はじめに
難関私立大学で毎年出題される文化史、今回はマンチュリア(中国東北部)と韓半島(朝鮮半島)、19世紀~20世紀前半です。
首都圏・関西の国立・私立大学の入試問題を分析し、過去に出題された内容を復習できるようにしました。歴史「修正」主義的な議論は他所でやってください。
教科書(実教出版、帝国書院、東京書籍、山川出版社)、資料集(帝国書院、浜島書店)、一般書(『詳説世界史研究』『山川各国史 朝鮮史』)を参考にしています。
高校講座世界史にも登場する六反田先生の本
図版は断りがない限りウィキメディアコモンズパブリックドメインの画像です。
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bunbunshinrosaijki.hatenablog.com
目次
4 19世紀の朝鮮王朝~大韓帝国
19世紀はじめ 有力家門による政治(勢道政治)
洪景来の乱 没落両班の反乱 様々な階層を巻き込む(民乱)
天主教(キリスト教):18世紀後半から普及 学問の対象(西学)
19世紀半ば [1 ]、(2 )を創始
1860年代に西学とともに政府の弾圧を受ける
[3 ]政権 攘夷思想から外国の条約締結要求を拒否
1875年 (4 )事件→1876年 日朝修好条規
1882年 壬午軍乱…清朝の介入
事大派(清朝による近代化 閔氏)と開化派(日本と結ぶ)の対立
1884年 甲申政変…開化派の[5 ]のクーデタ失敗
1894年 (6 )戦争 東学の[7 ]が指導→日清戦争
閔氏が露に接近→日本公使三浦梧楼、閔妃を暗殺
1897年 (8 )と改称 高宗が初代皇帝
1904年~1905年 日露戦争
愛国啓蒙運動…都市部を中心に言論・教育活動で民族意識を培養する
三次に渡る(9 )
1904年 第一次:日本の外交・財政顧問を置く
1905年 第二次:外交権を奪う(保護国化)
(10 )の設置 初代統監 [11 ]
1907年 ハーグ密使事件
→第三次:内政権剥奪 軍隊の解散 (12 )闘争激しくなる
1910年 韓国併合条約
(15 )政治:憲兵制度 (16 )事業
空欄
1 崔済愚
2 東学
3 大院君
4 江華島
5 金玉均
6 甲午農民戦争
7 全琫準
8 大韓帝国
9 日韓協約
10 統監府
11 伊藤博文
12 義兵
13 安重根
14 朝鮮総督府
15 武断
16 土地調査
補足
① 西学と東学
天主教(カトリック)が本格的に朝鮮で普及するのは18世紀後半で、漢文で書かれた西洋関連の書物が燕行使(清朝への使い)によってもたらされました。最初は学問として受容されましたが、両班の中で信仰に興味を持つものが現れ、18世紀末に北京に赴き洗礼を受けたものが帰国し、以後天主教が一部の両班を中心に広まりました。
しかし18世紀末に信者が儒教の祖先崇拝を否定したことを機に(朝鮮版典礼問題)、政府は天主教を繰り返し弾圧しました。
なお韓国の国勢調査によると、「あなたが信じる宗教は?」の質問に「無宗教」と答えた人が約56%で最大、「キリスト教」と答えた人が約3割です。三・一運動や大戦中の抗日運動にもキリスト教の団体が関わっていました。
http://serve.seigakuin-univ.ac.jp/reps/modules/xoonips/detail.php?item_id=2206
調査年 | 総人口 | 仏教 | % | キリスト教 | % | うちプロテスタント | うちカトリック |
1985 | 40,419,652 | 8,059,624 | 19.94% | 8,354,679 | 20.67% | 16.05% | 4.62% |
1995 | 44,553,710 | 10,321,012 | 23.17% | 11,711,066 | 26.29% | 19.66% | 6.62% |
2005 | 47,041,434 | 10,726,463 | 22.80% | 13,762,585 | 29.26% | 18.32% | 10.94% |
東学は1860年に慶州の崔済愚がはじめた宗教で、西学=天主教に対抗するという意味が込められています。
崔済愚は理想的な「後天開闢」の時代がやってくるので、人びとは東学の信者となり、熱心に呪文を唱えて修養に励み、霊符を飲むことで天と人が一体となり、現世において神仙になることができると説きました。
しかしこの思想も朱子学を理念とする政府と相容れず、1863年に崔済愚は逮捕、翌年処刑されました。
当時実権を握っていたのは国王高宗の父である大院君、朝鮮近海に外国船が開国を迫る中、大院君は景福宮の再建や江華島の防備を固めるために新税を徴収する一方、両班を抑えるために彼らの拠点である書院を大量に廃止し、書院に属していた土地や農民に課税しました。
大院君は自らの政治改革の根拠として「正学」である朱子学を擁護し、国内では「衛正斥邪」と称して東学や天主教を弾圧し、対外的には攘夷を実行しました。
彼は内外の危機的状況を「小中華」意識で乗り切ろうとしました。しかしこれが近代的な外交に転換した日本との衝突を招きます。江華島事件と日朝修好条規によって朝鮮は開国し、その後日本の干渉を受けることになります。
② 二度の甲午農民戦争
東学は第二代の教主のもとで経典の編纂や教団の組織化が進み、その勢力は半島西南部に広がりました。1893年には教団は崔済愚の名誉回復を求めて政府の使者(観察使)と衝突を繰り返しました。
1894年、東学の地方幹部である全琫準は郡守の不当な収奪に対して農民を率いて暴動を起こしました。農民軍は次第に膨張し、反日、反閔氏政権を唱えて半島の西南部一帯を一時制圧しました。
車に乗っているのが全琫準
閔氏政権は袁世凱に清軍の派兵を要請し、日本も天津条約に基づいて居留民保護を名目に朝鮮に出兵しました。全州城で政府軍を包囲していた農民軍はこの報を知って政府側と和睦を結んで全州から撤退しました(甲午農民戦争の第一次蜂起)。
朝鮮政府は日清両軍に撤退を求めましたが、これを機に朝鮮に影響力を及ぼそうと考えた日本は朝鮮の内政改革を共同で行うことを清朝に提案、清朝が拒否すると日本は単独で改革を行うとして漢城と仁川に大軍を送りました。
朝鮮政府がこれに抗議すると、日本は7月下旬に大院君を担ぎ出して閔氏政権を追い出し清朝との冊封関係廃止を通告、同日日本艦隊が北洋艦隊を攻撃しました(豊島沖の海戦)。日清戦争の開始です。
日本は開化派の傀儡政権を建てて半島内での日本軍の行動を認めさせ、農民から食糧・物資・人馬を徴発しました。これに朝鮮民衆が反発、日本軍に協力する地方行政機関を攻撃したりサボタージュを行いました。
身を潜めていた全琫準率いる農民軍は占領地で内政改革(奴婢の解放や両班と良人の差別撤廃)を行なっていましたが、10月中旬に日本勢力の駆逐と開化派政権の打倒を目指して再度挙兵しました(甲午農民戦争の第二次蜂起)。しかし政府軍と日本軍の連合軍に敗北し、全琫準も逮捕され処刑されました。
地図はこちらを参照
日本の干渉が強まる中、開化派政権による政治制度や徴税制度の整備、身分制度の廃止など「近代化」が進みますが、下関条約の後の三国干渉を見て、王妃の閔妃を中心に親露政権が発足します。これをよく思わない日本公使三浦梧楼は朝鮮兵の反乱を偽装し、大陸浪人を使って景福宮に侵入、閔妃(明成皇后)を殺害して親日政権を建てようと画策しました。
しかし外国人目撃者によって事実が明るみになり、かえって朝鮮の反日感情を高まります。各地で義兵運動が発生する中、親露派は親日派の閣僚を排除し、高宗はロシア公使館に移されました。1897年に高宗はロシア公使館を出て国号を大韓帝国と改称し、皇帝に就任しました。
③ 武断政治
三次にわたる日韓協約の後、日本はロシアと日露協約を結び、日露双方の権益の相互不干渉が確認されました(いわゆる秘密外交)。
1909年7月に日本は韓国併合を閣議決定します。10月にロシア蔵相と会談するためにハルビンに赴いた伊藤博文が射殺されますが併合の方針は変わらず、1910年の韓国併合条約の結果、朝鮮総督府が設置されて日本による植民地支配が始まりました。
朝鮮には憲法を施行せず(選挙権もこの時点ではない)、総督の命令が法律の機能を有し、日本国内の法律は勅令によって朝鮮に適用可能でした。1925年の治安維持法も朝鮮に適応され、民族運動が取り締まられました。
総督は初代総督の寺内正毅ら全8名すべて軍人で、憲兵(軍事警察)が普通警察を兼ね、法的手続を経ずに朝鮮人を逮捕・処罰することが可能でした。
韓国併合条約は「韓国側から併合を望んだ」みたいな体裁を取っていて、それを根拠に「対等合併だ」という人もいるようですが、オーストリアとハンガリーのような連邦国家でもなく、日本の憲法は適用されず総督が軍政を敷いている様子は「対等」とはお世辞にも言えません。
土地調査事業は、土地所有権の確立と地税賦課の整備が目的でしたが、農民の申告制だったので、申告されなかった土地は国有地に編入され、日本人地主に安価で払い下げられました(寄生地主)。農地を減らした朝鮮人農民は困窮するものが増えました。
5 日本の植民地統治
1919年 (17 )運動
上海で(18 )成立…李承晩ら
日本、(19 )政治に転換
言論・出版の規制の緩和 産米増殖計画
1920年代 都市部で大衆文化が定着
1931年 満州事変 北部の工業化
1930年代 (20 )政策
戦時動員体制に組み込むための同化政策(「内鮮一体」)
神社参拝を強制、志願兵令、日本語の常用化
1939年 (21 )(1940年から実施)日本式の氏に改める
1944年 徴兵制実施
空欄
17 三・一
18 大韓民国臨時政府
19 文化
20 皇民化
21 創氏改名
補足
④ 三・一運動~文化政治
日本の統治に対して朝鮮では宗教団体(東学の後身に当たる天道教、天主教、仏教)を中心に愛国教育や秘密結社の活動が盛んになり、労働者のストライキも頻発しました。
1917年にロシア革命が発生、1918年にはウィルソン大統領が「十四か条」で地域は限定されるものの「民族自決」や「植民地問題の公正な解決」を唱えたことが、植民地の民族解放運動を刺激しました。
パリ講和会議が開かれる1919年1月から大学生や留学生、宗教団体が3月3日の高宗の葬儀に合わせてパゴダ(タプコル)公園で集会を行なう計画をたてました。
運動が暴徒化を恐れた代表者33名が3月1日に泰和館で独立宣言書を朗読した後自首しましたが、公園でも学生が独立宣言書を朗読し、その後群衆が「独立万歳」を唱えながら街頭で示威行進を行ないました。
運動は全土に広がり3月下旬から4月上旬にかけて最高潮に達しました。原敬首相は厳重取締を総督に指示し、軍隊や憲兵を増員して弾圧しました。示威行為は4月下旬まで続き、5月末までに死者7509名、負傷者15961名、逮捕者46948名を出しました。
三・一運動35周年を祝うタプコル公園の様子。大韓民国では3月1日は祝日です。
原敬首相は新たに同郷の斎藤実を総督として派遣し、大正デモクラシーを背景に「文化政治」と呼ばれる懐柔策と同化主義を打ち出しました。
懐柔策としては総督武官制を廃止し、憲兵をやめて普通警察制度としました。ただし警察官の数は増えて監視体制は強化されました。
また朝鮮語新聞・雑誌の発行を認めました。現在の東亜日報、朝鮮日報はこの時創刊されました。また文学や各種芸術運動も活性化しました。1927年にはラジオ放送も開始され(NHK京城放送局)、1930年代には第一放送(日本語)、第二放送(朝鮮語)の二重放送が開始されました。
この結果都市部では大衆文化が定着します。京城は朝鮮人居住区が北村、日本人居住区が南村と生活圏が分かれていましたが、南村に日本資本の百貨店や映画館が普及すると(北村にも朝鮮資本の和信百貨店ができる)、朝鮮人もこれら施設を訪れるようになり、都市大衆文化が朝鮮人社会にも少しずつ広がりました。
同化政策としては、日本内地と同じ学校制度を導入し、日本語の授業時間は増加する一方朝鮮語の時間は減少、「歴史」は「国史」になりました。1924年には京城帝国大学も開設されました。
このように日本は民族運動の要求を一部認め、日本への敵対心を軟化させて運動を分裂・弱体化させることをもくろみ、また朝鮮と日本内地の制度的差別を縮小して朝鮮人の不満を解消し、「融和」と「同化」を図ろうとしました。
経済政策では、日本は米を海外からの輸入(フランス領インドシナ・英領インド・タイ)に頼っていましたが、1918年の米騒動を契機に植民地米輸入へと舵を切りました。
日本は近代的稲作技術(土地改良・灌漑・品種改良・肥料)を朝鮮に導入して米の増産を図りますが、日本への米輸出が増産を上回り、朝鮮では満州から粟やこうりゃんを輸入してしのぐという「飢餓輸出」となり、米のモノカルチャーは農業基盤の脆弱化(天災が起こると総崩れになる)を招きました。
また従来の会社令が撤廃されて朝鮮人の企業設立が認められましたが、資本力に勝る日本人企業の進出が加速しました。日本の財閥系企業が朝鮮に進出し困窮する農民を低賃金で雇い入れました。一方朝鮮人企業も勃興し、京城紡織は大韓民国の繊維・紡績企業として現在も存続しています(京紡)。
1920年代に日本で鉄道や道路、水力発電所など大規模なインフラ整備が始まると、朝鮮人労働者が日本にやってきました。彼らは低賃金で重労働に従事しました。1923年に関東大震災が発生、朝鮮人への差別意識からデマが流布し、市民や自警団によって朝鮮人が多数殺害されました。
日本政府は朝鮮人の渡航を制限するために「渡航証明制度」「一時帰鮮証明書制度」を導入しました。特に後者の制度で帰郷が難しくなり、結果的に日本在住の朝鮮人の定住傾向を強めることになりました。
これとか
これも
⑤ 大韓民国臨時政府と民族運動組織
最近入試で頻出の大韓民国臨時政府は三・一運動のさなか1919年4月に、上海のフランス租界で樹立されました。創立メンバーは海外で活動をしていた李承晩(アメリカに留学)や金九などで、弾圧を受けた民族運動家も合流しました。
臨時政府はシベリアやソウルで結成された臨時政府を統合し、9月には李承晩を大統領、李東輝を国務総理に選出し、国内との連絡組織を作り、機関誌『独立新聞』を発行するなど活発な活動を展開しました。
しかし外交活動によって列強の保障を得て独立を実現しようとする李承晩らと、武装闘争によって独立を達成しようとする李東輝らが対立し、内紛収拾のための会議も決裂して臨時政府に結集する勢力は後退、一民族団体になりました。
その後臨時政府は1940年には重慶に移転し、金九を主席に蒋介石政権の支援のもとで活動を続けました。
工業化の進展で労働運動も活発になり、各地で労働組合が結成されました。社会主義運動ではシベリア在住朝鮮人グループの影響のもと1925年に朝鮮共産党が成立、翌年にはコミンテルンの承認を受けました。しかし治安維持法が適用されて運動は弾圧、コミンテルンの承認も取り消されてしまいました。
満洲では総督府の迫害から逃れた独立運動家が武装集団を組織し、その一部はさらにソ連に逃れて共産化しました。
⑥ 満洲と朝鮮
1929年に発生した世界恐慌の影響は日本にも及び、1930年には米、繭を中心とする農産物の価格が大暴落、朝鮮からのコメの移出は量は増えるものの額は下落、小作農に転落するものが増え、小作争議が頻繁に発生しました。その後日本が日本の農家を守るため朝鮮米の移入を禁止したため、朝鮮の農家はさらに打撃を受けました。
本国が困ったらしわ寄せが植民地に行くのは帝国主義の常とう手段です。
この時期満洲に移住した朝鮮人の数も増加しました。日本政府は1920年代に「満蒙」権益を確保するために朝鮮人の満洲移住を積極的に推奨しました。しかし中国では反日ナショナリズムが高まり、満洲地域に居住する朝鮮人も日本人として中国人の排撃の対象になり、大規模な衝突事件も発生しました(1931年、万宝山事件)。
1931年に満州事変が起きると朝鮮の駐屯軍も参加、1932年には朝鮮と満洲の鉄道が接続し、朝鮮は満州占領のための中継拠点としての重要度が増しました。
この年総督に着任した宇垣一成は零細小作農を救済する一方、地方自治制度を改編して朝鮮人の上層部を地方政治に取り込みました。また日本の大資本を朝鮮に誘致しました。最初に誘致されたのが日窒(日本窒素)で、1920年代後半から中国北部で水力発電を開発し化学工場を展開していました。
さらに1936年の二・二六事件後には日本の軍需工業の拡大に拍車がかかり、朝鮮半島でも日窒を中心に軽金属や火薬、航空燃料や合成ゴムといった軍需工場が朝鮮北部に建設されました。鉱山経営も進み、軍需物質である鉄鉱石や石炭、タングステンやモリブデン(戦車の装甲に必要)の採掘が強化されました。
こうした状況を「日本は植民地時代にインフラ整備などいいこともした」と考える人もいるようですが、もとはといえば日本のコメ政策に振り回された零細農家の救済策、また朝鮮を大陸支配の補給基地とすることが目的です。それはこの後の「内鮮一体」でさらに強まります。
参考 ナチス関連のブックレットが大当たりしたことで重版されました。必読。
発展:「日本代表」孫基禎
日本が満洲から華北に勢力を拡大した1936年、ベルリンオリンピック大会の男子マラソンで朝鮮生まれの孫基禎が日本代表として優勝しました。直後に「東亜日報」は胸の日の丸が塗りつぶされた表彰式の写真を掲載し、朝鮮総督府の警務局によって同紙記者の逮捕され、発刊停止処分が下されました。
孫基禎自身も民族意識が強かったため大会後は特高警察の監視対象となり、現明治大学に進学するものの陸上競技部への入部は許されませんでした。
彼は日本の敗北後は大韓民国籍を取り(故郷は北側)、同オリンピックで3位だった朝鮮生まれの南昇龍とともに後進の指導に当たりました。1988年のソウルオリンピックでは聖火の最終ランナーを務めました。
スポーツ大会とナショナリズムの関係を考察する際に避けて通れない話です。
⑦ 「内鮮一体」
1937年に日中戦争が勃発、戦争が中国との全面戦争になる中で朝鮮総督府の南次郎総督は「内鮮一体」を唱え、朝鮮人を「皇国臣民」に仕立てて戦争に動員する体制の構築を図りました。世にいう「皇民化政策」です。
まず神社(天照大神と明治天皇を祀る朝鮮神社や日本人向けに作られた神社)への参拝、家庭にも神棚を設置させて伊勢神宮のお札を頒布して毎朝礼拝することを強要しました。また「皇国臣民の誓詞」が学校や職場で斉唱することが義務付けられました。
1938年には朝鮮教育令が改訂されて、日本人学校と朝鮮人学校は小学校、中学校、高等女学校の名称で統一され、教育内容は朝鮮語を除いて朝鮮人と日本人とは同一になりました。ただし朝鮮人に対しては日本語の教育が強化される一方、朝鮮語は教えなくてもよい随意科目とされ、学校教育からの朝鮮語の排除が進みました。
NHKEテレの番組で見ましたが、後に大統領となる金大中が幼いころ父親が用事で小学校を訪れたのですが、校内では朝鮮語禁止だったので何も伝えられずさみしそうに帰った、と回想していました。
⑧ 皇民化政策
1940年2月には朝鮮人の「創氏改名」に関する政令が出されました。これは朝鮮人に対し従来の朝鮮の姓に代えて新たに日本の氏を設定することを義務付け、同時に名も日本風に改めることを勧めるものでした。
朝鮮の姓は父系の血統を示すもので、結婚しても血統を異にする妻(同姓不婚)が夫の姓を名乗ることはありません。これに対して日本の氏は「イエ制度」を示すもので、当時の日本の民法では夫の家に嫁いだ妻は夫の氏を名乗ることになっていました。
つまり創氏改名は日本式の「イエ制度」を朝鮮人に強要するものです。8月までの届け出期間に朝鮮人の8割が日本風の氏と名を行政機関に届け、期間中に申告しなかった場合には戸主の姓がそのまま氏とされました。
1941年に太平洋戦争がはじまると朝鮮でも徴兵制が適用されることになり、1944年に朝鮮最初の徴兵検査が実施されました。
すでに朝鮮王朝末期から日本陸軍の幼年学校や士官学校に入学する朝鮮人は存在し、日中戦争中には志願兵が募集され戦地に派遣されていました。
ただし徴兵された兵士が軍に参加したのは敗色濃厚になった1945年からで、訓練中に日本が無条件降伏し、彼らが前線に動員されることはありませんでした。
2分22秒ごろから。最初は台湾の徴兵制の話。
また労働力不足を朝鮮人で補うために労働力の動員が実施されました。最初は募集、次に軍の出入り業者による強引な募集、1944年からは1939年の国民徴用令が朝鮮にも適用され、日本に連れてこられる人もいました(いわゆる「徴用工」)。
ぶんぶんは幼いころこの本で「慰安所」の存在を知りました。作中の「日本人よりも『朝鮮ピー』『沖縄ピー』が好まれた」というくだりに差別の構造を感じます。
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受験生の健闘をお祈りします。