2022年の国立大学の入試問題を解答し、次年度の学習のヒントとします。
最終回は一橋大学です。旧商大以来の伝統とOBの業績を重んじ、第一問はヨーロッパ中世~近世の教養問題、第二問は西欧近現代の政治・経済史時々教会建築もの、第三問は東アジアの近代化時々清朝初期、という構成です。
第二問は三年に1回程度高校の学習内容を無視した難問です。(´・ω・`)
解答例は正解ではありません。著作権はぶんぶんにあります。
まず何も見ないで解答した後、教科書(実教出版、帝国書院、東京書籍、山川出版社)でウラを取っています。特に一橋大学については教科書の範囲を超えるのが日常茶飯事なので別の本も見ています。受験生からすればイカサマです。
問題はこちらから 読売新聞にリンク
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解答例は三月に作ったのですが、順番に更新しているうちに、大本営から出題意図が公表されました。
目次
Ⅰ
設問
勅法(資料 神聖ローマ帝国フリードリヒ1世が1158年に北イタリアのロンカリアで発した)文化的・政治的状況を説明
資料の内容(最古の大学特許状)
皇帝が学生と市民法の教師に学問を修める場所の安全を保障する
学生は異邦人で、そのため生命の危険にさらされることもある
解答に向けてのメモ
史料(抜粋)
数字と下線はメモ書きと対応
皇帝フリードリヒは,諸司教,諸修道院長,諸侯.諸裁判官およぴわが宮宰達の入念なる助言こもとづき,①学問を修めるために旅する学生達.およぴとくに神聖なる市民法の教師達に.次の如き慈悲深き恩恵を与える。すなわち.彼等もしくは彼等の使者が.学問を修める場所に安全におもむき.そこに安全に滞在し得るものとする。
中略
朕は永久に有効である法規によって.何人も.学生達に敢えて不正を働き.学生達の同国人の債務のために損害を与えぬことを命ずる。こうした不法は悪い慣習によって生じた聞いている。
今後,この神聖な法規に違反した者は.その損害を補填しないかぎり.その都市の長官に四倍額の賠償金を支払い.さらに何等の特別な判決なくして当然に.破廉恥の罪によってその身分を失うことになることが知られるぺきである。しかしながら,②学生達を法廷に訴え出ようと欲する者は,学生達の選択にしたがい,朕が裁判権を与えた,彼等の師もしくは博士または都市の司教に,訴え出るものとする。このほかの裁判官に学生達を訴え出ることを企てた者は.訴因が正当であっても,敗訴することになる。
後略
中世の都市
- 西欧では10世紀ごろから農業生産力が上昇によって地域間商業が活発化した
- 広域的な経済の拠点として都市が発達し、領主の許可を得て商人や手工業者が都市に定住するようになった。
- 都市ははじめ国王、諸侯、司教の支配下にあったが、やがて経済力を基盤として領主から特許状をえて自治権を確立する都市が現れた。
- イタリア中北部では貴族や大商人がコムーネ(自治都市)を作って周辺地域をも支配する都市国家に発展した。
- アルプス以北では有力都市が皇帝から特許権を得て直属の自治都市(帝国都市)となり、諸侯と対等な地位を持ち対抗するものもあらわれた。
- 都市には新興商人から托鉢修道士まで、移動しながら生活する人々が都市に集い、情報交換し、新たな協同組合的な組織を形成した。
- こうしたグループは常に移動可能で、都市の支配層や領主、皇帝や教皇の権威さえ相対化する自由があった。
大学出現の背景
- 生産力の増大で知識だけで生活する人々が許容される余裕ができた。
- 行政組織の発達で知的活動に授業が高まり、その結果専門家や学者の役割が拡大した。
- イスラーム経由で古代地中海世界の学問が流入し、学問への関心が高まる。
法学の優越
- 中世の自治都市ではローマ教皇と神聖ローマ皇帝の叙任権闘争のはざまで、自治都市の法的地位や権利を権威づける法制度が必要であり、その時にローマ法が根拠とされた。
- ローマ法は、神聖ローマ皇帝にとっても、都市内部の各種団体にとっても都市や諸侯に対抗して自らの地位をの保障する根拠として必要であった。
ボローニャ大学
- ボローニャ大学の学生は勉学(ボローニャにいる有名な法学者に学ぶ)のために市外から来た者(史料下線①)。
- 彼らは一時滞在者なので市民権を持たなかったので、出身地別に同郷者組合を作り、さらに学生団の組合(ギルド)を形成して、市当局にたいして住居や賃料に関する生活圏の交渉を行い、内では規律(裁判権)を持った(史料下線②)。ギルドは教員と給与の交渉して教員を雇った。
- 講義は教師の自宅や教会など公的な建物を借りて行われたため移動が自由で、市との交渉が決裂すると集団で逃亡することもあった。学生集団の存在は市当局にとっては経済的な利益なので、彼らが他の都市に移動されると困るので、学生団組合に便宜を図るなどした。
- ボローニャ大学は学生のギルドが運営の中心だが、パリ大学は神学校が起源なので教員のギルドが運営の中心、ギルド(ウニベルシタス、universityの語源)のあり方は大学によって違う。
解答例
この勅令は皇帝がボローニャ大学の学生団に与えた特許状である。西ヨーロッパでは10世紀ごろから農業生産力の上昇を背景に商業の拠点として都市が発達し、商人や手工業者が定住した。彼らは聖俗の領主から特許状をえて自治権を手に入れ、イタリア中北部では自治都市が領主から自立した。都市には移動しながら生活する人々が集い、各自が協同組合的な組織を形成した。12世紀にイスラームから古代地中海世界の学問が流入し、ラテン語に翻訳され研究が進むと、自治都市では教皇と皇帝のイタリアでの争いの中、法制度でその地位を保障するためローマ法の研究者を保護した。法学を学ぶために市外からボローニャに学生が集まり、市民権を持たない彼らは学生団を形成して市と交渉を行い、教員を雇い、大学内部では裁判権も行使した。市は経済的な利益を生む彼らに便宜を図り、皇帝もローマ法で自らを権威付け、自治都市に対抗するために大学を保護した。394字
解答作成のポイント
これを参考にしています。
財務省に頭が上がらない内弁慶の文科省による大学への干渉が増大することに対する一橋大学の渾身の一撃、「西欧中世史はビジネスパーソンの教養」という一橋大学のポリシーの真骨頂です。
「金は出すけど口は出さない」など大学と権力の適度な緊張感のある関係が学問の発展につながります。これがわからない唐変木が近頃多すぎます。
「文化的・政治的状況」という指示なので、
- 経済の発達で中世都市が勃興したこと、
- 都市が領主から特許状をえて自立したこと
- 人の移動が活発化したこと
- イスラームからギリシア・ローマの学問が流入したこと
- それを学ぶために都市を訪れた学生が、都市の自治と同じく「学問の自由、大学の自治」を都市に要求したこと
- 自治都市が皇帝と教皇のはざまで(イタリア政策)ローマ法を自らの地位や権利を守る武器としようとして、ローマ法の研究者の活動を許していたこと
- 皇帝も都市と対抗するためにローマ法を研究する大学を利用しようとしたこと
これらをまとめればよいと思います。解答例は都市、特許状、12世紀ルネサンスについては教科書の内容(今回は主に東京書籍)、大学の自治については吉見先生の本を参考にしています。
大学の出題意図も「12世紀ルネサンスと自治都市(コムーネ)について皇帝権との関係から説明する」なので、受験生は高校で学んだ知識の範囲内で解答しましょう。
ただ資料にヒントがあるとはいえ、「ボローニャに集う学生が市外から来ているので身を守るため学生団を作ったのが大学の起源」は高校では習わないかもしれません。また「皇帝が大学を支援してコムーネをけん制しようとした」も資料から読み取れますが高校生にはかなりの難易度です。
したがって現役生は12世紀ルネサンスの説明辺りで字数を埋めることになりますが(予備校の解答例もそんな感じ)、解答例はローマ法がイタリアでの教皇、皇帝、自治都市の争いの中で「身を守るための武器」となった点、つまり政治と文化を分けずに「政治のための文化」という視点で記述しました。
中世は騎士、職人、学生など移動しながら生活する人々が多かったことは一橋レジェンドの阿部勤也先生の本に詳しいです。一橋志望者なら一冊ぐらいは読んでいるはず。
いまでこそ大学はキャンパスを持っているのが当たり前、そのキラキラさが受験生獲得に役立ったりしますが、中世の大学はキャンパスがない場合が多く、市当局とけんかして集団で脱走することはよくありました。
有名なのはオックスフォード大学が逃亡してケンブリッジに移った例で、その後オックスフォードに戻ることになったものの、ケンブリッジにもそのまま大学が残り、現在に至ります。
オックスフォード大学にあるラドクリフ・カメラとセント・メアリー教会。© GAHAG 著作権フリー写真・イラスト素材集
Ⅱ
設問
「米国雇用計画」に匹敵しうる20世紀アメリカの経済政策(それ以後のアメリカの経済政策の基調を作った)の内容、実施された背景、それ以降の経済政策の影響を説明。それがなぜ、どのような理由から批判されるようになったかも説明。
資料:バイデン大統領の演説
公共投資とインフラが文字通り米国を変革してきた
「米国雇用計画」は第二次世界大戦以来最大の雇用計画だ
参考 日本経済新聞
解答に向けてのメモ
参考
ニューディール政策
- それまでアメリカの歴代政権が取ってきた、市場への政府の介入も経済政策も限定的にとどめる古典的な自由主義的経済政策から、政府が市場経済に積極的に関与する政策へと転換したものであり、第二次世界大戦後の資本主義国の経済政策に大きな影響を与えた。
第1次ニューディール
- 銀行の休業。支払い能力がある銀行から事業を再開。
- テネシー川流域開発公社。失業対策事業兼公共計画事業。貧困に苦しんでいたテネシー川流域を開発するため、洪水防止および水力発電用のダムを何カ所かに建設した。
- 農業調整法。農民の自主的な減産を補償する補助金を支払うことで作物の価格を引き上げる。
- 全国産業復興法。雇用を増やし購買力を高めるための公正な競争慣行の規則を定める。過剰な規制を批判され、産業の復興を達成するには至らず、1935年に違憲判決。
第2次ニューディール
- 1935年社会保障法。貧困層、失業者、および障害者のための州が運営する福祉給付制度がつくられた。
- 1935年ワグナー法。全国産業復興法が意見になり、労働者の団結権、団体交渉権のみを抜き出した改めて立法化。
背景
- ローズヴェルトが大統領に就任したころには、1300万人もの米国民(労働力の4分の1以上)が失業していた。フーヴァーの恐慌対策は州単位で企業の規制にまでは踏み込まず、保護貿易法がますます国際貿易を縮小させた。
経済政策への影響
- ニューディール政策以後のアメリカ合衆国では、連邦政府の歳出やGDPに対する比率が増大し、連邦政府が強大な権限を持って全米の公共事業や雇用政策を動かすこととなり、さらに第二次世界大戦により連邦政府の権力強化や巨大化が加速し、アメリカ合衆国の社会保障政策を普及させた。
- 民主党のケネディの「ニューフロンティア政策」。ジョンソンの「偉大な社会計画」は公共事業や社会保障の充実で有名。共和党のアイゼンハワーやニクソンも社会保障政策は行っていた。
批判
- ニューディール政策で景気が回復したとはいえない。景気が回復したのは第二次世界大戦による。
- 連邦政府の経済政策の権限が強くなりすぎ。自由経済と連邦制に反する。
- 公共事業、雇用対策、社会保障政策の費用が莫大になり、財政赤字を招いている。
- 不況下に財政出動しても不況はすぐにはおさまらず、通貨量が増えて物価は上昇する、いわゆる「スタグフレーション」が進行する。西欧の先進国も同様。
- 新自由主義の主張。市場への制度上の規制は排除されるべき、政府の仕事は民間に移管するべき。
解答例
演説が念頭に置くのはニューディール政策である。恐慌が悪化し銀行・企業の倒産や失業者が増加する中で共和党政権は有効な政策を打ち出せなかった。民主党のローズヴェルト大統領は従来の政府の市場への介入を控える政策から政府が経済に積極的に関与する政策に転換し、支払い能力のある銀行から順次営業を再開させ、農業調整法で作物の価格を引き上げ、全国産業復興法で公正な競争を促し、テネシー川流域開発公社で公共事業による失業対策を行った。また社会保障法で貧困層を救済し、ワグナー法で労働者の権利を認めた。こうした政策は戦後もニューフロンティア政策や偉大な社会計画など主に民主党の政策に受け継がれたが、連邦政府が全米の公共事業や社会保障政策に強大な権限を持ったことで肥大化し、また財政赤字の拡大、競争力の低下、スタグフレーションの進行が批判を受け、80年代には共和党政権が規制緩和や小さな政府などの新自由主義に転換した。399字
解答作成のポイント
これは「いい方」の一橋大学第2問。高校生の学びを十分活用しながら「大きい政府と小さい政府」という今日的な課題について論じます。完答は難しいですが、受験生の多くは「書けた」という印象でしょう。
前半部はズバリ的中か!?共和党政権の恐慌対策を「無策」と切り捨てたくなりますが、最近の研究ではそうでもないらしいので、解答例はやんわりとしてあります。
bunbunshinrosaijki.hatenablog.com
誘導に沿って、ニューディール政策実施の背景(世界恐慌と共和党政権の限界)、具体的な内容(特に雇用や社会保障に結びつくもの)、影響(戦後の社会保障政策)、批判(財政赤字、スタグフレーション)について教科書(世界史および政治・経済)に載っていることを書いていけば400字に達します。
ただしジョンソンの「偉大な社会」計画あたりから類推して「戦後もニューディール的な政策が継続した」と記述できるかは、用語だけ覚えて終わりにしていないかどうかで差がつくところ。
「批判」は新自由主義の言い分(小さな政府と規制緩和という名の自助の強要)から連想できます。現役生は戦後史と政治・経済の知識をフル回転させる必要があります。
しかし某国の新自由主義は消費税の増税分が法人税の減税分とほぼ同じとか、弱者の切り捨てどころか奴隷化です。
一橋大学の出題の意図も、ニューディール政策の内容、戦後もその政策が継続したこと、その結果財政赤字やインフレを招き新自由主義から批判が起きたことを書くように求めています。旧商大の本領発揮です。
Ⅲ
*123まとめて400字以内
設問1
1979年から1980年までの韓国における政治の動向
解答例
1朴正煕の暗殺後に各地で民主化運動が高揚するが、実権を握った軍人の全斗煥は戒厳令を敷き、光州市民の民主化要求を武力で鎮圧し、大統領に就任した。71字
設問2
1592年~1598年の戦乱の朝鮮側の名称を記したうえで、その戦乱の展開過程、またこの戦乱が明に与えた影響について
解答例
2壬申・丁酉倭乱。豊臣秀吉は大陸侵攻の足掛かりとして朝鮮に侵攻し、緒戦では勝利したが李舜臣の水軍や義兵の抵抗や明の出兵にあい、秀吉の死で撤兵した。明は援軍派遣で財政難に陥り衰退の要因になった。96字
設問3
1880年代から1894年までの朝鮮・清・日本の関係について
解答例
3閔氏政権は日本と結んで軍の近代化を進めたため82年に旧式軍人が大院君を擁立して壬午軍乱を起こしたが清に鎮圧された。その後閔氏は清を後ろ盾に改革を進めたが、日本と結んで近代化を図ろうとする金玉均ら開化派が84年に甲申政変をおこしたが清の袁世凱に鎮圧され、日清は朝鮮出兵に関する事前通告を約した。94年に全琫準を指導者とする甲午農民戦争が発生すると日清両国が出兵した。到着前に反乱は収束したが日本が閔氏に改革を要求して日清の関係が悪化し、日清戦争が発生した。227字
解答に向けて
朝鮮近現代史盛り合わせ問題。
1は難しいです。東京大学の2015年の第3問で「全斗煥」が出題されています。
2は必答。東京大学も視野に入れて日本史を作ってあった人は有利。
3は金玉均キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!(お約束)。2021年共通テストで正答率が悪かった問題です(金玉均ファンのぶんぶんには理解不能)。
過去回。清から朝鮮王朝に派遣されたのが袁世凱。
bunbunshinrosaijki.hatenablog.com
復習 光州事件(5・18民主化運動)
HUFFPOSTの記事
朴正煕大統領の暗殺後「ソウルの春」と呼ばれる民主化ムードが続いていましたが、1979年12月に暗殺犯の逮捕にあたった保安司令官全斗煥陸軍少将が軍の実権を掌握しました(粛軍クーデター)。
全斗煥は1980年5月17日、全国に戒厳令を布告し、野党指導者の金泳三・金大中や、旧軍部を代弁する金鍾泌を逮捕・軟禁しました。金大中は全羅南道の出身で光州では人気があり、5月18日に光州での民主化要求デモが発生しました。全斗煥は鎮圧のために陸軍の特殊部隊を送り、一斉射撃などで一般市民が多数殺害されました。
光州市によると、10日間続いた市民らと軍の衝突による死者・行方不明者は242人にのぼるそうですが、正確な死者数や誰が発砲を指示したのかなど現在でも不明な点が多いそうです。
その後全斗煥は大統領に就任し、1981年から第五共和国がスタートしました。金大中は光州事件を首謀したとして内乱陰謀などの罪で逮捕され、死刑判決を言い渡されました(1982年に無期懲役に減刑され、さらに米国への出国を条件に刑の執行が停止されました)。
光州事件の映画化で有名なのはこれ。