ぶんぶんの進路歳時記

学習方法、進路選択、世界史の話題について綴ります

ウクライナの歴史まとめ その2(ロシアの支配とウクライナ人意識の形成)

 紀元前から21世紀まで現ウクライナ黒海北岸地域について俯瞰する回、第2回は17世紀から19世紀にかけて、モスクワ大公国(18世紀にロシア帝国を名乗る)の支配に置かれる中で民族意識が形成される様子です。

 空欄補充プリント形式ですが、用語を覚えることが目的ではなく、教科書の知識がウクライナについて考えるヒントになることを示すためです。これは現在のトピックを入試問題にすることが多い立命館大学早稲田大学(商)の手法を踏襲しています。

 今回は2015年の立命館大学の入試問題をベースに、山川出版社の『詳説世界史研究』、各国史20『ポーランドウクライナ・バルト史』、同22『ロシア史』、『世界近現代史』Ⅰ~Ⅲ、中公新書『物語ウクライナの歴史』を参考にしています。

緊急重版中

 ぶんぶんは歴史でご飯を食べるものの末席なので、「人類は20世紀の戦争の惨禍から戦争はマイナスしか生み出さないことを学んだ。人類は戦争をしない・させないために知恵を絞り行動すべき」というスタンスです。

前回

bunbunshinrosaijki.hatenablog.com

目次

 

ウクライナの地図

 フリー白地図さんより



www.freemap.jp

 

4 ロシアのウクライナ支配

ポーランド分割 オレンジ色のところがオーストリア領になった東ガリツィア。緑色南部がロシア領になったドニエプル川西岸(右岸)。

ソース、Rzeczpospolita_Rozbiory_3.png Creative Commons Attribution-Share Alike3.0Unported

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① ヘトマン国家の成立と衰退

17世紀半ば ヘトマンのフメリニツキーが台頭

      ポーランドに迫って「ヘトマン国家」を認めさせる

17世紀末 ロシアで[22       ]が帝位につく

 1700年 (23    )戦争

  デンマークポーランドと同盟してスウェーデンカール12世と争う

  ヘトマンのマゼッパがカール12世と同盟もポルタヴァの戦いで敗北

  ピョートル1世 ヘトマン国家の権限を制限

18世紀半ば [24       ]が帝位につく

 1768~74 ロシア=トルコ戦争

 1774年 キュチュク=カイナルジ条約

  ロシア、オスマン帝国からクリミア半島を奪い、黒海に進出

  クリミア=ハン国をオスマン帝国から独立させる(後に併合)

 1775年 ザボロジエ=コサックの廃止

  ウクライナロシア帝国の直轄領に…「小ロシア」の呼称

② ロシアとオーストリアによる分割

三度にわたる(25     )分割

 1772年 第一次:オーストリアガリツィアを併合

 1793年 第二次:ロシアがウクライナ西部を併合

 1795年 第三次:ウクライナはロシアとオーストリアが分割

ロシア側

19世紀半ば ウクライナ民族意識が形成される(ハリコフ・ロマン主義

 ウクライナの民話の収拾、ウクライナ語の研究 歴史書

1853~56 (26     )戦争

 クリミア半島の(27      )要塞の攻防戦

1861年 皇帝[28      ]の農奴解放令

 ウクライナ農奴も解放されるが貧困化

1876年 エムス指令 ウクライナ語の出版禁止

1881年 アレクサンドル2世の暗殺

→(29      )(ユダヤ人への迫害)はじまる

  ユダヤ人の多いウクライナでも大規模なポグロムが発生

19世紀末 産業革命 ウクライナ東南部で石炭や製鉄業が急速に発達

オーストリア

ガリツィアを中心に民族運動が盛んになる  

空欄

22ピョートル1世

23(大)北方戦争

24エカチェリーナ2世

25ポーランド

26クリミア

27セヴァストポリ

28アレクサンドル2世

29ポグロム

補足

① ヘトマン国家の興亡

 ジョチ=ウルスの衰退後、東ヨーロッパ地域ではモスクワ大公国ポーランドと争って領土を広げ、黒海北岸ではクリミア=ハン国が自立しました。さらにオスマン帝国黒海に進出しクリミア半島南部のジェノヴァ人諸都市を征服してクリミア=ハン国を属国としました。

 こうした国際情勢の中、16世紀以来ウクライナのコサックはポーランド王に従い各地を戦いに赴き、政治的な地位を高めていましたが、しばしばリーダーのヘトマンを中心に反乱を起こしました。

 17世紀のフメリニツキーはコサックとして勇名をはせ、50歳になって領地経営に専念して余生を過ごそうとしますが、ポーランド貴族に領地を取り上げられてしまいます。フメリニツキーは交渉での平和的解決を望みましたがポーランドが取りあわず、実力行使に及びます。

 当時ポーランド貴族はドニエプル川流域に進出し、自由民として移住してきたはずの農民を農奴化していました(農場領主制)。フメリニツキーの反乱の呼びかけに農民やコサックが呼応しました。

 フメリニツキーはクリミア=ハン国の援助を受けポーランドを破り、ウクライナ3州の自治ポーランド王に認めさせます。いわゆる「ヘトマン国家」です。

 しかしポーランドとの戦闘中にクリミア=タタールポーランドとの密約で戦場から撤退(小早川秀秋?)、フメリニツキーはポーランドに決定的な打撃を与えられないまま戦争が長引きました。

 旗色が悪くなったフメリニツキーは一時オスマン帝国の保護を受けますが、コサックは正教徒(ウクライナ正教)が多いため不評でした。またモルダヴィア公国スウェーデンなどとの同盟も模索しますが、ポーランドと争っていた同じ正教徒のモスクワ大公国と提携します(1654年、ペレヤースラウ条約)。

 この条約でウクライナとコサックはツァーリに忠誠を誓う代わりに、ツァーリから軍事援助を受け、ウクライナ貴族の特権を保障されます。

 ロシア側の「ロシアとウクライナは不可分」説では、同じ「民族」であるロシアとウクライナは長くモンゴルやポーランドによって引き裂かれていたのが、この条約で「元に戻った」と解釈します。

 一方ウクライナ側は、モスクワとの同盟は宿敵ポーランドと戦って自治を守るため、各国と結んだ同盟のひとつにすぎないと解釈します。

 この条約を機にモスクワのヘトマン国家への干渉が強まります。ところがバルト海スウェーデンが台頭すると、1656年にモスクワはポーランドと同盟を結びます。

 フメリニツキーはポーランドから守ってもらうためモスクワの保護下に入ったのに、これでは意味がありません。激怒したフメリニツキーは再び蜂起しようとしたが失敗し、1657年に病死しました。

5 フリヴニャ (旧札)に描かれるフメリニツキー。公的な意匠なのでパブリックドメインにあたります。

 17世紀末にヘトマンに就任したマゼッパは同じ頃実権を握ったピョートル1世に取り入り、その南下政策に従軍します。おかげでマゼッパはウクライナで一時フメリニツキーの時代を再現しました。

 しかし近代化と中央集権を進めるピョートル1世にとっては、ヘトマン国家は将来的には邪魔な存在でした。

 大北方戦争が発生するとマゼッパは従軍しますが、コサック兵を損耗させるピョートル1世に不信感を募らせ、リトアニアに攻め込んできたスウェーデンの若き軍事的天才カール12世(『銀河英雄伝説』のラインハルト様のモデルらしい)と同盟します。

 マゼッパの裏切りにピョートルは激怒、コサックもピョートル側・マゼッパ側に分裂します。1709年のポルタヴァの戦いでモスクワが勝利、カール12世とマゼッパはオスマン帝国に逃亡、マゼッパは亡命先のベッサラビアソ連第二次世界大戦ルーマニアから奪ったところ)で亡くなります。

ポルタヴァの戦いに敗れた老マゼッパとカール12世  G.Cederström作のデジタル化

 この後ヘトマン国家は徐々に権利を制限され、エカチェリーナ2世がロシア=トルコ戦争に勝利するとクリミア=ハン国の防波堤の役割もなくなり、ザボロジエ=コサックは廃止されます。

 コサックは自由な「愚連隊」、周辺国家に軍事力を提供し、その保護のもとで自治を得るスタイルです。勝手気ままなフリーランス外科医が開業せず大学病院を転々とするのと同じ、愚連隊だからこそ力を発揮するのですが、モスクワ(18世紀からはロシア帝国)の保護を求めたことが弱体化のきっかけになりました。

 エカチェリーナ2世は黒海沿岸を「新ロシア県」とし、総督ポチョムキンはロシア人貴族やウクライナ農民を入植させました。生産された穀物オデッサ港から出荷されるようになり、ウクライナは「ヨーロッパのパン籠」となりました。

 こうしてロシア帝国支配下におかれたウクライナは「小ロシア」と呼ばれ、ロシアとの同化が進みました。

② ウクライナロマン主義

 ロマン主義は19世紀初頭に全ヨーロッパで広がった動きで、啓蒙主義(文化では古典主義)が普遍的、理性的なものを理想とするのに対して、人間の感情や個性、民族の歴史や伝統を重視する立場です。

 ロマン主義ウィーン体制後の保守主義(古いものを懐かしむ)の一面である一方、国民国家形成を目指すナショナリズムとも結びつきました。

 ポーランド分割の結果ウクライナはロシアとオーストリアに分割されますが、19世紀にロシア側では都市のインテリゲンツィアを中心にウクライナの歴史、習慣、民話、民謡の収集や研究が始まりました。

 中でも有名なのが詩人で画家のタラス・シェフチェンコで、詩集『コブザール』をウクライナ語で著わしています。

 彼は農奴制の廃止を訴える知識人のサークルを作って啓蒙的な活動をしていましたが、1847年にメンバー全員が逮捕、シェフチェンコは「一生二等兵を務める」という刑を申し渡され、ニコライ1世から詩を書くことと絵を描くことを禁止されました。

シェフチェンコの自画像(1840年

 ニコライ1世の死後、改革派のアレクサンドル2世が即位すると、知識人は再び「ロシアとウクライナは別の民族」という運動をおこしますが、1876年にはウクライナ語の出版物(海外の翻訳作品含む)の禁止、学校でのウクライナ語の禁止、ウクライナ語の新聞の発行停止などウクライナ民族主義は弾圧されます。

 シェフチェンコは死後ウクライナ民族主義と独立の象徴的存在になり(『銀河英雄伝説』のヤン提督?)、フメリニツキー、マゼッパともども現在のウクライナの紙幣の図案になっています。

フリヴニャ」はキエフ・ルーシの時代の銀塊の単位で、モスクワの通貨「ルーブル」はそれの「切り落とし」(銀塊は重量貨幣なので切って使う)の意味です。現ウクライナの紙幣の単位がフリヴニャなのはウクライナナショナリズムの表れです。

ja.wikipedia.org

*「シェフチェンコ」で検索すると、ウクライナ出身のサッカー選手、アンドリー・シェフチェンコが出てきます。

サッカーキングの記事

www.soccer-king.jp

 またオーストリア(1867年からはオーストリア=ハンガリー帝国)はメッテルニヒ失脚以後に民族主義の抑圧が緩み、ガリツィア(ハリーチ)は、ロシア側の運動が退潮した後のウクライナ民族主義の中心となりました。

*発展

 マゼッパの生きざまはロマン派の琴線に触れるようで、プーシキン叙事詩「ポルタヴァ」を元にチャイコフスキーがオペラ「マゼッパ」を作曲しています。

 またハンガリー生まれのリストも「マゼッパ」という曲を書いています。

超絶技巧練習曲 第4曲 マゼッパ 辻井伸行 by avex


www.youtube.com

 チャイコフスキーは音楽院の学生時代から夏休みになると下の妹アレクサンドラの嫁ぎ先であるウクライナのカーミアンカ(カメンカ)のダヴィドフ家にしばしば滞在し、ウクライナの民謡に触れていました。

 1825年にロシアではニコライ1世の即位に際してデカブリストの乱が発生しますが、ウクライナでもデカブリストは活動していて、ダヴィドフ家の屋敷は彼らのたまり場にもなっていました。

 チャイコフスキー交響曲第2番には後に「ウクライナ(小ロシア)」という副題がつけられています。第一楽章はロシア民謡「母なるヴォルガを下りて」をウクライナ風にアレンジしたものです。

 有名なピアノ協奏曲第1番の第一楽章の主題もカメンカ滞在中にスケッチしたウクライナ民謡のリズム変化で、第3楽章の第一主題もウクライナの民謡を使っています。

 権利的に大丈夫そうなPTNAの「ピアノ協奏曲第一番」を貼っておきます。


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参考

③ ウクライナユダヤ

 ハザール王国がユダヤ教を国の信仰にしていたこともあってか(前回)、ウクライナには多くのユダヤ教徒ユダヤ人)が住んでいました。19世紀末にはロシア帝国内のユダヤ人520万人のうち約200万人はウクライナに住んでいたといわれます。

 ウクライナは著名な芸術家、学者を輩出していますが(ゴーゴリプロコフィエフニジンスキーなど)、ユダヤ人ではストレプトマイシンを発見したワクスマン、ピアノの巨匠ホロヴィッツが有名です。トロツキーウクライナユダヤ人です。

 『屋根の上のバイオリン弾き』(1964年 米)は南ウクライナユダヤ人コミュニティで暮らすユダヤ人の生活を描いています。彼らの多くは貧しい商工業者です。主人公はポグロムで家を追われ、新大陸へ移住します。現在のユダヤアメリカ人は彼らの子孫に当たります。

映像


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まとめ

 今ロシアへの編入を望んでいるとされる東南部工業地帯は、19世紀末の産業革命で急速に発達し、労働者はロシアからの移住者が多数を占めました。ウクライナ共産党で頭角を現したフルシチョフも家族と共にロシアからウクライナに移住したひとりです。

 都市部ではロシア人やユダヤ人が居住する一方、農村部では多数のウクライナ農民がウクライナ語と固有の習慣を守っていました。現地の貴族や知識人たちはロマン主義の風潮に乗って「ウクライナ」を「発見」(記憶を近代的な民族意識に読み替える)し、自らの拠り所にしはじめます。

 1992年に独立したウクライナの紙幣に、17世紀以来ロシアに抵抗したりウクライナ人意識を高めた人や、ウクライナ正教会やにまつわる建築物が描かれています。19世紀に発見された「ウクライナ」が、20世紀末の独立によって「再発見」され、ナショナリズムの高揚に一役買っているといえます。

 農奴解放令の不徹底によって貧困化したウクライナ農民、急速な工業化を底辺で支えたロシア系労働者が増加する中、ウクライナロシア革命を迎えます。

続く

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