ=マリア大聖堂(フィレンツェ)(13 )大聖堂(ローマ)
(3)ルネサンス
ロイヒリン(独)旧約聖書の原典研究
(4)ピューリタン文学
空欄
1 エウセビオス
2 ヒエロニムス
3 アウグスティヌス
4 アルクイン
5 アンセルムス
6 アベラール
7 トマス=アクィナス
8 アリストテレス
9 ウィリアム=オッカム
10 ハギア=ソフィア
11 ピサ
12 ケルン
13 サン=ピエトロ
14 エラスムス
15 ミルトン
補足
① エラスムスが産んだ卵をルターが孵(かえ)した?
16世紀、ルターの教えはドイツ各地に広がりますが、その背景としてルネサンスの人文主義者の影響は無視できません。
ロッテルダムのエラスムス(1469頃~1536)は、ルネサンスの「古代の再生」を「言語の再生」と理解し、真のキリスト教とは聖書においてのみ見いだされ、聖書を正しく理解するには教父の研究や聖書それ自身のテキスト批判が不可欠と考えました。
そこで彼はギリシア語、ヘブライ語、ラテン語の言語的知識から聖書をテキスト批判をしますが、その結果カトリック教会の教義が聖書に基づかない、逆に聖書にもとづいて行動すればだれでも神学者だと考えます。
エラスムスは、ここまで見てきた「異端」を宣告された人たちが直感的に感じていたこと(聖書中心主義・万人祭司主義)を言語的理解による聖書テクスト批判によって実証したといえます。
エラスムスの考えはルターやツヴィングリらに強く影響を与えましたが、彼自身はルターの宗教改革にも批判的で、新旧両派から距離を置いていました。
ホルバインのエラスムスの肖像画(1523年)ルーヴル美術館像。センター試験でこれがホルバインの絵だというのと、ペトラルカ→エラスムス→セルバンテスを並び替える問題がありました。エラスムス→ルターに批判的→16世紀前半、セルバンテス→レパントの海戦で大けが→16世紀後半と連想できるかが問われました。
② 完成に600年以上かかったケルン大聖堂
参考
ケルンはウィーンやロンドンと並ぶローマ時代に建設された都市で、初代の大聖堂はキリスト教が公認された4世紀に建設されました。
その後建て替えがなされ、818年に完成しましたが1248年4月30日の火災で焼失、大司教の命によって同年に現存する3代目の建設が始まりました。
1320年に内陣は完成しましたが、1559年からは宗教革命による財政難により資金不足となり一時工事が中止されました。中は完成していたので教会としての役目は果していましたが、その後も再建と中止が何度も繰り返されました。
19世紀、ロマン主義の風潮の中でドイツの文化や歴史が「ドイツ人ナショナリズム」の高揚のために注目され、ゴシック建築もドイツ文化の象徴と見なされて復活が進んでいました。1814年に聖堂の設計図が発見されると、プロイセン政府からの援助もあり、1842年から工事が再開されました。
1848年の三月革命、1871年のドイツ帝国成立を経て1880年に大聖堂が完成しました。まさに帝国ドイツの国威発揚の象徴です。
その後も第二次世界大戦で被害を受け、戦後に修復が進むなど、ケルン大聖堂は常にドイツの政治的空間であり続けました。
ゴシック様式は窓を高くしてそこから差し込む光で神の威厳を演出し、商人たちが聖書の名場面や自らの職業の守護聖人などを描いたステンドグラスを奉納するなど、元来教会建築は政治的空間でした。
ケルン大聖堂の内部 卒業生提供
物議をかもした抽象的ステンドグラスについて
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③ 教会建築てんこ盛り
写真はステンドグラス以外はパブリックドメインQとGAHAGからお借りしました。
ビザンツ様式 ハギア=ソフィア大聖堂 一橋大学には建築好きの先生いるみたいで、ケルン、聖ヘートビヒの問題も同じ人の出題では?
ロマネスク様式。ピサ大聖堂。鐘楼は建てた時から傾き始めたそうです。あとヴォルムス大聖堂はドイツっぽいからゴシックかと思いきやロマネスク様式。首都圏難関私大の意地悪問題で見かけます。
シャルトル大聖堂のステンドグラス。最後の晩餐の場面。ウィキメディアコモンズ、パブリックドメインの画像
ルネサンス様式 サンタ=マリア大聖堂。円蓋はブルネレスキが設計。ブラマンテ(サン=ピエトロ大聖堂)じゃないですよ。
モスクワ 聖ワシリイ聖堂
まとめ
- グレゴリウス改革で教会刷新と俗人の教会運営を批判しローマ教会の権威を高めようとしたことが、かえってローマ教会の腐敗への批判につながった
- キリスト教の都市民衆への浸透の結果、彼らなりに聖書を解釈して、俗語による俗人の宗教活動や、清貧な生活を目指す運動が生まれた
- それはローマ教会の聖書にもとづかない世俗的なあり方への批判につながりかねないので、教皇はそれらに「異端」を宣告して異端審問などで排除した
- 異端と同じような信仰を持つが教会の公認を求めてきた集団は托鉢修道会として認定し、異端の排除や都市での信者獲得に利用した
- 14世紀の教皇庁の移転、教会大分裂で教会の世俗化や腐敗があからさまになり、神学者がそれを糾弾するが、同じく異端宣告される
- 教会の世俗化や腐敗を糾弾し、聖書中心主義、俗語による説教、儀礼の簡素化を求める運動は16世紀に再び活発化する
過去回
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