はじめに
本年度の旧帝大+一橋大学の世界史の入試問題の解答例を作りながら、大学が受験生に求める「学力」について考察し、次の受験生の勉強につなげたいと思います。
解答例を作るときには受験生と同じく何も見ないで作っていますが、作ってからは一通り教科書で確認しています(インチキ!)。
教科書は実教出版、帝国書院、東京書籍、山川出版社(詳説と新)を参照しています。補足は山川出版社の『詳説世界史研究』『世界各国史』を参照しています。
第6回は一橋大学です。400字論述が3題と二次に地歴を課す大学では最大級の負担、しかも年度によっては受験生が書くことに窮するような出題もあります。
問題は河合塾(産経新聞)代々木ゼミナール(読売新聞)から入手してください。解答例はぶんぶんに著作権があります。
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目次
一橋大学 2021年
Ⅰ
アヤ・ソフィア(ハギア・ソフィア)の建造の時代背景、モザイクの銘文設置の政治的・社会的背景を説明したうえで、複数回にわたる転用がなぜ起こったのかを念頭に置いて、この建物の意味の歴史的変化を論ずる 400字
リード文のヒント
- 19世紀の半ばに行われたモスクの修繕工事で、内壁の漆喰の中から聖堂時代のモザイクが発見された。
- 9世紀半ばの聖母子像には当初「異端者によって破壊された図像をここに取り戻す」という内容の銘文がついていた。
- モザイクはいったん埋め戻されたが、1930年代から本格的な調査・修復がすすめられ、モスクの博物館への転用を経て一般に公開されるようになった。
アヤソフィア。MarkusMarkさん撮影。ウィキメディアコモンズ、パブリックドメインの画像
解答メモ
4世紀の創建
6世紀
ユスティニアヌス帝が地中海を再統一、各地に教会を建築し、首都コンスタンティノープルではニケの乱で焼失したハギア・ソフィア大聖堂を再建する。
8世紀
レオン3世がイスラームを撃退。偶像崇拝を厳禁するイスラームと争う中で「聖像は偶像ではないか」という意見が出て、イスラームに対抗するためと、教会勢力を抑える目的で、726年に聖像禁止令を発布し、聖画像の破壊を命じる。730年にはすべての聖画像の破壊を命じた聖画像破壊令が発布された。
9世紀
何度か聖像禁止令が出され、聖像破壊(イコノクラスム)が行われるが、教会の根強い反対で最終的には聖像禁止令は取り下げられ、平面の聖画像は認められる(立体の像は不可)。スラヴ人への布教にも聖画像(イコン)が利用される。
13世紀
第4回十字軍がコンスタンティノープルを占領。1204年から1261年まではラテン帝国支配下でローマ・カトリックの教徒大聖堂とされていた。
15世紀
1453年にオスマン帝国がコンスタンティノープルを陥落させる。ハギア・ソフィアはミナレットやミフラーブが追加されて、聖画像は漆喰で塗りこめられて、モスクとして再利用される。
20世紀
1922年にトルコ共和国が成立、政教分離が国是となる。ハギア・ソフィアのイコンは漆喰がはがされ、1935年にモザイクとミナレットを持つ無宗教の博物館になる。
21世紀
2020年にエルドアン大統領が最大都市イスタンブールにある世界遺産の「アヤソフィア」の位置付けを博物館からモスク(イスラム教礼拝所)に変更する。
解答例
4世紀の創建とされるハギア・ソフィア大聖堂は6世紀に地中海を統一したユスティニアヌス帝によって再建され、コンスタンティノープル総主教庁および東ローマ皇帝の霊廟として用いられた。8世紀に偶像崇拝を厳禁するイスラームの進出に対して聖像を偶像とみなす考えが強まり、レオン3世は教会を抑える目的もあって聖像禁止令を発布し聖像は破壊された。その後も論争が続くが9世紀に禁止令は廃止され、聖画像は復活し布教に利用された。銘文の背景はこれである。13世紀に第4回十字軍がコンスタンティノープルにラテン帝国を立てるとハギア・ソフィアはローマ・カトリックの聖堂に転用された。15世紀にオスマン帝国がコンスタンティノープルを陥落させるとハギア・ソフィアはモスクに転用され、ミナレットやミフラーブが追加されて聖画像は埋められた。20世紀にトルコ共和国が成立して政教分離が国是となると、聖画像は戻され無宗教の博物館に転用された。399字
解答作成のポイント
このニュースがおそらく出題の動機。ただしリード文はここまで記述することは求めていないみたいです。
すでに京都大学、東京大学、東京外国語大学が、エルドアン大統領のイスラーム寄り政策が進む中で、「ムスタファ・ケマルはトルコ共和国を建て、政教分離を国是とした」ことを題材にオスマン帝国からトルコ共和国のナショナル・アイデンティティの変遷(オスマン主義、パン=イスラーム、パン=トルコ、世俗主義)を出題しています。
一橋も遅ればせながら出題、得意の「建築もの」です。過去問の「ケルン大聖堂と宗教改革とナショナリズム」、「聖ヘートビヒ教会と啓蒙専制主義」もタフな問題です。
これら過去問を解いていた受験生は「トルコ共和国の政教分離政策で無宗教の博物館になった」という結論に向かって教科書の知識を組み合わせていけばいいので、比較的取り組みやすい課題です。
「ラテン帝国でローマ・カトリックの教会にされた」が難しいですが、推理からひねり出せれば字数が整います。
聖像禁止令が9世紀に廃止されたことについては、リード文から推測できますが、教科書に載っています。ビザンツとギリシア正教圏の単元でイコンが出てくるのですから、どこかで廃止されていないとつじつまが合いません。
実教:「禁止令はビザンツ帝国内部の対立を招いて843年に廃止され」
帝国:「聖像禁止令の背景」という注釈の中で「その後843年に禁止令は撤回された」
東書:「聖像崇拝をめぐる論争ののちに843年に聖像崇拝禁止令が解除されると、神や聖人を描いた聖像画(イコン)がさかんに制作された」
山川新:「843年に公会議の議決によって復活した。以後はビザンツ帝国においても、モザイクや壁画・イコンなどの平面的な礼拝用画像が数多く生み出された」
山川詳説:「聖像禁止令をめぐってはその後も紛争が続いたが、聖像崇拝は9世紀半ばに復活した」
『新世界史』は「平面的な礼拝用画像」にふれています。立体は「偶像」という解釈でしょう。たしかにアイドルの等身大フィギュアとか(以下略)。
ペテルブルク州立宗教博物館で卒業生が撮影してきた聖母子画像
Ⅱ
「ゲーテの時代」と「レムブラント時代」の文化史的特性の差異を、史料1史料2を参考にして、当該地域の社会的コンテクストを対比しつつ考察 400字
史料1 レンブラント『織物商組合の幹部たち』
史料2 ゲーテ『詩と真実』より
- 我々の帝国の体制は褒められてものではない 法律の濫用で成り立っている
- フランスの現在の体制よりは優れていると考えた
- フランス文学は努力する青年を引き付けるよりは反発したくなる、生の享受と自由を求める青年を喜ばせるようなものではない。
リード文のヒント
「〇〇の時代」は、後代の人々がある時代を「新しい指導価値が突然国民の中に芽生えて生活が一新する、歴史的な裁量の時代」のように憧憬の感情で過去を振り返る際の言説。
解答メモ
レンブラント『織物商組合の幹部たち』
1662年作。集団肖像画の『テュルプ博士の解剖学講義』(1632年)、『フランス・バニング・コック隊長の市警団(夜警)』(1642年)よりも、ドラマ性と肖像画(ちゃんと人物の顔が見える)が両立している。
古典主義や啓蒙主義に異議を唱え、理性に対する感情の優越を主張し、後のロマン主義へとつながっていった。24歳の時に発表した『若きウェルテルの悩み』は、自身の恋愛経験から、因習と伝統を否定して個性と自由に生きる青年を描き、ドイツにおける疾風怒濤(シュトルムウントドランク)の時代の先駆けとなった。
ゲーテ『詩と真実』
誕生からワイマール公国に仕官する26歳までの半生を述べたゲーテ(1749~1832)の自叙伝。1811年~1814年に第3巻まで発表第4巻は1831年に完成し、死後の1832年に発表。
ゲーテ『若きウェルテルの悩み』
1774年初版(ゲーテ25歳)。友人の婚約者に一目惚れし何度も手紙や詩を送りするも奪い取ることができなかったことと、人妻に失恋して自殺した友人のことから構想する。若者を中心に熱狂的な読者が集まり、主人公ウェルテル風の服装や話し方が流行し、また作品の影響で青年の自殺者が急増するといった社会現象を起こした。
解答例
3月13日 ちょっと直しました。
レンブラントが活躍した17世紀のオランダは商人の連邦制共和国として世界商業の覇権を握りグロティウスらの学術も栄えた。当時各国ではバロック式の肖像画が流行したが、レンブラントは市民の集団肖像画を多く描いた。ゲーテが主に活動した18世紀後半のドイツはフランス革命直前の身分制の時代であった。当時宮廷では普遍性と合理性を重んじるフランスの啓蒙思想が好まれていたが、ゲーテは因習と伝統を否定して個性と自由に生きる青年を描き、ドイツにおける「疾風怒濤」の時代の先駆けとなった。これは啓蒙主義を根拠とするフランス革命に反発し、理性に対する感情の優越を主張するロマン主義へとつながり、19世紀のナポレオンのドイツ支配で高まったドイツ人ナショナリズムと結びついた。このようにゲーテの感情を重んじる作風はドイツのナショナリズムの勃興を、レンブラントの集団肖像画は商人国家オランダの繁栄を象徴するものと後世にみなされている。399字
解答作成のポイント
見た瞬間に頭が真っ白になる問題。(´・ω・`)
レンブラントはオランダ17世紀の人なので、オランダの覇権と集団肖像画が意味するところ(北海道大学の過去問にあり)を書けばいいが、ゲーテがいつの人かを知らないと、どの時代背景を書いたらいいかわからない。
高校世界史にはゲーテがヴァルミーの戦い(1792年)に従軍して「ここから、そしてこの日から、世界史の新たな時代が始まる」との言葉を残したことが有名です。
彼が従軍したのは仕えているワイマール公がプロイセンの甲騎兵連隊長だったからです。その時には彼はすでに作家として名声を博していました。解答例は貴族制時代を起点にしています。
リード文が「ゲーテの時代」と「レンブラントの時代」で史料はレンブラント、ゲーテの順番です。解答例は時系列にしましたが、入れ替えても問題はありません。
ぶんぶんの解答例は「ゲーテの時代」と「カッコつき」になっていることに注目し、別にゲーテもレンブラントもリアルタイムでドイツ人ナショナリズムを高揚しようとかオランダの連邦制を賛美しているわけではない、後世の人が自分の思いを過去に投影しているだけ、という一文を入れてあります。
*発展:『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲』は、類似する映画のように高度経済成長を理想化し懐かしむふりをしながら、ラストで「モーレツに頑張った時代を懐かしむなら今を自分なりにモーレツに生きろ!」とちゃぶ台を返します。
Ⅲ
「第一次文化大革命」の経緯を述べた上で、「4つの近代化建設」が1980年代の中国に与えた影響を説明 400字
解答メモ
- 1958年 毛沢東が独自の方法で社会主義実現を目指し大躍進政策を始めるが、人海戦術の工業化は失敗、大量の餓死者を出し、中ソ対立からソ連の援助も中止される。
- 毛沢東は国家主席を退き、劉少奇が国家主席に就任。
- 劉少奇と鄧小平の調整政策で一部経済の自由化をすすめたので経済が回復した。
- 米ソの雪解けで中華人民共和国が国際的に孤立している中、国内でも孤立感を深めた毛沢東は、1966年に党と国家の指導権を奪回するために、軍の支持を背景に思想闘争であるプロレタリア文化大革命を起こす。
- 紅衛兵を動員して劉少奇や鄧小平を「走資派」と攻撃して失脚させ、毛沢東は権力を取り戻す。
- 紅衛兵は知識人や文化財を攻撃して社会は混乱し、党指導部は暴走する紅衛兵を農村へ追放(下放)する。
- 林彪が後継者に指名されたが、毛沢東に野心を疑われ、クーデターを起こすが失敗、飛行機で逃走中に事故で死亡する。
- 毛沢東の夫人江青ら四人組が実権を握る。
- 1976年に毛沢東が死亡すると華国鋒が四人組を逮捕して文化大革命は終了。しかしこの10年の混乱で中華人民共和国はガタガタになる
- 華国鋒は「4つの現代化」を唱えるが、鄧小平が権力闘争に勝利して実権を握る。
- 鄧小平のもとで人民公社の解体、市場経済化や外国資本の導入など「改革・開放」政策が進む。
- その結果経済の近代化は進んだが、発展したのは沿岸部だけ。また政治は共産党一党独裁のまま。学生や市民らの民主化要求運動が始まる
- 1989年のゴルバチョフ訪中を機に民主化運動が高揚し、学生や市民は天安門広場に集まって大規模なデモを起こすが、人民解放軍に弾圧される。
解答例
1958年に毛沢東は独自の社会主義を目指して大躍進政策を実施するが失敗し、新たに国家主席に就任した劉少奇が経済を一部自由化した。これを反社会主義とみた毛沢東は66年に指導権を奪回しようと思想闘争の文化大革命を起こし、紅衛兵を動員して劉少奇や鄧小平を批判し失脚させた。紅衛兵は知識人や文化財を攻撃し軍とも衝突したので最終的に農村に追放された。その後林彪が毛沢東の後継者に指名されたが失脚し、次いで四人組が実権を握ったが、76年に毛沢東が死亡すると華国鋒は四人組を逮捕して文化大革命を終了させ、農業・工業・科学技術・国防の4つの現代化を唱えた。華国鋒から実権を奪った鄧小平は人民公社の解体、市場経済化や外国資本の導入など改革・開放を進めた。その結果沿岸部の経済は発展したが内陸部との格差が広がり、共産党の一党独裁に対して市民や学生の民主化要求が高まり、89年に天安門広場で大規模なデモが発生するが軍によって鎮圧された。400字
解答作成のポイント
当ブログの読者なら「ごっつあんです」問題。
本文中に「第一次文化大革命」とあるが、リード文の史料を読むと華国鋒は毛沢東の後継者として自らを正当化しようとして、そういう物言いをしていると解釈できる。文化大革命はいくつかに区分することも可能だが、今回は気にしなくていいはず。
後半部分は鄧小平の改革開放で経済は発展したが政治の民主化は進まず、第二次天安門事件に至ったことを書けばOK。これはブログで紹介した通り。
戦車に立ち向かう市民の動画はこちらから。
bunbunshinrosaijki.hatenablog.com
補足
文化大革命の発端となったのが、65年に姚文元が上海の新聞に発表した「新編歴史劇『海瑞罷官』を評す」です。
呉晗の京劇『海瑞罷官』に描かれた海瑞による冤罪救済や悪徳官僚に没収された土地の民衆への返還は、右派分子を肯定し農業集団化や人民公社を否定する(劉少奇の調整政策を肯定する)ものだと批判します。
毛沢東は彭徳懐(大躍進政策を批判した)の解任と海瑞の罷免を強引にこじつけ「『海瑞罷官』は彭徳懐解任を暗に批判した劇」と印象操作します。これがを契機に「資本主義的」とみなされた知識人への批判が始まります。
権力者の言説は何らかの意図を持っています。やっていることは正しい訳ではない、それを批判的に検証するのが国民主権の国のメディアのあり方です。
参考 瀬戸宏「呉晗と『海瑞罷官』」
http://www.zinbun.kyoto-u.ac.jp/~rcmcc/shinso8.pdf
文化大革命中に伝統的な京劇が社会主義的でないとの批判され、主人公が衆人の面前で自己批判させられるシーンがあります。監督さんは若いころ紅衛兵でした。
まとめ
- 一橋大学には高校の学習内容を試そうとする出題者と、そうでない出題者がいる。それがランダムに出現する。その観点で言えば今年も通常運転
- ヨーロッパ中世、ヨーロッパ近世~近代史、東アジア近現代史という大枠は変わらない。今年はイスラームも含むが共通テスト・私大レベルの知識
- 史料問題は「読解」より史料に関連する知識をどの程度持っているかの勝負
- 一見解答不能な問題であっても、教科書や資料集の知識を頼りに最大限の抵抗をする