ぶんぶんの進路歳時記

学習方法、進路選択、世界史の話題について綴ります

世界史の入試問題を解いてみた(2024 一橋大学)

はじめに

 今年の国立大学の入試問題を解答し、次年度の受験生のヒントにしたいと考えます。

 今回は一橋大学です。世界を股にかける経済人が教養として身につけておくべきヨーロッパの基層・グローバル化・東アジア近現代史について毎年これでもかと出題します。同じく経済人必須の数学も激ムズで有名です。

 解答例は正解ではありません。著作権はぶんぶんにあります。

*解答例作成の方針

  1. 受験生と同じく何も見ないで解答する。ただし途中でお茶を飲んだりトイレに行ったりはする(ルール違反)
  2. 解答を作ったら、受験生がアクセスできる教科書(実教出版帝国書院、東京書籍、山川出版社)、資料集(帝国書院、浜島書店)、参考書(詳説世界史研究)でウラを取る(イカサマ)
  3. 一橋大学は教科書オーバーの内容が出るので一般書もチラ見する(インチキ)
  4. 仕上げに河合塾駿台、東進、代ゼミの解答速報と比較する
  5. 解説は関連する一般書を利用する

問題は東進過去問データベースより(要会員登録)

www.toshin-kakomon.com

目次

 

一橋大学 過去21年分の出題(大問構成)

 
2004 宗教改革の比較 ピョートル1世 サファヴィー朝ムガル帝国文学革命の意義。
2005 身分制議会の特徴と比較 冷戦を核兵器の開発と抑制の観点で語る 東南アジアへのインド人中国人移民増加の理由を出身国の国内問題と現在の問題と絡めて書く
2006 オットー1世の歴史的意義 ケルン大聖堂をめぐる中世都市の自治ドイツ帝国ナショナリズム アウラングゼーブ。マンサブダール制。清の統治。典礼問題
2007 フランクの分裂~オットー1世の戴冠 ルイ16世の即位と革命前の改革 太平天国と洋務運動
2008 ハンザ同盟13世紀~17世紀 米西戦争アメリカの太平洋進出 韓国併合と光緒新政
2009 カール大帝と地中海。ピレンヌテーゼの再考 18世紀の第二次英仏百年戦争 1920年~40年代の日本の朝鮮統治
2010 11世紀~13世紀の皇帝権と教皇権の闘争 第一次世界大戦と女性の社会進出 バンドン会議西安事件インド国民会議
2011 フス戦争の意義 1850年~70年代のヨーロッパの動き 三藩の乱
2012 ナントの勅令の意義 国際連盟国際連合が直面した問題 イギリスの東南アジア進出と清朝冊封体制の変化
2013 東方植民の経緯と近代での経済史的意義 フランス革命は革命か 甲申政変
2014 ワットタイラーの乱と中世封建制の解体 チェコの歴史と良知力 明清交代と朝鮮
2015 カール大帝のローマ滞在の理由とカールの戴冠の意義 ECとASEANの歴史的役割の変化について比較する 清朝の対外関係の特徴とその崩壊過程
2016 聖トマスとアリストテレス都市国家論の比較 18世紀プロイセンで建てられたユグノー教会とカトリック教会の歴史的背景 1940年以降の朝鮮半島情勢と、朝鮮戦争が中国と台湾に与えた影響
2017 新大陸の銀がスペインの盛衰や16~17世紀のヨーロッパ経済に与えた影響 ハイチとアメリカ合衆国奴隷解放の特徴。ラテンアメリカの独立の担い手と独立後の経済政策。ブラジルの独立の特徴 ザイトンを取り巻く11~13世紀の国際関係
2018 11~13世紀のヨーロッパの「空間革命」とその経済・社会・文化への影響 歴史学は経済学と近代歴史学の相違。それが生じた歴史的背景を対比させつつ 三・一独立運動と五・四運動の背景、展開、意義
2019 東欧でカトリックを受容した王国。身分制議会の展開 第二次英仏百年戦争の経過と後の世界史に与えた影響 中国国民党中国共産党の争い。1949年まで
2020 ドイツ農民戦争と「聖書のみ」に関わるルターとの考えとの相違 20世紀中葉に資本主義の派遣がイギリスからアメリカ合衆国に移行した経緯。19世紀後半、第二次世界大戦、冷戦、脱植民地化との関係に言及しつつ 朝鮮王朝の小中華意識とそれが1860~70年代にどのような役割を果たしたか。当時の国際関係の変化に関連づけて
2021 アヤソフィア建造の時代背景と複数回の転用の理由 ゲーテの時代とレンブラントの時代の文化的特徴の差異 文化大革命から四つの近代化までの経緯
2022 フリードリヒ1世の勅法の歴史的背景(中世の大学) 20世紀アメリカ合衆国の経済政策の背景と影響、それが批判された理由 光州事件、壬辰丁酉の倭乱、朝鮮王朝の開国
2023 英仏百年戦争が英仏二つの国家間の戦争と捉えることが必ずしも適切でない理由とその結果による仏の変化 モザンビークジンバブエがOAU加盟が送れた経緯 帝政ロシアの中国利権とソヴィエトロシアがそれを手放す声明を出した時代の中露関係の変化が中国に与えた影響
2024 都市経済の「封鎖的な面jと「開放的な面」を明らかにしつつ.アルプス以北の地域において中世都市が果たした社会経済史的意義 19世紀の奴隷貿易奴隷制廃止の一連のプロセスと奴隷解放の問題点。当時の国際牌係や政治経済情勢に着目しながら 10世紀から12世紀頃、唐王朝の滅亡に伴って発生した東アジア世界の政治的・社会的変動

コメント

 大問三題とも論述で(たまに刻むことあり)、Ⅰはヨーロッパ中世史、Ⅱはヨーロッパ近現代史、Ⅲが東アジア近現代史(時々明清交替)という構成です。Ⅱは政治・経済のグローバル化に関することが多く、たまに出題される歴史学の方法論は受験生にはたぶんお手上げです。(/-ω-)/オワタ

 Ⅲで定番以外の範囲から出題されたのは2017年の「13世紀のザイトン」以来です。

 書く内容は事件の展開を説明したうえで後世への影響を聞くことが多いです。

設問

文章中の下線部について,下の史料に示されたビュッヒアーの見解の批判的検証を通じて都市経済の「封鎖的な面jと「開放的な面」を明らかにしつつ.アルプス以北の地域において中世都市が果たした社会経済史的意義を,12~14世紀の神聖ローマ帝国域内の複数の都市の事例に即して考察しなさい。400字以内

資料

文章1 増田四郎『増補 西欧市民意識の形成』の要旨(ぶんぶんのまとめ)

  • 社会経済史的にみた中世のアルプス以北の都市の特色は「ひとつの大きな家計」単位、すなわち「市民的生活全体」として把握されうる
  • なぜそう言えるかというと、市民の経済生活はすでに相当程度の職業分化を前提にして、各家族の家政的・自給自足的理念を克服しているから
  • 都市は村落共同体的・地縁的因習に束縛されず、領主的封建支配にも属さない、村落団体とは異なる形成体だ
  • 具体的には、都市の中央に位置する市場が市民全体の経済活動の中心をなしていた。つまり市民全体がひとつの家計にいる。市民は「都市市民」でありそこで営まれるのは「都市経済」といえる
  • そのため都市経済には従来の封建領主の経済政策とは違う、新しい経済政策をその構成員が担う必要がある
  • 新しい都市の経済政策は、封鎖的なものであると考えずに、封鎖的な面と開放的な面の統合として考察さえるべきである

文章2 ビュッヒアーの考え(ぶんぶんのまとめ)

  • 中世都市市場の搬入及び供給区域が地誌学的に正確に区画されえないのは、その搬入及び供給の区域は市場貨財が違うとその範囲も異なるから
  • そうは言ってもある区域はひとつの閉鎖的区域を形成する
  • 各都市はその周辺の「地方」と共に自主的な経済単位を形成していて、この範囲内に経済生活の全過程がその地特有の規範に準じて独立的に完遂されていた

解答のためのメモ

都市経済の「封鎖的」な面

参考 山川出版社『新世界史』(中世史の記述が最も尖っている)

  • 12世紀以降、人口増加や農業生産力の向上などの複合的な要因から、ヨーロッパの各地で、都市が、交通の要衝・市場地・消費地・手工業生産地・情報の拠点・権力の所在地などに都市が建設された。
  • 中世都市は,周囲の農村を経済的・法的に支配し,地域社会の中心地としての機能を果たした。また,都市の内部では、商人層を軸とする市民が都市領主から特許状を得て(コミューン運動),市参事会を中心に自治をおこなった。
  • 中世都市はみずからの意志をもつ政治体として,市の周りに城壁を築き、外交や戦争をつうじて自己の利益をまもった。
  • 中世都市には,古代ローマに起源をもつ司教座都市や,王侯の城塞を核とする行政=防備都市,商人定住地から発展した都市など,既存の都市が発展をとげたものと,植民運動の過程で新設された都市があった。
  • 市場地として富と人が集中する都市は、貨幣経済が浸透したこの時代の統治者にとって有望な財源であった。このため、君侯は領内の都市化を推進しつつ、造幣権・市場開設榛・通行税徴収権などをもちいて,都市から利益を吸いあげた
  • 都市の住民は大商人・都市役人・高位聖職者・手工業親方からなる富裕な都市エリート層、職人以下の手工業者や小商人といった中流層、市民権を持たない貧民層に分化した
  • 都市には商人が相互の扶助や規制のために結ぶ商人ギルドと、パン屋・肉屋・織布工・理髪師などが、価格統制や品質保証のために職種ごとに結ぶ同職ギルド(ツンフト)が存在した
開放的な面

解答例

ヨーロッパ中世都市は12世紀以降交通の要衝・市場地・権力所在地などに形成され、周囲の農村を政治・経済的に支配した。都市内部では商人層を核とする市民が領主から特許状を得て市参事会を中心に自治を行い、城壁を築いて利益を守った。市政に参加できる市民は限定され、都市内部には厳格な身分制がありギルドは自由競争を禁じて商品の品質や価格を規制した。一方でリューベックを盟主に結成されたハンザ同盟は共通の海軍や貨幣を持ち諸侯とならぶ政治勢力を形成し、在外商館を通じて北海・東欧と交易した。またアウクスブルクは銀を南北の商業圏に供給した。中世都市は独自の範囲と規範など閉鎖的側面を有するだけでなく、都市連合や商業圏間交易など開放的側面も有したといえる。アルプス以北の都市の繁栄はバルト海で競合する北欧・東欧の勢力や大西洋岸都市の伸張を促し、市民層や都市を財源とする諸侯の台頭を促して16世紀の経済や社会の発展を準備した。400字

解答のポイント

今回の出題は「一橋レジェンド」の一人である増田四郎さんの本より

 2023年の英仏百年戦争、2013年のフランス革命、さらにさかのぼると2001年の絶対王政に関する出題と同パターンで、中世都市の閉鎖性を再考する。

 課題文は読みづらいが、高校の学習内容を意識しながら課題文を読み、自分が書けることに置換する。そうすると、都市の閉鎖性=都市の運営やギルド制、都市の開放性=遠隔地貿易や都市連合、という図式が見えてくる。

 まず都市の閉鎖性の例をあげ、次に反論として都市の開放性の例をあげる。「アルプス以北の中世都市が果たした社会経済史的意義」は、タイトルが「西欧市民意識の形成」なので、「社会」については自由に商工業を行う市民層の成長と彼らを資金源とする君主や諸侯の台頭、「経済」については大西洋岸都市(17世紀にオランダはバルト海貿易で大儲けした)や北欧・東欧の成長(16世紀以降の経済の担い手)を促したことを書いた。受験生は「市民層の成長」がひねり出せればOK。

設問

奴隷貿易奴隷制の廃止に必ずしも「偉業」とは評価できない側面があり,それが現在の黒人たちの不遇な境遇と結びついているとすれば,それはどのような点か。奴隷を解放した側からではなく,解放された側,すなわち,元奴隷や黒人社会,アフリカ各国の側からみた場合,奴隷解放とその後の解放された黒人に対する政策は,どのように評価することができるか。19世紀の奴隷貿易奴隷制廃止の一連のプロセスを概説した上で、奴隷解放の問題点を中心に当時の国際関係や政治経済情勢に着目しながら論じる。400字以内

指定語句 13植民地の喪失 西半球の最貧国 シェアクロッパー制度 アフリカ分割

リード文のヒント(要約)

  • 大西洋奴隷貿易により始まった南北アメリカ大陸・カリブ海域における奴隷制は,19世紀にそのほとんどが廃止された
  • 19世紀における一連の奴隷解放の動きはリンカンの顕彰など各国の歴史において偉業と位置づけられている。近年ではUNESCOなどが,奴隷解放を記念する国際年のイベント(注:UNESCOが定めた「奴隷貿易とその廃止を記念する日」である8月23日はハイチの奴隷が蜂起した日)を開催している
  • しかし,2020年に米国から発したBLM(ブラック・ライヴズ・マター)運動では,黒人たちの貧困や黒人への日常的な人種差別.暴力が問われ,彼らは「黒人の命も大切」と訴えた
  • 奴隷解放から一世紀以上が経つのに,なぜ不平等な救いをいまも強いられるのかと,BLM運動ではあらためて奴隷制という負の遺産の大きさと.奴隷解放のプロセスの問題点に注目が集まった

①指定語句から芋づる

13植民地の喪失
  • 18世紀後半のアメリカ独立革命でイギリスは13植民地を喪失した。それが影響で奴隷貿易奴隷制についてイギリスで疑義がではじめる。
  • イギリスでは18世紀末からクエーカー教徒やウィリアム・ウィルバーフォースがキリスト教人道主義の見地から奴隷廃止運動を始めた。
  • その結果イギリスでは1807年奴隷貿易が廃止され、さらにウィルバーフォースらは奴隷制そのものを禁止しようとしたが、砂糖プランターの反対にあった。ジャマイカの大規模な奴隷反乱を契機に、1833年にイギリス帝国内での奴隷制の廃止が決められた。
西半球の最貧国
  • フランス領サン=ドマング島では黒人奴隷を使用する砂糖プランテーションが展開していたが、1790,91年に黒人の暴動が起きるとトゥサン=ルヴェルチュールはそれを指導し、独立運動に転化させた。
  • 彼は1800年憲法を制定して奴隷を解放し自ら大統領に就任して独立を宣言するが、ナポレオンが弾圧に転じトゥサンは獄死する。その後も独立闘争が続き、1804年1月1日にハイチ共和国として独立を達成した。
  • ナポレオンはハイチの独立を承認するが、フランス人奴隷保有者のために莫大な賠償金をハイチに要求した。この支払いでハイチの財政は破産状態になり、フランスの銀行から資金を借り入れたので、賠償金と利子が長くハイチ経済の足かせとなり「西半球の最貧国」と呼ばれる状態になった。

参考

ハイチからの移民を乗せたボートが転覆した事件


www.youtube.com

シェアクロッパー制度
  • アメリカ合衆国では19世紀初頭にジェファーソン(所有する黒人奴隷に子どもを産ませた疑惑がある)が奴隷貿易禁止に署名したが、南部で綿花プランテーションが拡大し奴隷制は存続した
  • 南北戦争後の憲法修正第13条で黒人奴隷は解放されたが、黒人への農地の分配が行われなかった。農園主は自己の農場をいくつかに分け,これを小作人(黒人や白人の貧農)に貸し与える分益小作人(シェアクロッパー)制度を採用した。
  • 小作人は土地を持たず手に職もないので、耕作用具や生活必需品を農園主や商人から前借りし、収穫物の半分を農園主に支払うシェアクロッパーとしてニューディールの頃まで厳しい状況におかれた。

アフリカ分割
  • ヨーロッパ各地で奴隷制度が廃止された19世紀半ばに科学が発達し、ヨーロッパ人の間では自らを文明、それ以外を未開と考える思想が広がった。
  • アフリカ東海岸ではまだ奴隷制が維持されていて、宣教師のリヴィングストンは奴隷制をなくすためには文明化=キリスト教の普及が必要としてアフリカに伝道に出かけた。
  • 行方不明になったリヴィングストンを捜索に行ったスタンリーの探検をベルギー国王が支援し、コンゴを私領化したことに列強が反発、ビスマルクが仲介してアフリカ植民地化のルール(先占権と実効支配の原則)を定め、アフリカ分割が始まった。
  • エチオピアリベリアを除きアフリカは分割され、列強はアフリカに恣意的な国境線を敷き資源を収奪した。
  • 第二次世界大戦後に独立運動が激化し、サブサハラではガーナの独立を皮切りに1960年には一気に17カ国が独立した。しかし植民地時代の国境線とモノカルチャーを引き継ぎ、第二次世界大戦後の自由貿易体制は先進国に有利でアフリカの低開発が問題になった。

奴隷解放と解放された黒人に対する政策の解放された側の評価

元奴隷や黒人社会
  • ハイチでは独立が達成されたものの賠償金の支払いで破産した
  • アメリカの解放奴隷は農地を分配されず小作人として生活が困窮した
  • 奴隷は解放されても州法で分離政策や選挙権の制限がなされ差別が続いた
アフリカ各国
  • アフリカ分割によって恣意的な国境線が敷かれ、民族対立が煽られ、資源が収奪された
  • アフリカは独立を達成するが、GATTIMF体制のもと先進国に有利な自由貿易体制が押し付けられ低開発の状態が続いた
まとめ
  • 独立や解放はされたものの、それまでの搾取への補償はなく(ハイチに至っては賠償を請求された)、自由主義経済に放り出され、結局旧支配者が得をしている
  • それにも関わらず旧支配者たちは自らの奴隷解放を「偉業」扱いするのは、「抑圧された側の痛みを理解しているのか」と問い詰めたくなる
  • したがって「モニュメントの欺瞞性」を告発することで旧支配者の行いを世界に知らしめなければ真の黒人解放には至らない→BLM運動

解答例

イギリスでは13植民地の喪失後キリスト教人道主義から奴隷制廃止運動が始まった。同時期にサン=ドマング島で黒人の暴動が発生、1804年にハイチが独立した。イギリスは1807年に奴隷貿易、33年に奴隷制を廃止し他国も続いた。アメリカ合衆国では南北戦争後の憲法修正第13条で奴隷制が廃止され、19世紀末のブラジルを最後に奴隷制は消滅した。ヨーロッパ列強は奴隷制が残るアフリカを未開とみなし、文明化を大義アフリカ分割を行って資源を収奪した。ハイチは独立の際フランスから賠償金を請求され困窮し西半球の最貧国と呼ばれている。アメリカの黒人奴隷は解放後も土地は分配されずシェアクロッパー制のもと生活は困窮し、南部では州法で公共の場所での分離や選挙権の制限を受けた。アフリカ諸国は独立後も先進国に有利な自由貿易ルールのもと低開発が続いた。このように解放された側の視点では解放や独立には補償が伴わず利益を得たのは解放した側といえる。400字

解答作成のポイント

 「アフリカが二年続いた!」というのは表面的な感想で、この問題の肝は「解放された側からみた場合,奴隷解放とその後の解放された黒人に対する政策はどのように評価することができるか」、言い換えるとBLM運動が何を問題としているのかを問う点。

 奴隷や植民地がそのままでよいわけではないが、それまでさんざん搾取しておいて、都合が悪くなって補償もなしに放り出して、旧支配者がその行為を「偉業」扱いして悦に浸るのを見て、抑圧された側の気分がいいわけがない。

 解答例は誘導に沿って19世紀(奴隷貿易廃止~ブラジルの奴隷制廃止)の奴隷制度について概観し、指定語句沿って解放や独立が黒人やアフリカにさらなる不利益をもたらしたことで締めた。

 ただし「西半球の最貧国」からハイチをひねり出すのは現役高校生には至難の業かつフランスの補償金請求の話はほぼ無理、東アフリカに残存する奴隷制をヨーロッパ人が未開と決めつけて文明化しようとした話も無理。

*補足

 ぶんぶんは大阪大学の研究会で、東アフリカの奴隷は年休をとったり他で小遣い稼ぎしたりしていたいう発表を聞きました。文明化の話はEテレ『高校講座世界史』でアフリカ史の第一人者である宮本先生が語っていて、アシスタントの寺田ちひろ♡が顔を曇らせていました。

 BLM運動を表面だけ見て嫌悪感を感じる人がいるかもしれないが、この問題を誘導に沿って解答していくと見方が変わってくる、という奥が深い問題。ただし受験生(浪人生を含む)には完答はほぼ不可能。

発展 フランスの海外県

 ハイチの東のアンティル諸島南アメリカをはじめ世界中にフランスの旧植民地が点在し、現在は「海外県」「海外準県」などと呼ばれています。フランス系の移民も住み、独立よりはフランスの領土であり続ける方が得策という住民の判断といえます。

 フランス領ギニアは宇宙センターで有名、サン=バルテルミ―島(ユグノー戦争?)は一時期スウェーデンが購入し奴隷貿易の拠点としましたが、儲けが出ずにフランスに再売却しました。

ロケット発射台。NASAの撮影なのでパブリックドメイン

ソース    http://sealevel.jpl.nasa.gov/gallery/topexposeidon/general/?ImageID=104

設問

10世紀から12世紀頃、唐王朝の滅亡に伴って発生した東アジア世界の政治的・社会的変動を述べる。400字以内

解答に向けてメモ

10世紀 華北・華南
  • 華北では唐が滅亡すると漢族、突厥系の節度使による短命な5王朝が次々交替し、南下する契丹と激しい攻防を繰り返した。
  • この騒乱の中で門閥貴族に代わって武人が権力を持ち、彼らと結んだ形勢戸が新興地主層として勢力をのばした。
  • 後周の趙匡胤北宋を建てると、節度使の実権を奪って皇帝に権力を集中させ、科挙によって選抜した文人官僚を重んじる文治主義の政治を行った。この結果形勢戸が官僚となり、政治・経済・文化の担い手である士大夫層が成長した。
  • 華南では10あまりの国が分立した。比較的安定した政権のもと茶・紙・墨・磁器などの特産品を産んで豊かな地域文化を形成した。
10世紀 モンゴル高原
10世紀 朝鮮
  • 朝鮮では10世紀に各地で武装勢力が現れて新羅が分裂し、918年に王建が高麗を建てて朝鮮半島を再統一した。
  • 高麗は五代や宋の冊封を受け科挙などの政治制度を受容した。また仏教を国の信仰とし、高麗青磁や金属活字の発明など同時の文化を発展させた。
  • 高麗の支配層である両班は文班と武班からなり、12世紀には崔氏が武人政権を樹立した
11世紀
  • 宋は燕雲十六州の奪回を目指したが失敗し、契丹と1006年に澶淵の盟を結び、宋は毎年契丹に銀や絹を贈り、互いを皇帝と認め兄弟の関係を結び、現状の国境線を維持し交易場を開くなど和解した。
  • 黄河上流の建国されたチベット系タングートの西夏は東西の交通路を押さえ、西夏文字など独自の文化を発達させた。1044年に宋と講和し、宋に冊封して毎年銀・絹・茶を贈られた。
12世紀
  • 中国東北部完顔阿骨打女真を統合して金を建国、二重統治を採用し遊牧民には猛安・謀克という軍事・行政制度を適用した。
  • 契丹・金・西夏にはさまれた宋は金と同盟して契丹を滅ぼした。契丹の一族は西に逃れカラハン朝を破ってカラ=キタイを建国した。
  • 宋が約束を守らなかったので金は宋の首都開封を占領して皇帝欽宗と上皇徽宗を捕らえた(靖康の変)。皇帝弟の高宗は江南に逃れ宋を再興した(南宋)。
  • 1142年に金と南宋の間で講和が結ばれ、淮河を境とし、宋が金に臣下の礼を取り、毎年銀や絹を贈った。
  • 金は農耕地帯を押さえ、中華の統治体制を取り入れる一方女真文字を作るなど民族固有の文化の維持を図った。
  • 南宋時代に長江下流の開発が進み(囲田、占城稲)経済の中心になった。

解答例

10世紀に華北では節度使による短命な5王朝が次々交替し契丹と攻防を繰り返した。騒乱の中で門閥貴族は衰退した。華南では10余りの国が建ち独特の文化を形成した。宋は節度使の実権を奪い科挙官僚による皇帝親政と文治主義を採り、新興地主層の形勢戸が政治・文化の担い手である士大夫層を形成した。同じ頃朝鮮では高麗が半島を再統一し、中華の制度を受容する一方独自文化も発達させた。モンゴル高原では契丹が台頭し、燕雲十六州を奪って農耕地域と遊牧地域を二重統治し、11世紀に宋と互いを皇帝と認め宋から毎年銀や絹を得た。同じ頃西部に西夏が建ち、交易路を押さえて宋に冊封し銀・金・茶を得た。12世紀に東北部に金が建ち宋と結んで契丹を滅ぼした後宋の都開封を占領した。杭州で再建された南宋は金に臣従して銀や絹を贈り、金は淮河以北を二重統治した。契丹西夏・金は中華に対抗して独特の文字を作り、南宋支配下の長江下流域では経済開発が進んだ。400字

解答作成に向けて

 一橋決め打ち受験生には予期せぬ出題だが、このところ魏晋南北朝や五代~南宋は「中国中心史観」を見直す好材料かつ新書によい本が出ているために国立・私立で出題が相次いでいる。

 時代は10世紀から12世紀、場所は東アジアなので五代十国、高麗、北宋南宋契丹西夏、金について書く。大越と大理は「東アジア文化圏」だが、解答例では字数の兼ね合いで割愛した。

 「政治的変動」については王朝の変遷、特に遊牧民が農耕地帯に進出し、12世紀には漢人王朝を臣従させるに至った顛末を書く。「社会的変動」については、華北では貴族の没落→節度使政権→科挙官僚と政治の担い手が変わったこと、北方の勢力については農耕地帯では中国の制度を継承したことと、中華の文化を受容しつつ独自の文化を形成したこと、江南については宋の南渡以後に開発が進んだことを書く。

 併願私立の過去問に取り組んでいた人には取り組みやすい問題。

まとめ

  • 一橋大学のⅠとⅢは出題範囲が限定されているので、その部分を教科書だけでなく参考書や一般書を使って深堀りしましょう
  • 突然「肩透かし」が入ることもありますが。その場合は併願難関私立や国立の問題をこなしていれば解答できる難易度なので慌てる必要はありません
  • Ⅱはグローバル化に関する問題が多いです。過去問だけでなく国立・難関私立の同系統の論述やリード文問題をやりましょう
  • 事件は必ず背景→契機→経過→結果→影響で整理しましょう。