ぶんぶんの進路歳時記

学習方法、進路選択、世界史の話題について綴ります

聖徳太子展@大阪市立美術館2021

はじめに

 新型コロナウイルス感染症は小康状態で、各種イベントも感染に注意しながら開催されています。今回は大阪市天王寺区にある大阪市美術館の「聖徳太子 日出づる処の天子」展に行ってきました。

 展示品は撮影できなかったので、画像はウィキメディアコモンズにある類似したものを利用しています。

公式サイト

taishi1400.exhn.jp

 2022年は聖徳太子が没して1400年目、聖徳太子ゆかりの寺院では、太子の偉業を偲ぶ大規模な法会が催されます。今回の展覧会は美術館近くにある四天王寺の「聖徳太子千四百年御聖忌記念事業」の一環です。

www.shitennoji.or.jp

 

目次

 

1 美術館の様子

入り口

f:id:tokoyakanbannet:20211023224122j:plain

 

2 展示の見所

① 聖徳太子

 「聖徳太子」は後世の名前で、720年成立の『日本書紀推古天皇紀では「厩戸豊聡耳皇子命(うまやとのとよとみみのみこのみこ)」とされています。父は用明天皇,、母は穴穂部間人皇女蘇我氏と血縁関係を持ち、推古朝で蘇我馬子と協調して王権への権力集中、遣隋使の派遣、仏教の興隆につとめたとされています。

 「聖徳太子は実在したのかどうか」という議論は有名で、「推古朝に有力な王族がいたものの(いわゆる「厩戸王」)『日本書紀』の「聖徳太子」の記述には粉飾が多い」は研究者の間で大筋で一致しているみたいで、日本史の教科書も「厩戸王聖徳太子)」のような書き方が一般的です。

 「聖徳太子」はすでに8世紀の段階でフィクション性を帯びているのですが、さらに後世の人々が聖徳太子を自らの権威のよりどころにするべく、様々な文物や聖徳太子にまつわる話を作り出した(二次創作?)といえます。

② 展示の見どころ

 「聖徳太子絵伝」は聖徳太子の一生を描く複数の絵画で、同様のモチーフやストーリーを変えたバリエーションが繰り返し描かれています。

 横長の巻物だと出来事が時系列に描かれているのですが、これは縦長で上から下に時系列に描かれていません。漫画のコマ割りでこれをやったら大混乱です。

 なお各シーンの横にコメント欄があって、そこに聖徳太子の年齢が書いてあるので、それで時系列が判断できます。

綾本著色聖徳太子絵伝  平安時代・延久元年(1069)  東京国立博物館 パブリックドメイン

 f:id:tokoyakanbannet:20211023204109j:plain

全体図はこちら

emuseum.nich.go.jp

 聖徳太子の生涯の中からグッとくるシーンが立像にされていますが、太子が角髪(みずら 子どもの髪型)のものが多く、伝記では成人時代の話なのにこの髪型をしている立像もあります。子どものころから賢かったことを強調するためですかね?

 繰り返し立像にされているのが聖徳太子が2歳の時に東の方角に向かい、合掌して「南無仏」と唱えたとする伝説を表した彫像、用明天皇を看病する彫像で、子どもの成育や親子の情を表すモチーフとして好まれたのではと推察します。

 でも2歳だからひょっとして「マンマ」って言っ(以下自粛)

無仏太子立像、鎌倉時代(13-14世紀)の作(奈良国立博物館所蔵)。

帰属:ColBase:国立博物館所蔵品統合検索システム(国立博物館の統合コレクションデータベース)、Creative Commons Attribution 4.0International

f:id:tokoyakanbannet:20211023204515j:plain

飛鳥寺聖徳太子像。「Chris73」さん撮影。commons.wikimedia.org/wiki/File:Asuka_dera_Prince_Shotoku.jpg

Creative Commons Attribution-Share Alike 3.0Unported 

f:id:tokoyakanbannet:20211023203423j:plain

  また聖徳太子観音菩薩の化身として尊ばれたり、浄土真宗聖徳太子が尊崇されている様子(親鸞が六角堂で聖徳太子に夢告は受けて自分の進むべき道を見つけたという逸話から)が展示されていました。

 聖徳太子というとオールド世代には一万円札の図案ですが、太平洋戦争中に国威発揚天皇に忠義を尽くした人物が紙幣の図案に使われましたが、敗戦後に聖徳太子だけが生き残りました。たぶん「十七条憲法」のおかげだと思います。

 なお最近聖徳太子の偽造紙幣が出回っているそうです。

お札の図案の原案である法隆寺に伝わる唐本御影(とうほん みえい)。聖徳太子の最古の肖像画で、下手が弟の殖栗皇子、上手が息子の山背大兄王とされていますが、服装が中国風で飛鳥時代のものではありません。謎深いです。パブリックドメイン

f:id:tokoyakanbannet:20211023221253j:plain

これ

www.asahi.com

 また1974年まで存在していた旧最高裁の大法廷には聖徳太子を題材にした絵(母に抱かれる幼少時、十七条憲法制定時、国内巡察時)があり、裁判官に求められる「仁・智・勇」を示していたそうです。

mainichi.jp

 そのほか四天王寺関係の展示物、山岸涼子さんの『日出づる処の天子』の原画も展示されていました。

まとめ

 「聖徳太子」は『日本書紀』の厩戸王の時点から何らかの政治的意図を含んだ超越的存在として描かれていて、後世の人たちが自らの権威付けのために「聖徳太子」を利用してきました。

 「聖徳太子」の実在には疑問符がつきますが、「イメージとしての聖徳太子」が現在に至るまでどう「消費」されてきたかについて考えるのは興味深いと感じました。

 会期は10月24日(日)までです。明日がラストチャンスです。

 会場で買ったお土産。消費に貢献しています。

f:id:tokoyakanbannet:20211023225644j:plain