はじめに
2023年にNHKの不見識な体操のおかげで逆に話題になった古代メキシコ展、東京、太宰府と巡回してやっと大阪にやってきたので鑑賞してきました。
営利目的でないならブログに写真を使ってもOKとのことなので、展示物の紹介を交えながら展覧会のみどころと古代メキシコの歴史について考えます。
公式
入り口 石の壁風の演出
目次
1 古代メキシコ文明
*東京書籍『世界史探究』を参考にしています。
今から1万2000年以上前、ベーリング海峡が陸続きであったころ、ユーラシア大陸からモンゴロイドの一部がアメリカ大陸に渡り、独自の文明を生み出しました。
金・銀・青銅などの金属は使用されましたが鉄器は用いられず、馬や車両も使われませんでした(世界史の記憶法では「鉄なし馬なし車輪なし」)。農業ではトウモロコシやジャガイモなどの栽培に高度な技術が見られました。
アメリカ大陸のうち農耕文化が大きく発展したのは、メソアメリカ(現在のメキシコと中央アメリカ)とアンデスで、これらの地域に人口が集中しました。
メキシコ湾岸では紀元前1200年ごろに泥と石を用い広場を備えたピラミッド型神殿、石彫の顔、絵文字、ジャガーを神格化するオルメカ文明が成立し、その後の中央アメリカの諸文明に影響を与えました(世界史記憶術では「オルメカ=大きな面」)。
ジャガーの幼児像。口がへの字なのがジャガーを表わしています。
参考
後1世紀のメキシコ高原では多くの巨大な階段ピラミッド型神殿を持つティオティワカン文明が生まれ、6世紀まで栄えました。
ユカタン半島一帯では紀元前1000年ごろからマヤ文明が形成され、後3~9世紀に多くの都市が栄えました。マヤ文明は石造建築、二十進法、高度な暦法、マヤ文字が使用されました。
10世紀になるとメキシコ高原ではトルテカ人やチチメカ人が古典文化を継承し、新たな都市文明を発達させました。12世紀ごろこの地域に移住してきたアステカ人は14世紀に現在のメキシコシティがある場所に湖上の都テノチティトランをつくり、諸都市を服属させ、16世紀初頭にはメキシコ湾岸から太平洋岸までを支配下におさめました。これがアステカ王国です。
本展示会はこのティオティワカン、マヤ、アステカについてです。
地図
2 ティオティワカン文明
文明の中心地には太陽のピラミッドが日没の方向に建てられていて、そこから「死者の大通り」と呼ばれるメインストリートに沿って月のピラミッド、羽毛の蛇ピラミッドが建っていました。これらは何十年かの周期で建て替えられ、その時に多数の生贄(殉死者)が捧げられ、副葬品が添えられました。古い建材は別の場所で使用されたので、伊勢神宮の式年遷宮みたいです。まさに「権力の視覚化」です。
太陽のピラミッドの広場から出土した死のディスク石彫。舌を出す頭蓋骨の周りに放射状のモチーフが描かれています。鼻にはナイフを差し込んだようです。メソアメリカでは日没は死、日の出は再生を表わすので、これは沈む太陽と考えられます。
昭和世代のぶんぶんは「ベロを出して死ぬ」というと「ベロだしチョンマ」を思い出します。
月のピラミッドから出土した生贄に刺さっていたヒスイの銛。王や高位の神官が「放血」という自己犠牲を示す行為の後と思われます。((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル
羽毛と蛇のピラミッドは市民10万人を収容できる大儀式場で、ピラミッド周辺からは生贄と副葬品が多く出土しています。これは巻貝を加工したトランペットで、絵柄がマヤ文明と類似しているので両者の交流をうかがわせます。
三足土器。心臓をえぐられた生贄とその心臓を挿したナイフを持つ神官または戦士の絵が描かれています。NHKの不謹慎体操の元ネタですが、メソアメリカでは太陽は消滅するという終末論が広く信じられていて、人間の心臓を神に奉げることで太陽の消滅を先延ばしできるという考えから人身供儀が行われていました。
王権がこの儀式を独占することが権力と結びついていたと考えられます。広域政権を建てたアステカ王国ではこの儀式のために対外戦争を続けたとも言われています。
3 マヤ文明
マヤ文明は後1世紀には王朝の形成が見られ、3世紀から10世紀にかけてピラミッドなどの公共施設や高度な暦法が発達しました。
マヤの都市は熱帯低地にあり食糧の保存が難しいため経済の統制や軍隊の維持が困難でした。そこで権力者は建築(チチェン・イッツァは有名)や祭儀で共同体の結びつきを誇示することを政治の拠り所としていました。そのためには王は祖先の系譜や神話にで自らを権威付けする必要があり、その結果高度な暦法や文字が発達したといえます。
マヤの土器。中央の十字形は金星で尾を引くのは流星。メソアメリカでは金星は太陽や月と並んで信仰や観察の対象でした。
マヤ文字の石板。96人の王の名前が刻まれています。
女性の書記。公務に携わる女性の像は珍しいです。
チャックモール。心臓を置く台。
近年の発掘で「赤の女王」と呼ばれる埋葬者が発見されました。散らばっていた装身具を復元して、棺に納められた時の様子をほぼ再現していますが、女子の寝室をブログに掲載するのは控えさせていただきます。現場で見てください。
4 アステカ文明
13世紀にメソアメリカ北部からメシーカ人らナワトル語を母語とする集団がメキシコ中央高原に渡来しました。彼らが建国したアステカ王国は経済力や軍事力でメソアメリカの都市文明を支配下に置きましたが、さらに彼らは首都テノチティトランに滅亡したティオティワカン文明の建築を模倣した神殿を立て、その神話を借用するなどして自らを権威付けました。
戦後にできた新制高校が、ただ同じ場所にあったというだけで縁もゆかりもない旧制中学や果ては江戸時代の藩校を自らのオリジンにするようなものです。
ティオティワカン文明 月のピラミッドの副葬品
アステカの仮面。ティオティワカンの仮面に目や歯や耳飾りをつけたもの。
鷲の戦士像。タツノコプロのあれ。
アステカの神々は天上界の13層、地下界の9層に住み、それぞれが暦に応じて地上の万物や天体の動きを支配したとされます。神々は時に多様な神格に分かれたり(ヒンドゥーの神々?)、合体して唯一神になったり(六神合体?)すると信じられていたので、それぞれを祀る神殿が建てられました。
テスカポリスカ神の細工入りの骨壺。戦闘国家アステカでは同胞の戦死者を称える「犠牲のシステム」が構築されていたようです。
アステカの王は神々の祭祀を取り仕切ることで周辺諸国に畏怖心を抱かせて支配し、特に人身供儀はアステカ王国の軍事拡張と結びつき(生贄を多く捧げるために周辺国を征服して捕虜を得る)、心臓を取り出す儀式は新たな意味づけがされて大々的かつ組織的に行われたと考えられます。
しかしアステカ帝国のこうした高圧的な態度は諸都市の反感を招き、スペイン人がこれに付け込んで諸都市を離反させたためアステカ王国は孤立し、1521年にコルテスの軍勢に敗北し滅亡しました。「おごれるものは久しからざる」です。
展示ラストは金細工でしたが心臓型のものもありました。
おわりに
昨今は高校一年生が日本と世界(主にヨーロッパと中国)の近現代史の学習をしながら概念知識を学習する教育課程になっています。
しかし近現代史の国民国家と国民統合を考える際に避けて通れないのが「人々を統合するためには何を権威にするか」という問題です。ぶんぶんは世界史を長くやっているので、これを近現代史の学習だけで生徒が理解した気になるのは「上滑り」感がしてなりません。
世界史のいいところは、様々な時代・地域のケーススタディーで「新しい出会い」と「比較・関連付け」をしながら、自分の価値観をアップデートし、自分たちの身の回りの出来事を違った視点で再考できるようになるところです。
心臓の人身供儀も、NHKのように現代の目線から興味本位で茶化すのではなく、それが当時の人々のどういう心性の表れか、またそれが時代を経るにしたがって新たな意味づけがされていくこと、これらを考察することで各時代のあり様や私たちのあり方を再考する題材にしたいものです。
宗教と権威、権力の視覚化、そして他人の文化や歴史を剽窃して自らの権威付けに使うなど、近現代史を教える際にも有効な視座をいただきました。
会期は5月6日までです。お早めに。