ぶんぶんの進路歳時記

学習方法、進路選択、世界史の話題について綴ります

ウクライナの歴史まとめ その1(紀元前〜コサックの台頭)

 2022年2月24日からロシア軍がウクライナに侵攻し、3月22日現在も戦争状態が続いています。

 知り合いが2019年(コロナ禍直前)にロシアに留学していて、ガイドさんから「ウクライナの東部には行かないように」と言われたそうです。その原因は2014年にあり、それは今回のロシアのウクライナ侵攻の背景でもあります。

 今回はウクライナの位置する黒海北岸地域について穴埋めプリント方式で概観し、ウクライナについて考える機会とします。前半は紀元前の遊牧民の世界から16世紀のウクライナ=コサックの出現までを扱います。

 穴埋めプリントは2015年の立命館大学の入試問題(立命館は毎年1日は時事問題関連の出題を入れる)をベースにしています。

 一般書では山川出版社『詳説世界史研究』、各国史20『ポーランドウクライナ・バルト史』、同22『ロシア史』、『世界近現代史』Ⅰ~Ⅲ、中公新書『物語 ウクライナの歴史』を参考にしています。

入門書に最適です。

 聞き慣れない人名、地名も出てきますが、それを知識とすることが目的ではなく、世界史の教科書で学んだ内容をつなげて考えることを心がけます。

 画像は、クリエイティブコモンズパブリックドメインQ(クイズに正解するとダウソ可能)、GAHAG(アハ体験するとダウソ可能)を使っています。

目次

 

1 ウクライナの地理とステップ地帯遊牧民

フリー白地図さんより

www.freemap.jp

① ウクライナの地勢

植生:北部:森林圏 中部:森林ステップ圏 南部:ステップ圏

土壌:森林圏はポドゾル…酸性が強い森林土で耕作に不適

   ステップ圏は(1    )…肥沃で農耕に適する

河川:(2      )川 ウクライナの中心を南北に流れて黒海

    ドニエストル川 リヴィウ州からモルドバオデッサ経由で黒海

    ドン川 東部 アゾフ海へ     

山地:カルパティア山脈クリミア半島のクリミア山系

→平原が多く住民の移動が激しい。ステップ圏には遊牧民が進出

② ステップ圏の遊牧民

前6世紀 (3     )人

 ヘロドトス『歴史』に記述あり

 アケメネス朝と争う ギリシアと交易 騎馬技術を東方に伝える

 前2世紀頃にサマルタイ人に駆逐されてクリミア半島に逃れる

ステップ地帯遊牧民の通路

 4~5世紀 (4   )人 ゲルマン人の移動の原因

 5~8世紀 (5    )人 カール大帝が撃退

 7世紀 (6    )人 トルコ系。ブルガール帝国を立てる

 9世紀 (7    )人 オットー1世に敗北。ハンガリー王国形成

ハザール トルコ系の遊牧民

 7世紀 西突厥の衰退でハザール・カガン国として自立

 ウクライナクリミア半島カスピ海北部、カフカスを支配

 ブルガール人を圧迫、ササン朝イスラームと抗争

 東ローマ帝国とは比較的友好関係

 9世紀 支配層がユダヤ教を受容

 10世紀 キエフ公国の攻撃で衰退

空欄

1黒土

2ドニエプル

3スキタイ

4フン

5アヴァール

6ブルガール

7マジャール

補足

① ステップ地帯は穀倉地帯

高校講座地理 気候区分と土壌の関係

www.nhk.or.jp

 寒すぎると微生物が活動しないので土地は酸性化する、暑すぎると雨で土壌の有機物が流されてしまう、肥沃な土壌はバランスのよい気候のもとで形成されます。ウクライナのチェルノーゼムや北米のプレーリー、南米のパンパがそれにあたります。

 ただしウクライナの地域が大規模な穀倉地帯に成長するのはロシア帝国支配下に入る18世紀後半以後のことです。

 ウクライナの国旗(上下が青・黄)は、まさにこの風景です。GAHAGより

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 youtubeで見つけたウクライナの農業の様子 


www.youtube.com

② 遊牧民ユダヤ教を国の信仰に?

 世界史を学んでいると「様々な遊牧民がヨーロッパにやってきて名前が覚えられない」問題が発生しますが、地球儀や正距方位図法の地図を見ると、モンゴル高原からステップ地帯をまっすぐ西に進むと、黒海沿岸にぶち当たります。

国際連合旗で検証

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 この遊牧民の「十字路」であるステップ地帯に7世紀にトルコ系とされるハザール=カガン国(ハザール王国)が形成されました。

 6世紀に突厥がユーラシア中央部に大帝国を建設し、ハザールも服属しましたが、7世紀に西突厥が唐に服属するとハザール人は「カガン」を名乗って西突厥の継承者を自認し、ヴォルガ川流域のトルコ系ブルガール人を圧迫し(その一部はバルカン半島へ移動)、黒海北岸の草原地帯やクリミア半島に進出しました。

 ハザール人はカスピ海方面はムスリム商人と、黒海方面はビザンツ帝国と交易を行ない、北方でルーシが台頭するとヴォルガ川を遡って交易を行ないました。

 7世紀にアラブ人(正統カリフ時代ウマイヤ朝)がササン朝ビザンツ帝国と争い、ソグディアナにも進出しました。ハザールはアラブ人とカフカスの支配権をめぐって激しく争う一方、東ローマ帝国ビザンツ帝国)とは比較的友好な関係にあり、婚戚関係も結んでいます。

 9世紀にハザールの王がユダヤ教を受容すると、ビザンツ帝国ムスリム諸国から逃れてきたユダヤ教徒がハザール王国に集まりました。

 遊牧民ユダヤ教というのはピンとこない取り合わせですが、ビザンツ帝国イスラーム帝国に囲まれる中で、住民はともかく(ムスリムが多い)王侯は別の信仰をしている方が「三すくみ」状態を維持できます。

 しかし北方からキエフ・ルーシが台頭するとハザールは衰退、10世紀にスヴァトスラフ大公(後述)の遠征でサルケルの要塞が攻略され、王朝は事実上崩壊しました。

 なおウクライナにはユダヤ人(アシュケナジ)は多い地域です。ハザール国の末裔説、ハザールの話を聞きつけてユダヤ教徒が移住した説などがあるそうです。

 

2 スラヴ人とノルマン人

世界の歴史まっぷさんの地図をお借りしています。ぶんぶんは「世界の歴史まっぷDL」正規ユーザーです(これはダウンロードシステムができる前にダウンロードしたもの)

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sekainorekisi.com

① スラヴ人 

 インド=ヨーロッパ語系(8      )山脈が原住地

 ゲルマン人の移動で各地に拡大

  西スラヴ系 ポーランド人、チェック人(ベーメン王国)

  南スラヴ系 セルビア人 クロアチア人 スロヴェニア

  東スラヴ系 ロシア人 ベラルーシ人 ウクライナ

② ノルマン人(ヴァイキング

 インド=ヨーロッパ語系 スカンディナビア半島が原住地

 9世紀:[9    ]の率いたルーシが(10      )国を建国

 子孫がドニエプル川流域の(11    )を都にする(後のキエフ公国)

 [12      ]:キエフ大公 10世紀末に(13    )に改宗

 →遊牧民が南部ステップ地域に侵攻、公国の分割相続で衰退

空欄

8カルパティア

9リューリク

10ノヴゴロド

11キエフ

12ウラディミル1世

13ギリシア正教

補足

① スラヴ人ヴァイキング

 ゲルマン人がいなくなったバルト海沿岸にはスラヴ人が広がりました。現在のロシア、ベラルーシウクライナに住む人々は東スラヴ人に分類され、西スラヴや南スラヴと共通性を持ちながら、イラン系(スキタイやサルマタイなど)、バルト系、フィン系など周辺諸地域の人々と混血しながら形成されたと考えられます。

 8世紀に農耕や牧畜で生活していたスラヴ人地域にハザールの商人が来訪し、スラヴ人が装飾品、金属、布を買い、蜂蜜、毛皮、奴隷を売るという交易が盛んになります。ヴォルガ水系でアラブの銀貨(ディルハム貨)が発見されています。

 商品経済は政治組織の形成を促進し、有力者が交易や統治のための拠点を築きますが、それらがノヴゴロドやキーウ(キエフ)にあたります。

 12世紀初めに記された『ロシア原初年代記(原題直訳:過ぎにし歳月の物語)』によると、スラヴ人ノヴゴロド周辺で部族を形成していて、ヴァリャーグ人(バルト海ゲルマン人ヴァイキング)と争いました。しかし9世紀半ばにルーシのリューリクが勝利し、スラヴ部族から貢納を取り立て、有事の際は兵士の動員を課しました。

 キエフドニエプル川中流にあり、黒海にもビザンツにも近い要衝で、ノヴゴロドでの争いからの逃亡先でした。9世紀末にリューリクの一族であるオレーグがスラヴ人を引き連れて南下、周辺部族を破ってキエフを占領しました。これが「キエフ・ルーシ」の起源とされます。

 ところが最近の考古学発掘調査によると,ノヴゴロドは10世紀半ばにはじめて建設されたようで、9 世紀段階ではその南の集住地ゴロジシチェが中心だったようです。

 リューリクに関する記述も『年代記』に見られるだけで、史的実在が疑わしいそうです(日本書紀のあの人みたい?)。そうするとオレーグの南北ルーシの統一話や彼の素性も怪しくなります(ここまで『詳説世界史B』の教員用解説本)。

 歴史的な記録には意図とそれが書かれた背景があります。この場合はキエフ・ルーシが傾きかかった12世紀に年代記が編纂されたことがミソです。史料を鵜吞みにせず、複数のテキストや考古学資料を批判的に吟味することは歴史学の一丁目一番地です。

② ウラディミル1世

 プーチン大統領ファーストネームはウラジーミルですが(「ウラジーミル、君と僕は、同じ未来を見ている」で一躍有名に)、こちらのウラジーミルも戦争好きです。

 彼の父スヴァトスラフはハザールを打ち破ってヴォルガ川からカスピ海への交易ルートを奪い、さらにブルガール人を攻めてバルカン半島に進出しました。

 彼の死後長男ヤロポルクが大公の地位に就き、次男を殺害したので三男のウラジーミルはヤバいと思って支配地のノヴゴロドをを脱出、兵を集めてキエフに進撃し、途中ポロツクを征服してヤロポルクの嫁を掠奪します。(´・ω・`)

 ヤロポルクを殺害して大公に就いたウラジーミルは、東スラヴ族を破って貢納を課し、西ではポーランドリトアニアと河川の支配をめぐって争いました。

 ビザンツ皇帝はアナトリアの反乱を抑えるためにウラジーミルに援軍を要請しますが、ウラジーミルは皇帝の妹を妻にすることを要求、ビザンツ皇帝はキエフ・ルーシが洗礼を受けることを条件に要求を飲みました。

 キエフ・ルーシの周りを見ると、ハザールはユダヤ教、その向こうにはイスラーム、西ではブルガール人がギリシア正教ポーランドベーメンカトリックを受容し、スカンディナヴィア半島の王権もキリスト教の受容に傾いていました。

 彼の祖母にあたる摂政のオリガはキエフ・ルーシの内政を整備し、コンスタンティノープルで洗礼を受け、ローマ教会やオットー1世とも関係を築いていました。

 そういう国際状況の中で、ウラジーミルはギリシア正教を受容することでビザンツ帝国と提携を強化し、自らを権威づける作戦を選んだと考えられます。この結果ビザンツの文化やキリル文字キエフ・ルージに流入しました。

 中でも有名なのが遊牧民との争いを描いた『イーゴリ軍記』で、19世紀にボロディンがこれをもとに歌劇『イーゴリ公』を作曲しています。

聖ソフィア寺院 世界遺産検定公式チャンネル


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イーゴリ公』の「韃靼人の踊り」。一度は聴いたことのある名曲。


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3 モンゴル帝国の支配と自立

14世紀のリトアニアポーランド王国ウクライナ

Gustavo Szwedowski de Korwinさん作成 Creative Commons Attribution-Share Alike3.0Unported

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Jagiellon_Realm.png 

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① タタールのくびき

1240年 [14    ]の遠征 キエフを破壊

(15     )ハン国(ジョチ=ウルス) 都:(16     )

ガリーチ=ヴォルイニ公国、現ガリツィア(ハリーチ)地方を支配

 ジョチ=ウルスに臣従するも独立を保つ

 *「ウクライナ人の最初の国家」とされる

 14世紀半ばにポーランド支配下に入る

② リトアニア公国

バルト海十字軍やドイツ騎士団との抗争 14世紀にカトリックを受容

1362年 ジョチ=ウルスに勝利

 ガリツィアを除くウクライナベラルーシを併合

1386年 リトアニアポーランド王国…(17    )朝

 ポーランド女王ヤドヴィカとリトアニア公ヨガイラが結婚

 ドニエプル川流域で農奴制強化 西ウクライナ穀物バルト海へ輸送

③ ジョチ=ウルスの後継国家

15世紀:ジョチ=ウルスが分裂

 クリミア半島…(18     )=ハン国(クリム=ハン国)

  タタール人のイスラーム国家 奴隷貿易で繁栄

  15世紀後半にオスマン帝国に従属 

 カスピ海北岸…アストラハン=ハン国

 ヴォルガ川流域…カザン=ハン国

モスクワ公国

[19     ]:1480年モンゴル支配からの脱却を宣言

         ビザンツ皇帝の姪と結婚

[20     ]:16世紀 ツァーリを自称

         カザン=ハン国、アストラハン=ハン国を併合

         コサックの首領[21     ]のシベリア進出

④ ウクライナ・コサック

(22     )(カザーク):ドニエプル川両岸に住み着いた武装集団

 全体会議(ラーダ)でリーダー(ヘトマン)を選ぶ

 「ザポロジエ」(中洲の要塞基地)を拠点(ザポロジエ=コサック)

 17世紀 ヘトマン国家、ポーランドと争う

空欄

14バトゥ

15キプチャク

16サライ

17ヤギェウォ

18クリミア

19イヴァン3世

20イヴァン4世

21イェルマーク

22コサック

補足

① 「タタールのくびき」とウクライナ国家の起源

 キエフ・ルーシは相続争いで分裂し、12世紀頃には各地で公国が分立しました(そのひとつがモスクワ公国)、また十字軍以降に地中海交易が活性化すると、水系で毛皮や奴隷をコンスタンティノープルへ送る交易にも陰りが見え始め、キエフの大公はすっかり名目上の存在になっていました。

 13世紀にモンゴルが台頭し、またもや黒海ステップ地帯にやってきます。バトゥの軍勢は次々と諸公国を破り、1240年にキエフは陥落しました。

ノヴゴロドはこの遠征ルートから外れたので生き残り、ハンザ同盟の在外公館が置かれました。

 諸公国はモンゴルの支配に服し、税を納める代わりに存続を許されました。交易も再び活発になります。この時モンゴルに従順だったのがモスクワ公国で、ジョチ=ウルスから他の公国から税金を徴収する地位を与えられます。番長の威光を傘に偉そうにする子分みたいです。(`ヘ´) プンプン

 ウクライナ西部のガリツィア(ハリーチ)とヴォルイニの公国もバトゥに抵抗しますが1246年に臣従します。その後リヴィウ(リヴォフ)に都を移して両者は統合、14世紀にはバルト海黒海を結ぶ商業都市として栄えます。

 プーチン大統領は「ウクライナは単なる隣国ではない、われわれの歴史、文化、精神的空間は不可分だ」と言っていますが、ウクライナはこのガリーチ=ヴォルイニ公国を「ウクライナ人国家の最初」としています。

 「何を私たちのオリジンとするのか」、いわゆる「歴史と記憶(集団のアイデンティティーと結びついた集合的記憶)」は、最近の歴史学の関心事です。

大阪大学がAO入試に「適塾入試」とつけようとして、文学部の先生が「懐徳堂大阪大学の起源」と反論したのは、まさに「記憶と表徴の争い」だと阪大の先生が言ってました。

リヴィウの様子


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② リトアニアポーランドウクライナ支配

 リトアニア人はインド=ヨーロッパ語系に属しますが、ゲルマン人ともスラヴ人とも違う集団で、バルト語を話し(現在は消滅)、多神教を信仰していました。

 13世紀はじめ、バルト海も十字軍の対象となり、ポーランドドイツ騎士団を誘致します。この戦いの中でリトアニア王国が形成され、崩壊したキエフ・ルーシの領域を支配下に置きました。

 一方ポズナニ周辺を本拠としたピアスト家は、10世紀半ばに領土を広げていき,966年にはローマ= カトリックに改宗しました。

*ぶんぶんは冷戦まっただ中の幼少期、当時の教皇ヨハネ=パウロ2世)がポーランド出身で、「ポーランドってソ連寄りだからギリシア正教ちゃうの?」と思った覚えがあります。

 12世紀になるとポーランドはピアスト家の家門系列ごとに分侯国が並び立ち、シュレジエン(現シロンスク)などで西方から植民者を招致する「東方植民」が進みました。

 しかしバトゥ率いるモンゴル人の襲来によって国土は荒廃し、ドイツ騎士団は異教徒を退治するために誘致したのに、次第にポーランドの領土まで侵食し始めました。
 14世紀半ばに「大王」と呼ばれるカジミェシュ3 世のもと、ポーランドでは政治統合が達成され、全国で統一的な法典と通貨体系,徴税・行政組織を備えた国家組織が整備されました。彼はクラクフ大学の創設者(1364年)としても有名です。

 また領土も広がり、先述のリヴィウを含むハーリチ地方を支配下におさめました。その後長くハーリチ地方はポーランド領でありつづけます。

 ピアスト朝が断絶するとハンガリーアンジュー家が後を継ぎますがこちらも後継ぎがおらず、女王ヤドヴィガが婿を取ることにしました。

 そこでリトアニア大公ヤゲウォと結婚して両者が同君連合となり、リトアニアカトリックを受容します。そして1410年にドイツ騎士団との決戦に勝利します(タンネンベルクの戦い)。

 16世紀にポーランドは士族身分であるシュラフを主体とする身分制議会を持つ「共和国」となり、黄金時代を迎えます。

 しかし18世紀にポーランドは解体され、第一次世界大戦後に復活するとウクライナの領有をめぐってソヴィエト=ロシアと戦争になります。「黄金時代の領土回復」は「ナショナリズムの喚起」に他なりません。

*いくら首相が小走りで迎えに行こうが、名前で呼ぼうが、プーチン大統領スターリンと同じく北方領土を返さないのはこれと同じ理屈です。

 こうしてウクライナの西側はポーランドリトアニア支配下のもと、西欧の文化を強く受けるようになりました。ただ「ウクライナは東西で別の国」という言説は政治利用される危険があるので注意が必要です。

③ コサック

 コサックとは「向こう見ず」「自由な人」という意味のチュルク語に由来し、元来はトルコ人タタール人の山賊や戦士でした。

 15世紀から16世紀にかけてジョチ=ウルスが解体し、各地に後継国家が出現しますが、現ウクライナステップ地帯は権力の空白区で、遊牧民タタール人)が村を襲って奴隷狩りをするなど『北斗の拳』の「ヒャッハー!」状態でした。

 しかしこの地域は豊かな農業・狩猟・採集の場でもあります。そこでモスクワ公国やポーランド王国から逃亡してきた農民が移り住み、自由な軍事的共同体を形成します。彼らも「コサック(コザック)」と呼ばれるようになり、今度は彼らがタタールの家畜を奪ったり、アルメニア商人の隊商を襲ったり、クリミア=ハン国やオスマン帝国の村を荒らしたりします。

 コサックの中にはリトアニアポーランドにやとわれて国境の警備をするものも現れ、ドニエプル川流域にコサックの町が出現します。こうしたコサックたちを統括するのが「ヘトマン」です。ヘトマンは、最初は王国の役人から任命されていましたが、コサックが自立を強めると自分たちで選ぶようになりました。

 ポーランドの干渉を嫌うコサックたちはさらに南下してドニエプル川下流川中島に要塞(シーチ)を作ります。これが「ザボロージェ」(早瀬の向こう)で、後にドン=コサックと区別するためにウクライナのコサックは「ザボロージェ=コサック」と呼ばれるようになります。

 文献でドニエプル川両岸地域を「ウクライナ」と呼ぶようになるのも、コサックが活躍するこの時期のからです。

ロシアが「制圧した」と発表したザポリージャ原子力発電所はここ。川中島です。 Ralf1969さん撮影 Creative Commons Attribution-Share Alike 3.0 Unported、2.5 Generic、2.0 Generic 、および1.0Generic

commons.wikimedia.org

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 特にコサックの軍事力をあてにしたのがポーランド王です。ポーランドは先述の通り貴族の共和国で王が戦争をしようとしても議会の承認が必要なため、王はモスクワ公国やオスマン帝国との戦いにコサックを雇いました。

 とはいえコサックは愚連隊、命令を聞かないというか聞かないから強いのです。そこでポーランド王はコサックに登録制を導入し、登録したコサックについては給与や自治権を認め、その代わり王に忠誠を誓わせます。

 これはコサックにとっても悪い話ではありません。ポーランドはコサックを統制下に置くことに成功しますが、登録数が限られているためコサックの中で格差を生むことにつながりました。

*発展

 コサックはウクライナ以外にもいます。有名なのはドン・コサック出身とされるイェルマークで、イヴァン4世から依頼を受けたストロガノフ家(おいしそうな名前)に雇われ、シビル(シベリア)=ハン国(カザン=ハン国のさらに東)を攻撃しました。

 ステンカ=ラージン(スチェパン・ラージン)もコサックの首領で、『ステンカ=ラージンの歌』に「ドン・コサック」「ヴォルガ」が出てきます。

ウクライナの民族舞踊「ゴパック」イーゴリ・モイセーエフ記念国立アカデミー民族舞踊アンサンブル


www.youtube.com

コサックダンス。「南ロシアの民族舞踊」とありますが、背景にひまわり畑が出てくるのでウクライナ・コサックのことです。


www.youtube.com

ステンカ=ラージンについて 動画あり

www.worldfolksong.com

 

まとめ

  このブログを書くきっかけは、日本経済新聞2022年3月の池田嘉郎准教授の記事です。池田氏ウクライナは「破砕帯」、周囲を帝国に囲まれて武力紛争が起こりやすく、小さな民族同士がどちらの味方につくかでいがみ合い、帰属がめまぐるしく替わるために民族の歴史が重層構造になっていると指摘しています。

 その複雑な歴史を現在の国家が自らのアイデンティティにしようとするので、話がややこしくなります。

 有料会員記事

www.nikkei.com

 「ウクライナについて話し合いましょう」のような学習では手に負えないレベルの話がこの後も続きます。

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