エリザベス2世がお亡くなりになられたので、その追悼として大英帝国の形成と解体についてまとめます。後半は第二次世界大戦から現在まで。参考文献は前編にあります。
2021年撮影。アメリカの公務員が撮影したのでパブリックドメイン。以下政治家の写真は同様
前回
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ぶんぶんがブログを書いている横でつれあいがネトフリで観ているドラマ
目次
1 第二次世界大戦
ネヴィル=チェンバレン:対独宥和政策
英独海軍協定(35) ミュンヘン会談(38)
1939年 第二次世界大戦勃発
1940年 [1 ]戦時内閣が成立
1941年8月:アメリカ大統領と(2 )会談 大西洋憲章を発表
1911年12月:日本軍のマレー半島上陸 太平洋戦争
1943年:カイロ会談・テヘラン会談
空欄
2大西洋
補足
① 決して降伏しないチャーチル
チャーチル(1874~1965)は陸軍士官学校を経てキューバ、インド、スーダン、南アフリカ戦争に従軍し、1900年に保守党で当選、後に自由党に鞍替えしてロイド=ジョージらと失業保険制度成立に尽力し、アスキス内閣では海軍大臣として海軍の増強を進めました(建艦競争)。
第一次世界大戦では海軍・軍需大臣として戦車の開発を指示しました、しかしガリポリ上陸作戦に失敗し辞任しました。
その後保守党に再入党し、ボールドウィン内閣では大蔵大臣として金本位制復帰を試みますが失敗、第二次世界大戦で海軍大臣に就くものの北欧戦で敗北、ネヴィル=チェンバレンが首相の座を降り、チャーチルが後任に就きました。
ロンドン空襲に耐え、大きな犠牲を払いながらも長期戦を戦い抜いたチャーチルですが、労働運動を嫌い、インドの自治にも反対しました。1945年7月の総選挙で敗北し、ポツダム会談では途中で退席しました。
1945年5月8日、ヨーロッパでの戦争終了を祝ってバッキンガム宮殿のバルコニーに立つジョージ6世一家とチャーチル。左端の軍装が後のエリザベス2世。
② ヘゲモニーの交替
イギリスはスターリングブロックを維持するために財政均衡主義を採っていました。そのため軍備拡張が遅れ、第二次世界大戦を戦うためにはアメリカ合衆国からの軍事的・経済的な援助と、ドミニオンと植民地の協力が不可欠でした。
アメリカは中立法を制定していましたが、フランクリン・ローズヴェルト大統領は英仏への武器輸出を認め、議会も1941年3月に武器貸与法を制定しました。
1941年8月の大西洋会談でローズヴェルトは戦争協力の引き換えに植民地主義の放棄(領土不拡大、民族自決)やブロック経済の解体(自由貿易)をチャーチルに迫り、これらは「大西洋憲章」として発表されました。
アメリカは大戦中に世界の金の3分の2を保有するまでになりました。1944年のブレトンウッズ会議の結果、アメリカドルを唯一の基軸通貨とし、自由貿易を堅持することが取り決められました。「ブレトンウッズ体制」です。
こうして反植民地主義と自由貿易を正義の御旗とするアメリカ合衆国が新たなヘゲモニー国家となりました。少し前まではイギリスが自由貿易でアメリカが保護関税政策だったのですが。
「正義の定義なんて立ち位置で変わるもんでしょ」(小野田官房長)
③ またインド頼みですかぁ?
イギリスは第二次世界大戦で再びドミニオンや植民地に協力を要請しました。中心はインドで200万人以上が動員されました
インド政庁は第一次世界大戦j時の協力の代償に関税自主権が認められました。インド政庁はイギリス本国製品の関税を引き上げ、経済的な自立を強めました。
第二次世界大戦に際しては、インドはインド防衛に直接かかわる経費は全額負担するものの、それ以外の経費(インド軍の近代化や戦時増産体制にかかる経費)はイギリスが負担するものとしました。
この結果イギリスからインドに資金が流れるようになり、インドは債務を返却して逆にイギリスに対する債権国になりました。
1941年に日本がマレー半島に上陸、シンガポールや香港を占領し、ビルマを占領して英領インドの国境に迫りました。
「香港の戦い-日本軍のカメラの下での香港」展の小冊子、香港歴史博物館、2002より。写真は著作権切れでパブリックドメイン。
窮したイギリスはインドをつなぎとめるために1942年に戦後の自治領化を約束しますが、即時独立を要求する国民会議派は「クイット・インディア」(インドから立ち去れ)と呼ばれる反英闘争を繰り広げました。
また国民会議派左派のチャンドラ=ボースは日本軍がインド兵捕虜を中心に組織した「インド国民軍」の指導者となり、日本と協力してインド独立を目指しました。
ドミニオンではカナダが約78万人、オーストラリア(太平洋戦争では日本と直接戦火を交える)が約68万人を動員しましたが、アイルランドは戦争協力を拒否して中立を守りました。
2 冷戦の時代
労働党[3 ]内閣
内政:重要産業の国有化と社会福祉制度の確立
外交:インド、パキスタン分離独立(47) セイロン自治領化(48)
中華人民共和国の承認(50)
1949年 アイルランド共和国 連邦から正式に離脱
NATOに参加せず
エリザベス2世(在位1952~2022)
イーデン(保)1956年:スエズ戦争
マクミラン(保)
1957年 (5 )がイギリスから独立(エンクルマ大統領)
1958年 EEC加盟申請もフランスが反対
1960年:(6 )(EFTA)を結成
アフリカの年…アフリカの植民地が独立
ウイルソン(労)
1967年:ポンド切り下げ
1968年:スエズ以東からの撤兵
1970年代:アイルランド共和国軍(IRA)の武装闘争
ヒース(保)1973年 EC加盟
[7 ](保)
国営企業の民営化
1982年 アルゼンチンと(8 )紛争
空欄
3アトリー
4ナセル
5ガーナ
6ヨーロッパ自由貿易連合(EFTA)
補足
① コモンウェルスの変質
空襲によって多くの住民が家を失い、戦後も食糧や灯油などの配給制度が継続するなど、イギリス国民は厳しい生活を強いられました。一方イギリスの対外債務は33億ポンドにふくれあがり、国内の生産施設も空襲によって破壊されていました。
こうした中で「戦後の生活保障」を公約に掲げて選挙に勝利したアトリー率いる労働党政権は、1942年のベバリッジ報告にもとづいて福祉国家の実現と、主要産業の国有化を進めました。
国民の凝集力を高める方法が対外拡張から社会保障に変わったと解釈できます。1951年に保守党が政権を奪回した際も、一部産業は民営に戻しましたが社会保障施策は継続しました。
最終的にイギリスの経済が立ち直るのはアメリカ大統領トルーマンの「マーシャル=プラン」のおかげで、援助を受けた16カ国の中では最大の支援額を受けました。
エリザベスは国王に代わって1951年に訪米し、トルーマン大統領と会見しました。大統領の視線が宴会のおや(以下略)。
衰退したイギリスはインドの独立運動を抑えきれなくなり、1946年にアトリーは特使をインドに派遣しました。しかしひとつの国家を目指す国民会議派と、ムスリム国家の分離を主張する全インド=ムスリム連盟との溝は埋まりませんでした。
最終的にマウントバッテン(エリザベスの夫の叔父)の調停で、1947年にヒンドゥーを多数派とするインドと、ムスリムの多いパキスタンが分離独立しました。
しかし不勉強な委員会が恣意的な国境線を引いたために大量のヒンドゥー教徒とムスリムが国境を移動し、その途上で多くの人々が命を落としました。
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より深刻なのはパレスティナです。イギリスはこの地を委任統治領としていましたが、大戦後に大量のユダヤ人が入植してきたことや、現地でのユダヤ人とアラブ人の衝突を処理できず、委任統治を放棄して国際連合に解決を丸投げしました。
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インドは独立後に憲法で共和制に移行するもののコモンウェルスにはとどまることを希望しました。イギリスはそれを受け入れ「国王に対する忠誠」がなくても連邦に加入することを可能としました。
この結果「British Commonwealth」は「British」が取れて「コモンウェルス」となりました。1971年には「ゆるやかな独立主権国家の連合」と再定義され、現在では旧イギリス植民地ではないモザンビークやルワンダも加盟しています。
1960年 ウィンザー城で、コモンウェルスの首相とエリザベス2世
② エリザベス2世の即位
エリザベスは1947年11月にギリシャの王家の血を引くフィリップと結婚し、翌48年には長男チャールズが誕生しました。
1952年に国王ジョージ6世が死去し、25歳のエリザベスが即位しました。1953年にウェストミンスター修道院で戴冠式が行われました。首相に返り咲いたチャーチルの最後の大仕事でした。
同じ1952年にヨーロッパ石炭鉄鋼共同体(ECSC)が発足しました。チャーチルやイーデンは「ヨーロッパのその他大勢」に埋没するのをよしとせず、ECSCには参加しませんでした。
③ スエズ戦争
エジプトでは第一次世界大戦後ワフド党が独立運動を展開し、1922年にエジプト王国が成立、1936年にはイギリス軍の駐留をスエズ運河地帯だけに限定して実質的な独立を獲得しました。
1952年に自由将校団が王政を打倒して(エジプト革命)1953年に共和制となりました。1956年にナセルが大統領になり、中立政策とアスワン=ハイダム建設など近代化を進めました。
しかしエジプトがソ連に接近したため米英はエジプトへの経済援助を停止、ナセルはダム建設資金の確保のためにスエズ運河の国有化を宣言しました。
憤慨したイーデンがエジプトと話し合いますが不調で、イギリスはアルジェリア紛争をかかえていたフランス、エジプト軍をシナイ半島から追い出したいイスラエルを誘って1956年10月末にシナイ半島、ガザ地区を攻撃しました。
エジプトは敗退を重ねますが、米ソが即時全面撤退を通告、国際連合でも平和のための結集決議に基づく特別緊急総会が招集され、三国に対し即時停戦を求める総会決議が採択されました。
またイギリスポンドは大幅に値下がりし、一時スターリング圏が危機に陥りました。マーケットからも「NO!」を突きつけられた格好です。
帝国主義な手法が通じたのは過去のこと、イギリスはスエズから撤退してイーデンは辞職しました。
1957年にエリザベス2世が訪米して友好関係をアピールしました。ワシントンD.C.の国立長老派教会でのエリザベス(左端)とアイゼンハワー大統領(左から3番目)
④ アフリカの脱植民地化
第一次世界大戦後にアフリカでも宗主国が現地人エリート層を養成して統治にあたらせるようになると、留学帰りの若者が民族運動をおこしました。
ガーナではエンクルマ(ンクルマ)が非暴力運動を展開、植民地政府は運動を弾圧しますが抑えきれなくなり1957年に独立を達成します。
ケネディとンクルマ
ガーナの独立に影響されて1960年にはフランスやベルギーの植民地を中心に17カ国が独立(イギリス領ではナイジェリア)、英首相マクミランはこの年の2月に「もはや「変化の風」は止められない」と演説しました。
1960年代にイギリスのアフリカ植民地は次々と独立しました(タンガニーカ、ウガンダ、ケニア、マラウイ、ザンビア、ボツワナ)。「イギリスはフランスと違って平和的に独立を認めた」という「つよがり」言説もあるようですが、実際には国力低下で植民地の独立を容認したのであり、ケニアでは植民地政府の弾圧で多くの人が亡くなりました(木畑先生の本より)。
こじれたのはアフリカ南部です。南ローデシアは少数の白人が多数の現地人に過酷な支配を敷いていました。1965年にイギリスからの独立を一方的に宣言したものの現地人の武装勢力との内戦が発生、最終的に白人側が敗北し、一旦イギリス領に戻った後、1980年にジンバブエ共和国として独立しました。
南アフリカ連邦は1950年代に人種隔離政策(アパルトヘイト)を法制化し、国際的な非難を浴びていました。1960年に自治領から共和制に移行、1961年にはコモンウェルスを脱退しました。
*1970年代にはコモンウェルスの会議は各国の持ち回りになり、話題も人権や環境が中心になりました。1980年代にコモンウェルス諸国は南アフリカへの経済制裁を実施(ECや米も同調)、マンデラの釈放やアパルトヘイト廃止を働きかけました。これにはエリザベス2世の意向が働いたとされています。
植民地の独立と平行してイギリスのポンドは値下がりし、1967年にウィルソンはポンドを切り下げ、1968年には「スエズ以東からの撤退」を表明しました。イギリスは当時アデン、インド洋、シンガポール、香港に軍隊を駐留させていましたが、「体力」に見合わないことは明らかでした。
⑤ アイルランド問題
1949年にアイルランドは正式にコモンウェルスから離脱、1973年にはイギリスと同時にECに加盟しました。ECの援助を受けつつ経済発展を図り、1990年代には外資の導入で急成長を遂げました。
北アイルランドでは少数派のカトリック教徒が市民的権利を制限されていましたが、1960年代にアメリカの公民権運動に触発されて多数派のプロテスタントに対して法的平等を要求し、1969年には北アイルランド紛争に発展しました。
イギリス軍はプロテスタント側に肩を持ちしばしばカトリック側を弾圧したので(有名なのが1972年の「血の日曜日事件」)、アイルランド共和国軍(IRA。うち過激派の「暫定派」)はテロ行為で報復、テロはロンドンにも波及し、カトリック、プロテスタント双方に3000人以上の犠牲者を出しました。
先述のマウントバッテンはテロの標的となって死亡、サッチャーも1984年に保守党大会で爆弾テロに遭い、彼女は助かったものの保守党議員と家族が犠牲になりました。
1998年にようやく和平合意が成立、北アイルランドは高度な自治のもとでイギリスの一部として残り、アイルランドは北アイルランドの領有権を放棄しました。
デリーにある血の日曜日事件の慰霊碑 ズブロ©さん撮影 2003Creative Commons Attribution-Share Alike 3.0 Unported
File:Bloody Sunday memorial.jpg - Wikimedia Commons
⑤ 「鉄の女」サッチャー
「イギリス病」と揶揄される経済の停滞と労働争議が頻発する中、1979年に保守党のサッチャーが首相になりました。
彼女は国営企業の民営化、労働組合つぶし、社会保障費の削減、貨幣通貨量の抑制によるインフレ抑制(マネタリズム)、シティの金融規制廃止(「ビッグバン」)など「新自由主義」と称される「自助」を基本とした改革を行ないましたが、当初はうまくいかず、失業者が増加して争乱が多発しました。
転機となったのは1982年のフォークランド紛争です。アルゼンチンの軍事独裁政権が全島を占領して領有を宣言したことに対して、サッチャーはスエズの二の舞にならないように国際連合やアメリカに根回しをした上、フォークランド諸島を奪回しました。
サッチャーはこの勝利で支持率を回復、弱かった党内基盤も強固にして総選挙に三度勝利しました。
前年には王位継承者のチャールズがスペンサ伯爵家のダイアナと結婚、式の様子はテレビ中継され、ぶんぶんも釘付けになりました。チャールズ夫妻とレーガン夫妻
経済も上向きになり自信を深めたサッチャーはレーガンとゴルバチョフを取り持つなど外交でも活躍しましたが、ECの政治的統合には強く反対、「為替相場安定制度」(将来共通通貨を導入するには加盟国間の通貨相場の変動が大きいと困る)にも反対したため保守党内で孤立、人頭税問題がとどめとなり1990年に首相を辞任しました。
彼女もまた「大英帝国の幻影」にとりつかれたのでしょうか。
3 冷戦後
メージャー(保)
1991 (9 )戦争に派兵
ブレア(労)
1997年:(10 )返還 スコットランドとウェールズに独自議会
1998年:IRAと和平合意が成立
キャメロン(保)
2014年:(11 )独立を問う住民投票は否決
2016年:国民投票で(12 )離脱が賛成多数→2020年正式離脱
空欄
9湾岸
10香港
11スコットランド
12EU
補足
① 香港返還
第二次世界大戦で日本が敗北するとイギリスは香港を「回収」し、国民党政権の返還要求を拒否しました。国共内戦が再燃すると上海の中国人実業家が共産党支配を嫌って香港に資本と技術を移転しました。
1950年1月、イギリスは中華人民共和国を承認し、共産党政権も香港の現状を維持して西側陣営との貿易や人的交流の窓口にしようと考えました。
香港は独自の香港ドルでアジア内貿易のハブとなり、80年代にはアジアNIESの一角を占め、マレーシア、シンガポールが独立した後はイギリスのアジアの拠点として機能し、「スエズ以東からの撤退」表明後も軍隊が駐留しました。
1982年、サッチャーは訪中して香港の現状維持を打診しますが中国側(鄧小平が実権)の強い反発を受け、1984年の共同声明で「九竜半島の99年間租借」の約束通り、1997年の6月末に香港を返還することに同意しました。
中国側は香港を特別行政府として返還後も50年間は現状を維持する「一国二制度」に同意しましたが、共産党の自由主義弾圧は50年を待たずに日に日に強まっています。
2005年のデモの様子
なお「99年租借」は九竜半島北部(新界)と諸島部で、香港島(1842)と九竜半島南部(1860)は「割譲」ですが、1960年代の水不足で中国からパイプラインで水を供給してもらっていたこともあり、まとめて返還しました。
CIAの情報ブックより パブリックドメイン
② なお残る植民地
イギリスは現在でもカリブ海、インド洋、大西洋に植民地を保有しています。
ピンク色が一度でも大英帝国の支配下にあった地域。現在の海外領土には赤線。
地中海の入り口に位置するジブラルタルは、1713年のユトレヒト条約でスペインから獲得し、イギリスのシーレーン(エンパイアルート)の要でした。
1901年のジブラルタルの地図。楕円は競馬場?
スペインは一貫して返還を求めてきましたが、2002年に両国は主権の共有化と住民の自治権を尊重することで合意しました。なお対岸にあるモロッコのセウタ(大航海時代の最初の占領地)はいまだスペイン領です。
インド洋のディエゴガルシア島は冷戦中にアメリカの補給基地がおかれ、湾岸戦争、アフガニスタン攻撃、イラク戦争でアメリカ軍の攻撃基地として活用されました。
サッチャーは「アメリカとの特別な関係」を重視し、メージャーやブレアはアメリカの戦争に派兵しました。「アメリカの行動にお墨付きを与えられるのはイギリスだけ」という大英帝国のプライドが見え隠れしますが、傍目にはイギリスがアメリカの「ジュニアパートナー」になったかようにも感じます。
② ブレグジット
ECSC加盟国は1957年にローマ条約に調印し、翌58年にヨーロッパ経済共同体(EEC)を発足させました。イギリスはこれに加わらず、1960年にヨーロッパ自由貿易連合を結成しますが、EECのような団結力はありませんでした。
アフリカの植民地が次々に独立したことからマクミランはヨーロッパとの関係重視に舵を切り、1961年にEECの加盟交渉に乗り出します。
しかしアメリカと緊密な関係を持つイギリスがEECに加盟することをフランスのド=ゴールが「トロイの木馬」だと反対して加盟は失敗に終わりました。
さらにイギリスは国際収支の悪化やポンドの弱体化が進み、ウィルソンは1967年に再度加盟を申請しますがまたもド=ゴールの反対で失敗、ようやく1973年にEC加盟にこぎ着けました。
*発展
この結果カナダはアメリカと、オーストラリア、ニュージーランドはアジアや太平洋の国々との経済的結びつきを強めます。オーストラリアが白豪主義をやめてアジア系の移民を受け入れるのもこの頃です。
しかし国内ではEC加盟はあまり評価されず、サッチャーは就任早々EC拠出金の一部返還を求め、通貨統合にも反対するなど自国重視の姿勢を取りました。
メージャーは共通通貨と共通の社会政策からの適用除外(オプトアウト)を条件にマーストリヒト条約に参加しましたが、党内の欧州統合懐疑派との対立は続きました。
イギリス国内でEU加盟に懐疑的なのは、1990年代からイギリスの経済が復調し、EUの共通政策が国内政策の「足枷」になりかねないからと考えられます。
またイギリス独立党が「EU離脱」を煽るときに取り上げるのが移民問題です。
1962年までコモンウェルスの出身者はイギリスに自由に入国可能でした。このため西インド諸島、インド、パキスタンなどから多くの移民がやってきました。
1962年の移民法で規制が強化され、1971年の移民法ではEC加盟に合せてEC加盟国以外の移民には労働許可証(専門的技能を有する)が必要になりました。
とはいえコモンウェルスの移民者はすでにイギリスに家庭を持ち、EC加盟によってヨーロッパから新たな移民労働者がやってきました。EUの加盟国が拡大すると東欧系の移民も多数やってきました。
移民労働者の増加は白人下層労働者との衝突を招き、1970年代から80年代初頭の景気低迷の折には白人青年や右翼団体が非白人系移民街を襲撃、これに報復する形で非白人系移民もこれまでの差別に対する不満から都市で暴動を起こしました。
*発展
イギリスで1960年代から70年代にかけて旧植民地国の留学生を奨学金を給付して受け入れていました。1970年代前半から留学生が急増して財政を圧迫、サッチャーは「イギリス領とEC」以外の留学生の経費を全額個人負担に変更しました。
このインド映画の主人公もお金がなくてイギリスへの留学を諦めました。
イギリスでは1975年にEC残留の国民投票が行われて以来、重要事項については国民投票という手法を用いていました。キャメロンは保守党内の欧州統合懐疑派を懐柔するため、2015年の総選挙でEU残留の国民投票を公約に掲げました。
キャメロンはEU残留を確固たるものにするために国民投票で「白紙手形」を得たかったのでしょうが、結果は投票率が 72.2%,離脱 51.9%(1741万票),残留48.1%(1614万票)で意図とは逆の結果になりました。
理由については深く立ち入りませんが、下記の属性別投票行動を見ると、サッチャーの改革で取り残された層の不満は根深く、排外主義はそうした層と親和性が高いように思われます。「大英帝国の幻影」は政治家だけの問題ではなさそうです。
引用元:富崎 隆「英国・BREXITをもたらした国民投票における投票行動」
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jaes/34/1/34_5/_pdf/-char/ja
おわりに 21世紀の王室は?
1980年代になるとダイアナ妃や次男アンドルー王子夫妻のスキャンダルが次々と報じられ、1992年には長女アン王女の離婚と再婚、アンドルー王子夫妻の別居、ダイアナ妃の暴露本にチャールズ王太子との別居などゴシップが続きました。
*1996年6月、ダイアナ妃はチャールズとの離婚に合意しますが、1997年に彼女はパリで交通事故に遭い36歳で死亡しました。
王室不要論も叫ばれる中でエリザベス2世は国家元首として海外公務をこなしました。1999年に共和制を問う国民投票があったオーストラリアへは何度も訪問しました。2011年にはアイルランドを国王としては100年ぶりに訪問、翌2012年は北アイルランドも訪問し、マウントバッテンの爆殺を指示したとされる元IRA暫定派で北アイルランド副首相とも握手を交わし、和解を象徴づけました。
エリザベス2世は政治の折々でコモンウェルス諸国や関係の深い国や地域に訪問し、過去の帝国の威信を見せつけるのとは異なる、対等な友好関係を内外に示しました。
今後も王室はこの役割を担っていくのでしょう。風物詩の王室スキャンダルも「逆説的な国民統合」だったりするかもしれません。
2012年のロンドンオリンピックの大芝居で幕引きとします。オリンピック公式。
最後までお付き合いいただきありがとうございました。