ぶんぶんの進路歳時記

学習方法、進路選択、世界史の話題について綴ります

太宰府天満宮に行ってきた

 先日とある事情でぶんぶんは福岡県太宰府市にある太宰府天満宮に行ってきました。そろそろ受験シーズンも本格化、全国の受験生に成り代わってぶんぶんがみなさんの合格祈願をしてきました(お賽銭は常識の範囲内)。

 今回は学問の神様と称される菅原道真を祀る太宰府天満宮を紹介します。

公式 今回のブログはこれと山川出版社『詳説日本史研究』を参照しています。

www.dazaifutenmangu.or.jp

目次

 

1 場所

open street map


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 JR博多駅から地下鉄、西鉄を乗り継いで太宰府駅下車、乗車時間は約50分です。近くには九州国立博物館があります。

 駅舎は本殿をイメージしています。

2 菅原道真

 菅原道真(845~903)は学者の家に生まれ、862年に18歳で文章生となり、870年には対策に及第、877年に文章博士になりました。その間、少内記に任じて多くの詔勅を起草し、また民部少輔として朝廷に出仕しつつ、文章の代作や願文の起草など盛んな文章活動を続け、880年には私塾である菅家廊下を主宰しました。

 道真は886年に讃岐守に任じられ、帰京後宇多天皇の信任を受け、蔵人頭に抜擢されました。894年に遣唐大使に任命されたものの唐の情勢悪化(875年 黄巣の乱)を進言しました。歴史家としては『三代実録』の撰修に参加、『類聚国史』も編修しました。

 道真が生きた9世紀は律令体制が緩み、天皇と親しい少数の皇族や貴族が政治に進出、その立場を利用して土地を私的に集積して勢力を振いました(権門勢家)。

 政治も天皇と個人的な結びつきを持つものが動かすようになり、天皇の父方(賜姓源氏)や母方(藤原氏などの外戚)に加え、当時の政治文化である漢文学の教養に秀でたものも重用されました。この「学者枠」が菅原道真で異例の速さで昇進しました。

 897年に宇多天皇から譲位された醍醐天皇藤原時平とともに道真を重用、899年に時平の左大臣、道真を右大臣に任じました。しかし時平の陰謀によって道真は901年に太宰府に左遷され、903年に没しました。

*そういえば某国でも世襲議員が研究成果にもとづいて政府に提言する学者を毛嫌いする傾向にあります。反知性主義の極みです。

 大宰府政庁。道真は政庁横のあばら寺に軟禁状態にされ、形式上の役職はあるものの政務は禁じられ、衣食住もままならない中で亡くなりました。まるで死刑にできないから死ぬのを待っているような扱いです。(´;ω;`)ウッ…

 彼の死後「道真のたたり」と称される不審死が相次ぎ,時平も39歳で没します。朝廷は923年に道真の罪を取り消して本官に復し,993年には正一位太政大臣を贈りました。

 『北野天神縁起絵巻』に描かれた清涼殿落雷事件。930年に朝議中の清涼殿に落雷があり、大納言藤原清貫をはじめ朝廷要人に多くの死傷者が出て、ショックで醍醐天皇崩御しました。これも道真の怨霊が原因とされ、947年に北野天満宮において道真は神として祀られるようになりました。パブリックドメインの画像。

 天満宮のHPによると、道真の亡骸を牛車で運んでいる最中に牛が動かなくなり、京都から追従した門弟の味酒安行がここに道真を埋葬し、廟を建てました(安楽寺)。919年には勅命により御社殿が造営され、1591年に筑前国小早川隆景の寄進により現在の本殿が造営されました。これが太宰府天満宮の起源です。

 太宰府天満宮は「天原安楽寺天満宮」と呼ばれ、道真は十一面観世音菩薩を本地に持つ神として信仰されていましたが(本地垂迹説)、明治初期の神仏分離令を受けて安楽寺は廃寺になり、神社として存続しました。

 太宰府天満宮は全国に約1,200ある天満宮の総本山で、北野(京都)と防府(山口)を加えて三大天満宮と呼びます(諸説あり)。学者であった道真は学問の神とされ、毎年各地の天満宮には受験生が詰めかけ合格祈願の絵馬を奉納します。

カンコー(菅公)は菅原道真のこと

kanko-gakuseifuku.co.jp

3 天満宮の様子

 小学校と私立高校のふもとにある駐車場から誘惑の多い参道を歩いて入り口まで約10分、境内も広いです。修学旅行で神頼み弾丸ツアーを計画する際には、境内と駐車場の往復時間、お詣り・おみくじ・お守りの購入、食べ歩き・お土産購入の時間を考えて1時間以上は見ておきましょう。

 参道の土産物店ですみっコぐらし発見。5人の仲間が合体して天満宮の花紋(梅)になっています。ボルテスV

 天満宮では牛が神獣です。高校生が道真にあやかるため牛の頭を熱心になでなでしていました。おかげで頭だけ色が違います。

 実家の近所にある天満宮にも同じ牛がいます。

 菅原道真を象徴する花が梅で、境内に多数植えられていました。

 説話によると、道真が京の都を去る時、庭に植えられた梅の木に

東風(こち)吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ

という和歌を詠むと。その梅が京の都から太宰府の道真の住む屋敷の庭へ飛んできたそうです(飛梅伝説)。

commons.wikimedia.org

 参道各所で売っている「梅が枝餅」は、道真が左遷直後軟禁状態で食事もままならなかった時に、老婆が軟禁部屋の格子ごしに梅の枝の先に餅を刺して差し入れたという伝承が由来とされます(諸説あり)。お越しの際は出来立てを食べ歩きしてください。

 ぶんぶんが行った17日は限定商品である古代米を使った梅が枝餅が販売されていました。昨今の原材料費の高騰で150円に値上がりしていました。

 現在本殿は2027年(道真死後1125周年)に向けて建て替え中です。近くにモダンな仮本殿がありました(HP見てください)。

 昔の本殿。パブリックドメインの画像。上条ジョーさん撮影

 修学旅行生がおみくじを引いていました。おみくじには道真の和歌が載っていて、大吉かつ菅原道真を表わす「25」(生まれたのが6月25日、亡くなったのが2月25日)のくじには梅の和歌が載っています。おみくじには受験生に配慮して「凶」は入れていないそうです。まあおみくじで心が折れているようでは第一志望合格は遠いです。

 許可を得て撮影しています。「吉」は二番目によい運勢なのですが文面は結構辛口で、入学には神助がいるそうです。したがってこの後は社務所でお守り(以下略)。

追記

 ぶんぶんの実家の近くの天満宮では「道真公ナンバー」にちなんで毎年10月25日に神事が行われます。その日には旧町内のだんじりや鬼行列が繰り出しますが、最近は観光客を当て込んで祭りは土日に実施し、神事のみ25日に行っています。

だんじりにも梅のマークの牛が描かれています。

おわりに

 昔NHKその時歴史が動いた』に菅原道真の回があり、道真の改革プランを時平が横取りして自分の手柄にしましたが、時平は忘れさられ(詳しい日本史の教科書で細字の扱い)、道真は今なお多くの人の信仰を集めている、と結んでいました。

 物事に真摯に取り組んでいればいつかは評価されるものです。楽をすることや人を蹴落とすことばかり考えていたら、どこかでツケを払うことになります。

 天満宮は修学旅行生でにぎわっていました。家に帰ったらぜひ参拝やお守りの効果を試してください。つまり机に向かいましょう。

 「飛梅伝説」から推測するに、梅はワームホールの入り口で、道真公は全国の天満宮に植えられた梅のネットワークを介して日本中の受験生を応援しています。皆さんの態度は道真公に筒抜けですよ!

(。=_=)ジィー・・>>>>>>>>>>()`ν゚)・;'.、グサッ!!